投稿者「misakimichi」のアーカイブ

西出津のツバキ  長崎市西出津町

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西出津のツバキ  長崎市西出津町

長崎市藤田尾町のツバキの大幹の方が、実測すると幹囲1.80mほどあり、長崎市指定天然記念物となっている。このようなツバキの大木がないか、各地を気をつけて見ているが、なかなか見当たらない。
このツバキは、西出津町の道路沿いにあった。出津教会からゆうこうの里の方へ車道を行く。途中の分岐から新屋敷へ少し入った所にあった。
幹囲1.3m、樹高10mほど。ツバキとしては大きな木であろう。花の付きは悪かった。

土井首から熊ヶ峰・戸町岳へ  平成21年3月

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土井首から熊ヶ峰・戸町岳へ  平成21年3月

平成21年3月1日(日)快晴。土井首から熊ヶ峰(標高569m)・戸町岳(標高427m)へ。参加14人。
土井首バス停9時半発ー八郎岳林道と分れー鹿尾ダム上の谷橋ー大山集落ー山頂下鞍部(昼食)ー熊ヶ峰ー大山林道の登山口ー三方境ー戸町岳ー脇道ー戸町中前15時半着。

3月となり、山歩きに申し分のない日和り。土井首から望む熊ヶ峰は、高く端正だが、写し忘れた。八郎岳林道の分れまで、旧道の道を行く。途中の杉林に、「長崎要塞第ニ地帯標」(刻みは「三」だが、他場所の標石番号の続きから、「第ニ地帯」が正と思われる)「第十八号」の標石が残っているのは知られていない。ダイヤランド団地を眺めながら、左方の林道へ入る。

霊場鳴滝の上を通り、鹿尾ダム上の谷橋まで行く。広川原となって爽快だ。上流が沢登りで苦労した所。林道は橋の先も続いているが荒れていて、大山集落へ登る山道の入口がわからなくなった。 適当に登って行くと岩壁と沢に出合い、危険な目に遭わせたがなんとか大山集落へ出た。山道は大山から逆に下って再確認する必要がある。

熊ヶ峰下の鞍部で昼食。これから急な登りは、大トリでも熊ヶ峰に20分で着いた。やれやれ。防火帯の縦走路を伝い、戸町岳へ。山頂からの眺めはいつ見ても良い。下りは山腹の脇道を歩き、植林地内で森林浴。戸町中前まで出た。
新戸町の登山道入口近くの西方は、大型団地の造成工事があっていて驚いた。女神大橋から延伸した外環状線が、小ヶ倉ダム側へも着々と工事中である。
宮さんブログを参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/11298358.html

大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚の調査  平成21年2月

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大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚の調査  平成21年2月

前外海こども博物館長松川先生や川上氏との3人による長崎市東・西出津町にあった佐賀藩飛地の藩境石(傍爾石)及び藩境塚探しの続き。
本年1月に「とひ崎」という海岸で、「従是 東大村領 西佐嘉領」と刻んだ藩境石が見つかっていることは、前項を参照。 https://misakimichi.com/archives/715

2月28日午前9時、「夕陽が丘そとめ」で松川先生と落ち合う。最初、出津大橋下の四釜(鹿間)海岸へ行く。集落はずれの海岸の道に、藩境石が立っていた土台石が残っていた。大きな広い敷石の中心に、30cm四方位のくり抜きの穴がある。
「大村郷村記」は、確かにここに「従是 東南大村領 西北佐嘉領 申ニ而」の藩境石を建てたことを記している。しかし、今は集落の人に尋ねても、藩境石のことはまったく記憶にない。はるか忘却外の出来事なのであろう。

外海歴史民俗資料館に上がると、庭に2本の藩境石が展示されている。立っている1本は牧野に、横倒しの1本は黒崎にあった藩境石を持ってきているそうだ。ド・ロ神父記念館の前庭にもあと1本展示している。
次に、国道沿い物産販売所「菜園」がある道路公園下の海岸へ行った。「砥石原」といい、「大村郷村記」はここにも「南佐嘉領 北大村領 酉ニ向」の藩境石を記している。辺りをだいぶん探したがわからない。大塚すらまったく探しきれなかった。
国道上の車道へ行き、次は旧街道の籠立場近く「松尾のさこ」を上手から眺める。薮の谷斜面となっており、ここは調査することができない。

不在中の日宇さん宅庭を借り昼食。午後は「桜のさこ」からヘン岳に続く北尾根へ上がる。雑木林や一部植林地となっている急な斜面。約1kmの登りやヘン岳との尾根に14基の藩境塚が残っているのを確認した。新しい発見となる。
ヘン岳とその先は、昨年3月に踏査済み。井出墓地から下ると、市指定史跡「ド・ロ神父大平作業所跡」に出た。煉瓦造建物の珍しい史跡(史跡の項で別項)。ゆうこうの木が大きくなり、蜜蜂用の菜の花畑も満開だった。

最後の写真が、長崎歴史文化博物館所蔵「文久二年彼杵郡三重紙津村図」。この絵図と藤野保編「大村郷村記」第六巻(図書刊行会 昭和57年)101頁の黒崎村「當領佐嘉領大境并傍爾石之事」出津郷の記事が、今回の調査用資料。

興 福 寺 (2)  長崎市寺町

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興 福 寺 (2)  長崎市寺町

興福寺は、長崎市寺町通りの北の方にある。日本最古の黄檗宗の寺院。山号は東明山。 寛永元年(1624)、中国僧の真円により創建された。
崇福寺・福済寺とともに長崎三福寺の1つに数えられる。黄檗宗の開祖隠元禅師ゆかりの寺院。本堂の大雄宝殿は国指定重要文化財である。
同寺パンフレットによる説明は次のとおり。拝観料300円。

国指定重要文化財  東明山 興 福 寺

興福寺は、国内最初の黄檗禅宗(おうばくぜんしゅう)の唐寺でその由来は古く、中国・明の商人が長崎と行き来を始めた頃に渡来した中国人が、1620年ごろ航海安全を祈願してこの地に小庵を造ったことに始まります。
この時代は、幕府のキリスト教禁令が厳しく、長崎在住の中国人にもキリシタンの疑いがかかったため、仏教徒であることを証明するためにも、崇福寺、福済寺、聖福寺など、つぎつぎと唐寺を建てられたといわれています。
日本最古の石橋の眼鏡橋を架設した第二代黙子如定、南画の祖と称される第三代の逸然、さらには明の高僧隠元隆琦禅師が住職として興福寺に滞在されたころには、大きな堂宇が建ち並び、全国から僧や善男善女が参集して禅の一大センターとなりました。

大雄宝殿(本堂)  国重要文化財
寛永9年(1632)第二代黙子如定禅師が建立。元禄2年再建、さらに明治16年再建し現在に至る。中国工匠による純粋の中国建築で、氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井など珍しい。

瑠璃燈(本堂内)市有形文化財・媽祖堂(まそ・ぼさどう)県有形文化財・鐘鼓堂 県有形文化財・三江会所門(さんこうかいしょもん)県有形文化財・山門 県有形文化財・旧唐人屋敷門(長崎市所有)国重要文化財・中島聖堂遺構大学門(長崎市所有)県重要文化財・魚板(けつ魚)

興 福 寺 (1)  長崎市寺町

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興 福 寺 (1)  長崎市寺町

興福寺は、長崎市寺町通りの北の方にある。日本最古の黄檗宗の寺院。山号は東明山。 寛永元年(1624)、中国僧の真円により創建された。
崇福寺・福済寺とともに長崎三福寺の1つに数えられる。黄檗宗の開祖隠元禅師ゆかりの寺院。本堂の大雄宝殿は国指定重要文化財である。
同寺パンフレットによる説明は次のとおり。拝観料300円。

国指定重要文化財  東明山 興 福 寺

興福寺は、国内最初の黄檗禅宗(おうばくぜんしゅう)の唐寺でその由来は古く、中国・明の商人が長崎と行き来を始めた頃に渡来した中国人が、1620年ごろ航海安全を祈願してこの地に小庵を造ったことに始まります。
この時代は、幕府のキリスト教禁令が厳しく、長崎在住の中国人にもキリシタンの疑いがかかったため、仏教徒であることを証明するためにも、崇福寺、福済寺、聖福寺など、つぎつぎと唐寺を建てられたといわれています。
日本最古の石橋の眼鏡橋を架設した第二代黙子如定、南画の祖と称される第三代の逸然、さらには明の高僧隠元隆琦禅師が住職として興福寺に滞在されたころには、大きな堂宇が建ち並び、全国から僧や善男善女が参集して禅の一大センターとなりました。

大雄宝殿(本堂)  国重要文化財
寛永9年(1632)第二代黙子如定禅師が建立。元禄2年再建、さらに明治16年再建し現在に至る。中国工匠による純粋の中国建築で、氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井など珍しい。

瑠璃燈(本堂内)市有形文化財・媽祖堂(まそ・ぼさどう)県有形文化財・鐘鼓堂 県有形文化財・三江会所門(さんこうかいしょもん)県有形文化財・山門 県有形文化財・旧唐人屋敷門(長崎市所有)国重要文化財・中島聖堂遺構大学門(長崎市所有)県重要文化財・魚板(けつ魚)

サント・ドミンゴ教会跡資料館  長崎市勝山町

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サント・ドミンゴ教会跡資料館  長崎市勝山町

長崎代官であった末次平蔵の屋敷跡は、現在、長崎市立桜町小学校が建っている。末次平蔵が屋敷を構える以前は、サント・ドミンゴ教会が建っていたが、慶長19年(1614)の禁教令によって破壊された。
桜町小学校は、平成13年に新興善小学校と勝山小学校が合併し、勝山小学校の敷地に新築された。建替えに伴い、敷地内の発掘調査が行われ、遺構は桜町小学校の敷地内に「サント・ドミンゴ教会跡資料館」として保存され、一般に無料公開されている。

この教会は、長崎代官の村山等安がドミニコ会に寄進した土地に、薩摩を追われたモラーレス神父が、京泊(現在の鹿児島県薩摩川内市)にあった教会を解体して、木材を船で運んで建てたものである。完成してからわずか5年後には、徳川幕府の禁教令により破壊されてしまった。
禁教令が出される以前の、江戸初期の教会遺跡が残っているのは全国でも珍しく、キリスト教の象徴「花十字紋瓦」約80点のほか、多くの遺物が発見されている。

所 在 地■長崎市勝山町30−1(長崎市立桜町小学校内) 
資料館入口は長崎歴史文化博物館通り側にある。
開館時間 ■ 9:00〜17:00
休 館 日■毎週月曜日(祝日の場合は開館)と12/29〜1/3

長崎の古写真考 目録番号:3863 立神ドック(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3863 立神ドック(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3863 立神ドック(1)
目録番号:4729 立神ドック(2)
目録番号:5223 立神ドック(3)   ほか関連作品 同5224(4)、5628(6)、5894(7)あり

■ 確認結果

目録番号:3863「立神ドック(1)」の、超高精細画像による解説は次のとおり。
解説
この写真は、長崎市街地の長崎港を挟んで西岸の立神にある、三菱会社の立神ドックである。写真右側の海の向こうに東山手居留地が遠望できるが、東山手の丘の上にすでに活水学院の明治15年創建のラッセル館が見えている。明治10年代後期の写真である。
目録番号 4729(登録番号93-21)は、ほぼ同じ角度から撮影した写真であるが、施設の整備状況からみて、こちらの写真が5年程経たものである。ドッグハウスが完成し、ドックの周りにはさまざまな施設が整備されている。ドックには修理のための戦艦が入っている。
立神ドックは明治7年(1874)、フランス人技師ワンサン・フロランの指導によって構築され、明治12年(1879)に竣工した。長さ135.7m、幅33.4m、深さ11.6mの本格的なドッグである。明治17年(1884)7月長崎造船局は三菱に払い下げられ民営になった。周囲の環境から、設備も少なく、三菱会社に払い下げられた頃の写真である。

立神ドックを写した同じような構図のこれら古写真6点。年代はそれぞれ違うが、立神バス停から西泊へ向かう立神トンネル手前の山手高台から撮影されている。ここは現在、市「西立神墓地」となっており、墓地の下段部、白石家の墓のあたりからではないだろうか。
現在の三菱長崎造船所立神ドックの変貌ぶりを見てもらいたい。背景の山は右が「彦山」、左は「武功山」から「烽火山」の尾根となろう。巨大クレーンが動かないと、背景の山は良く写らない。

長崎の古写真考 古写真集: 83 戸町の入江  ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 古写真集: 83 戸町の入江  ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

古写真集:  83 戸町の入江
古写真集:  84 小菅と長崎港
目録番号:4238 高鉾島(24)     関連作品 「高鉾島(1)」ほか25点
目録番号:4543 小菅の造船所と長崎港

■ 確認結果

長崎市教育委員会編「長崎市古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の94頁に掲載がある古写真の2点。同146頁による「図版解説」は次のとおり。

83 戸町の入江〔彩色〕               日本カメラ博物館所蔵
長崎港入り口の目印となっていた高鉾島(左下の表題にあるように鎖国期からパッペンベルグと呼ばれていた)は、外国人には殉教地としても知られ、多くの写真が残されている。これは戸町の丘上から遠望したもので、右手の岬が神崎鼻。左手の入江には和船が停泊している。美しい彩色の写真である。明治中期ころの撮影であろうか。横浜開港資料館所蔵の同一作品はファサリ商会の撮影と推定されている。

84 小菅と長崎港〔彩色〕              日本カメラ博物館所蔵
戸町の丘上の墓地から長崎港を遠望したもの。眼下にみえるのが明治元年に完成した小菅修船場(通称ソロバンドック)で、艦船がドック入りしている。茶色に塗られた捲上げ小屋は、現存するわが国最古の煉瓦造建築である。対岸の中央が三菱造船所の立神ドックで、背後の山が稲佐山。電柱が立っていることからして、明治30年代の撮影とみられる。停泊している艦船も5000t以上の大型船がふえていたのがうかがえる。

HPに同じ写真が収録されている。古写真集: 83「戸町の入江」は、目録番号:4238「高鉾島(24)」に、同: 84「小菅と長崎港」は、目録番号:4543「小菅の造船所と長崎港」となっている。
「高鉾島(24)」外に、「高鉾島」の同じ構図の関連作品は、(1)から(42)のうち、実に25点がある。いずれも戸町の丘上から撮影されている。

目録番号:4238「高鉾島(24)」は、前記のファサリ商会の撮影と推定されている同一写真。右下に墓石が写り、戸町墓地から見た景色である。
小ヶ倉バイパスから戸町墓地の上部駐車場へ行く。長崎港入口の同写真は、駐車場から右手でなく、左手へ上がった墓地の高台から撮影されている。この辺りが撮影の名所だったのだろう。
次に、長崎港内と市街地へ視界を移した写真が、目録番号:4543「小菅の造船所と長崎港」となる。日本カメラ博物館所蔵で「長崎古写真集 居留地編」94頁に掲載された2枚の写真は、いずれも戸町墓地の左手高台のほぼ同じ場所から撮影されたと考えられる。

戸町墓地の右手高台を正面へ見る場所。墓地の後ろは、平成19年2月完成した大型マンション「アプローズ長崎南六番館」が建つ。ここは古城「水本城址」であり、「戸町御番所」の境界でもあった。マンション駐車場奥から、わずかに残った山頂へ行かれる。
「五番 従是御番所境内」「九本の内」「従是六番迄之間 弐拾九間半 亥三厘」「天保八丁酉歳四月口之」と4面に刻んだ「五番標石」が残る。寸法は21cm角、高さ90cm。標石が、長崎県史跡に指定されている。
「戸町御番所」の標石は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/5437

長崎の古写真考 目録番号:5242 高島二子島炭鉱前景

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5242 高島二子島炭鉱前景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5242 高島二子島炭鉱前景

■ 確認結果

高島は、長崎港から南西へ約14.5km。伊王島と端島(軍艦島)の中間にある島である。石炭の島として栄え、昭和61年(1986)に閉山した。
目録番号:5242「高島二子島炭鉱前景」は、「二子島」以外、説明が特にない。「二子島」とは、高島本島の南海岸にあった2つの小島である。手前のが「上二子島」、その先のが「下二子島」と呼ばれた。現在、大きな風車の高島風力発電装置が建っている所が「下二子島」である。
本島との間は広い埋め立て地となり、高島ふれあい多目的運動公園もできている。

高島の移り変わりは、高島港ターミナル近くの「石炭資料館」に、地図や古写真が展示されている。双方から判断すると、「下二子〜上二子間の埋め立て工事」は明治41年(1908)頃、完成が大正3年(1914)。高島本島と二子島が連絡道で結ばれたのが、大正9年(1920)となろう。

目録番号:5242「高島二子島炭鉱前景」の古写真は、「上二子島」の頂上あたりから「下二子島」を撮影していると思われる。
下二子〜上二子間の埋め立てが済み、「二子島炭坑」の広い操業場となった年代。右側の沖に浮かぶ2島は、「中ノ島」と「端島」(軍艦島)。左側は野母崎の半島で「権現山」が写る。

「上二子島」の頂上あたりまで、当時は建物がびっちり建っていた。石垣が残る。現在は完全に荒れて、途中の畑地としている所までしか登れない。
ここでは「下二子島」が写せない。やむなく高島本島側の空室がほとんど古い市営アパート8階の階段窓から、同じような景色を写してみた。

長崎の古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

古写真集:  87 高島炭鉱の立坑

古写真集:  88 高島炭鉱の石炭搬送場

■ 確認結果

高島は、長崎港から南西へ約14.5km。伊王島と端島(軍艦島)の中間にある島である。石炭の島として栄え、昭和61年(1986)に閉山した。
目録番号:3232「高島炭鉱石炭船積場」の超高精細画像による解説は次のとおり。
解説
鶏卵紙一枚のもので裏に筆で「五十一長崎高嶋/石炭鉱」「長崎高嶋石炭」、鉛筆で「四百九」と書き込みがある。グラバーが開発した長崎港外の高嶋炭鉱における船着き場の、この写真は有名であり、これまで上野彦馬の撮影とされてきた。しかしこの裏の書き込みは内田九一によるものであり、一連の関連から目録番号3232(整理番号66-11)と同じくこれも明治5年(1872)6月、天皇巡幸に随行した内田九一の撮影と思われる。
人夫が石炭を積んだトロッコを波止場の板の上まで押し、そこに空けられた穴から下の船の船腹に石炭を落としている。船は帆柱を持つ中型の石炭運搬専用のイサバ船で、積み込み中の船名は「榮力丸」と読める。この石炭は長崎港近くの貯炭場に運ばれ、大型船が入港すると「団平船」と呼ばれた小船で大船の腹からバケツリレーの要領よろしく石炭を積み込んだ。左側には鉱山技師と思われる外国人と監督の日本人が眺めている。向いの小島は飛島である。

古写真の向いの三角の小島は、現在「飛島磯釣り公園」となって、遊歩道と釣場、橋で繋がっている「飛島」である。中央奥は、伊王島の下島「沖之島」で、遠見山のピークが見える。
したがってこの古写真は、高島の北海岸にある「南風泊港」を撮影していることは間違いない。「本町」バス停下に、グラバーが高島炭坑開発のため、イギリス人技師モーリスを招き、明治2年(1889)4月、日本最初の蒸気機関による立坑(約43m)を開坑した市指定史跡「北渓井坑跡」が残り、港左方海岸の小島へ行くと松林の中に「グラバー別邸跡」がある。

次の古写真集: 87「高島炭鉱の立坑」と同: 88「高島炭鉱の石炭搬送場」の写真が、当時の上が「南洋井坑」、下が「北渓井坑」の採炭の様子を写していると思われる。その石炭をトロッコで、「北渓井坑」は近くの船積場「南風泊港」に運んでいたのである。
現地の史跡説明板は、このうちの2枚の古写真を使用して設置されている。
長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の96頁に写真があり、147頁の「図版解説」による説明は次のとおり。

87 高島炭鉱の立坑
88 高島炭鉱の石炭搬送場          いずれも日本大学芸術学部所蔵
慶応4年(1868)、T.B.グラバーは領地支配者だった佐賀鍋島藩の長崎出張人松林源蔵と共同経営の協約を結んで、高島炭鉱の新規開発事業に乗り出した。本国から最新式の機器・技術を導入して、深さ70m余におよぶ堅坑道を穿ち、機械化によって大量の良質炭を採掘、運搬することに成功した。すなわちわが国鉱業の最初の近代化をもたらしたわけだが、経営の方はその後、紆余曲折があって明治14年に三菱商会の所有となった。
撮影は上野彦馬。明治中期頃であろうか。