長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:1486 海岸の洞窟

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1486 海岸の洞窟

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1486 海岸の洞窟
〔画像解説〕
遠景にアーチ型のトンネルが見える。しかしこれは自然の洞窟であるらしい。洞窟の入口に人が立っているが、非常に小さく見えるので、この洞窟がいかに大きいかが分かる。場所は特定できない。

■ 確認結果

目録番号:1486「海岸の洞窟」は、場所を特定できないとあるが、新潟県柏崎市鯨波の「鯨波海岸」である。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の261頁 越後之国に同じような写真が「鯨波之図」として掲載されている。同解説は次のとおり。

② 鯨波の図  米山の山麓が日本海に落ちこんで海蝕崖の奇景を呈し、景勝の地とされてきた。慶応4年(1868)、北国街道を下ってきた西軍と、桑名藩を主力とする東軍が最初に合戦した地である。

「御巡幸」とあるのは、明治天皇が明治11年8月30日〜11月9日、北陸・東海道を巡幸している(一覧307頁)。「内田九一」撮影かはかわからない。
鯨波海岸は、明治時代から「塩湯治」で賑わった。現在は「日本の渚百選」に選ばれた新潟県を代表する海水浴場となって、県内外から人が多い。
現在の写真は、新潟県公式観光情報サイト「にいがた観光ナビ」などから。

古写真の遠景に、アーチ型のトンネル?が見えるのは「鬼穴」と思われるが、状景がぴったり来ない。地元で検証をお願いしたい。
資料・写真は、「GPSウォーキング GPSwalking e旅歩き旅69日目 柏崎〜柿崎」による。
http://www.55walking.com/tabi/061101/index.html

長崎外の古写真考 目録番号:1483 寺(4)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1483 寺(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1483 寺(4)

目録番号:1462 成田山新勝寺(1)     関連作品 目録番号:1515 同(2) 
〔画像解説〕
成田不動の名で親しまれる真言宗智山派の大本山、成田山明王院神護新勝寺。門塀越しに見えるのは、安政5年(1858)に釈迦堂が造営されるまで本殿であった光明堂。元禄14年(1701)の建立。整理番号37-61と同一。

■ 確認結果

目録番号:1483「寺(4)」は、撮影地域:未詳となっているが、千葉県成田市の「成田山新勝寺」境内の「仁王門」を撮影している。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の234頁 下総之国に、目録番号:1462「成田山新勝寺(1)」及び目録番号:1483「寺(4)」と同じような写真が掲載されている。同解説は次のとおり。

④ 成田新勝寺  成田市成田にある真言宗智山派大本山。山号の成田山で知られ、成田不動と通称される。
⑤ 不動山門   中央右手の門は現在の仁王門(国指定の重要文化財)。その右手に水行場が見え、その前に堂庭が広がる様子は現在と大きく変わっていない。

現在の「仁王門」写真は、大本山成田山HPから。同説明は次のとおり。

仁王門(国指定重要文化財)
天保2年(1831)再建。左右に密迹(みっしゃく)金剛、那羅延(ならえん)金剛の2尊、裏仏には広目天、多聞天の2天が奉安されており、大提灯(800kg)は、寺門の守護の役目をはたしております。隣接する仁王池は、放生池として「不殺生」を教えています。

長崎外の古写真考 目録番号: 741 海岸の民家 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 741 海岸の民家 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 741 海岸の民家
〔画像解説〕
大きな石の連なる海岸。岸辺からすぐ山が立ち上がっているのであろう。山から引いた水が樋から勢いよく流出し、その下で男がその水を浴びている。単なる水浴びなのか、別に意味があるのか不明である。

目録番号:1473 伊豆熱川海岸
〔画像解説〕
詳細不明。東海道に隣接する海岸の風景と思われる。海に面したわずかな平地に、民家がへばりつくようにして軒を並べている。

■ 確認結果

目録番号: 741「海岸の民家」と、目録番号:1473「伊豆熱川海岸」は、同じ場所を撮影していると思われる。 目録番号:1473 は、場所詳細不明。タイトルを「伊豆熱川海岸」としている。東伊豆町「熱川海岸」は、伊豆半島南東端の下田近くとなる。

2作品とも海岸温泉の風景であろう。これは伊豆の「熱川温泉」ではなく、熱海の「伊豆山温泉」ではないだろうか。伊豆山温泉観光協会HPによる説明は下記のとおり。
なお、同じ場所と思われる古写真が、平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の、224頁東海道之部(掲載略)にある。
タイトルは「伊豆山権現湯滝」。「伊豆山神社走湯。伊豆山権現は明治元年伊豆山神社と改称された。その創建は古く祭神も時代により諸説がある」と解説している。
また、HP「古写真.jp: 幕末明治時代 日本古写真 販売」によると、同じ作品はタイトル「熱海」となっている。

おって、学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊49〜57頁に、「4 明治11年(1878)明治天皇北陸・東海両道巡幸写真」として掲載されている。同解説は次のとおり。
21 熱海山之湯滝
静岡県熱海市の中央部にある熱海温泉は、奈良時代から万病に効く霊湯として知られ、近世には将軍家をはじめ、東海道を往来する諸大名や江戸の町人まで湯治に利用した。2枚の写真は、海岸の温泉宿から流出する筧の湯を浴びる男性を撮影したもので、明治天皇の巡幸路とは無関係だが、台紙の状況等から明治5年(1872)巡幸時に撮影したもので、明治8年に没した写真師内田九一の撮影と推定できる。

日本三大古泉「走り湯」あれこれ (伊豆山温泉観光協会HPから)

走湯山は湯の湧き出る場所があり、走り湯と名づけられていました。…
走り湯は源頼朝・北条政子をはじめ三代将軍や北条氏早雲などの領主たちが入浴した。1590年(天正18年)秀吉による小田原征伐によって伊豆山は焼け野原となり、その際は仮小屋草葺き屋根の粗末な風呂場であったという。

しかしながら江戸時代の大名、歌人、茶人利休、古田織部などもお参りの際に入浴した。江戸城構築の為に伊豆山から沢山の大石が船で運ばれ、多くの者が書く大名のもとで働いており、その為怪我人も絶えず、走り湯に入っての治療も盛んで、治療効果もずば抜けていたという。江戸時代は、この温泉に一般庶民が入る為には旅籠の湯、または海に近い湯の捨て湯である波打ち際で入るしかなかったと言われる。

そのため、ますます走り湯と伊豆山権現は有名になり、東北地方からも団体の「講」がお参りしていた。海岸にあった旅籠の風呂に入ってから宿の主人御師(祈祷師)に引き連られて、伊豆山権現までの900段近い石段(現在は873段)を昇った。
温泉に入るときは前出の「無垢霊場 大悲心水 沐浴罪滅 六根清浄」と必ず唱え、昭和20年頃までは共同浴場に入る際にも地元で信仰の篤い者は唱えながら頭から湯をかぶっていたという。第二次大戦後間もない頃には馬の為の「馬の湯」もあった。

走り湯の効果と三大古泉
走り湯はかつて一昼夜に7千石(1296t・毎分900l)の湯を噴き出し、源泉温度が70度ほどあったと言われるが、乱掘が続いた結果現在は毎分180l、70度ほどとなっており、伊豆大島の噴火などで温度が上昇することもある。
この温泉はもともと石膏泉で硫酸カルシウムやマグネシウムが多く、骨の病気、怪我傷口、膿をもった腫れ物、水虫、皮膚病などに効果があるといわれる。現在は塩分・苦味も強くなり、胃腸や神経痛、リウマチなどにも良いとされている。

走り湯の1300年以上の歴史の中、関東大震災のときのみ噴出が止まり、土地の者たちが鉄棒でつつきまた湯が出るようになった。その際に、物凄い音が地底から響いてきたので、皆一斉に逃げ出したという逸話がある。
日本三大古泉とは、熱海伊豆山走り湯温泉・四国松山道後温泉・神戸六甲山有馬温泉となっている。

長崎外の古写真考 目録番号: 606 寺の境内(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 606 寺の境内(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 606 寺の境内(1)
〔画像解説〕
未詳の寺の境内である。二層の立派な蔵の構えからみて東京芝の増上寺の寺の一部か。左隅には大灯篭の端がみえる。水盤社の構えも大きく、井戸の横の銅製と思われる飾り水盤も大きい。木の鳥はご愛敬である。

■ 確認結果

目録番号: 606「寺の境内(1)」は、東京芝の増上寺ではないようである。二層の立派な付属建物の構えから調べると、浅草の「東本願寺」が考えられる。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の159頁に掲載されている。山門から入って、本堂の右側手前に写っている二層の白い建物が造りが似ている。

寺の境内図や写真がなく、位置関係ではっきりしたことを言えないが、本堂前から振り返って左側の飾り水盤の方を撮影すると、二層の建物がこのような角度で写るのではないか。現在「浄華堂」となっている建物と思われる。
土木学会図書館|戦前絵葉書ライブラリ 10.風水害 明治43年8月「1.浅草東本願寺前の浸水」に、二層建物は大きく写っているから参照。
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/card/10_image_thum.html

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による寺の説明は次のとおり。現在の本堂写真は、須藤石材株式会社HPから。

東本願寺(台東区)
東本願寺(ひがしほんがんじ)は、東京都台東区西浅草一丁目にある浄土真宗の寺院である。正式名称は浄土真宗東本願寺派本山東本願寺。真宗大谷派から独立し結成された浄土真宗東本願寺派の本山である。境内は4250坪。本尊は阿弥陀如来。住職は、浄土真宗東本願寺派第26世法主の大谷光見(聞如)。…
1923年(大正12年)には、関東大震災により本堂等を焼失。現在の本堂は、1939年(昭和14年)に再建されたものである。

長崎外の古写真考 目録番号: 742 岸辺の旅館

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 742 岸辺の旅館

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 742 岸辺の旅館
〔画像解説〕
ベアトの写真の中に平潟湾の風景を遠望したものがある。そこでは水辺に立つ茶屋が数軒見える。そのたたづまいは本写真と非常に類似している。同一場所と断言はできないが海辺の茶屋か旅館を写したものに違いない。

目録番号: 914 塔ノ沢温泉(3)
〔画像解説〕
“塔の沢温泉の環翠樓(左)と一の湯(右)の写真である。環翠樓は元湯とも言い、公武合体の時のヒロイン皇女和宮が病気療養で逗留し、32歳で薨去したのは、この環翠樓である。 “”The Far East “”に初載。”

目録番号:1484 塔ノ沢温泉(6)
〔画像解説〕
早川の岸辺か川中の岩の上から撮ったと思われる塔の沢温泉の写真で、橋は千歳橋。橋を渡って左手は元湯環水(翠が正)楼(鈴木楼)、右手は一の湯である。橋の上は、現在、国道一号線が走る。このアングルの写真は多い。

■ 確認結果

目録番号: 742「岸辺の旅館」は、目録番号: 914「塔ノ沢温泉(3)」と、建物が少し違っているが、ほとんど似ている。塔ノ沢温泉であろう。橋は「千歳橋」でなく、「玉ノ緒橋」が正しいようだ。
安藤広重「箱根七湯 塔ノ澤」は、塔ノ沢一の湯本館HPから。

長崎外の古写真考 目録番号: 656 函館海岸

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 656 函館海岸

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 656 函館海岸
〔画像解説〕
入り江になった波静かな海岸。函館山の東端、立待岬付近かと思われるが、正確な場所は不明(鞍掛岩?)。前景中央に人物が一人配され、その背後、ほとんど波のない海面に屹立する巨岩がいくつか。遠景には対岸の山の稜線が見える。

目録番号:2423 小樽の海岸風景
〔画像解説〕
『小樽市史』第1巻(昭和33(1958)年刊)所収の同写真には「立岩附近のアイヌ 明治七年頃」というキャプションが付けられている。

■ 確認結果

目録番号: 656「函館海岸」は、「入り江になった波静かな海岸。函館山の東端、立待岬付近かと思われるが、正確な場所は不明(鞍掛岩?)」と画像解説している。
次の目録番号:2423「小樽の海岸風景」のとおり、小樽市堺町の海岸にあった「立岩」だろう。

同じ写真が、平凡社「大日本全国名所一覧 −イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年初版第二刷発行の、283頁後志国に掲載されている。同解説は次のとおり。
石黒コレクションHPでは、「小樽堺町の奇石「立岩」前のアイヌ」撮影年:明治初年とある。

④ 後志国小樽郡堺町立岩  小樽の奇岩「立岩」は有幌の常夜灯近くの堺町にあった。この付近は北前船の好停泊地でもあったが、現在でも小樽観光の中心地になっている。明治10年ころ、撮影者不明。

「現在でも小樽観光の中心地になっている」との解説は、古写真の海岸や岩が現存しているということではない。現在は観光客が集まる五差路付近に変貌したという意味だろう。
小樽市HPには、次のとおりある。現在のメルヘン交差点角にある小樽海関所灯台(レプリカ)写真は、北海道・小樽、観光の街、坂の街から。

おたる坂まち散歩 第26話 赤坂(後編) 小樽海港博覧会
「前回紹介した住吉町の赤坂の下の海岸が埋め立てられたのは昭和6年ごろでした。…このときの埋め立て工事は、堺町にあった立岩から勝納川河口までの区域を市で埋め立てたもので、昭和3年1月に起工し、昭和7年8月に完了しました。総埋め立て面積が約3万坪という大規模なものでした。
明治42年に北防波堤が、大正10年に南防波堤が完成し、近代港湾となった小樽港は、小樽運河造成に続いて行われたこの埋め立て工事で、現在の臨海部の原型がほぼ形作られました。
現在、メルヘン交差点と呼ばれている観光客の集まる五差路付近は、この工事の前は、船が入る入り江で、入船澗(いりふねま)と呼ばれていたそうです。まさに入船という地名がふさわしい場所でした。
この入船澗が埋め立てられて土地ができたころ、札幌で北海道拓殖博覧会が開催されることになりました。…小樽市でも博覧会を開催しようという機運が商工会議所を中心に起こりました。…昭和6年新春には博覧会開催の計画が発表されました。名称は「小樽海港博覧会」。会場は現在のメルヘン交差点を中心とした埋め立て地約6700坪でした。
博覧会は同年7月11日から41日間開催されました。…」

長崎外の古写真考 目録番号: 232 薩?峠と富士山

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 232 薩?峠と富士山

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 232 薩?峠と富士山
〔画像解説〕
駿河湾上に庵原山地と重なって雄大な姿を見せる富士。この構図は安藤広重の東海道五十三次の「由比の図」にそっくりである。峠は海岸からかなり離れた山中にあり、難所として知られていた。

■ 確認結果

目録番号: 232「薩?峠と富士山」の峠名は、「薩埵峠」(さつたとうげ)。
薩埵峠は、静岡県静岡市清水区にある峠である。東海道五十三次では由比宿と興津宿の間に位置する。ワードプロセッサーでは「埵」の字が変換できないため、「薩た峠」と表記する例が増えている。

長崎外の古写真考 目録番号: 600 富士山とある宿場

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 600 富士山とある宿場

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 600 富士山とある宿場
〔画像解説〕
原題は「箱根宿と富士山」となっているが、箱根宿にしては道幅が広すぎ、また松並木が見えるが、箱根では箱根神社の神が目を松で突かれたために嫌ったと言われる松を植えるのを控えるので、富士宮等他の場所であろう。

目録番号:1359 柏原の集落
〔画像解説〕
写真中にKASHIWABARA とある。柏原は駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する。田沼街道沿いの集落であろう。整理番号13-20と全く同一写真であるが、それには本写真にはない富士山がはっきり写っている。右側の人力車が人の気配を感じさせる。

■ 確認結果

目録番号:600「富士山とある宿場」は、奥に見える富士山の大きさが違う?が、目録番号:1359「柏原の集落」と同じ場所の作品であろう。
目録番号:1359「柏原の集落」には、写真右下に「KASHIWABARA」とある。柏原は「駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する田沼街道沿いの集落であろう」としているが、次の資料による東海道「原宿と吉原宿の中間の宿・柏原宿」ではないだろうか。

現在の写真は、HP「悠々人の日本写真紀行」旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(30)原〜元吉原宿から。同説明は次のとおり。

間の宿・柏原本陣跡
柏原新田は東、中そして西柏原新田に分かれており、間の宿・柏原は西柏原新田にあった。丁度原宿と吉原宿の中間にあたるところである。写真左手の標識には「間宿 柏原・本陣跡」と記されている。
柏原は冨士沼の鰻の蒲焼きが有名であった。中間のこの地点で蒲焼の匂いにたまらず、足を止めた旅人が多かったことであろう。
なお柏原の地名は、平安時代の東海道の柏原駅がこの辺にあったからという。古くからの宿場街であった。この先右手に見える寺が立円寺である。

柏原・望嶽碑
立円寺(りゅうえんじ)の境内に冨士を模した三角形の望嶽碑(写真略)がある。尾張藩の侍医柴田景浩(かげひろ)が、文化5年(1808年)に江戸に下る途中、立円寺に滞在した時に冨士を賞して碑を建てたという。
石碑の裏側には漢文でその謂れが書いてある。説明板によると、書き下し文で「予の性、山を愛し、また山を書いて喜ぶ。山は冨士より奇なるはなし。冨士の勝、この間に望むにしくはなし…」と。…

なお、富士市「広報 ふじ」の、昭和62年5月20日457号の14頁に、次の記事があるので参照。  http://www3.city.fuji.shizuoka.jp/kouhoufuji/s62/kiji/457-14-01.htm

富士の今と昔 27
明治初期の柏原の街道すじの写真です。町内の森幸平さん(柏原)のお話です。
「右の木(写真下)は徳川(将軍)さんの植えた後藤の松だね。今の昭和放水路の東寄りだよ。昔このあたりは原宿と吉原宿の間(あい)の宿で、旅人でにぎわったそうだ。宿場の名物は、浮島沼でとれたうなぎの蒲焼きで、子供のころ食べたけれどうまかったねえ。鉄道が開通して街道はさびれ、昭和7年の大火で家並みも消えてしまったよ」
– 写真あり –
( 写真説明 ) 今 国道1号線昭和放水路付近
( 写真説明 ) 昔 明治初期の柏原の宿場 左奥の森は六王子神社

長崎外の古写真考 目録番号: 558 屋形舟(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 558 屋形舟(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 558 屋形舟(1)      関連作品 目録番号:598(2)、628(3)、738(4)、828(5)、1766(6)
〔画像解説〕
川を航行する屋形船に多くの人が乗船している。船頭2人が櫓をこぎ、他の12人は客か。男女入り交じった客はそれぞれ思い思いの場所でポーズをとっているが、川遊びか渡し船の演出写真と思われる。

目録番号:2658 隅田川の舟遊び(1) 関連作品 目録番号:2665(2)、4583(3)、4623(4)、
4772(5)
〔画像解説〕
2665・4543と同じ山谷堀河口の有明楼(ゆうめいろう)前の今戸河岸で撮影したもの。背後の大きな木のある辺りが牛の御前とも称された牛島神社(現在は下流の向島1丁目に移転)や長命寺(ちょうめいじ)の辺りである。中央の欄干に手をかけているの人が内田九一とすれば、九一の弟子が撮影したのものであろう。写真の周囲がカットされており、後に複写彩色され販売された写真である。

■ 確認結果

目録番号: 558「屋形舟(1)」ほか関連作品の6作品は、タイトルが「屋形舟」、撮影者:未詳、撮影地域:未詳となっているが、目録番号:2658「隅田川の舟遊び(1)」ほかの関連作品と同じ作品である。
したがって、撮影場所は東京の隅田川、撮影者は内田九一やその弟子、その他臼井秀三郎などとなる。集合が必要。
この項は次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2230

長崎外の古写真考 目録番号:3077 川に架かる鉄道橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3077 川に架かる鉄道橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3077 川に架かる鉄道橋

■ 確認結果

目録番号:3077「川に架かる鉄道橋」は、F.ベアトの作品。明治初期に建設された見事な煉瓦橋梁を撮影している。琵琶湖疏水の京都・南禅寺水路橋をまず思いうかべるが、水路橋てはなく、鉄道橋である。
目録番号の前後から外国とは思われず、煉瓦建造物の日本近代建築史もまったくふれていないと思われる貴重な古写真だろう。 http://www.conso.jp/pdf/techno/archives/a0201.pdf

古写真は相当大きな川の平野部を写している。アーチは20以上ある。装飾と見える独特なアーチの造り。複線化に備え、表面の煉瓦を下駄歯にしているようにも見えたため、国登録有形文化財(建造物)の「内田3連橋梁」、「勾金3連橋梁」ほか19橋梁が残る明治28年開業した豊州鉄道の「彦山川橋梁」(現在の平成筑豊鉄道田川線、田川伊田駅近く)ではないかと、2010年3月5日記事にしていた。

これは素人考えの私のまったくヤボな考察だった。宮崎在住のHP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」氏から、「古写真の煉瓦大アーチ橋の件ですが、どこにあったものでしょう。特徴的なのは輪石部分で、一般的な下駄歯ではなく、装飾的なものですね。壁石部分がフラットになっているので、拡幅に備えたものではないと思います。彦山川橋梁とは全く別のもののような気がします」と、メールをすぐ受けていた。
決定的なのは、前記事に対するきょう [ town_m_resp ] 氏の、次のコメントによるご教示である。

「検索していたらたどり着きました。この写真ですが、彦山川橋梁とするには少し弱い気がします。
1  F・ベアトは明治17年に日本を離れており、以後、スーダン戦争への参加・ロンドンやビルマ在住などが確認されてますからこの橋が建設された明治28年には撮影は難しいのでは?
2 下駄歯らしきものがみえますが、これは他でも事例がないことはないですし、河川橋梁だとすればいくら渇水期でも水量が少なすぎます。
私は他のFベアトの記録写真の状況を含めると下津林の鉄路閣じゃないかと思うんですが・・・いかがでしょうか。」  2010/6/9(水) 午後 2:31 [ town_m_resp ]

”下津林の鉄路閣”をウェブ検索すると、次の記事が出てくる。京都の桂川近くにあった国内最大級のれんが造りアーチ橋「下津林避溢橋(ひいつきょう)」(京都市西京区)に間違いない。
「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖(ちょう)」(平凡社)に掲載されているので、長崎大学側で京都新聞の記事とも確認していただきたい。

【京都】明治初期に造られ昭和初期に姿を消した、れんが造り25連アーチ鉄道橋「下津林避溢橋」の全体写真確認(画像あり)
1:西独逸φ ★:2008-08-13 19:24:13

明治初期、官設鉄道(現JR)東海道線に造られ、昭和初期に姿を消したとされる国内最大級のれんが造りアーチ橋「下津林避溢橋(ひいつきょう)」(京都市西京区)の写真を、山田奨治・国際日本文化研究センター准教授が確認した。これまで不鮮明な写真はあったが、25連アーチ橋の全体像を収めた写真は珍しい。橋が撤去された記録はなく、「近代化遺産としての価値があり、軌道下の土手中に埋まっている可能性もある」という。

写真は、明治初期の日本の風景を記録した「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖(ちょう)」(平凡社)の中の1枚。写真の解説文を担当し、調査していた山田准教授が、鉄道専門家に聞くなどして確認した。

避溢橋は、洪水時に線路の土手が水を遮らないよう平地にアーチ型などの形状で設けられる橋。下津林避溢橋は、大阪−京都間開通の前年、1876(明治9)年に完成。長さ447フィート(約136メートル)、高さ推定約5・5メートルで、避溢橋では国内最長。25のアーチが連続する構造で、第四有楽町高架橋(東京)を上回る最多のれんがアーチ数とみられる。

地元では、「25の丸がた(形)」と呼ばれ、原っぱの中のモダンな景観として親しまれたが、いつしか姿を消した。1930(昭和5)年の複々線化に伴い、現在のような土手になったとみられるが、記録は残っていない。写真を見た中川浩一・茨城大元教授(歴史地理学)は「桂川の水害防止の環境が整い、避溢橋の機能が不要になったのではないか。南禅寺境内の『水路閣』をはるかにしのぐ規模で、『鉄路閣』と呼ぶにふさわしい」と話す。

鉄道遺構に詳しい鉄道総研(東京)の小野田滋氏は「鉄道の構造物は、列車の荷重や地盤沈下、温度伸縮などで複雑に変形する。25連のアーチ橋は設計の限界への挑戦といえる」と指摘し、今も軌道下に埋まっている可能性を示唆する。
ソース 京都新聞
【画像】25連アーチが独特の景観を醸していた下津林避溢橋。「大日本全国名所一覧」では「七條磧鉄道」と記されていた。1881(明治14)年ごろまでの撮影とみられる。

[ town_m_resp ]氏のご教示に深く感謝したい。「彦山川橋梁」(現在の平成筑豊鉄道田川線、田川伊田駅近く)と考えた前の記事は、調査不足のため誤りとわかり削除した。
なお、平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の179頁に掲載されている下京之部「七條磧鉄道」は、最後の写真のとおり。
同解説では「現在のJR東海道線と思われるが、不明」としかない。F・ベアト撮影が鮮明な煉瓦造大アーチ橋の姿を写し、いかに貴重な古写真となるかわかるだろう。