長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:1774 京都御所建礼門 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1774 京都御所建礼門 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1774 京都御所建礼門
〔画像解説〕
京都御所建春門と御所東側築地塀を大宮御所前大通より北北西に望む。建春門は向唐破風の堂々とした構えで、築地塀には穴門と呼ばれる出入口が5つ設けられている。地面は現在と異なり小砂利が敷かれず、雑草が生え、小石が転がっている。男性2人が牽く荷車には藁袋が積まれている。内田九一撮影。

目録番号:1503 京都御所建春門
〔画像解説〕
建春門を東南東から西北西の方角を向いて撮影している。京都御所を取り囲む築地塀の東側、南端近くに位置する。もともとは日御門(ひのごもん)と呼ばれ、内侍所(ないししょ)への通路とされた。安政期(1853〜59)の改修時には建春門と呼ばれたことがわかっている。檜皮葺(ひわだぶき)、向唐破風(むかいからはふ)の屋根を備えた最も豪華な門である。現在は皇后が入る門とされているが、これは近年の風習である。門の前には木柵があり、その左右に樹木が植えられている。5人写っている人物のうち、樹木のそばに立つ左右二人の人物は帽子、ズボン、靴などの洋装から見て御所警護の官吏と思われる。他の三人は、着物、はんてんなど和装である。門の内側に、屋根が檜皮葺、瓦葺きなどいくつかの建物が見えるが、現在この位置に建物はない。また、築地塀の後ろから、現在では背の高い松の木が何本も姿をのぞかせているが、この写真には樹木の姿は見えない。

目録番号:6549 京都御所

■ 確認結果

京都御所の内門を撮影した3作品。いずれも同じ門で、向唐破風の屋根を持つ四脚門「建春門」である。
京都御所には内講を固める6つの門があり、位置図のとおり天皇が通る南面正門の「建礼門」と、皇后・皇太子・外国元首などが通る東面の「建春門」は別である。

目録番号:1774「京都御所建礼門」は、画像解説で「建春門」を説明しながら、タイトルが「建礼門」となっているのはどうしたことだろうか。
同作品は、内田九一が大阪で開業した現内田写真株式会社所蔵写真。2010年1月に東京ウォーカーで開催された「貴重な写真約130点を展示!坂本龍馬と幕末を知る写真展」に展示され、タイトルは「西京御所建春門」となっている。
この項は次を参照。 http://news.walkerplus.com/2010/0115/17/photo05.html

京都御所の「建礼門」は最後の写真どおり、まったく門構えが違う(HP「きょうの京都」2007.05.11記事から)。

長崎外の古写真考 目録番号:1274 運河沿いの農家

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1274 運河沿いの農家

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1274 運河沿いの農家
〔画像解説〕
キャプションに「横浜の運河沿いの農家」とある。横浜の運河沿いであるが、場所は未詳。F.ベアトの撮影。

■ 確認結果

目録番号:1274「運河沿いの農家」は、同写真を当時、模写した絵があり、須藤功氏編著「【図集】 幕末・明治の生活風景 外国人のみたニッポン」東方総合研究所1995年刊の第14章列島の町と人312頁に掲載されている(転載不可)。同解説は次のとおり。
キャプションの「横浜の運河沿いの農家」とは、異なった解説となっていて、正しいかわからないが、撮影年代や場所の推測はできるだろう。

河畔の家——手前の堀川は、横浜の外国人居留地の境界にするため、万延元年(1860年)に開削された。そのとき居留地になる地内に住んでいた者は、山手の元村に移住させられた。図の家もそうした家で、原図では貧しい家となっている。だが、それは外国人の目であって、図を見るかぎり、貧しいという感じはしない。元村の人々は、やがて外国人を相手に商売を始め、成功する。 出典32

長崎外の古写真考 目録番号:6212 神奈川の街道 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6212 神奈川の街道 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6212 神奈川の街道

目録番号:6326 神奈川台町の関門(3)
〔画像解説〕   関連作品の目録番号:1441 神奈川台町の関門(1)から
開港後の万延元年(1860)、警備を厳重にするために設けられた。右手が山側、左手が海側である。神奈川宿は海蝕崖の上に形成された町で、台町はその一部である。この写真に添えられた解説シートには、「神奈川は細長い街で、かなりの規模の村であり、東海道に面している。茶屋や道路沿いに旅館も多い。江戸から16〜18マイル位の距離なので、江戸に到着する前日に宿泊したり、江戸から出発して最初に泊まる場所である。しかし商店は小さく、茶屋も東海道のどこにでも見られるような良いものはない」と記されている。”The Far East”1871年1月5日号に同じ地点の写真が掲載されているが、そこでは右手の崖が、鉄道用地埋立のための土取場として削り取られ、垂直に地肌を見せている。崖の上には埋立工事を請け負った高島嘉右衛門の屋敷が設けられたことから、高島台の地名が生まれた。

■ 確認結果

目録番号:6212「神奈川の街道」は、朝日新聞社「写真集 甦る幕末」1986年刊84頁に掲載があり、タイトルを同じとしたようだが、写真集とも画像解説がないので場所がわからない。
横浜開港資料館HPの「3.F.ベアト幕末関係画像集」によると、この写真は次と同じ「神奈川台町の関門 幕末期」【請求記号】Bc1-216-48 として解説している。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/picture/03_09.html

目録番号:6326「神奈川台町の関門(3)」は、朝日新聞社「写真集 甦る幕末」1986年刊83頁に掲載があり、タイトルは「横浜から金沢八景に向かう街道」となっている。
同じ写真を当時、模写した絵があり、須藤功氏編著「図集 幕末・明治の生活風景 外国人のみたニッポン」1995年刊248頁による解説は次のとおり。
「関門——横浜開港直後に神奈川宿青木町にもうけられた関門。文久2年(1862年)の生麦事件の際、島津侯の行列の通過を待って木戸を閉じ、外国人の追撃に備えたこともあった。明治4年、他の関門とともに廃止。右手の山は、後に鉄道用地埋め立てのため削り取られた。 出典
49」

神奈川台の関門跡には、現在、横浜市が設置した碑と説明板がある。説明板の掲示写真は目録番号:6326「神奈川台町の関門(3)」の方。 
「ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された」

横浜の関門は、西ノ橋、海岸通4丁目のほか神奈川宿の神奈川台下や戸部村字石崎にも置かれていた(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。青木町は神奈川台町のことのようだ。
以上が諸資料に掲載している「神奈川台町の関門」の概要。データベースには、目録番号:1441「神奈川台町の関門(1)」、スチルフリード撮影の目録番号:3998「神奈川台町の関門(2)」もあるので参照。
目録番号:6212「神奈川の街道」と、目録番号:6326「神奈川台町の関門(3)」は景色が違う。撮影年代は1863年と1865年。同じ場所の関門なのか。写真の向きもあろうが、いろいろな解説があり理解しにくい。

なお、「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年刊の53頁には、次のとおりタイトルなどが変更され解説がある。

作品 55、56:神奈川台町の関門

55(目録番号:6326「神奈川台町の関門(3)」の作品) 神奈川開港後、警備を厳重にするために設けられた。被撮影地点が神奈川であることを疑問視する人もいるが、「ファー・イースト」1871年1月5日号に同一地点が写っている写真がある。後者では右手の崖が鉄道用地埋め立てのための土取り場として削りとられている。(ベアト撮影)

56(目録番号:6212「神奈川の街道」の作品) 写真55とは別なもうひとつの関門。左手が山側、右手が海側である。下田屋の看板が見える。(ベアト撮影)

長崎外の古写真考 目録番号:1441 神奈川台町の関門(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1441 神奈川台町の関門(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1441 神奈川台町の関門(1)
〔画像解説〕
開港後の万延元年(1860)、警備を厳重にするために設けられた。右手が山側、左手が海側である。神奈川宿は海蝕崖の上に形成された町で、台町はその一部である。この写真に添えられた解説シートには、「神奈川は細長い街で、かなりの規模の村であり、東海道に面している。茶屋や道路沿いに旅館も多い。江戸から16〜18マイル位の距離なので、江戸に到着する前日に宿泊したり、江戸から出発して最初に泊まる場所である。しかし商店は小さく、茶屋も東海道のどこにでも見られるような良いものはない」と記されている。”The Far East”1871年1月5日号に同じ地点の写真が掲載されているが、そこでは右手の崖が、鉄道用地埋立のための土取場として削り取られ、垂直に地肌を見せている。崖の上には埋立工事を請け負った高島嘉右衛門の屋敷が設けられたことから、高島台の地名が生まれた。

目録番号:1442 一ツ橋門外護持院原(超高精細画像のタイトルは「牛ヶ淵」)
〔画像解説〕
田安門から清水門までの内堀は牛ケ淵と俗称される。堀の形状が似ているから、或いは銭を積んだ牛車がこの堀に落ちたから呼ばれるようになったという。この写真は九段坂の坂上付近から牛ケ淵を望んだもの。いま少しカメラを右に振れば、田安門が写った筈である。堀の突き当りに見える長屋風の建物は近衛歩兵営の一部らしく、その左手に清水門が写っている。清水門は『東京市史稿』によると明治4年(1871)に撤廃されているから、それ以前の撮影となる。写真師はベアト(Felix Beato)である。現在の清水門は昭和39年(1964)になって復元整備されたもので、昭和36年(1961)6月に国の重要文化財に指定されている。近衛砲兵営のあった場所は、現在皇宮警察・警視庁第一機動隊・科学技術館が建つ。堀の左手は飯田町1丁目(現九段南1丁目)で、後に靖国神社の牛ケ淵附属地となり、明治35年(1960)にパノラマを見せる国光館が竣工する。現在、昭和館・九段会館・千代田区役所が建ち並んでいる所である。

目録番号:4004 一ツ橋門外護持院原の風景

■ 確認結果

〔画像解説〕を読んでわかるとおり目録番号:1441「神奈川台町の関門(1)」と、目録番号:1442「一ツ橋門外護持院原」(超高精細画像のタイトルは「牛ヶ淵」)は、古写真を入れ間違って整理されている。超高精細画像の古写真と画像解説はOK。

目録番号:4004「一ツ橋門外護持院原の風景」は参考。入れ替え後の目録番号:1442「一ツ橋門外護持院原 」と同じ写真ではないようだ。スチルフリード撮影。パノラマ写真の一部。

長崎外の古写真考 目録番号:6213 熊本藩江戸屋敷

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6213 熊本藩江戸屋敷

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6213 熊本藩江戸屋敷

■ 確認結果

目録番号:6213「熊本藩江戸屋敷」の写真を当時、模写した絵があり、須藤功編著”【図集】幕末・明治の生活風景 外国人のみたニッポン”東方総合研究所1995年刊の第13章◆江戸を伝える東京281頁に掲載されている(転載不可)。同図集の解説は、次のとおり。

「薩摩屋敷——肥後・細川家の屋敷ともいわれてきたが、最近、三田薩摩屋敷と訂正された。慶応3年(1868年)12月25日、江戸にいる薩摩藩浪士の江戸撹乱に対し、旧幕府軍が図の薩摩屋敷を焼き打ちにした。これが戊辰戦争のきっかけとなり、江戸幕府は敗れて崩壊する。 出典
32」

長崎外の古写真考 目録番号:6224 薩摩藩士 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6224 薩摩藩士 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6224 薩摩藩士

目録番号:6306 外人墓地

■ 確認結果

この古写真は、朝日新聞社”写真集 「甦る幕末」 オランダに保存されていた800枚の写真から”1986年刊の、外国人を殺害した「攘夷事件」の項に掲載されている。
目録番号:6224「薩摩藩士」は、写真集129頁に「外国との交渉に臨んだ薩摩藩の代表」と、目録番号:6306「外人墓地」は、写真集133頁に「横浜・外人墓地。リチャードソンの墓からオランダ船長らの墓を望む」と解説している。
薩英戦争の引き金となった生麦事件(1863)などに関係する写真と思われる。データベースのタイトルはあまりに一般的すぎ、簡単な説明が必要ではないか。
目録番号:6306「外人墓地」は、撮影年代が事件と合わない。

なお、目録番号:6224「薩摩藩士」の作品は、「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年刊の167頁には、次のとおりタイトルなどが変更され解説がある。

作品 195:和平交渉に臨んだ日本側使節

写真の添え書きに「薩摩の使節と幕府の全権大使」とある。薩摩藩の正使・岩下佐次右衛門を始めとする重野厚之丞、樺山舎人、能勢二郎右衛門の4人と、立ち会い人となった幕府外国奉行支配調役・鵜飼弥一、徒目付・斉藤次郎太郎であろうか。(ベアト撮影)

長崎外の古写真考 目録番号:6209 木戸

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6209 木戸

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6209 木戸

■ 確認結果

目録番号:6209「木戸」は、撮影地域「横浜」であるが、データベースに画像解説がない。
この古写真は、朝日新聞社”写真集 「甦る幕末」 オランダに保存されていた800枚の写真から”1986年刊の風景55頁に掲載されている。
「横浜・遊郭。岩亀楼などがあった」と解説している。

なお、この作品は「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年刊の44頁には、次のとおりタイトルなどが変更され解説がある。

作品 43:横浜・衣紋(えもん)坂下

右に「豊沢猿糸 当六月七日夜より 大人叶 くる八」と書かれた張り紙が見える。これが遊郭を写したものと考えられてきたのはそのためであろう。しかし、港崎遊郭の大門には屋根があり、入ってすぐの仲之町には桜並木があった。このような貧弱な町並みではありえない。遊郭へ向かう吉原道(末広町)の入り口、衣紋坂下の大木戸と推測する。(ベアト撮影)

長崎外の古写真考 目録番号:1435 飯山の橋(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1435 飯山の橋(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1435 飯山の橋(1)    関連作品 目録番号:6323 同(2)
〔画像解説〕
F.ベアトアルバムの写真である。厚木から宮の瀬へ向かう道に架かる飯山の橋である。藁葺き屋根の家や木橋が撮影されている。

■ 確認結果

目録番号:1435「飯山の橋(1)」と、関連作品 目録番号:6323「同(2)」は、ベアトアルバムにある同じ作品。「飯山の橋」とは、具体的にどこだろう。
神奈川県の厚木市HPで、厚木市立郷土資料館が所蔵している写真集をスキャナで複写した「フェリックス・ベアトとその写真集(F・ベアト)」があり、次を参照。
http://www.geocities.jp/hayashidai4jichikai/jichikai/old-photo.htm
厚木市飯山の「庫裡橋」であると解説し、現在の橋の写真と対比させている。

長崎外の古写真考 目録番号:6584 奈良 長谷寺

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6584 奈良 長谷寺

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6584 奈良 長谷寺

目録番号:1331 長谷寺
〔画像解説〕
西国三十三所観音霊場のひとつ。天平5年(733)に行基を導師として本尊の開眼供養をおこなったと伝えられている。仁王門から本堂へと至る登廊の両側に植えられた牡丹の花時には、数多くの花見客が訪れる。

■ 確認結果

目録番号:6584「奈良 長谷寺」は、目録番号:1331「長谷寺」にあるとおり、本堂や仁王門から見ると、奈良県桜井市初瀬にあるタイトルどおりの「奈良 長谷寺」に間違いないだろう。
「撮影地域:鎌倉」とはならない。鎌倉にも「長谷寺」があるが、寺の造りが違う。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は次のとおり。現在の写真は、邪馬台国大研究 / 歴史倶楽部 HPの長谷寺から。

長 谷 寺(はせでら)

長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市にある真言宗豊山派(ぶざんは)総本山の寺。山号を豊山神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は道明上人とされる。西国三十三箇所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。

大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学にも登場する。中でも「源氏物語」にある玉鬘(たまかずら)の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。

長崎外の古写真考 目録番号:5752 寺の御堂二棟

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5752 寺の御堂二棟

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5752 寺の御堂二棟

■ 確認結果

目録番号:5752「寺の御堂二棟」は、京都市左京区若王子町の「若王子神社」と思われる。
「寺の御堂二棟」を同じように写した古写真が2枚目のとおり、京都府立総合資料館所蔵資料データベース「京都北山アーカイブズ」の矢野家写真資料明治頃の京都および近郊の名所等 I に作品43「若王寺」で収録されている。 http://www.pref.kyoto.jp/archives
わたしの青秀庵HP ◎名所旧跡めぐりによる神社の説明は次のとおり。現在の写真も同から。

若王子(にゃくおうじ)神社

「哲学の道」の南の起点となる若王子橋の近くにあるのが若王子神社。正しくは熊野若王子神社という。東大路丸太町の北西角の熊野神社、東大路七条を南へ5分ほどの所にある新熊野(いまくまのと読む)神社の二社と共に、京都三熊野の一社である。
若王子神社は祭神として、天照大神、伊佐那岐(いざなぎ)命、伊佐那美(いざなみ)命、国常立(くにとこたち)命が祀られていて、天照大神の異名「若一王子」からとった社名である。

神社は“若王子さん”と呼ばれ、縁結びの神様として若い人達に人気で、お参り帰りに哲学の道を散策されている。また境内末社の恵比須社で祀られている恵比須大神は、かっては西洞院中御門(椹木町)あたりの蛭子社で祀られていたが、応仁の乱で神だけ残し焼失、その後この若王子で祀られるようになったとか。蛭子社の傍を恵比須川が流れていたが、現在では“夷川通り”の名だけが残っている。勿論、この恵比須社へは開運・商売繁盛を祈願する人のお参りがある。

若王子神社は、永暦元年(1160)、後白河法皇が紀州の熊野権現を永観堂禅林寺の守護神として分霊を迎えられ祈願所とされ、禅林寺新熊野社・若王寺と呼ばれたこともある。室町時代には、足利尊氏、義政などが境内で花見の宴を催したという記録がもある。その後、明治初年の神仏分離によって独立した。
なお、この神社の御神木「椰(なぎ)」の葉で作られたお守りは、あらゆる悩みをナギ倒すとして人気だそうです。