投稿者「misakimichi」のアーカイブ

馬渡島の番所ノ辻にある明治22年建「緯度測定標」  唐津市鎮西町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

馬渡島の番所ノ辻にある明治22年建「緯度測定標」  唐津市鎮西町

HP「三角点の探訪」を制作、近代測量史研究の京都市上西先生から教わり、昨夏の長崎県壱岐島の岳ノ辻にある「緯度測定標」に続き、3月7日に佐賀県馬渡(まだら)島の番所ノ辻にある明治22年建「緯度測定標」を確認に訪ねた。
佐賀県唐津市鎮西町の馬渡島は、呼子港から名護屋港を経由して船で30分。島内の一番高い山が「番所ノ辻」である。整備された車道が山頂まで通じているが、港から交通手段がなく、歩いて約70分を登る。

「番所ノ辻」山頂に展望台と烽火台跡があり、標高237.9mの一等三角点傍らに「緯度測定標」の標石があった。上面に方角の「十」、正面「緯度測定標」、左面「水路部」、右面「明治廿二年六月」と刻む。寸法は、23cm角、高さ40cm。
明治21年(1888年)6月27日、海軍水路部が単なる「水路部」と改称した。それ以降に海図を作るため経緯度の天測を行った測定標と思われる。

長崎県壱岐島の岳ノ辻にある「緯度測定標」は、次項を参照。壱岐のは「明治廿二年二月」建である。 https://misakimichi.com/archives/1267
この中の「全国地図測量史跡」全文紹介にあるとおり、「水路部」の経緯度天測標は、全国でも現存するのは、次のとおりしかない。北海道小樽市(「水路部」「明治二六年一〇月」)にも現存しているらしいが、未調査とある。
①新潟県三島郡出雲崎町岩舟町1592 妙福寺 ②島根県浜田市大辻町235ー3 旧浜田測候所 ③秋田市千秋北の丸2番 秋田和洋女子高校グラウンド敷地内 ④佐賀県唐津市鎮西町馬渡島 ⑤長崎県壱岐市郷ノ浦町永田触(壱岐島・岳ノ辻)

佐賀県馬渡島は、上西先生もまだ訪ねられていない。馬渡島番所ノ辻に残る「緯度測定標」の写真は、同「全国地図測量史跡」中の舘沢省吾氏撮影1枚以外、HPでは見当たらない珍しい写真となるので、詳しく紹介しておきたい。
「馬渡島のホームページ 自然のみどころ」による番所ノ辻の説明は次のとおり。

番所ノ辻

馬渡島での最高峰で、標高は、237.9mです。火山の跡といわれています。幕末の黒船来襲を恐れていた頃は、ここに沿岸防備のために遠見番所を設け、黒船を発見すれば烽火をあげて名護屋の大庄屋に知らせ、名護屋からは唐津城まで早馬を走らせていたと言うことです。この烽火の跡が展望台のすぐ北側に残っています。
また、日露・太平洋戦争の時は壱岐水道の見張所だったそうです。

番所ノ辻からは、360゜の展望がききます。北には約25km隔てて長崎県壱岐が見え、南には約10kmの地点に肥前町向島が見え、東には松島と加唐島が見え、西には長崎県の的山大島が見えます。玄海の原子力発電所も南東の方向にはっきりと見えます。
普段は空気があまり澄んでいないので見えませんが、空気が澄んでいるときは、壱岐の後方に対馬が見えますよ。馬渡島に来られたらぜひとも番所の辻から一望してください。

馬渡島で「ゆうこう」2本を確認  佐賀県唐津市鎮西町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

馬渡島で「ゆうこう」2本を確認  佐賀県唐津市鎮西町

平成21年3年7日、佐賀県唐津市鎮西町の馬渡(まだら)島へ。呼子港から名護屋港を経由して馬渡島までは、船で30分。柚の新種「ゆうこう」分布調査に川上氏が行くので同行した。
平成18年3月川上氏稿「げんこう・とうこう・ゆうこう ■佐賀県馬渡島 〈ゆうこうロマンと謎〉」は、以下のとおり。悠長にそれから3年、やっと彼の馬渡島の現地調査が実現した。
なお、2007年9月27日付西日本新聞夕刊記事「謎のゲンコウ 佐賀・馬渡島固有のかんきつ類 由来キリスト教に関係? 特産化へ試み始動」がHPに出てくるので参照。

川上氏が佐賀県農業試験研究センターから取り寄せた資料によると、馬渡島に5本の「ゆうこう」の木があるはずであったが、今回の調査では場所がよくわからず時間が足りなく、2本しか見つけることができなかった。
いずれもカトリック信者が住む島内の高台「新村」地区。聖母園の園内入口マリア像前と御堂カトリック教会へ行く車道の左脇にあった。2本の「ゆうこう」の木は写真のとおりである。
馬渡島固有のかんきつ類「げんこう」「とうこう」も、「ゆうこう」との比較上、現物を確認したかったが、地元で研究されている大谷肇造さんが不在で所用を達せず、再び実がなる時期に来島する必要がある。「げんこう」が「ゆうこう」に似ているが、少し扁平という地元の話であった。
詳しい研究結果は、川上氏がまとめるであろう。

げんこう・とうこう・ゆうこう ■佐賀県馬渡島 〈ゆうこうロマンと謎〉

佐賀県の隠れキリシタンの島に「ゆうこう」があるというメールが長崎県果樹試験場根角科長から入りました。早速、毎年、純心大学長崎学講座でお世話になっている純心大学の山田先生に佐賀県の隠れキリシタンの島を尋ねたら「馬渡島」ではないかと教えていただきました。
インターネットで見てみると「馬渡島」のホームページがあり、呼子港から40分くらいで行ける島で、教会もあるようです。さらに見ていくと寛永年間、迫害を逃れて長崎県黒埼村から移り住んだという隠れキリシタンがいたとありました。

長崎県でも小が倉、土井首、深堀、三和、野母崎という旧深堀藩の地域と外海の出津を中心としたやはり深堀藩という共通点がありました。深堀藩は佐賀藩の家老でありましたし、馬渡島も佐賀県ですが、この馬渡島が加わると共通点は隠れキリシタンの可能性が高くなるのではないでしょうか。しかし、隠れキリシタンのメッカの樫山地区には「ゆうこう」がありません。現在、小が倉には大山教会、深堀には善長教会がありますし、馬渡島にも教会があるようです。この3箇所には全て「ゆうこう」が存在したのです。

2月24日根角科長と佐賀県農業試験研究センターから2人の技術者が長崎の「ゆうこう」の調査に来られました。馬渡島の「ゆうこう」について試験研究センターの方の話が、又、面白いものでした。平成11年、もともと古事記にある橘という果樹の起源を調査していたところ、馬渡島に「げんこう」、「とうこう」、「ゆうこう」の3種類の柑橘があったそうですが、「とうこう」は現在ないそうです。島では「げんこう」は今も調味料に使っているそうです。しかし「ゆうこう」は野生に存在するのだそうです。
外海の日宇さん宅で「ゆうこう」の皮入りパンなどでお昼をご馳走になりながら、先ほどの話を聞いていたら、日宇さんのお祖父さんの兄弟に馬渡島からお嫁さんが来られたとの偶然に一同驚きました。

馬渡島は元寇襲来の歴史があり、元寇の大将におばあさんが石臼を投げつけたところ敵将が倒れ、元軍も退却したという言い伝えがあるそうです。
私の考えですが、「げんこう」は漢字で「元寇」→「元柑」、「とうこう」は唐から来た柑橘で「唐柑」ともなりそうです。しかし、根角さんの言われるように、「ゆうこう」は「ゆうこう」たい。となるのでしょうか。日宇さんは、ドロ神父は優しい言葉でいろいろな事を表現していたので「友好」ではないかと言っておられました。そうなるとタイトルを漢字で表現すると「元柑」、「唐柑」、「友柑」となるのでしょうか。漢字の表現はともかく、長崎県果樹試験場と佐賀県農業試験研究センターは近く馬渡島へ現地調査に行く予定だそうです。「ゆうこう」のロマンと謎はますます深まっていきます。
(平成18年3月川上氏稿)

馬 渡 島 (2)  唐津市鎮西町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

馬 渡 島 (2)  唐津市鎮西町

佐賀県唐津市鎮西町の馬渡(まだら)島へ。柚の新種「ゆうこう」分布調査の川上氏に同行。番所ノ辻の一等三角点(標高273.9m)傍らにある珍しい標石「緯度測定標」も撮影した。
島の最初の信者は、長崎市外海地方から移住してきた人たちで、ゆうこうは”カトリック関係説”が有力である。信者が住む新村で2本を確認した。これらは別項とする。

呼子港から名護屋港を経由して馬渡島までは、船で30分。島内約10kmのウォーキングコースを一周した。
(2)は、こて絵のある旧家、馬渡漁港、やぎ、交流会館馬渡館、城山展望台、番所ノ辻展望台、同三角点、緯度測定標石、烽火台跡、山頂からの景色、佐賀藩馬放牧場跡の石塁、平戸峰展望所から白岳と長崎鼻海岸、馬渡漁港の奥、防波堤の小学生作品、帰路の馬渡島全景と波戸岬

馬 渡 島 (1)  唐津市鎮西町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

馬 渡 島 (1)  唐津市鎮西町

佐賀県唐津市鎮西町の馬渡(まだら)島へ。柚の新種「ゆうこう」分布調査の川上氏に同行。番所ノ辻の一等三角点(標高273.9m)傍らにある珍しい標石「緯度測定標」も撮影した。
島の最初の信者は、長崎市外海地方から移住してきた人たちで、ゆうこうは”カトリック関係説”が有力である。信者が住む新村で2本を確認した。これらは別項とする。

呼子港から名護屋港を経由して馬渡島までは、船で30分。島内約10kmのウォーキングコースを一周した。
(1)は、名護屋港、呼子大橋、馬渡島入港、島内案内図、海岸の道、聖母園、落ちたゆうこうの実、御堂カトリック教会、庚申塚と地蔵、馬渡小中学校、広場、馬渡神社、花乃井標石、ビクトリーストーン、観音堂

PR中の話題の石「ビクトリーストーン」は、観音堂近く郵正丸船長浦丸宅の玄関下駄箱の上にあったが、できれば港の観光休憩所兼船の待合所に展示されないか。

岩立神社のエノキ  長崎市香焼町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

岩立神社のエノキ  長崎市香焼町

香焼行政センター前バス停から円福寺の参道入口鳥居の方へ行き、石段を登って行くと中段くらいの左方に児童公園があり、奥が岩立神社である。
岩立権現(神社)と称し、延宝2年(1674)頃に建立されたと伝承される神社。従来、村社といわれ、毎年10月17日が大祭で、昔は宮相撲で賑わったそうである。
指定のエノキは神殿の右高台に立つ。境内には外に4〜5本のエノキの大木があった。

円福寺から上丹馬まで上がると、豊前坊社鳥居横にも、旧「町の木」のモデルとなった同じ幹回りのエノキの大木がある。後ろの4枚の写真がそれ。
豊前坊社のエノキは、次項を参照。 https://misakimichi.com/archives/191
双方とも、旧町指定平成8年5月23日、市指定平成17年8月22日だったが、岩立神社のは知らず、紹介もれとなっていた。
長崎市教育委員会「文化財めぐり 香焼地区の文化財」平成19年1月発行による説明は次のとおり。
岩立神社のエノキ (市指定天然記念物)

エノキは、ニレ科の落葉高木です。岩立神社のエノキは、樹齢約200年(推定)で、樹高約20m、幹回り約4mを測り、岩立神社の境内で最も古い木であり、樹勢も旺盛です。
側に香焼村が明治31年(1839)に深堀村から分村したことを記念して大正2年(1913)に建立された記念碑があります。

ド・ロ神父 大平作業所跡  長崎市西出津町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

ド・ロ神父 大平作業所跡  長崎市西出津町

国道202号線から出津教会の上の車道を新屋敷の方へ向い上がる。高い山が変岳でその北尾根の鞍部近くに「ド・ロ神父 大平作業所跡」がある。現地説明板は次のとおり。作業所跡の上手高台、周辺全体を見渡せるところに、説明板は立っている。
ド・ロ神父が馬を繋いだと言われている留金具は写し忘れた。

市指定史跡 ド・ロ神父 大平作業所跡

指定年月日  平成17年1月4日  所在地  長崎市西出津町内平1195番地26
所有者  お告げのマリア修道会
明治12年(1879)外海地区の主任司祭として赴任したド・ロ神父は、地域住民の生活向上のため、出津の変岳(俗称大平)の裏に原野ニ町歩を買い求め、明治17年(1884)から同34年(1901)まで17年間をかけて耕作地を開墾した。この作業所跡も開墾事業に伴って設置されたもので、同34年頃の建築と思われる。
建物は、高さ約4mに及ぶド・ロ壁を用いた石造を主体とし、正面の一部が煉瓦造の堅牢な平屋建築で、桁行約18.5m、梁間約8.9mの4つの部屋を有する主屋に桁行約2.9m、梁間5.5mの下屋を付けた平面を持ち、桟瓦葺の屋根が架っていたと思われる。アーチ状の煉瓦積窓やド・ロ神父が馬を繋いだと言われている留金具が現存している。
大平作業所跡は、周辺に広がる耕作地とともに、ド・ロ神父が実践した農業振興活動を今に伝える遺構として価値が高い。
長崎市教育委員会 (平成18年3月設置)

「海軍水準」の標石が三重県や高知県でも見つかる

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

.
「海軍水準」の標石が三重県や高知県でも見つかる

佐世保市小佐々町の楠泊海岸で、珍しい「海軍水準」の標石を見かけたのは、2008年6月である。正面「海軍水準」、裏面「水路部」、右面「+」、左面「昭和十五年」。下部は埋れて不明。
いきさつは次項を参照。 https://misakimichi.com/archives/960

近代測量史研究の京都市、上西先生へ問い合わせても、初めて見る標石類で研究課題となった。ところで先生は、ちゃんと追跡調査をしてくれていたのである。
上西先生が類似の標石を、三重県伊勢市と四日市市へ出向き見つけ、3月2日付けメールで、標石の現地写真を送ってくれた。内容は次のとおり。

昨年6月にお知らせいただきました佐世保市小佐々の「海軍水準」標石ですが、最近、わたしも類似の標石を三重県で見ました。伊勢市と四日市市です。(写真添付)
基本水準標といわれ+印の横棒が水深などの測量の基準線になります。旧海軍のものを、いまも海上保安庁がつかっている場合があります。僅かですが全国各地にあるようです。

今、「海軍水準」でネット検索をすると、高知県須崎市の港にも、昭和3年「海軍水準」標石があり、海岸保全区域の指定基点として須崎市法令に表われている。(海岸名 須崎港海岸 基点3 須崎市須崎向山2002番地先「昭和3年海軍水準標柱」から120度70メートルの地点)
また、「の〜んびり!かさぶらんかのブログ」の標石写真は、見たような鳥居の景色と思ったら、これは佐世保市小佐々町の楠泊海岸の同じ標石だった。2008年12月23日「天使の梯子」記事の次を参照。 http://myhome.cururu.jp/kasaburannkadaiku/blog/article/81002444148
両方とも最近のもので、昨年6月の検索では出てこなかったようだ。

「海軍水準」の標石はまだ僅かだが、全国各地に残っている可能性がある。当時、旧海軍の測量においてどのような使われ方をしたのか、これからの研究の端緒となれば、幸いに思われる。

湾月石(三日月石)ともう1つの大石  長崎市伊良林1丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

湾月石(三日月石)ともう1つの大石  長崎市伊良林1丁目

長崎市伊良林1丁目の光源寺近くの2つの霊場に、それぞれ大石が祀られている。湾月石(三日月石)は長崎名勝図絵にも紹介されている珍しい石らしい。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006春刊の35、40頁要旨は次のとおり。

光源寺右側の路地に長崎西国第21番霊場があり、堂の横に長さ1mの半月形の凹みがある大石がある。古来「湾月石」の名で神石として祀られ、眼病を患う者が祈れば応えがあると伝えられている。「三日月石」とも言う。
もう1つは、光源寺から若宮通りを歩いて1分先、長崎四国第41番霊場の伊良林観音堂の左側。巨石は幅3m、高さ2m。刻まれた字は経年、読めるのは「安永三甲午天(1774)奉納大無妙典全部塔」とある。大石前に石柱は「弘法大師霊場第六番札所・大正十五年四月」

HP「広助氏の丸山歴史散歩」の2004/07/09記事によると次のとおり。
B−26:灣月石(わんげついし/みかづきいし)【光源寺境内】
灣月石は光源寺の裏手にある巨大な石のことで、真ん中に三日月の形をした傷があります。江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会にも紹介され、現在もそのままの形で残っています。
一方、光源寺山門前のから若宮稲荷神社の方に進むと伊良林観音堂(沿革不詳)がありますが、そのお堂の脇にも大きな石があって、一説には、空の上からお月様が落ちて来てお月様は途中で半分に割れ、一つは光源寺の横に、もう一つは伊良林のところに落ちたといわれています。

光源寺と産女の幽霊  長崎市伊良林1丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

光源寺と産女の幽霊  長崎市伊良林1丁目

寺町通りの禅林寺角から若宮通りへ向かう。緩やかな坂道となって折れ曲がり、光源寺の山門前へ着く。ここが「産女(うぶめ)の幽霊」とか、「飴屋の幽霊」または「飴買い幽霊」で有名な「幽霊坂」である。
光源寺の墓へ埋葬されたばかりの身ごもった女が赤子を生んだ。乳代わりに、夜な夜な女が、麹屋町の飴屋へ飴を買いに行った。不思議に思った飴屋が後をつけると、赤子の泣き声が聞こえ、墓へ中へと消えた。住職が急いで墓を掘り起こすと、女の亡骸に抱かれた赤ん坊が出てきた。実は死人の母親の幽霊だったのだ。
全国に似たような話はある。ガンダーラ石仏にも「死女が子を産む説話」の石像があるそうだ。

光源寺では、毎年1回8月16日に、幽霊像の木像1体と掛軸数幅が公開される。光源寺の話の幽霊像ではない。
木像は、納めてある桐箱に墨書で「延享五歳…」とあり、延享5年(1748)に作られた。作者は不明。由緒書には、常陸国(茨城県)無量寿寺の幽霊であったことが書かれてあり、同寺の伝説を元につくられた幽霊像と見られている。幽霊像を持って、各地を布教していた人が、最後に譲り渡したのが長崎の光源寺らしい。
掛軸は幽霊像を模写したもの。最近は、「古い家を解体したら幽霊の掛軸がでてきた!」といって、光源寺に持ち込まれることもあるそうだ。
幽霊像の木像と掛軸の写真は、「@nifty:デイリーポータル:幽霊を保管している寺(コネタ810)」が詳しいから参照。幽霊像を紹介しないわけにはいかないので、開帳のときの幻想的な写真を、同HPより借用しておきたい。ほんとうはもっと怖いゾゥ!

光源寺の本堂裏の墓地、赤子が掘り出されたといわれる一角に「赤子塚」と、最近建てられた「赤子塚民話の碑」がある。碑文は次のとおり。
南無阿弥陀仏
「十億に十億の母あれど わが母に まさる母あらめやも」 暁烏 敏(はや)
長崎では「飴屋の幽霊」とも「産女の幽霊」とも言われる赤子塚の民話は、全国各地に語り伝えられています。すべて子を思う母の心の美しさ、情の世界を大切に、との思いであります。
ここ光源寺にも江戸時代に作られた名工・藤原清永の作と伝わる、日本でただ一つの幽霊像が現存し、お盆の十六日にご開帳されます。また、長崎独自の民話が生まれています。母なる心を失った今日、このお話を大切に子や孫に継承されることを念じて、この碑を建立いたします。
合掌 平成十四年(二〇〇二年)八月十六日  光源寺第十六世 釋  達也

HP長崎雑記帳「光源寺の産女幽霊のこと」による続き話は、次のとおり。
…この新仏は藤原清永が葬った女であった。清永が上方で修行中に恋仲になった女だが、清永は長崎に呼び戻され親の決めた女と結婚してしまった。それとは知らぬ恋人は清永の子を身篭った身体で長崎まで旅をし、あげくは悲しみで亡くなったのだという。女は死んでから子を生んだ。その子は清永に引き取られ無事成人したという。
後日談がある。赤子が父親に引き取られてから数日後、再び女が飴屋にあらわれ、お礼に願いをかなえるという。このあたりは水に不自由して困っていると話したところ、明日、私の櫛が落ちているところを掘ってごらんといって消えた。半信半疑でそこを掘ると水が湧き出しその後涸れる事のない井戸となったそうだ。幽霊井戸とよばれていたが、今はもう井戸は埋められている。…

「幽霊井戸」の跡は、麹屋町郵便局近く泉屋第2ビルの横にある。中島川の一覧橋から寺町通りへまっすぐ向かう。中通り角にゴルフ用品店の泉屋があり、店の横にあるこのコンクリート片が、井戸にポンプを据え付けていたときの名残りの石だそうだ。盛り塩が供えられ、年1回、光源寺の幽霊開帳前に祀りをされる。

光源寺は、江戸時代初め、柳川藩瀬高下庄にある光源寺の住職、松吟(立花藩十時氏の一族)がキリシタン全盛期に長崎入りし、真宗の布教をした。寛永14年(1637)柳川の光源寺を弟子に譲り、奉行所から土地を与えられ長崎の銀屋町(銀屋町自治会館前)に同名の光源寺を開いた。延宝4年(1676)付近の火災により類焼。伊良林(現地)へ移転、現在に至る。
民話「産女の幽霊」は、飴を買いに行った話。光源寺の開帳のときは、幽霊に飴をお供えする。幽霊像にお参りすると、子を思う母の一念で安産し、飴をいただくと母乳がよく出ると伝えられている。現在、飴は柳川大松下の「アメガタ」を取り寄せ、参拝者へ配られているのは、寺の沿革があるのだろう。

後ろの写真は、本堂裏手にある広大な墓地。「竹ん芸」で有名な若宮稲荷神社一の鳥居との間にある「松田源五郎氏の墓」。天保11年〜明治34年(1840〜1901)行年61才。
明治3年(1870)我国最初の商事会社を創立。明治9年(1876)国立十八銀行ができると頭取となる。また市・県・衆議院議員となり、明治期の長崎経済界の発展に尽くした。
同墓の前の石造橋を確認に行き、かえって幽霊の話となった。(引用資料名は一部省略)
きようは雛祭り。うさぎの人形の写真も。

西教寺裏のアコウ  長崎市為石町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

西教寺裏のアコウ  長崎市為石町

長崎市為石町の海岸通り。市為石地区公民館の先。藤田尾方面へ行く県道34号線登り口左側に見える坂田宅のエノキとその手前のアコウを、巨木ではないが、次により紹介している。
エノキは、採られて枯れたようだ。https://misakimichi.com/archives/492

為石町にアコウは、あと1本、大木があった。市為石地区公民館の今度は裏手の方、「西教寺」がある。寺の裏の左側、コンクリートで固めた斜面崖に大木が見える。大川橋側の墓地から見て、前から気づいていたが、近くに行って見ると、アコウの大木であった。
海岸通りのアコウより大きい。幹囲6m、上幹が伐られて樹高10mほど。不気味な姿で斜面崖に大きく根を張っていた。最後の写真が、海岸通りのアコウ。