長崎の風景・史跡 (市中央)」カテゴリーアーカイブ

旧出島橋 再び 江戸時代の石材発見、復元へ ( 長崎県 )

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旧出島橋 再び 江戸時代の石材発見、復元へ

きよう2016年4月6日(水)付朝日新聞長崎地域版の記事は、次のとおり。

長崎)江戸時代の石材出土 旧出島橋を復元へ 長崎市

長崎市江戸町で2015年度まで2年間行われた発掘調査で、江戸時代に出島と対岸を結んだ旧出島橋の石材が大量に見つかった。市はこの石を使って旧出島橋を復元することを決め、今年度から仮組みに向けた調査に取りかかる。鎖国の時代に、多くの西洋の文物が渡った旧出島橋が、120年以上の時を経てよみがえる。…

この項は、本ブログ次などを参照。
・長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 169頁 ⅤⅠ−47 出島橋
https://misakimichi.com/archives/3573
・出島の表門橋「旧出島橋」は、アーチ式石橋だった
https://misakimichi.com/archives/3978
・出島表門橋デザイン再考を  長崎新聞「声」欄から
https://misakimichi.com/archives/4318

長崎市や文化庁が行うこれまでの出島表門橋の復元計画は、今更、何だったかと感じる。私たちは、プロセイン・ドイツが観た幕末日本の記事で、「このフォトリトグラフの存在を知っているのだろうか。川岸には橋が架かっていた場所の石材のような石がまだ散乱している」と、現況写真を載せ2013年2月当時から指摘していた。

長崎市深堀町「深堀陣屋跡」の貴重な遺構も、カトリック教会建設のため無残に壊された。その上、「海側の石垣が崩落し、修理を「急傾斜地対策事業」の補助を受けるらしいです。コンクリで固めてしまうのではないかと思われます。海側の石組みに文化財的な価値が存在していないならよいのですが、価値があるなら、どんな修復になるか心配です」との危惧も聞いている。
長崎市の文化財行政は、価値認識と先見性が足りなく、無駄な公費ばかり使っているのではないだろうか。

長崎市内の石張りの川 三角溝・四角溝  長崎市東山手町ほか ( 長崎県 )

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長崎市内の石張りの川 三角溝・四角溝  長崎市東山手町ほか

長崎市東山手町活水大学上の石畳坂道にある「三角溝」現地説明板は、次のとおり。なお、1994年6月、土木史研究第14号に、岡林隆敏先生らの「長崎外国人居留地における石畳道と側溝・排水溝の調査」報告書があるので、正しくはこれを参照していただきたい。

三 角 溝
平石を2枚合わせて碑V字に組んだ側溝は、「三角溝」と呼ばれている。出島や外国人居留地であった南山手、東山手の道路脇の側溝として、今でもあちら、こちらに残されている。これらは居留地造成当時に造られた側溝であり、外国人居留地の遺構として大切に保存されている。この形の側溝は、水が少ない時でも多い時でも排水し易いように工夫されたものと考えられる。旧外国人居留地には、この他に半円形、階段状になったものなど様々な形の側溝がある。        平成17年10月設置   長崎市教育委員会

長崎市内に残る三角溝・四角溝については、布袋厚氏著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の22〜25頁を参照。
三角溝が比較的限られた場所にしかないので、居留地造成当時に造られた側溝であり、外国人居留地の遺構とわかるが、これに対して、普通の長方形断面になった石張りの側溝(四角溝)は、市内のあちこちでその姿を見ることができる。
私は実際、高島にも外国人炭坑技術者居留地跡に三角溝があり、長崎港の対岸地区入口の西泊番所跡近くにも四角溝を見ている。本ブログ次も参照。

シシトキ川に残るレンガ造石橋  長崎市銀屋町
https://misakimichi.com/archives/810
地獄川に残るレンガ造石橋  長崎市桜町・栄町
https://misakimichi.com/archives/787
高 島 (2)  長崎市高島町
https://misakimichi.com/archives/1613
西泊の石張りの川  長崎市西泊町
https://misakimichi.com/archives/2674

四角溝の現在残る形が、いつ頃の築造年代か、長崎石物語ははっきり書いていない。外国人居留地の四角溝は、三角溝と同じく居留地造成当時に造られた側溝であろうし、このような四角溝は、市内中心部の主な地区には、明治初め頃から不完全ながら石張りの側溝(四角溝)としてあったと思われる(銀屋町ししとき川の石畳説明板)。

長崎水道の歴史HPには、次のような記述がある。明治18年(1885)8月、長崎から発生したコレラ大流行により、下水道溝の改良工事及び上水道建設が急務となったので、四角溝はこの頃から、市内一円に現在見られる統一的な形に改良され、整備されたものと考えられる。

近代水道の創設
…海外からの輸入品とともに伝染病の流入も多く、コレラなどの疫病が長崎から全国に広がっていきました。なかでも明治18年(1885)8月、浪ノ平町から発生したコレラは猛威をふるい、死者617人を数えました。コレラなどの悪疫の流行は、住民の衛生観念の欠如もさることながら、倉田水樋の老朽化による飲料水の汚染が原因のひとつとされ、居留地の外国人を中心に水道施設の必要性が叫ばれました。

明治19年(1886)長崎県令に着任した日下義雄知事は、港湾都市長崎の発展には下水道溝の改良工事及び上水道建設が急務であるとして、同年長崎区長に就任した金井俊行区長と意見の一致をみて水道設置を決意し、東京大学助教授の吉村長策を長崎県技師に任用して設計にあたらせました。 吉村氏の設計は、給水人口を6万人、1人1日最大使用量を91リットル、1日最大給水量を5,460立方メートルと想定し、工事費を30万円と算定したもので、この金額は、当時の区の年間予算4万円の7.5倍という莫大なもので、区費で支払うことは不可能であり、住民から調達するのも困難でした。…

サイト「近世以前の土木・産業遺産」都道府県ごとの特徴分析 長崎県の解説 ( 長崎県 )

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サイト「近世以前の土木・産業遺産」都道府県ごとの特徴分析 長崎県の解説

サイト「近世以前の土木・産業遺産」都道府県ごとの特徴分析の中、長崎県の解説については、このたび全面改訂され、4頁から6頁に充実された。
調査には私も協力し、多くの画像を掲載してもらっているので、各位の参考に掲げる。
http://www.kinsei-izen.com/pref/42_Nagasaki.pdf

豊前坊の石切り場跡  長崎市本河内2丁目 ( 長崎県 )

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豊前坊の石切り場跡  長崎市本河内2丁目

長崎の江戸時代の主な石切り場跡、風頭山・城の古址・豊前坊の3箇所を訪ねた。これは、豊前坊の現況。
豊前坊の石切り場跡は、田手原町から飯盛神社(豊前坊)駐車場まで行く。神社すぐ下の鳥居のところに赤い稲荷堂があり、稲荷堂の左下へロープを張った山道を下ると、石切り場跡の入口に着く。クライマーの訓練岩場となっている。
布袋厚著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の84〜85頁による説明は、次のとおり。これは間接的な記述。豊前坊の石切り場跡はあまり知られていない。

彦山に分布する岩石—「七高山めぐり」の名所にある異色の岩石

電車の終点「蛍茶屋」から南東に、みあげるような急傾斜の山が迫っている。これが、「彦山」である。その左奥にみえる同じぐらいの高さのとがった山は「豊前坊」(ぶぜんぼう)という。どちらも、長崎で正月に行なわれる年中行事「七高山めぐり」のコースにはいっている。…
彦山、豊前坊の岩石は、複輝石安山岩よりもやや明るい灰色の均質な安山岩である。…この岩石は、長崎の地質関係者のあいだで「彦山溶岩」などとよばれているので… 数こそすくないものの、街のなかで彦山溶岩がつかわれている。…

城の古址の石切り場跡  長崎市片淵2丁目 ( 長崎県 )

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城の古址の石切り場跡  長崎市片淵2丁目

長崎の江戸時代の主な石切り場跡、風頭山・城の古址・豊前坊の3箇所を訪ねた。これは、城の古址の現況。
城の古址(しろのこし)の石切り場跡は、夫婦川町春徳寺右から同寺墓地の最上段駐車場まで車道を登る。城の古址への坂段途中から左の山道へ入るとある。布袋厚著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の52〜55頁による説明は、次のとおり。

春徳寺と「城の古址」—最初の教会跡、最大規模の唐人墓がみどころ

…「東海の墓」の百メートルほど北東にある西向き斜面には、幅四十・五十メートル、奥行き十五・二十メートルの凹地があって、片側は高さ十メートルほどの垂直な崖になっている。ここが江戸時代に石材を切り出した採石場あとのひとつである。現在はうっそうとした森に包まれていて、外からはまったくみえない。しかし、西(山頂に向かって左側)のほうにまわりこむ小道があるので、これにそって歩いていけば、かんたんになかまではいることができる。そのすぐ裏山が「城の古址」(しろのこし)である。…

風頭山の石切り場跡  長崎市風頭町 ( 長崎県 )

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風頭山の石切り場跡  長崎市風頭町

長崎の江戸時代の主な石切り場跡、風頭山・城の古址・豊前坊の3箇所を訪ねた。まず、風頭山の現況。
風頭山の石切り場跡は、風頭町の風頭公園内展望台の西と北側に残る。布袋厚著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の102〜104頁による説明は、次のとおり。

風頭山の石切り場跡—坂本龍馬も歩いた溶岩の山

江戸時代の長崎で最大の石材産地は風頭山(かざがしらやま)である。現在、石切り場のあとは公園となっていて、その全容をかんたんにみることができる。風頭山は寺町の背後にある標高百五十二メートルの丘…
公園の園路を200メートルほど歩くと、左に「坂本龍馬の像」や展望台がみえてくる。それらのまわりにある一段低いところが石切り場のあとである。まわりをかこむように切り立った岩肌が露出しており、展望台の下には、石を割るときにクサビを打ちこんだあとのくぼみがのこっている。とくに運動広場から上る階段の近くにはたくさんみられる。
崖からみると、数十センチメートルの間隔で、たて方向に割れ目がはいっているのがわかる。しかし、水平方向の割れ目はあまりないので、長い柱状の石がとれるのである。岩肌には、ところどころ、直径数センチメートルほどのまるいかたまりがはいっていて、眼鏡橋などの石材と同じものであることがわかる。
風頭山は厚さが百メートル以上もある溶岩でできており、市街地付近の溶岩としては最大規模である。…

幣振坂1〜3・ピントコ坂・ドンドン坂  長崎市寺町ほか ( 長崎県 )

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幣振坂1〜3・ピントコ坂・ドンドン坂  長崎市寺町ほか

長崎市の坂で有名なのは、「オランダ坂」「天満坂」のほか、寺町や筑後町に3つの「幣振坂」、上小島1丁目に「ピントコ坂」、南山手町に「ドンドン坂」があるので、現況を報告する。
現地説明板や長崎市公式観光サイト「あっ!とながさき」、HP「長崎県の坂」リストによる説明は、次のとおり。

幣振坂 1  (皓台寺側 長崎市寺町と鍛冶屋町の間から寺町と高平町の間まで 一部階段 下部は車道コンクリート化)
晧台寺と大音寺の間の坂道。幣振坂の名前は,寛永11年(1634),諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に下ろした際,宰領が御幣(紙を切り細長い木に挟んで垂らした神祭用具)を振って,人夫達をこぶしたことに由来するとも言われています。長崎では,この坂のほか延命寺と長照寺の間や東本願寺横の坂も幣振坂と呼ばれています。この坂は,長崎でロケがおこなわれた映画「解夏」の冒頭やラストシーンに出でてきます。   管理者:長崎市

幣振坂 2   (長照寺側 長崎市寺町 階段 下部はコンクリート化)
風頭山頂へと続く坂道。幣振坂の名前は,寛永11年(1634),諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に下ろした際,宰領が御幣(紙を切り細長い木に挟んで垂らした神祭用具)を振って,人夫達を鼓舞したことに由来するとも言われています。長崎では,この坂のほか晧台寺と大音寺の間や東本願寺横の坂も幣振坂と呼ばれています。   管理者:長崎市

幣振坂 3   (東本願寺側 長崎市筑後町 階段 ほとんどコンクリート化)
幣振坂の名前は,寛永11年(1634),諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に下ろした際,宰領が御幣(紙を切り細長い木に挟んで垂らした神祭用具)を振って,人夫達を鼓舞したことに由来するとも言われています。長崎では,この坂のほか晧大寺と大音寺の間や延命寺と長照寺の間の坂も幣振坂と呼ばれています。長崎でロケがおこなわれた映画「解夏(げげ)」の冒頭に登場する「井戸」が坂の途中にあります。   管理者:長崎市

ピントコ坂   (長崎市上小島1丁目 斜度=10°/道幅=3.1m ほとんどコンクリート化)
ピントコ坂とは、旧茂木街道にあたる上小島の墓域から長崎県立南高等学校正門前まで続く坂段のこと。
寛永年中(1624〜1643)、贋金作りの唐人・何旻徳(か・ぴんとく)が処刑された場所で、彼を慕った悲恋の遊女、阿登倭(おとわ)がここで自死。この遊女を葬った傾城塚(けいせいづか)があることからこの名で親しまれるようになったという。
下部にあるピントコ坂と表示板の場所から南高前にある表示板まで、それにしてもピントコ坂は結構険しくて長い。古く長崎では険しい坂段を上り下りするときに“ぴんとこどっこいしょ”というからピントコ坂という説もあるのだとか。

ドンドン坂   (長崎市南山手町 一部階段)
坂の特徴 坂の方向  南東に向かって上る。長さ 110m,道幅=1.7m 傾斜 急坂(高低差27m,平均斜度14度)
形態  直線の狭い坂。坂の頂上部で短い階段になる。
由来他  南山手に残る居留地時代の坂道。オランダ坂に匹敵する歴史的な遺構で,今なお居留地時代の雰囲気が残っている。石畳で,石材は建設当時のまま,舗装されたのは1877(明治10)年以降と考えらる。(「ARCHITECTURAL MAP」」より)
雨が降ると流れ落ちる水が途中でどんどん速くなることから,こんな名がついた。両脇の溝の形がU字・三角溝・四角溝など違っているのも水量とスピードを調整するためという。(「長崎さかみち散歩」より)
命名時期  明治時代
参考文献  『長崎さかみち散歩』真木雄司 春光社 2006 『ARCHITECTURAL MAP ドンドン坂』

立山役所の境界石  長崎市立山1丁目 ( 長崎県 )

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立山役所の境界石  長崎市立山1丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。長崎公園六角堂近くの立山側の自然石に「従是御立山」と刻む。
笹やぶの中にあり場所が分かりにくいから、所在図参照。カーブミラーの真下くらいの遊歩道脇にある。
本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/3085

立山役所の境界石 たてやま
長崎市 長崎公園六角堂近くの立山側 役所の境界石 (自然石) 延宝元(1673)以降 WEB(みさき道人) (正面)「従是御立山…」 –

元・立山役所(石階段)  長崎市立山1丁目 ( 長崎県 )

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元・立山役所(石階段)  長崎市立山1丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。

元・立山役所(石階段) たてやま
長崎市 長崎歴史文化博物館<長崎奉行所立山役所> 石階段 24段 延宝元(1673) WEB(みさき道人)/WEB 平成17に長崎歴史文化博物館が開館した際、石階段、石垣、井戸等を修復・復元 長崎奉行所の東役所/寛文3(1663)の大火で焼失したため東役所・西役所に分けて再建(隣接)、10年後に火災時の類焼を避けるため東役所を立山に移したもの/西役所は現・長崎県庁(遺構なし) 3 B

ウィキペディアフリー百科事典の「長崎歴史文化博物館」による説明は、次のとおり。

概略
2005年(平成17年)11月に開館。長崎県と長崎市が行政の垣根を越え予算と収蔵品を出し合い設置した。
建築
長崎県立美術博物館が閉鎖され、当博物館と長崎県美術館とに分離される際に、旧美術博物館の敷地と、同館に隣接していた旧長崎県知事公舎の敷地に建てられた。3階建。建設時には旧長崎奉行所の石段や庭園などの遺構が出土した。石段は補強され、奉行所門側のエントランスとして活用されている。設計は日本を代表する建築家黒川紀章。同館の西側には長崎原爆投下時に、第一報を政府や軍に打電した立山防空壕(旧長崎県防空本部)が残っている。同館のオープンにあわせ壕内を整備、周辺が公園化され、一般公開されている(無料)。