光源寺と産女の幽霊  長崎市伊良林1丁目

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光源寺と産女の幽霊  長崎市伊良林1丁目

寺町通りの禅林寺角から若宮通りへ向かう。緩やかな坂道となって折れ曲がり、光源寺の山門前へ着く。ここが「産女(うぶめ)の幽霊」とか、「飴屋の幽霊」または「飴買い幽霊」で有名な「幽霊坂」である。
光源寺の墓へ埋葬されたばかりの身ごもった女が赤子を生んだ。乳代わりに、夜な夜な女が、麹屋町の飴屋へ飴を買いに行った。不思議に思った飴屋が後をつけると、赤子の泣き声が聞こえ、墓へ中へと消えた。住職が急いで墓を掘り起こすと、女の亡骸に抱かれた赤ん坊が出てきた。実は死人の母親の幽霊だったのだ。
全国に似たような話はある。ガンダーラ石仏にも「死女が子を産む説話」の石像があるそうだ。

光源寺では、毎年1回8月16日に、幽霊像の木像1体と掛軸数幅が公開される。光源寺の話の幽霊像ではない。
木像は、納めてある桐箱に墨書で「延享五歳…」とあり、延享5年(1748)に作られた。作者は不明。由緒書には、常陸国(茨城県)無量寿寺の幽霊であったことが書かれてあり、同寺の伝説を元につくられた幽霊像と見られている。幽霊像を持って、各地を布教していた人が、最後に譲り渡したのが長崎の光源寺らしい。
掛軸は幽霊像を模写したもの。最近は、「古い家を解体したら幽霊の掛軸がでてきた!」といって、光源寺に持ち込まれることもあるそうだ。
幽霊像の木像と掛軸の写真は、「@nifty:デイリーポータル:幽霊を保管している寺(コネタ810)」が詳しいから参照。幽霊像を紹介しないわけにはいかないので、開帳のときの幻想的な写真を、同HPより借用しておきたい。ほんとうはもっと怖いゾゥ!

光源寺の本堂裏の墓地、赤子が掘り出されたといわれる一角に「赤子塚」と、最近建てられた「赤子塚民話の碑」がある。碑文は次のとおり。
南無阿弥陀仏
「十億に十億の母あれど わが母に まさる母あらめやも」 暁烏 敏(はや)
長崎では「飴屋の幽霊」とも「産女の幽霊」とも言われる赤子塚の民話は、全国各地に語り伝えられています。すべて子を思う母の心の美しさ、情の世界を大切に、との思いであります。
ここ光源寺にも江戸時代に作られた名工・藤原清永の作と伝わる、日本でただ一つの幽霊像が現存し、お盆の十六日にご開帳されます。また、長崎独自の民話が生まれています。母なる心を失った今日、このお話を大切に子や孫に継承されることを念じて、この碑を建立いたします。
合掌 平成十四年(二〇〇二年)八月十六日  光源寺第十六世 釋  達也

HP長崎雑記帳「光源寺の産女幽霊のこと」による続き話は、次のとおり。
…この新仏は藤原清永が葬った女であった。清永が上方で修行中に恋仲になった女だが、清永は長崎に呼び戻され親の決めた女と結婚してしまった。それとは知らぬ恋人は清永の子を身篭った身体で長崎まで旅をし、あげくは悲しみで亡くなったのだという。女は死んでから子を生んだ。その子は清永に引き取られ無事成人したという。
後日談がある。赤子が父親に引き取られてから数日後、再び女が飴屋にあらわれ、お礼に願いをかなえるという。このあたりは水に不自由して困っていると話したところ、明日、私の櫛が落ちているところを掘ってごらんといって消えた。半信半疑でそこを掘ると水が湧き出しその後涸れる事のない井戸となったそうだ。幽霊井戸とよばれていたが、今はもう井戸は埋められている。…

「幽霊井戸」の跡は、麹屋町郵便局近く泉屋第2ビルの横にある。中島川の一覧橋から寺町通りへまっすぐ向かう。中通り角にゴルフ用品店の泉屋があり、店の横にあるこのコンクリート片が、井戸にポンプを据え付けていたときの名残りの石だそうだ。盛り塩が供えられ、年1回、光源寺の幽霊開帳前に祀りをされる。

光源寺は、江戸時代初め、柳川藩瀬高下庄にある光源寺の住職、松吟(立花藩十時氏の一族)がキリシタン全盛期に長崎入りし、真宗の布教をした。寛永14年(1637)柳川の光源寺を弟子に譲り、奉行所から土地を与えられ長崎の銀屋町(銀屋町自治会館前)に同名の光源寺を開いた。延宝4年(1676)付近の火災により類焼。伊良林(現地)へ移転、現在に至る。
民話「産女の幽霊」は、飴を買いに行った話。光源寺の開帳のときは、幽霊に飴をお供えする。幽霊像にお参りすると、子を思う母の一念で安産し、飴をいただくと母乳がよく出ると伝えられている。現在、飴は柳川大松下の「アメガタ」を取り寄せ、参拝者へ配られているのは、寺の沿革があるのだろう。

後ろの写真は、本堂裏手にある広大な墓地。「竹ん芸」で有名な若宮稲荷神社一の鳥居との間にある「松田源五郎氏の墓」。天保11年〜明治34年(1840〜1901)行年61才。
明治3年(1870)我国最初の商事会社を創立。明治9年(1876)国立十八銀行ができると頭取となる。また市・県・衆議院議員となり、明治期の長崎経済界の発展に尽くした。
同墓の前の石造橋を確認に行き、かえって幽霊の話となった。(引用資料名は一部省略)
きようは雛祭り。うさぎの人形の写真も。