長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:5710 参道 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5710 参道 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5710 参道

目録番号:1997 参道の人力車
〔画像解説〕
蓮華王院(三十三間堂)敷地北側より智積院への参道を東を向いて撮影したものか。正面奥に見えるのは智積院の正門で、背後に阿弥陀ケ峯をいただく。参道の坂道を登っていく人力車の車夫がカメラの方を振り返っている。左方に明治28年(1895)年建造の京都帝室博物館の煉瓦塀が見えないので、写真はそれ以前に撮影されたもの。

■ 確認結果

目録番号:5710「参道」と、目録番号:1997「参道の人力車」は、京都市東山区の「知恩院黒門通り」ではないだろうか。通りを東と西から写しているよう。知恩院三門より一筋上(北)の通りとなる。

目録番号:5710「参道」と同じような構図の古写真が、3枚目のとおりウェブ「洛中洛外散策」百年前はこんな風景 にあるので、次を参照。現在の写真も同ウェブから。
http://www2.ocn.ne.jp/~teiten/meiji.html
京都府立総合資料館所蔵資料データベース「京都北山アーカイブズ」の矢野家写真資料明治頃の京都および近郊の名所等 Iに作品49「知恩院黒門通」として同古写真は収録されている。
http://www.pref.kyoto.jp/archives

(2012年11月12日 追記)
通りは地図を参照。目録番号:5710「参道」は、知恩院黒門から撮影した「華頂道」ではないか。東山区「古門前通り」の一部で東側。「知恩院黒門通り」とも呼ばれる。手前の石柵は、二条城への抜け道という伝承の「瓜生石」
一方、目録番号:1997「参道の人力車」は、奥の門と背後の写る山の稜線から、逆に通りの入口あたりから、奥の知恩院黒門を向いて撮影していると思われる。智積院への参道では、山の稜線が合わないだろう。京都市上西氏が黒門通りで現地確認した写真を、「瓜生石」とも載せる。

長崎外の古写真考 目録番号:3059 寺(7)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3059 寺(7)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3059 寺(7)

目録番号:6556 三十三間堂

■ 確認結果

目録番号:3059「寺(7)」は、目録番号:6556「三十三間堂」にあるとおり、京都市東山区三十三間堂廻り町にある「三十三間堂」である。
目録番号:3059「寺(7)」と同じ古写真が、京都府立総合資料館所蔵資料データベース「京都北山アーカイブズ」の矢野家写真資料明治頃の京都および近郊の名所等 I に作品52「三十三間堂」で収録されているので、次を参照。 http://www.pref.kyoto.jp/archives

放送大学附属図書館所蔵古写真展「日本残像 —写真で見る幕末、明治—」にもあるので、次を参照。2本の立木や参道の向きが同じである。 http://lib.u-air.ac.jp/koshashin/kyoto.html
現在の写真は、蓮華王院三十三間堂HPから。同説明は次のとおり。

国宝 三十三間堂 (こくほう さんじゅうさんげんどう)

正式名は、蓮華王院で、その本堂が「三十三間堂」と通称されます。これは、東面して、南北にのびるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴によります。「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。
平安後期、約30年の間、院政を行った後白河上皇が、自身の職住兼備の「法住寺殿・ほうじゅうじどの」と呼ぶ院御所内に、当時、権勢を誇った平清盛の資財協力によって創建したものでした。 ところが、そのお堂は建長元年(1249)、市中からの火災により焼失し、鎌倉期・文永3年(1266)に再建されたのが現存のものです。朱塗りの外装で、堂内は、花や雲文様の極彩色で飾られたといい、今もわずかにその名残を停めています。
地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートルの長大なお堂は、和様、入母屋造り本瓦葺きで、手前からはるか彼方へ一点透視的に漸減する眺めは、胸のすく壮快さです。

長崎外の古写真考 目録番号:5581 海上の半島

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5581 海上の半島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5581 海上の半島

目録番号: 314 備後鞆津の弁天島
〔画像解説〕
福山の南にある鞆は奈良時代以降,瀬戸内の海上交通の要衝として栄えた。沖合いに浮ぶ仙酔島,弁天島,皇后島等は「日東第一形勝」として江戸時代,朝鮮通信使・李邦彦によって賞賛された。写真中央にある弁天島には文永8年(1271)の石製塔婆や宝形造の弁天堂がある。

■ 確認結果

目録番号:5581「海上の半島」は、目録番号: 314「備後鞆津の弁天島」にあるとおり、広島県福山市鞆町の鞆の浦海岸の「弁天島」や「仙酔島」であろう。
現在の写真は、鞆の浦 / 幕末の町並みが残る港 (福山市鞆町) | 福山特産・沼隈ぶどう田中商店HPから鞆・海岸から臨む弁天島。同説明は次のとおり。

< 鞆の津 / 鞆の浦 / 鞆(※) >
鞆の浦は広島県福山市南部に位置し、同公園を代表する景勝地として知られる(国の名勝にも指定)。瀬戸内海国立公園開所当初の指定地のひとつ。鞆港や仙酔島などを含む地区で、内海交易や寄港地、中継貿易地として発展した。とりわけ、福禅寺境内にある対潮楼から望む仙酔島は、朝鮮通信使の李邦彦により、「日東第一形勝」と絶賛されたことは有名。また仙酔島自体も雄大な海食崖や海食洞が見られ、変化に富んでいる。最高峰の大弥山は瀬戸内海を一望し、観光遊歩道が設けられている。また、鞆は文化地区としても価値が高く、現在も当時の港町の繁栄を残す町並みが残り、古くからの社寺も見られる。
Wikipedia「瀬戸内海国立公園/鞆の浦・阿伏兎(あぶと)岬」の項より一部引用

長崎外の古写真考 目録番号:4628 八角屋根のある広場

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4628 八角屋根のある広場

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4628 八角屋根のある広場

目録番号: 950 横浜山手公園(1)      関連作品 目録番号:2784、4914
〔画像解説〕
横浜公園。15か月前は薮の茂る墓地であった。日本政府からゆるい条件で借りて半分を開拓して公園になった。居留民の努力の賜のである。The Far East 明治4年(1871)4月14日号。「復刻版The Far East」より引用。

目録番号: 951 山手公園の外国軍楽隊
〔画像解説〕
公園の野外音楽堂。軍楽隊で過去3年居留民を楽しませてくれた第10連隊第1大隊も近く引き上げて軍楽隊のいない海兵隊と交代する。軍楽隊はフェットン指揮で2回連隊で、州に1回この公園で演奏するのである。The Far East 明治4年(1871)4月14日号。「復刻版The Far East」より引用。

■ 確認結果

目録番号:4628「八角屋根のある広場」は、目録番号: 950「横浜山手公園(1)」や目録番号:
951「山手公園の外国軍楽隊」にあるとおり、「横浜山手公園」内の建物である。

長崎外の古写真考 目録番号:4621 唐風山門

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4621 唐風山門

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4621 唐風山門

目録番号: 122 芝増上寺文昭院霊廟仕切門(1) 関連作品 目録番号:4162、4262、5545
〔画像解説〕
英語で「東京芝の寺」と説明されているが、これは東京芝の増上寺境内にあった文昭院(徳川六代将軍家宣)の墓所の入り口にあった仕切門である。霊廟入り口の往時の雰囲気がうかがえる。門番と思われる男性には髷が残っている。

■ 確認結果

目録番号:4621「唐風山門」は、目録番号: 122「芝増上寺文昭院霊廟仕切門(1)」ほか関連作品にもあるとおり、東京都港区芝公園4丁目にあった「芝増上寺文昭院霊廟仕切門」であろう。
関連作品の目録番号:4262は、タイトルが「有章院霊廟」となっている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は次のとおり。

増 上 寺 徳川家霊廟

増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。
第二次世界大戦前には台徳院(秀忠)霊廟、崇源院(秀忠夫人)霊牌所、文昭院(家宣)霊廟、有章院(家継)霊廟が旧国宝建造物に指定されており、その壮大さは日光東照宮に引けを取らない貴重なものであったが、昭和20年(1945年)の空襲で建造物群のほとんどが焼失した。現在は台徳院霊廟の門4棟と、有章院霊廟二天門、文昭院霊廟奥院中門(鋳抜門)を残すのみであり、それらも保存状態の悪さが目立つ。

焼失前の有章院霊廟焼け残った建築のうち以下のものが重要文化財に指定されている。
台徳院霊廟 惣門(芝公園・ザ・プリンスパークタワー東京内)
台徳院霊廟 勅額門、丁字門、御成門(以上3棟はホテル建設に際し、埼玉県所沢市の  狭山山不動寺(西武ドーム前)に移築されている)
有章院霊廟 二天門(芝公園・東京プリンスホテル内)柵で仕切られているが、塗装も随所に剥げ落ち老朽化が激しい。

これらの霊廟に祀られていた遺体は、昭和33年(1958年)調査発掘され、その後桐ヶ谷斎場にて火葬された。墓所は安国殿裏手に移転している。現在の増上寺徳川家墓所の入口の門は、もと文昭院霊廟の奥院の宝塔前中門だったもの。秀忠夫人崇源院霊牌所の一部は鎌倉建長寺に移築された。霊廟跡地は、東京プリンスホテル(文昭院、有章院等)、ザ・プリンスパークタワー東京(台徳院、崇源院等)となっている。

長崎外の古写真考 目録番号:1239 谷川(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1239 谷川(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1239 谷川(2)
〔画像解説〕
大きな岩が点在し、それらに当たり砕けながら流れる水の様子が捉えられている。露光時間が長いので砕ける水を瞬間的に写すことは出来ないが、流れの速さは感じ取れる。遠景の橋を人が1人渡っている。

目録番号:4620 橋の架かる渓谷

目録番号:2013 保津峡と京都鉄道保津川鉄橋
〔画像解説〕
保津川下りの船内から上流の京都鉄道保津川鉄橋を望む。保津峡は嵐峡とも呼ばれ、亀岡保津橋附近から嵐山渡月橋附近までの保津川約13kmの峡谷である。急流奇岩が連続する景勝地で、愛宕山・老坂間の標高約400mの山地をV字形に刻んだ深い峡谷に、清滝川などの支流が合流している。写真は京都鉄道嵯峨・園部間が開通した1899年8月以後の撮影。

■ 確認結果

目録番号:1239「谷川(2)」は、次の記事を参照。目録番号:1690「保津川(8)」の山と似ている。京都の「保津川」ではないだろうかとしていた。
https://misakimichi.com/archives/2274

この谷川の同じ橋を、近景で写した作品が別にあった。目録番号:4620「橋の架かる渓谷」。
この2作品の橋が保津川かどうかわからないが、目録番号:2013「保津峡と京都鉄道保津川鉄橋」と光景は似ている。

長崎外の古写真考 目録番号:4617 山門前の僧侶たち

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4617 山門前の僧侶たち

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4617 山門前の僧侶たち

目録番号:1229 藤沢の寺(2)
〔画像解説〕
明治初年(1868)の鈴木真一撮影と推定される写真(横浜開港資料館蔵)と同じ。‘TEMPLE FUGISAWA 藤沢遊行寺’と書かれたタイトル用の立札がある。寛政9年(1797)板行『東海道名所図会』の挿図や幕末に作成されたという同寺蔵の境内絵図からすると、右側の唐門(からもん)は「中雀門」(現存)でその後ろは「小書院(こじょいん)」となる。中雀門(ちゅうじゃくもん)は、県の調査報告書によれば19世紀中期の建立という。また、木々の間に見える右端の屋根が「大書院」、左端の建物が「観音堂」になるかも知れない。なお、同寺は藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくざんむりょうこういんしょうじょうこうじ)と号す時宗の総本山である。一般には遊行寺(ゆぎょうじ)の名で知られ正中2年(1325)の開創と伝えるが、のち荒廃・復興をくり返し、江戸時代になってからも度重なる天災によって寺容が変貌したという。また、大正12年(1923)に起きた関東大震災の後、同寺の建物群は中雀門のほか数棟を残して新しいものに建て替えられたようである。

■ 確認結果

目録番号:4617「山門前の僧侶たち」は、目録番号:1229「藤沢の寺(2)」にあるとおり、山門の造り及び山門両側の透塀から、神奈川県藤沢市西富1−8−1にある時宗の総本山「清浄光寺」(一般には「遊行寺」(ゆぎょうじ)の名で知られる)の中雀門と思われる。
現在の写真は、時宗総本山遊行寺HPから。同説明は次のとおり。

東海道の名刹 時宗総本山 遊行寺
「遊行寺」と呼ばれ、親しまれているこの寺は、時宗の総本山で、『藤澤山無量光院清浄光寺』というのが本当の名前ですが、時宗の法主が遊行上人といわれるところから、遊行上人がおいでになる寺ということで、「遊行寺」と呼ばれるようになりました。
また、藤沢は遊行寺の門前町として生まれ、「藤澤山」の山号が町の名となり、やがて東海道の宿場町に発展し、今日の藤沢市となりました。

中 雀 門
遊行寺境内の建造物の中でもっとも古く、紀伊大納言徳川治宝公の寄進により、安政6年
(1859)に建てられました。この門は四脚門で、高さ6m、幅2.7mで「船橋国造菅原義正」とされる、フクロウの彫刻は特に素晴らしいものです。
明治の大火は免れましたが、関東大震災で倒壊しました。その後以前の姿そのままに再建されました。平成20年4月大改修完成。

長崎外の古写真考 目録番号: 644 大阪の三重の塔 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 644 大阪の三重の塔 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 644 大阪の三重の塔(2014.2.1追加修正。掲載は略)
〔画像解説〕
詳細不明。平野部に位置すると思われる寺院の伽藍をなす三重の塔と講堂が映し出されている。

目録番号:2419 三重塔のある寺

目録番号:4612 三重塔
〔画像解説〕
石黒コレクションの明治8年頃に収集された古写真のアルバムに同じ写真がある。三重塔の左手奥にはかなり大きな建物の屋根が見える。これも寺院建築であろう。背景に山が写っていないので、広い平野部であると思われるが場所は不明だ。明治初年の古い写真である。

■ 確認結果

目録番号: 644「大阪の三重の塔」、目録番号:2419「三重塔のある寺」、目録番号:4612「三重塔」は、同じ写真である。
目録番号: 644「大阪の三重の塔」、目録番号:4612「三重塔」では、撮影地域:大阪とあり、これから調べると、大阪府貝塚市水間町にある「水間寺(みずまでら)三重塔」と思われる。
現在の写真は、大阪府の塔HP「水間寺」から。本堂と三重塔の配置が合い、本堂左側に写る三重塔前の灯籠の列が同じであろう。同説明は次のとおり。

水間寺(みずまでら)三重塔

水間寺は、天平16年(744年)行基が聖武天皇の勅を報じて創建した。厄除観音として参詣者が多い天台宗の寺院。境内の愛染堂は、お夏・清十郎の逢瀬の場所といわれる。
水間寺三重塔(市指定文化財、江戸時代後期 天保五年 1834年再建、本瓦葺、高さ 20m)。三層部、軒は扇垂木、組物は三手先組物。二層部、軒は二軒繁垂木、中備えは三間とも蓑束。

塔は擬宝珠高欄を付した縁をめぐらし、中央間桟唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも蟇股で十二支を彫刻。三層部、尾垂木の彫刻。二層部の竜頭彫刻。相輪は型の通りで、龍車が方形になっている
三重塔は、かって多宝塔で多宝如来を安置した。天正の兵乱で焼失し万治年間に三重塔を建て、釈迦如来像を安置した。初層、中備えの蟇股(十二支の彫刻)。初層の彫刻を施した尾垂木。三重塔は、井原西鶴の「日本永代蔵」に記載されたモデルの塔と考えられている。

本堂の内部。江戸時代に岸和田城主の庇護を受け再建された。お夏・清十郎の墓。水間寺本堂(市文、江戸時代 文化八年 1811年再建、入母屋造、本瓦葺)。
*南海貝塚駅より水間鉄道、水間駅下車、徒歩約7分。

長崎外の古写真考 目録番号:4604 渓谷(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4604 渓谷(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4604 渓谷(1)

目録番号:4631 渓谷(2)

目録番号: 618 保津川(4)       
〔画像解説〕
保津川の露出した岩床と、ごつごつした岩肌を見せる山の姿がとらえられている。

■ 確認結果

目録番号:4604「渓谷(1)」及び目録番号:4631「渓谷(2)」は、目録番号: 618が「保津川(4)」ならば、同じ景色のため、京都府の「保津川」となろう。
保津川の具体的な場所の確認はできていない。「烏帽子岩」というのがあるが、これだろうか。「孫六岩」という最大の岩もある。写真は、モイチ氏HPの「保津川下り」から。

長崎外の古写真考 目録番号:3623 ゴールデンゲート湖

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3623 ゴールデンゲート湖

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3623 ゴールデンゲート湖
〔画像解説〕
「ゴールデンゲート湖」という名称の湖は現存しない。風景から見ても東京とは考えられない。中央の着飾った子ども達やその前後に写る大人達の服装、整備された湖畔路から見れば、当時の高級リゾート地であったと思われるが、場所は特定できない。

■ 確認結果

目録番号:3623「ゴールデンゲート湖」は、画像解説のとおり、撮影地域:東京ではなく、アメリカ合衆国サンフランシスコ市内北西に位置するゴールデン・ゲート・パーク内の湖と思われる。

ゴールデン・ゲート・パークは1870年代、ウィリアム・ホールによってデザインされ、スコットランド出身の庭師マクローレンによって、50年以上をかけて作り上げられた。
HP「グーグルアース(google earth)で世界の名所めぐり」にゴールデン・ゲート・パークの衛星写真があり、中央部ストウ湖?の中に、小島2つ(青線枠)が確認できる。同HPのパーク説明は次のとおり。

長さ4.8Km、幅0.8Kmありニューヨークのセントラル・パークよりも大きい。9つの湖が散在し、9ホールのゴルフコース、乗馬場、野外音楽堂、プラネタリューム、水族館、美術館、科学博物館、ビクトリア建築の温室のほか、オランダ風車や放し飼いにされているバッファローを目にすることもできる。