「ふるさと」の古写真考 P.92 船上から見た大浦海岸と居留地(明治20年代)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.92 船上から見た大浦海岸と居留地(明治20年代)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.92 船上から見た大浦海岸と居留地(明治20年代)
〔写真説明〕
写真は東山手の洋館(活水女学校ラッセル館、十三番館、五番館、十二番館、鎮西学院本部六番館、海星学院、東山学院など)と、大浦町の洋館群を捉えたもので、、右手の橋は下り松橋である。多くの洋館が立ち並ぶ風景は長崎の近代化を象徴するものであろう。左手奥は風頭山である。写真に写っていないが、下り松橋の右手奥には南山手町がある。(提供:鎮西学院)

■ 確認結果    写真説明の疑問は3点。
(1)タイトルは「船上から見た大浦海岸と居留地(明治20年代)」とあるが、当時のカメラと技術で船上から撮影できたか。同じような光景を写した写真は、長崎大学附属図書館所蔵 目録番号:1208「飽の浦からの長崎港(4)」にある。
手前岸辺が写り、これは飽の浦町恵美須神社近くの高台岩場から撮影されている。今では三菱造船所工場が視界をさえぎる。状況は近くの飽の浦カトリック教会下駐車場から写した。
菱重興産駐車場は戦後、木造の三菱社宅が建っていた。昔は洋館があったようだ。
この項は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1589

(2)写真の右手奥は「風頭山」だろうか。一番近くに見える丸尾町岸壁の先で確認した。ホテル矢太楼の建物の右奥は愛宕山、左奥は英彦山である、矢太楼から続く尾根で、英彦山の山腹手前に薄く写っているのが、風頭山山頂となる。
後ろの写真は、船上に代わり水の浦手前の海岸通りから。古写真の位置や高さはこのあたりが合い、実際は三菱造船所の構内から撮影されたのではないか。

(3)明治3年(1870)に木造の「松ヶ枝橋」が完成。松ヶ枝橋は当初、「下り松橋」と呼ばれていて、明治中期に鉄橋に架け替えられ、後に鉄筋コンクリート橋となった。
鉄橋となっているので「松ヶ枝橋」で良いのではないか。
この項は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1539