長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3059 寺(7)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:3059 寺(7)
目録番号:6556 三十三間堂
■ 確認結果
目録番号:3059「寺(7)」は、目録番号:6556「三十三間堂」にあるとおり、京都市東山区三十三間堂廻り町にある「三十三間堂」である。
目録番号:3059「寺(7)」と同じ古写真が、京都府立総合資料館所蔵資料データベース「京都北山アーカイブズ」の矢野家写真資料明治頃の京都および近郊の名所等 I に作品52「三十三間堂」で収録されているので、次を参照。 http://www.pref.kyoto.jp/archives
放送大学附属図書館所蔵古写真展「日本残像 —写真で見る幕末、明治—」にもあるので、次を参照。2本の立木や参道の向きが同じである。 http://lib.u-air.ac.jp/koshashin/kyoto.html
現在の写真は、蓮華王院三十三間堂HPから。同説明は次のとおり。
国宝 三十三間堂 (こくほう さんじゅうさんげんどう)
正式名は、蓮華王院で、その本堂が「三十三間堂」と通称されます。これは、東面して、南北にのびるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴によります。「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。
平安後期、約30年の間、院政を行った後白河上皇が、自身の職住兼備の「法住寺殿・ほうじゅうじどの」と呼ぶ院御所内に、当時、権勢を誇った平清盛の資財協力によって創建したものでした。 ところが、そのお堂は建長元年(1249)、市中からの火災により焼失し、鎌倉期・文永3年(1266)に再建されたのが現存のものです。朱塗りの外装で、堂内は、花や雲文様の極彩色で飾られたといい、今もわずかにその名残を停めています。
地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートルの長大なお堂は、和様、入母屋造り本瓦葺きで、手前からはるか彼方へ一点透視的に漸減する眺めは、胸のすく壮快さです。