投稿者「misakimichi」のアーカイブ

「ふるさと」の古写真考 P.78 大浦住宅街(元町一帯・昭和63年)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

「ふるさと長崎市」の古写真考 P.78 大浦住宅街(元町一帯・昭和63年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.78 大浦住宅街(元町一帯・昭和63年)
〔写真説明〕
南山手町のグラバー園の上辺りから撮影したもので、正面の山は、かつて正午に大砲をドーン(午砲)と撃ったドンの山、中腹辺りに北大浦小学校がみえる。段々畑状に連なり、頂上にまで迫らんとするこれらの家並は、長崎名物のひとつでもあった。(撮影:松尾○○氏)

■ 確認結果
撮影した場所は「グラバー園の上辺り」だが、正しくはグラバー園スカイロード側、第2ゲートから相生町側へ少し下ったところにある「南山手レストハウス(旧清水邸)」下の遊歩道に小さな「大浦展望公園」がある。ここからの展望なのである。
古写真手前に写る太陽熱温水器を付けた屋根の家が、2軒とも同じ屋根の形で現在もあった。

説明にある「北大浦小学校」は、平成19年4月、南大浦小学校・北大浦小学校・浪平小学校の3校が統合、長崎市東山町の旧北大浦小学校の敷地に「長崎市立大浦小学校」として開校した。2年を経て平成21年4月、上田町の旧南大浦小学校の敷地に新校舎が完成、「長崎市立大浦小学校」は移転している。

「ふるさと」の古写真考 P.65 海星高校(昭和55年)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

「ふるさと長崎市」の古写真考 P.65 海星高校(昭和55年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.65 海星高校(昭和55年)
〔写真説明〕
佐古小学校付近の高台から十人町・海星高校を望む。南国の長崎に珍しく雪に覆われた市街。正面には洋館造りの海星学園の修道院がそびえ立っている。海星高校左手奥には雪をかぶった鍋冠山が見える。中央大屋根は広済寺本堂。その左下には史跡天后堂がある。現在この角度からは海星高校右側に女神大橋の巨大な支柱をみることができる。(撮影:松尾○○氏)

■ 確認結果
「海星学園」は東山手町。高台の大きい方は修道院、左右の方が中学・高校の建物となる。中央大屋根は中新町の「広済寺」。その左下となる唐人屋敷の「天后堂」はこんもりした木立で、古写真では良く確認できない。
佐古小学校そばの見通しの良い高台から撮影されているのは、説明どおり間違いないと思われる。現在、さるく説明板「唐人屋敷景」が設置されている所と、同じ場所からである。
「唐人屋敷景」説明板は次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1606

海星高校右側に「女神大橋」の巨大な支柱が見えるらしいが、ここからは見えないのではないか。おもしろいのは、修道院を裏側から見た風景。相生町地獄坂やグラバースカイロード2階あたりから眺めると、修道院や寺の屋根がほぼ同じ位置に見える。寺は屋根の形が違い、石橋へ下るオランダ坂の方の「誠孝院」なのである。

「ふるさと」の古写真考 P.77 中島川の牡蠣舟(昭和28年)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

「ふるさと長崎市」の古写真考 P.77 中島川の牡蠣舟(昭和28年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.77 中島川の牡蠣舟(昭和28年)
〔写真説明〕
背景の山の形、特に正面の秋葉山の形などから、現在の光永寺の前付近と思われる。かつて中島川には牡蠣舟が繋がれ、酔客に好評で、中島川の名物のひとつでもあった。(提供:長崎市)

■ 確認結果
HP「中島川石橋群 ~石橋歴史コラム~ (長崎中島川グリット/中島川流域委員会ウェブサイト)」の以下の記事を参照。 http://nagasaki.n-grit.com/ishibashi
かき舟の小料理屋については、昭和29年頃、堺屋修一氏が撮影された同じような写真があり、場所は中島川「袋橋」の下流脇にあった。

かき舟の小料理屋の背後に、よく見るとアーチ式石橋が写っている。これが眼鏡橋の1つ下流の橋「袋橋」である。正面の山は秋葉山でなく「武功山」であろう。写真右上に「井上クリーニング」の屋上看板が写っている。同クリーニング店は当時から現在も営業しているのを確認してきた。
最後の写真は、右岸側にある「袋橋」の旧親柱。橋下(2枚目の黄線内)には、昔の船つなぎ用纜石が珍しく残っている。

昔のまんま「袋橋」
昭和57年の長崎大水害にも耐えて現在もその秀麗な姿の袋橋。残された3橋のひとつだが眼鏡橋の存在のかげで少し地味な印象。写真は中通りから晧台寺、へいふり坂へと続く銀屋町の通りを写している。右側に御三家で有名な共楽園がある(現在は少し下流に移転、ビルとなって多くの来店者で賑わっている)。当時の写真はいかにもちゃんぽん屋の王道という感じの佇まい。時を超えてふわっと熱い湯気と香りが伝わってきそう。

かき舟の風景
袋橋の下流脇にかき舟の小料理屋があった。中島川の話題になると、このかき舟の風景を鮮烈に思い出すという人が多くいる。決って「子供やったけん入ったことはなか。」で話しは終ってしまう。この舟で宴を楽しんだ人達はかなりの高齢になられていると思われますが、ぜひお話しを伺いたいものである。左側では釣りをしている。当時は眼鏡橋のひとつ上流の魚市橋まで潮が上がってきていて、ここは汽水域でボラやドンポ(ハゼ類の総称)がよく釣れた。

「ふるさと」の古写真考 P.64 港と炭坑住宅(高島町・昭和58年)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

「ふるさと長崎市」の古写真考 P.64 港と炭坑住宅(高島町・昭和58年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.64 港と炭坑住宅(高島町・昭和58年)
〔写真説明〕
高島町は、長崎半島の西約4.5キロ、面積は1.27平方キロで、炭坑の島として発展した。写真から香焼町や伊王島町、さらに遠く稲佐山や岩屋山など、長崎市の山々も望まれる。(撮影:小池○○氏)

■ 確認結果
高島炭坑は、昭和61年(1986)に閉山。現在の高島港付近を写しているが、実際はニ子島炭坑の埋め立てられ島の姿が残る上子島の高台から撮影されたと思われる。
写真から遠く「稲佐山」や「岩屋山」が望まれると説明しているが、写真のどの山を指すだろうか。確認をしにくいので、以前写しておいた高島の一番高い山「権現山公園展望台」及び香焼島「香焼総合公園展望台」からの長崎の山々の写真を掲げる。
これから判断すると古写真では中央あたり、「沖の島」の右側に写っているピークが「稲佐山」、左側に写っているピークが「岩屋山」となるようである。

最後の写真は、8月23日に高島港近く、岩崎弥太郎の像がある公園から撮影して確認した。

「ふるさと」の古写真考 P.92 船上から見た大浦海岸と居留地(明治20年代)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

「ふるさと長崎市」の古写真考 P.92 船上から見た大浦海岸と居留地(明治20年代)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.92 船上から見た大浦海岸と居留地(明治20年代)
〔写真説明〕
写真は東山手の洋館(活水女学校ラッセル館、十三番館、五番館、十二番館、鎮西学院本部六番館、海星学院、東山学院など)と、大浦町の洋館群を捉えたもので、、右手の橋は下り松橋である。多くの洋館が立ち並ぶ風景は長崎の近代化を象徴するものであろう。左手奥は風頭山である。写真に写っていないが、下り松橋の右手奥には南山手町がある。(提供:鎮西学院)

■ 確認結果    写真説明の疑問は3点。
(1)タイトルは「船上から見た大浦海岸と居留地(明治20年代)」とあるが、当時のカメラと技術で船上から撮影できたか。同じような光景を写した写真は、長崎大学附属図書館所蔵 目録番号:1208「飽の浦からの長崎港(4)」にある。
手前岸辺が写り、これは飽の浦町恵美須神社近くの高台岩場から撮影されている。今では三菱造船所工場が視界をさえぎる。状況は近くの飽の浦カトリック教会下駐車場から写した。
菱重興産駐車場は戦後、木造の三菱社宅が建っていた。昔は洋館があったようだ。
この項は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1589

(2)写真の右手奥は「風頭山」だろうか。一番近くに見える丸尾町岸壁の先で確認した。ホテル矢太楼の建物の右奥は愛宕山、左奥は英彦山である、矢太楼から続く尾根で、英彦山の山腹手前に薄く写っているのが、風頭山山頂となる。
後ろの写真は、船上に代わり水の浦手前の海岸通りから。古写真の位置や高さはこのあたりが合い、実際は三菱造船所の構内から撮影されたのではないか。

(3)明治3年(1870)に木造の「松ヶ枝橋」が完成。松ヶ枝橋は当初、「下り松橋」と呼ばれていて、明治中期に鉄橋に架け替えられ、後に鉄筋コンクリート橋となった。
鉄橋となっているので「松ヶ枝橋」で良いのではないか。
この項は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1539

「ふるさと」の古写真考 P.68 深堀の武家屋敷(昭和38年)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

「ふるさと長崎市」の古写真考 P.68 深堀の武家屋敷(昭和38年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.68 深堀の武家屋敷(昭和38年)
〔写真説明〕
江戸時代、深堀鍋島家(石高5500石)はこの地一帯を支配、佐賀藩の家老職を務めた。写真の屋敷は、同家の三番家老樋口家の屋敷で、深堀の城下町の入口に位置していた。かつてこの一帯は武家屋敷が建ち並び、独特の景観であったが、現在ではこの樋口家と数軒を残すばかりである。(撮影:松尾○○氏)

■ 確認結果
深堀武家屋敷跡。1997年「深堀の石塀」で長崎市都市景観賞受賞。史跡案内坂は長崎市深堀支所入口近くの通りにあるが、三番家老樋口家の屋敷は、長崎市立深堀小学校の正門近くにある。
樋口家は最初の写真のとおり、建て替えられて数十年は経つ。ほかの屋敷も同じで、現在では古い屋敷はどこもなく、石塀と門構えを数軒が残すだけとなっている。現状の適切な説明を願いたい。深堀鍋島家の石高は、ほとんどの資料では6000石となっている。

「ふるさと」の古写真考 P.63 グラバー園(昭和62年)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

「ふるさと長崎市」の古写真考 P.63 グラバー園(昭和62年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.63 グラバー園(昭和62年)
〔写真説明〕
高台からウォーカー邸(写真左の建物)と自由亭(右の建物)を望む。ウォーカー邸は明治の中頃、大浦天主堂の隣に建てられ、イギリス人ロバート・ウォーカー・ジュニアが暮した。この家は西洋風の円形のベランダや、屋根から突き出した日本風の庇など和洋折衷の洋館である。
自由亭は、江戸時代の終わり頃出島のオランダ人のもとで修行したという草野丈吉により、日本で初めて開かれた西洋料理のレストラン。自由亭廃業の後、検事正官舎として使われていたが、昭和49年グラバー園に移築復元された。(撮影:松尾○○氏)

■ 確認結果
高台とは「長崎グラバー園」の上の山、鍋冠山(標高169.2m)山頂展望台からグラバー園内をズーム撮影している。
写真左の建物は「旧ウォーカー邸」だが、右の建物は「旧自由亭」でなく、建物案内図のとおり、遊歩道対面にある「旧長崎地方裁判所長官舎」なのである。
鍋冠山から撮影しているので、拡大写真で言うと「旧ウォーカー邸」の左上(実際は下の方)木立の中に、白い煙突の先端部分が写っているのが「旧自由亭」となる。

グラバー園公式HPによる「旧長崎地方裁判所長官舎」の説明は次のとおり。
明治16年頃、長崎市の上(うわ)町に建てられた長崎地方裁判所の官舎。官舎が洋式建築を取り入れているのはとても興味深く、当時、西洋の家が近代化の象徴だったことを伺わせます。内部は日本人の設計によるもので、暖炉はなく、板張りの洋間と畳敷きの居間があります。原爆で数多くの建物が失われたにもかかわらず、居留地の外側に建てられた洋風の官庁建築として唯一残る貴重なものです。
現在「レトロ写真館」として、レトロファッションで記念撮影ができます。

「ふるさと」の古写真考 P.86 ネズミ島と神ノ島海岸(神ノ島1丁目・明治20年代)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

「ふるさと長崎市」の古写真考 P.86 ネズミ島と神ノ島海岸(神ノ島1丁目・明治20年代)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.86 ネズミ島と神ノ島海岸(神ノ島1丁目・明治20年代)
〔写真説明〕
写真中央がかつて海水浴場として知られたネズミ島である。皇后島とも言い神功皇后伝説にちなむ島である。左手は小瀬戸側であるが、現在は島との間が埋め立てられて工業地帯と化している。写真右手は魚見岳でその裾には魚見岳台場跡が、左手の山裾には神崎台場跡が存在し、かつて異国船の警護にあたっていた。(提供:鎮西学院)

■ 確認結果
長崎港口のネズミ島(皇后島)を写した古写真だが、神ノ島海岸から撮影されたものではない。現地へ出かけて確認するとすぐわかる。神ノ島1丁目の神ノ島桟橋及び神ノ島教会のマリア像海岸岩場から写した現在の写真と比べてもらいたい。
山の形は違うし、説明した場所の位置があわない。

古写真は、神ノ島海岸の前面の島「高鉾島」から撮影されたと思われる。無人島で簡単に渡れない。平成18年12月にある調査があり、釣り船を仕立てて高鉾島へ行った。
「高鉾島の正体不明な台座石」を参照。 https://misakimichi.com/archives/140
その際、写しておいた状況写真があった。古写真は高鉾島の海岸砂浜から黄線の範囲を写しているようだ。高鉾島は殉教の島。ネズミ島とともに外国人の遊歩場となったのでないか。

古写真の右手は、「魚見岳」の裾ではなく「天門峰」の裾。「神崎台場」は長崎港口の「魚見岳台場」の対岸にあった。天門峰の南端となるので2つの台場跡とも写ることはない。女神大橋はこの港口に架かった。
ネズミ島の左手は、小瀬戸の集落と上は小瀬戸遠見番所があった山で、現在はみなと坂団地ができている。ネズミ島の奥に写っている山は、右側から障子岩山(西泊ヶ丘)・西泊中の鞍部・帆掛山と思われる。

マリア像海岸岩場へ再び行くと、高鉾島へ突き出た防波堤があった。先端から大きく写したのが後ろの2枚。中央の鞍部にある白い建物の長崎市立西泊中学校が確認できるであろう。 

海岸の鳥居? 川原と戸石の鳥居  長崎市宮崎町・戸石町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

海岸の鳥居? 川原と戸石の鳥居  長崎市宮崎町・戸石町

海面に立つ鳥居は優雅で、広島の宮島神社は有名である。長崎県内では、対馬市豊玉町仁位の「和多都美神社」で見た(写真1〜2)。

長崎市内では見かけないが、海際すぐ近くの岸辺に立つ大鳥居は2つある。
川原海水浴場の手前に立つ「池の神神社」の鳥居(写真3〜4)と、戸石漁港に立つ「戸石神社」の鳥居(写真5〜6)。

ねずみ男石? 新鮮食彩 「市むら」の門石  長崎市かき道1丁目

イメージ 1

イメージ 2

ねずみ男石? 新鮮食彩「市むら」の門石  長崎市かき道1丁目

新鮮食彩「市むら」は、八郎川の河口、かき道橋のそばにある和食専門店。橘湾で育てた虎ふぐをはじめ、戸石港に水揚げされる新鮮な魚や、地場産の旬野菜の料理を食べられる。
かき道橋交差点から矢上団地へ上がる坂のカーブのところに、「市むら」の出入口がある。門石に大きな石が両脇にあった。特に右側は茶色の大きな石を立てている。

このあたりは八郎川の河口埋立地で、昔からここにあった石かと聞いてみたら、13年ほど前「市むら」開店の際、門石とするためどこかから運んできた石らしい。とりあえず写しておいた。
写真を見ると、これも「ねずみ男」でないか。活水坂の「ねずみ男の木」を載せていたので、この石も紹介しておく。