長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:6074 イギリス軍駐屯地

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6074 イギリス軍駐屯地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6074 イギリス軍駐屯地

■ 確認結果

長崎大学附属図書館(学術情報サービス班)から、次のような依頼を受けた。

8月27日から長崎市立図書館で開催する「1874年、激動の長崎」展の展示内容を見直しています。目録番号
6074及びその他の関連写真についてご教示願います。
目録番号6074は、http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=6074
これは現在までの照会結果で、「イギリス領事館の宿舎」に修正とのご指摘を受けていますが、次の「長崎製鉄所」の写真左上に写る建物ではないでしょうか?
目録番号5314(→高精細画像) http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=5314
目録番号6043  http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=6043
建物のようすと背後の山の稜線の形が合致するように思います。…

きょう、私が現地確認した。目録番号:5314「長崎製鉄所(1)」の左上に写る建物は、超高精細画像で拡大したので、対比してもらいたい。建物の洋館は、ほぼ同じである。
全体から判断すると、目録番号:6074の背後の山は、「稲佐山」で南側の稜線を写している。2棟の建物と2段の石垣、左端へ曲がって登る坂段の道の配置などから考えると、ここは飽の浦町恵美須神社上の、現在、日蓮宗「昭徳寺」となっている場所に間違いないようだ。この写真は恵美須神社上の長崎港パノラマなどの撮影場所で有名だった岩場の手前から撮影できたと思われる。

目録番号:6074は、タイトルの「イギリス軍駐屯地」の意味がわからない。私は古写真考でこれまで東山手あたりと思いパスしていたが、今回の長崎大学附属図書館の、飽の浦町恵美須神社上あたりの建物とする判定が正しいようだ。
「昭徳寺」は、平成19年に新築落成した新しい寺。住職に確認すると、今の敷地はその前、三菱造船所役員社宅が4軒建っていたという。ここが幕末明治期「イギリス領事館の宿舎」の場所だったとは、場所が離れすぎ考えにくい。製鉄所や造船所の外国人指導者宿舎なら理解できる。
この建物のことはかえって、三菱重工長崎造船所史料館の方で調べてもらった方が良いと思われる。
山の稜線の形は、今は現地で全体を写せないから、最後の写真どおり、近くの菱重ビル屋上から確認した。

長崎大学附属図書館「集大成 長崎古写真の世界」展  長崎浜屋で4月6日まで

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長崎大学附属図書館「集大成 長崎古写真の世界」展  長崎浜屋で4月6日まで

長崎大学HPによるお知らせは、次のとおり。みなさんの観覧をお願いします。 

「集大成 長崎古写真の世界」展

長崎大学附属図書館が、古写真事業の25周年を記念して、長崎浜屋百貨店で「集大成 長崎古写真の世界」展を開催します。入場無料ですので、是非ご観覧ください。
日 時 平成26年4月2日(水)〜4月6日(日)
※10:00〜19:30/金・土は20:00まで/最終日は18:00まで
場 所 長崎浜屋百貨店 8階催事場

附属図書館がこれまでに開催した古写真展から長崎写真180点を集大成してご紹介いたします。
第Ⅰ部 外国人たちが見た幕末明治の長崎(60点)
第Ⅱ部 上野彦馬が撮影した幕末明治の長崎(60点)
第Ⅲ部 手彩色写真で見る明治の長崎(60点)

なお、浜屋8階催事場では、長崎の世界遺産候補「提唱者の軌跡展」も同時開催中。長崎の教会群、軍艦島(端島)の紹介があっていた。
古写真展新聞記事は、朝日新聞長崎地域版2014年4月4日付から。

高橋信一氏稿 「古写真研究こぼれ話」

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高橋信一氏稿 「古写真研究こぼれ話」

東京都西東京市在住の高橋信一氏が資料編纂者で、最近、「古写真研究こぼれ話」を私費出版された。2011年、慶應義塾大学理工学部准教授 退職、現在に到る。工学博士。
8年前から「フルベッキ写真」と出会い、仕事の合間に古写真に纏わる諸々について、コツコツ調べた結果の中心となるものを、「資料集」としてこの本にまとめられている。

限られた部数の非売品だが、古写真調査が縁で私にまで恵与いただいた。上記(ズーム拡大)はその中のほんの一端。高橋信一氏研究を、古写真とともに紹介してみる。
長崎での「大徳寺大集合写真」は、55〜56頁に掲載。現在の写真は、明治維新の際、廃寺となった大徳寺跡。この本は、国会図書館等の図書館や、古写真に関連のある美術館・博物館等には寄贈されているので、これらで閲覧できる。

長崎の古写真考 目録番号:5247 茂木街道田上竹林(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5247 茂木街道田上竹林(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5247 茂木街道田上竹林(1)
〔画像解説〕
大正初期の田上付近の竹林を撮影した絵葉書写真である。田上には元禄11(1698)年向井去来がこの地の千歳亭を訪れて「名月や田上にせまる旅ごころ」の句を詠んだ。この町から採れるタケノコは古くから田上タケノコとして有名である。写真は明治18(1885)年に新道として整備された旧県道である。

■ 確認結果

データベース目録番号:5247「茂木街道田上竹林(1)」の画像解説は、「大正初期の田上付近の竹林を撮影した絵葉書写真である。…写真は明治18(1885)年に新道として整備された旧県道である」としている。最近の長崎市茂木支所HP「茂木をたずねて」の中の「懐かしい写真」が、この写真を取り上げている。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/827000/p023389.html
同111頁の解説は、「大正初期の絵葉書写真で、「長崎茂木街道田上竹林」とある。現在地は特定できていない」

撮影地のひとつの候補地として考えられるのは、明治18年(1885)に新道として整備された旧県道の転石からつづら折りで下る道。平口橋の右斜め上となるあたりのカーブ地点である。左側の畑の状況が似ている。
背景の山の稜線が、古写真では竹林、現在の写真では自動車道橋梁にさえぎられ、全体をはっきり確認できない。茂木支所の方で、詳しい調査をお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:5251 茂木道(2) (再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5251 茂木道(2) (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5251 茂木道(2)   関連作品 5252 茂木道(3)も同じ。
〔画像解説〕
長崎から茂木に向かう江戸期からの街道。正覚寺下から八剣神社前を経て田上に至り、さらに転石、柳山を経て茂木港に達する。写真は田上から下り終えた転石付近と思われる。牛が荷駄を運搬している。道路は明治18(1885)年に新道(旧県道)として整備された。

■ 確認結果

データベース目録番号:5251「茂木道(2)」の画像解説は、「田上から下り終えた転石付近と思われる」としている。最近の長崎市茂木支所HP「茂木をたずねて」の中の「懐かしい写真」が、この写真を取り上げている。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/827000/p023389.html
同111頁の解説は、「絵葉書写真で、右下に「Mogi Road,Nagasaki.」とある。現在地は特定できていない」

この項は、本ブログ次を参照。橋と道路の状況に疑問があるが、背景で考えていた。
https://misakimichi.com/archives/1528
この写真は、伊能忠敬研究会入江氏から、ストリートビューの画像研究により「茂木方面の道では、このような地形は見当たらない。愛宕町バス停上流の旧茂木街道の橋ではないだろうか。背景は愛宕山の山裾と思われる」との教示をいただいた。

橋は知っていたが、まだ急な坂のように感じていた。現地調査すると、この「愛宕橋」に間違いないようである。
データベースには、目録番号:5528「茂木への道(1)」もある。「愛宕橋」を登り上がった場所の愛宕山の作品となり、目録番号:5251「茂木道(2)」は、「愛宕橋」と十分考えられる。
「愛宕橋」付近の現地確認写真を掲げ、前記の茂木「大川橋」とした記事は修正したい。

長崎の古写真考 目録番号:5245 茂木通田上(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5245 茂木通田上(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5245 茂木通田上(2)
〔画像解説〕
大正初期の茂木街道田上峠付近の絵葉書写真。田上は長崎県庁から一里、当時人家20〜
30戸、茶屋10戸ほどで蕎麦と筍が名物。旅人の休息所であり、茂木に向かう旅行者はここで旅装を整えた。田上寺、観音寺、千歳亭など旧跡も存在する。写真から人力車による旅行風景がわかる。

■ 確認結果

データベース目録番号:5245「茂木通田上(2)」の画像解説は、「大正初期の茂木街道田上峠付近」としているが、場所を特定していない。最近の長崎市茂木支所HP「茂木をたずねて」の中の「古写真をたずねて」が、この写真を調査している。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/827000/p023389.html

同57頁では、撮影地を「大正初期の茂木街道転石の絵葉書写真。平口橋付近から撮影したものである」。現在の写真は「手前の橋は平口橋、写真右側の橋脚は高速道路から唐八景トンネルへ続く道路の橋脚である。平口橋の名称の由来は、この付近に「ひらくち」(マムシ)が多かったことから平口橋となったということである」と解説している。

確かに古写真は、転石から茂木へ下る旧県道つづら折りの道を撮影しているようだが、茂木支所の「平口橋付近から」とする解説には疑問がある。
「平口橋」を渡って、下から見上げているとすると、街道の道はこのように写らない。同じ高さか、対面の少し高い位置からの撮影と考えるべきであろう。背景の山の稜線も合わない。

私の調査で撮影地を探すと、昔の茂木街道から分かれ、明治18年(1885)開通した旧県道へ下る大カーブ地点に立ち、現在、ホテル「古都」が建っている直線道を見上げた写真ではないだろうか。現在の写真は、大カーブの少し手前から写している。確定したわけではないが、ここもひとつの候補地として、考えてもらいたい。
茂木支所は、地元だから表面的ではなく、深い研究をして公表をくれぐれもお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:5874 茂木への道(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5874 茂木への道(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5874 茂木への道(2)

■ 確認結果

データベースでは、目録番号:5874「茂木への道(2)」の画像解説はない。最近の長崎市茂木支所HP「茂木をたずねて」の中の「古写真をたずねて」が、この写真を調査している。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/827000/p023389.html

同58頁では、撮影地を「茂木から転石を登った旧県道の田上の手前、写真奥のカーブは、明治18(1885)年に開通した旧県道と昭和9年に開通する新県道の分かれ道にあたる」と解説している。
大杉左側は谷間斜面となっているようで、一般的にはこのあたりが撮影地と考えられるが、「転石の分かれ道」付近では、S字状カーブは合うが、坂道はまだ急に下り、背景の山の稜線の高さと形に少し疑問がある。

同じようなS字状カーブを、旧県道の道を平口橋まで下って探すと、数箇所あった。このつづら折りの道で、古写真と合う景色は、平口橋の右斜め上あたりにある2枚目の写真のカーブである。確定したわけではないが、ここもひとつの候補地として、考えてもらいたい。
茂木支所の「転石の分かれ道」とするような、HP全体すべて断定的な解説文はうなずけない。地元だから表面的ではなく、深い研究をして公表をくれぐれもお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:6263 悟真寺の墓地とボードイン

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6263 悟真寺の墓地とボードイン

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6263 悟真寺の墓地とボードイン
〔画像解説〕   超高精細画像
オランダ人墓地(奥に見える)の入口付近で悟真寺の住職および伴僧と二人のオランダ人が撮影されています。住職はこのときまだ袈裟をつけていません。右端はボードイン博士です。このとき博士は同伴の者にカメラを持たせて撮影させたわけです。

■ 確認結果

ボードイン、F.ベアト、上野彦馬が、長崎の墓地を撮影した作品は数点ある。長崎大学データベースでは、墓地を現地確認しないで間違った解説をしていると思われるものもあり、どこの墓地か確認が必要である。

目録番号:6263「悟真寺の墓地とボードイン」も、念のため調査したが、この作品は、画像解説どおり長崎市曙町の「悟真寺墓地」に間違いないだろう。
墓地の背後に写っているのは、現在では木立が茂り完全に見えなくなっているが、「稲佐山」とその稜線である。この向きからすると、撮影地は「オランダ人墓地(奥に見える)の入口付近」に間違いないと思われる。

感覚を疑う長崎市広報資料HP「茂木をたずねて」

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感覚を疑う長崎市広報資料HP「茂木をたずねて」

長崎市編入50周年記念「茂木今昔」の編集内容については、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3603
長崎市政への提案に対して、前向きな反省がほとんどうかがえない長崎市茂木支所の回答といえよう。
「茂木今昔」は、長崎市編入50周年記念「茂木今昔」となっていますが、「茂木をたずねて」のことではないかと思いますとのことで、これを見てみた。

「茂木をたずねて」は、長崎市茂木支所が2012年7月頃発行した郷土資料のよう。
長崎市公式ホームページの「観光案内 >観光・文化的施設 >長崎の隠れたスポットをさるく >茂木をたずねて」にある。
長崎市茂木支所の企画や編集の意気込みは理解しないのではないが、長崎市全体の広報として考えた場合、HPの内容には疑問がある。

なぜ、茂木支所のみこのように大きく扱うのか。全体の支所業務の均衡が必要ではないか。 
「茂木をたずねて」の目次で、「茂木のあゆみ」「茂木の散歩道」「古写真をたずねて」をクリックしても、記事と写真は出てこない。不完全なHP。用をなさない。
「茂木四国八十八ヶ所」は、全部載せ多くの頁をさいている。支所業務とは思われない。HPが重たくなる。ほかに紹介することが多くあるだろう。

このような内容を、長崎市全体の広報として紹介するのはどうかと思われる。
「茂木をたずねて」は、本来は地元の活力をなるべく生かすため、長崎市茂木支所、茂木地区連合自治会、茂木史談会、茂木愛創会などが協力して編集発行するべき郷土資料。HPもそのような連名で、独自にHPを作り公開した方が、市民に誤解を与えないのではないか。
長崎市公式ホームページでは、リンク先程度にとどめてもらいたい。

長崎市編入50周年記念「茂木今昔」の編集内容

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長崎市編入50周年記念「茂木今昔」の編集内容

このことについて、2013年1月29日に「長崎市市政への提案」をしたところ、2月26日付の長崎市広報広聴課長・茂木支所長・文化財課長の回答は次のとおり。
特に茂木支所管内の住民のみなさんは、よく読んでもらいたい。古写真や古絵葉書の著作権は何も問題はない。要望の件は、地元を愛する気持ちがあれば、すべてクリアできる。
地元の自分たちがしなければならないことをしないで、このような的外れな回答をしている。市費や自治会会費などが、こんな使い方をされたら困るのではないでしょうか。
せっかくの長崎市編入50周年記念事業の汚点となります。

長崎市編入50周年記念「茂木今昔」の編集内容 (2013年1月29日提案)

旧茂木町の長崎市編入50周年を記念して、茂木地区の古写真と現在の写真を対比した「茂木今昔」が編集され、市茂木支所に展示し、DVDを公開しています。先日はNBC報道センターのニュースもありました。

長崎市茂木支所の苦労作ですが、その割には研究が足りず、茂木地区の貴重な古写真が、まだ眠っています。次は私が長崎大学古写真データベースなどから見つけている作品で、ブログ記事を参照ください。これほか多くの記事を載せています。
https://misakimichi.com/archives/2218
https://misakimichi.com/archives/2084
https://misakimichi.com/archives/3127
https://misakimichi.com/archives/5429
ブライアン・バークガフニ氏の研究紀要「古写真と絵葉書に見る茂木街道」もありますから、参照ください。
https://misakimichi.com/archives/2795

以上をふまえ、次のことを検討されるようお願いします。
1 上記の新しく見つかった古写真や絵葉書は、現地再確認を地元支所・史談会としてくれぐれもお願いします。
2 茂木地区の関係作品と判明したら、それを含めこの際「茂木今昔」を再編集することはできませんか。
3 このままでは、地元の期待に沿える内容となってなく、不完全な資料です。公開はどうかと考えます。
4 「茂木今昔」編集の話を聞き、事前にこのことを情報提供しょうとしたら返答ありません。茂木支所の対応は問題があります。
5 長崎大学古写真データベースの改善について、長崎市長として強く申し入れてください。長崎学とはなっていません。
6 市長の要望書は、ふるさと再生事業の古写真でもお願いしました。他人事のような回答は、もう結構です。
7 研究は、茂木地区の中心地域だけではなく、管内全体にも広げてください。
8 不完全な研究は、市費の無駄遣いととられます。茂木支所は十分に心して研究してください。
9 昭和33年「茂木町郷土史」以来の、後世に残る立派な内容の「茂木今昔」が完成するよう期待しています。

平成25年2月26日
ご投稿者 様
広報広聴課長・茂木支所長・文化財課長  

回答が遅くなりましたことをお詫びします。
ご投稿いただきありがとうございます。ご提案について、次のとおり回答いたします。
長崎市編入50周年記念「茂木今昔」となっていますが、「茂木をたずねて」のことではないかと思います。長崎市編入50周年記念誌は、旧茂木町編入50周年記念事業実行委員会から発行予定となっております。
「茂木をたずねて」は、作製のための事業予算を組まずに、支所業務の合間や休日等を利用して作製したもので、無料で著作権がクリアしたものを使用しています。また、全ての古写真等を使用したものでもありません。
個別の検討事項については、次のとおり回答いたします。
1の古写真や絵葉書については、上記理由により使用していません。また、現地確認を行う予定もございません。
2については、現在、再編集を行う予定はありません。
3については、ご意見としてうかがいます。
4については、長崎大学の古写真の撮影地についての内容でしたので、こちらからお答えできるものではないと判断し、お尋ねしませんでした。
7については、茂木をたずねてに掲載している写真は、田上から茂木港周辺を除いた地区は少ないものの、茂木地区全体を対象としています。
8、9については、茂木をたずねての作製のための事業予算を組まずに作製しており一定の成果を出せていると考えます。
【提案内容 5、6について】
長崎大学附属図書館所蔵の「幕末・明治期日本古写真コレクション」につきましては前回の回答のとおり、長崎大学附属図書館において調査研究をされ、現在のホームページによる公開を行われていると理解しておりますので、今回のご提案内容につきましても、附属図書館に対して、直接ご提案されてはいかがかと存じます。