長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:2506 舟遊びする芸妓たち(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2506 舟遊びする芸妓たち(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2506 舟遊びする芸妓たち(1)
〔画像解説〕
覆い屋がついた日除船(ひよけぶね)で、一般には屋形船(やかたぶね)あるいは屋根船と呼ばれる。涼を求めて京都の渓流を流れ下る船で、乗客の中にはかんざし類で飾り立てた髪に、だらりの帯を締めた振り袖姿の京都祇園の舞妓がいる。

目録番号:4881 舟遊びする芸妓たち(2)

■ 確認結果

目録番号:2506「舟遊びする芸妓たち(1)」と、目録番号:4881「舟遊びする芸妓たち(2)」の屋形船は、同じ船と思われる。
保津川か、京都の渓流を流れ下る船で、京都祇園の舞妓が乗っているなら、「撮影地域:京都」として良いと思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:1554 名古屋城(5) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1554 名古屋城(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1554 名古屋城(5)
〔画像解説〕
金の鯱をいただく名護屋城。天守閣造営を担当したのは加藤清正であるとされているが、実際には天守閣石垣工事のみを担当。江戸時代、藩の財政難から金鯱が粗悪に改鋳されたこともあった。

目録番号:1555 名古屋城(6)
〔画像解説〕
徳川家康が築城させた名護屋城天守閣。屋根の上には名高い金鯱が見える。土台をなす堅固な石垣のために、石崎山、篠島、幡豆(はず)を初め、紀伊や讃岐の各所から多くの巨石が集められた。

■ 確認結果

目録番号:1554「名古屋城(5)」、目録番号:1555「名古屋城(6)」とも、画像解説中の「名護屋城」は、「名古屋城」が正しい。

長崎外の古写真考 目録番号:1508 箱根温泉

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1508 箱根温泉

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1508 箱根温泉
〔画像解説〕
早川に掛かった玉緒橋の左が元湯(現在の環水楼)、右が一の湯で、どちらも箱根の旅館の老舗である。玉緒橋は、今では国道一号線が走る立派な橋だが、明治10年(1878)頃は木造の細い橋で、形態上種々の変遷があった。

目録番号: 914 塔ノ沢温泉(3)
〔画像解説〕
塔の沢温泉の環翠樓(左)と一の湯(右)の写真である。環翠樓は元湯とも言い、公武合体の時のヒロイン皇女和宮が病気療養で逗留し、32歳で薨去したのは、この環翠樓である。 “”The Far East “”に初載。

■ 確認結果

目録番号:1508「箱根温泉」は、次の目録番号: 914「塔ノ沢温泉(3)」のとおり、タイトルを「塔ノ沢温泉」として整理した方が良いと思われる。「塔ノ沢温泉」は、箱根七湯の1つ。

「玉緒橋」は正しくは「玉ノ緒橋」。「千歳橋」と解説している作品は、「玉ノ緒橋」の下流となるので、間違いと思われる。早川に「掛かった」は「架かった」、現在の「環水楼」は「環翆楼」である。、
現在の「玉ノ緒橋」写真は、HP「水の旅」相模湾に注ぐ川 早川から。
次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2363

長崎外の古写真考 目録番号: 918 瀬戸内海大島

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 918 瀬戸内海大島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 918 瀬戸内海大島
〔画像解説〕
英語で「瀬戸内海の入り口近くの大島」と解説されている。愛媛県の大島と思われる。潮の干満に合わせて船が着岸できる、船着き場が材木で組まれている。民家は山の斜面まで見られるが、瓦葺きの屋根が多い。

■ 確認結果

目録番号: 918「瀬戸内海大島」は、横浜の英字新聞 THE FAR EAST Vol.2 No.8
1871/9/16 に掲載された写真。英語で「瀬戸内海の入り口近くの大島」と解説されているとおり、愛媛県今治市の「大島」だろう。

大島には現在、西瀬戸自動車道(しまなみ海道)が通る。吉海町臥間の下田水港対岸から亀老山(標高301.3m)を望んだ光景と思われる。地元で検証をお願いしたい。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による大島の説明は次のとおり。現在の写真も同
HPから。来島海峡から望む亀老山。

大 島  (愛媛県今治市)

大島(おおしま)は、愛媛県に属する面積41.89km²(2004年現在、国土地理院)の島。芸予諸島に属する。行政区分は越智郡吉海町と宮窪町の2町に分かれていたが、2005年1月16日に今治市などとの合併により同市の一部となった。旧町時代には伯方島、大三島とともに三島五町と総称されていた。

島の北東部の宮窪地域は、中世に瀬戸内海を舞台として縦横に活躍した村上水軍(能島村上水軍)が本拠をおき、水軍遺跡や言い伝えも多数ある。これにちなみ、宮窪港を会場に村上水軍にちなんだ水軍レースなどのイベントが毎年7月に開催され、多くの人でにぎわう。特産品には大島石等がある。

長崎外の古写真考 目録番号:902 桜 堤

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:902 桜 堤

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 902 桜 堤

目録番号:4517 小金井堤の花見
〔画像解説〕
小金井橋から桜花を楽しんでいる。小金井橋の上下2km程が最も美観だった。玉川上水に何時桜が植えられたかについては文献により異なるが、文化7年(1810)建立の「小金井桜樹碑」(小金井橋附近に現存)によれば、元文2年(1737)とのこと。武蔵野新田世話役の川崎平右衛門定孝(かわさきへいえもんさだたか)などが小金井橋を基点に上水の両岸に桜を植えたと書かれている。明治30年(1897)頃の撮影。

■ 確認結果

目録番号:902「桜 堤」は、撮影地域:未詳 となっているが、次の目録番号:4517「小金井堤の花見」のとおり、東京都小金井市の玉川上水に架かる小金井橋と思われる。
HP「玉川上水今昔 庄司徳治コレクションより」による小金井橋の説明は次のとおり。現在の写真も同HPから。

昭和5年(1930)に建造され2007年1月現在の小金井橋。橋脚部分はレンガ積みのアーチになっている。小金井街道の拡幅に伴い2006年暮れから小金井橋の架け替え工事が行われている。77年ぶりの架け替え工事で3月完成予定。
そして、小金井橋左岸北詰に建っている『名勝小金井桜』碑と、2007年1月現在の小金井橋下流。
玉川上水今昔  「小金井橋」

玉川上水を渡る地点に架かる小金井橋は上水記にも記されている古橋で、この近くに武蔵七井の一つである名水黄金井があったことに因むという。
元文2年(1737)武蔵野新田開発を推進した川崎平右衛門が幕命により、大和吉野山や常陸桜川から山桜の苗木を取り寄せ、この小金井橋を中心に東西6キロにわたって約1000本が玉川上水両岸に植えられた。植樹から50年ほど後、満開の小金井堤の桜の見事さは五日市街道を往来する薪炭の馬子たちらによって江戸市中にも広まる。

江戸の文化が爛熟した文化文政年間(1804〜1830)には俳人露安遊佐の地図つき花見案内書『玉花勝覧』によって名声が高まり、葛飾北斎も『金井橋勝覧』を手がけ、歌川広重の『小金井堤桜花之図』によって一躍江戸はおろか関東一の桜の名所として名声も開花。
人馬の往来が増えるにつれ木橋では損傷が激しく架け替えも頻繁になり、その費用調達に苦心した地元では安政3年(1856)約200余戸が分に応じて拠金する一方、近在にも呼びかけて念願の石橋が建造された。

江戸から明治の世になっても桜の名所を誇っていた小金井堤の桜も、明治半ば過ぎから樹勢の衰えが目立ち、サクラ博士として高名な三好学理学博士が調査した結果、36品種3亜種による山桜の大集植地として貴重な存在だと評価され、大正13年(1924)国の名勝指定を。
しかし第二次世界大戦後、米軍の立川・横田基地駐留による五日市街道の拡張で堤が削られ、昭和40年淀橋浄水場の閉鎖で上水の通水停後、水路の荒廃が著しい今日である。

長崎外の古写真考 東都浅草本願寺

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長崎外の幕末・明治期古写真考 東都浅草本願寺

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

東都浅草本願寺 (長崎大学のデータベースには収録がない)

■ 確認結果

撮影場所のタイトルがローマ字で記されている観光名所絵葉書。長崎大学のデータベースに収録されている京都・奈良・大阪・滋賀・大津の28作品を前記事で見てもらった。
https://misakimichi.com/archives/2489

同じような絵葉書は、東京の作品もあることがわかった。
ブログ「写真が紐とく幕末・明治」2010年12月5日の、掲載写真と記事は上記のとおり。
東京浅草 東本願寺「東都浅草本願寺」。写真の出所は書いていない。
http://morishige.omlog.net/archives/975

長崎外の古写真考 目録番号:1322 三条大橋  など28作品

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1322 三条大橋  など28作品

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1322 三条大橋  など28作品

■ 確認結果

データベースにおいて、次の28作品を見てもらいたい。京都・奈良・大阪・滋賀・大津の観光名所絵葉書。撮影場所のタイトルがローマ字で記されている。外国人向けに発売された貴重な組写真と思われる。撮影年代は未詳。

1  目録番号:1322  三条大橋     京 都  90×57   30- 1
2  目録番号:1323  東大寺の鐘楼  奈 良  89×56   30- 2
3  目録番号:1324  豊国神社     京 都  91×57   30- 3
4  目録番号:1325  唐招提寺     奈 良  90×56   30- 4
5  目録番号:1326  般若寺       奈 良  91×57   30- 5
6  目録番号:1327  北野天満宮    京 都  91×56   30- 6
7  目録番号:1328  堅田の浮見堂  滋 賀  91×57   30- 7
8  目録番号:1329  知恩院      京 都  91×56   30- 8
9  目録番号:1330  三井寺(1)    大 津  91×56   30- 9
10  目録番号:1331  長谷寺      奈 良  91×56   30- 10 超高精細画像あり。
11  目録番号:1332  泉湧寺      京 都  92×56   30- 11
12  目録番号:1333  清涼寺      京 都  92×56   30- 12
13  目録番号:1334  八坂塔      京 都  90×56   30- 13
14  目録番号:1335  御室仁和寺   京 都  91×56   30- 14
15  目録番号:1336  東大寺      奈 良  91×56   30- 15
16  目録番号:1337  妙心寺      京 都  92×56   30- 16
17  目録番号:1338  比良遠望     滋 賀  91×56   30- 17
18  目録番号:1339  大仏釣鐘     未 詳  92×56   30- 18 京都方広寺である。
19  目録番号:1340  保津川鉱泉   京 都  91×57   30- 19
20  目録番号:1341  円山および鉱泉  京 都  91×56   30- 20
21  目録番号:1342  栂尾山      京 都  91×56   30- 21
22  目録番号:1343  下鴨神社(2)  京 都  92×57   30- 22
23  目録番号:3446  矢橋船場     滋 賀  91×54   71- 5
24  目録番号:3450  北御堂      大 阪  86×54   71- 9
25  目録番号:3454  三井寺(2)   大 津  89×53   71- 13
26  目録番号:3471  大阪四天王寺(1) 大 阪  87×54   71- 30
27  目録番号:3483  石山寺(5)   滋 賀  90×53   71- 42
28  目録番号:3484  栗津ケ原    滋 賀  89×53   71- 43

長崎外の古写真考 目録番号:1339 大仏釣鐘 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1339 大仏釣鐘 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1339 大仏釣鐘

目録番号:1787 大仏殿の大釣鐘
〔画像解説〕
写真左下に、 “”LARGE BELL DAIBUTSU”” とあるが、未詳。

目録番号:5498 京都方広寺の梵鐘

■ 確認結果

目録番号:1339「大仏釣鐘」と、目録番号:1787「大仏殿の大釣鐘」は、次の目録番号:5498「京都方広寺の梵鐘」のとおり、京都方広寺の梵鐘であろう。鐘楼は大正時代にも再建されたようだ。
HP「京都きらめき紀行」による方広寺の説明は次のとおり。現在の写真は、HP「日本隅々の旅全国観光名所巡り&グルメ日記」から。

豊臣家の滅亡を招いた「国家安康」の鐘が残る
方 広 寺  京都市東山区大和大路通七条上る茶屋町527-2
豊臣秀吉の発願により東大寺の大仏殿を模して創建された寺で、高さ約20mもある大仏を有していたが、度重なる地震や落雷で破壊され、大仏殿も昭和48年の火災により焼失した。
「国家安康・君臣豊楽」の銘が刻まれ、大坂の陣のきっかけとなった梵鐘は、今も境内に残り、国の重要文化財に指定されている。

長崎外の古写真考 目録番号:6770 ホテルの玄関

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6770 ホテルの玄関

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6770 ホテルの玄関

■ 確認結果

目録番号:6770「ホテルの玄関」は、玄関に「大東館」の額が掲げられている。同名のホテル・旅館は、伊東温泉、熱川温泉などにもあるが、温泉の歴史から草津温泉の「大東館」が考えられる。
現在の群馬県吾妻郡草津町の「アムスホテルズ草津温泉 大東館」。2011年春、リニューアルオープンする。HP「草津温泉VS野沢温泉」による草津温泉の歴史は次のとおり。
データベース次の、目録番号: 6771「 妙義山中之岳の石段(3)」も、撮影地域:群馬 である。

草津温泉の歴史
草津温泉の場所
草津温泉(くさつおんせん)は、群馬県吾妻郡草津町にある温泉です。正確には温泉のあるところが町になったのでしょう。林羅山の日本三名泉に数えられます。江戸時代の温泉番付では東大関(当時の最高位)にランクされ、名実ともに日本を代表する名泉の一つである。

草津名前の由来
草津の地名はその由来に二通りの解釈があるようです。草津町温泉資料館によると、次のように説明されています。ひとつにはその独特の硫黄成分の強い温泉の臭いから「臭い水」を意味する「くさうず」が変化して草津になったという説。ふたつめは大般若経の中の一文、「南方有名是草津湯」より来ているという説。

草津温泉の歴史
18世紀初頭、「かこい湯」・「幕湯」という内湯が設けられる。日本武尊、行基、源頼朝などの神話の時代から古代の超有名人まで、この草津温泉を発見したという人の名は様々です。時代は古墳時代、奈良時代、鎌倉時代とこの温泉の開湯時期は説により色々ですが、1400年代以降草津温泉を訪れる人は著名人だけを抜粋してもすさまじい数に上ります。
現在でも「将軍おくみ上げの湯」としてその名残が湯畑に残る江戸幕府・庶民派将軍八代吉宗公、俳人・小林一茶、東海道中膝栗毛の十返舎一九、この十返舎一九が実は草津を題材に「上州草津温泉道中続膝栗毛十編」を書いたことはあまり知られていないようです。

江戸時代、交通は不便にもかかわらず、湯治客は年間1万人を超える数を記録している。幕末には、「草津千軒江戸構え」といわれたほどである。また、その強烈な泉質のため、草津温泉での湯治後に肌の手入れのために入る、「草津の上がり湯」なる温泉地が周辺に複数できた。
さらに時代が進むと攘夷はたまた開国・維新と日本が大きく変革を遂げようとした幕末そのまっただ中にいた佐久間象山も訪れている。時が移り国が変わった明治になると時間湯という入浴法が確立され、有名な湯もみが始まる。 
このころ(1878)草津とその温泉の効能を高く評価し、かつ世界に広く紹介したベルツ博士が初めて草津温泉に足を踏み入れた記念すべき年でもある。ドイツ人医師ベルツ博士によって、その良さを再発見されます。

草津温泉の湯もみをさらに有名にしたきっかけと言われる平井晩村が草津に来たのは1918年、大正7年と記録に残っている。また、このころ軽井沢から草軽電気鉄道という軽便鉄道が草津まで開通し、後には高崎・渋川などからバスも乗り入れるようになった。
平井晩村はその紀行を表した「湯けむり」を発表し、かつ草津節の原型とも言われている詩を書き残した。これが現在の草津節となり、湯もみをする際の添え歌として温泉地草津のイメージを全国に広く知らしめたと資料館のガイドでは説明している。また町外れには、湯治に来て亡くなった無縁仏が多数ある。明治年間の墓石もあり、効能が広く世間に伝えられていたことが伺い知れる。

長崎外の古写真考 目録番号:6019 威海衛の浜辺 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6019 威海衛の浜辺 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6019 威海衛の浜辺

目録番号:6020 威海衛の海岸通り

目録番号:6021 威海衛の海軍射撃場

目録番号:6022 威海衛の海軍基地における弔砲

■ 確認結果

目録番号:6019「威海衛の浜辺」など4点の、撮影地域は「中国」。
威海市(いかい-し)は中華人民共和国山東省最東部に位置する港湾都市。かつては威海衛(いかいえい)といった。デジタル大辞泉の解説は次のとおり。

いかいえい 〔ヰカイヱイ〕 【威海衛】

中国、山東半島北東岸の港湾都市、威海の旧称。渤海湾の入り口に位置し、明代には倭寇(わこう)防衛の根拠地、清代末には北洋艦隊の基地。日清戦争で日本が占領。1898年、英国の租借地となるが、1930年中国へ返還。