投稿者「misakimichi」のアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:6772 猿橋(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6772 猿橋(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6772 猿橋(2)

目録番号:4279 猿橋
〔画像解説〕
山梨県大月市猿橋町に所在する桂川に架けられた猿橋である。猿橋は「木曽の桟(かけはし)」「周防の錦帯橋」とともに日本三奇橋と呼ばれ、昭和7年(1932)に国名勝に指定された。猿橋は橋脚を用いない「ひじ木けた式橋」である。写真は桂川の上流部から猿橋を望み撮影されたものであり、橋の上に多数の人物が写っているが、撮影時期等は不明である。

■ 確認結果

目録番号:6772「猿橋(2)」は、次の目録番号:4279「猿橋」と同じ写真である。〔撮影者:A.ファサリ〕であろう。
HP「広重再考」から安藤広重作 「甲陽猿橋の図」と現在の「猿橋」(猿橋-水路-国道20号)。

(2016年2月10日 追 記)
「猿橋」の現在の写真を末尾に2枚追加。ギャメロンさんのブログぶら〜り日記から。

長崎外の古写真考 目録番号: 413 頭で荷物を運ぶ女たち(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 413 頭で荷物を運ぶ女たち(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 413 頭で荷物を運ぶ女たち(1)
〔画像解説〕
解説はないが、京都の大原女と思われる。街道を行く娘たちは着物の裾をたくし上げ、手甲、脚絆をつけ、首に手拭いを巻き、頭に手拭いでほっかむりをしている。前掛けをしている女性もいる。頭上の荷物は風呂敷包みである。

目録番号:4401 頭で荷物を運ぶ女たち(2)   (同写真 掲載略。撮影者:小川一真か)
〔画像解説〕
大原女姿の五人の女性が頭を手ぬぐいで覆い、その上に荷物を載せ、街道を歩いている。脚絆を巻き、草鞋姿で、腰帯の結び方から見て、かなりの距離を歩く様子のように見える。

目録番号:1892 頭に荷を乗せて運ぶ人びと
〔画像解説〕
どてら風の服に手拭いを垂らし、草鞋履きの男たちが頭に荷物をのせて一列にならんで歩いている。珍しい光景のため、撮影したのだろうか。

■ 確認結果

目録番号: 413「頭で荷物を運ぶ女たち(1)」と、目録番号:4401「頭で荷物を運ぶ女たち(2)」(同写真 掲載略)は、京都の大原女の風景であろう。
ポケットブックス | アンティーク絵葉書専門店 京都府商品一覧に「34042京都 彩色 大原美人」、キャプションに「KYOTO」とある。

後の目録番号:1892「頭に荷を乗せて運ぶ人びと」も、〔撮影者:小川一真〕であり、同じ京都の大原の風景と思われる。

長崎の古写真考 目録番号:な し 長崎彩色寺社名不明作品

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 長崎彩色寺社名不明作品

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 長崎彩色寺社名不明作品

目録番号:1291 大音寺本堂(1)
〔画像解説〕 超高精細データベース
F.ベアトの撮影。大音寺は、本博多町にあったキリスト教の施設ミゼリコルディアが元和6年
(1620)に破却された跡地に、僧伝誉が創立したという浄土宗の寺院で、現在地へは寛永15年
(1638)に移転したと伝えられる。幕末期には堂塔の頽廃が著しかったので大修繕が施され、元治元年(1864)に竣工したというが、本堂は天保3年(1832)に改築されたばかりであったから、大修繕には及ばなかったかと推察される。がともあれ、撮影されたのはその竣工後、間もない時期であろう。本堂の形式は、間口11間半に奥行き10間の平面に入母屋造りの屋根を架け、正面に中央唐破風の屋根装飾がある向拝を付している。但し、昭和戦前期の写真では、向拝は唐破風がない形式となっているので、これは大正年間の大修繕時に変更されたのであろう。戦後、火災に遇ったため、昭和37年3月に鉄筋コンクリートによる再建が成就した。いずれも規模は不変で、堂前の蘇鉄は今も健在である。

目録番号:5359 大音寺中門(3)
〔画像解説〕 超高精細データベース
上野彦馬の撮影。大音寺は、本博多町にあったキリスト教の施設ミゼリコルディアが元和6年
(1620)に破却された跡地に、僧伝誉が創立したという浄土宗の寺院で、現在地へは寛永15年
(1638)に移転したと伝えられる。幕末期には堂塔の頽廃が著しかったので大修繕が施され、元治元年(1864)に竣工したという。右手の重層、入母屋造、楼門形式の建物が中門で、脇の築地塀、前後の石段ともども現存する。左手のアーチ型の石門は、その背後にみえる安永9年(1780)に完成した開山・伝誉上人碑への入り口で、門塀も同時期の建設とみられる。中門の左上は文化9年(1812)に再建された鐘楼で、その右手には本堂の屋根も覗いている。鐘楼の右脇の大木は、昭和50年に市の天然記念物に指定された「大音寺のクロガネモチ」である。本堂が戦後に鉄筋コンクリート造に建て替えられたり、画面に写る石灯籠が一部失われたりしているが、全体の景観は今もよく残されている。

■ 確認結果

ポケットブックス | アンティーク絵葉書専門店 長崎県商品一覧にある「長崎彩色寺社名不明」の作品。
次のデータベース目録番号:1291「大音寺本堂(1)」と、目録番号:5359「大音寺中門(3)」のとおり、長崎市鍛冶屋町にある浄土宗の「正覚山大音寺」であろう。

中央唐破風の屋根装飾がある向拝、ソテツ、鐘楼、クロガネモチ、石灯籠など比較。明治時代?の貴重な古写真。長崎大学附属図書館が購入してほしい。
鐘楼は、同じ写真がHP「長崎古えはがき」の「DAIONJI」に掲載されている。

長崎の古写真考 目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
撮影者不詳。大型アルバムに貼り付けられたモノクロ1枚もので、黒ペンによりNagasaki-Posteset telegraphe sur le ‘Bund’,on quai,→Collined’Oura(「バンド」(波止場)における電報電話局、大浦の丘)とフランス語のキャプションがある。これは出島の外海岸から梅香崎の洋館群を撮影したものである。4棟右端は梅香崎1番の長崎郵便電信局(明治19年<1886>に本博多町から移転)であるから、撮影は移転直後の明治20年(1887)頃であろう。以下順に2番デンマークの大北電信長崎局(わが国国際通信の草分け)、3番の日本郵船長崎支店(明治18年<1885>開設)、4番アーレン商会(後の明治36年<1903>に横浜正金銀行が大浦8番から移転)。その左は明治2年(1869)架設の梅香崎橋。その左手の白い建物は梅香崎5番。右端は明治10年(1877)の台風被害から再築された長崎税関の庁舎と倉庫。丘の上には十人町の日本人家屋が立ち並んでいる。

■ 確認結果

目録番号:4864「長崎梅香崎洋館群(1)」の撮影場所は、「これは出島の外海岸から梅香崎の洋館群を撮影したものである」としているが、「古地図から検索」画面のとおり、出島の東側海岸通りから対岸の梅香崎居留地(右から左へ1番〜4番)と梅香崎橋を望んで撮影している。
現在の長崎市民病院あたりとなるだろう。

長崎外の古写真考 目録番号:1836 グランドホテル(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1836 グランドホテル(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1836 グランドホテル(3)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
海から海岸通りの東端を望む。中央の石壁の建物はグランドホテル旧館(居留地20番)。このホテルは写真家ベアト(Beato,Felice)ら数人が共同で所有する建物をグリーン夫人(Green,Mrs. M.E.)が賃借し、明治3年(1870)夏にオープンしたもので、6年にアメリカ人建築家ブリジェンス(Bridgens,Richard P.)の設計で改築されたのがこの建物である。22年(1889)に株式会社組織となり、翌年フランス人建築家サルダ(Sarda,Paul)の設計によって、隣接の18・19番に増築されたのが、写真の右手に写っている新館である。堀川の河口を挟んだ対岸、国旗用のポールの立っているのがイギリス海軍物置所、その向こうの桟橋をもつ敷地は太平洋郵船会社(Pacific Mail Steam Ship Company)の貯炭所である。グランド・ホテルは明治3年(1870)の創業、横浜を代表するホテルに成長するが、関東大震災で倒壊した。日下部金兵衛のカタログ番号505番の写真。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
バンド東端と山手方面を望む。グランドホテルは明治6年(1873)8月新装開業の旧館と18・19番の新館からなる。この建物は、フランス人居留地建築家サルダの設計になり、明治20年(1887)に落成した。

目録番号:4369 グランドホテル(7)
〔画像解説〕
バンド東端と山手方面を望む。18〜20番のグランド・ホテル新館・旧館から堀川を隔ててその奥にみえるのはイギリス海軍の物置所。のちに海軍病院の庭園になる。手前の人物が立っているのは、フランス波止場。

■ 確認結果

目録番号:1836「グランドホテル(3)」の、超高精細画像データベースの画像解説では、「海から海岸通りの東端を望む」と説明しているが、次の目録番号:4369「グランドホテル(7)」のとおり、突堤の「フランス波止場から」撮影している。

長崎の古写真考 目録番号:1694 飽の浦恵美須神社(3)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1694 飽の浦恵美須神社(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1694 飽の浦恵美須神社(3)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
この写真は、英文で「長崎稲佐の景色」と題されている。飽ノ浦神社(恵美須神社)の境内越しに長崎港を遠望している。同じ写真が上野彦馬のアルバム(66-21)にも収蔵されている。明治初期の撮影と思われる。この写真は、日下部金兵衛写真アルバムに収められている写真である。写真の対象は、恵美須神社の境内とその前に和船が係留されている。写真左側に飽ノ浦の集落とその先に岬がある。対岸は長崎市街中心部の海岸線である。左側の山は金比羅山・立山である。その山裾が筑後町の寺院群であり、山裾の先端付近に諏訪神社がある。海岸線は長崎市街中心部の沿岸部の全域が撮影されている。写真左、岬の先の対岸は西坂付近で、左端が梅香崎付近である。神社の向こうの和船の先に、黒い一艘の船が見えるが、その付近が出島である。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
この写真は英文で「長崎、稲佐の景色」と題されている。飽の浦神社(恵美須神社)の境内ごしに長崎港の風景を遠望している。同じ作品が上野彦馬のアルバムにも収蔵されている。明治初年の撮影と思われる。

■ 確認結果

目録番号:1694「飽の浦恵美須神社(3)」の、超高精細画像データベースは〔撮影者:日下部金兵衛〕となっているが、メタデータ・データベースのとおり〔撮影者:内田九一〕である。明治5年
(1872)、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の1枚。

画像解説中「写真左側に飽ノ浦の集落とその先に岬がある。…写真左、岬の先の対岸は西坂付近で、左端が梅香崎付近である」は、「写真の神社左右が飽ノ浦の集落、左奥に水ノ浦、その先に大鳥崎、稲佐崎の岬がある。…写真左、稲佐崎の対岸は西坂付近である」となろう。
パノラマ写真の2枚目ならわかるが、「出島」や「梅香崎」は、この写真のまだ右外で写っていない。

この項は次の記事を参照。現在の写真は、恵美須神社の場所と背景の山並みがわかりやすいパノラマ写真を掲げた。
https://misakimichi.com/archives/1589
https://misakimichi.com/archives/1588

長崎の古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
鍋冠山から大浦居留地、出島から長崎湾奥方向の北部をみた鳥瞰写真である。左下の大浦川に、慶応元年(1865)6月に架設された弁天橋がすでにあるが、明治2年(1869)2月に出島から築町、築町から新地にかけて、出島新橋、新大橋がまだ架かっていない。このことから、この写真の撮影時期は、慶応元年(1865)から明治元年(1868)の間である。この写真の特徴は、大浦外国人居留地、出島、長崎市街地の北部、対岸の飽の浦から稲佐地区、さらに長崎湾奥の浦上新田、これらの長崎湾の地形全体が撮影されていることである。大浦居留地は万延元年(1860)に埋め立てられたが、それ以外の地域は、ほぼ江戸時代のままの姿であるために、浦上新田が干拓された享保15年(1730)頃まで遡り、江戸時代中期の長崎の地形が現実感を持って見ることのできる写真である。鮮明な写真であるために、大浦外国人居留地や出島全域を拡大して見ることができる。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
右手に見える出島の右側に明治元年に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応年間。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。

■ 確認結果

目録番号:1288「鍋冠山からの長崎港」の、撮影場所は「鍋冠山」でなく、まだ東方の「星取山」からが正しい。「ドンの山」としている別作品の目録番号:4878「ドン山(から)見た大浦居留地・出島」(掲載略)もある。
現在の写真は、2枚目が「星取山」(山頂は木立となって、古写真どおり確認できない。少し中腹の港ヶ丘パーク墓苑上から写した)、3枚目が「鍋冠山」からである。
大浦川河口と市街地がこのような位置に写るのは、「星取山」からである。

以前から何度となく指摘しているのに、データベースは今となっても撮影場所が、「星取山」からに修正されない。困っているのは利用者や古写真集の出版社である。
最近でも間違った画像解説の写真の提供を受け、そのまま掲載している。長崎大学側は、このような事情がわからないのだろうか。現地確認のうえ、早急に修正すべきである。

4枚目のパンフレットは、2009年4月発行された「長崎さるく幕末編」目次頁。豪華なパンフレット公式資料なのに、左下に堂々と「鍋冠山から望む長崎港(慶応年間)」と説明している。
5枚目の本は、山川出版社が最近、2011年4月25日発行したばかりの古写真集「レンズが撮らえた 幕末の日本」。202頁に掲載された写真は、「鍋冠山からの長崎港」と解説している。

この項は次の記事を参照。いっこうに修正されないので、この作品をあえてまた再掲した。
https://misakimichi.com/archives/1877
https://misakimichi.com/archives/1598
https://misakimichi.com/archives/2736

長崎外の古写真考 目録番号: 924 神奈川七軒町の神風楼(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 924 神奈川七軒町の神風楼(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 924 神奈川七軒町の神風楼(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
規模の大きさで有名だった妓楼である。この写真はそれを海から撮影したもので、中央が洋館、その左に日本家屋の一部が見えている。左端が名物の三層楼であろう。日本家屋は建坪1,200坪、洋館は400坪あった。明治17年(1884)高島町遊廓から移転し、洋館を外国人用、日本家屋を日本人用として妓楼経営を行っていた。高島町時代から「ナンバーナイン」の通称で知られるようになったらしい。自家発電所をもち、電飾でも名高かったが、明治29年(1996)には周囲への供給権を得て神奈川電灯会社となった。同時に永楽町にも妓楼を設けていたが、明治33年(1900)に営業を永楽町に一本化した。洋館は養生院(病院)、横浜ホテル、神脳院(精神病院)などとして利用され、日本家屋には神風閣という料亭ができたりしたが、明治44年(1911)に火災で焼失した。その際、ウィルビーというイギリス人貴族を含む2名の患者が犠牲となっている。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
写真タイトルはKANAGAWAとある。神奈川新風楼の外国人用西洋館、遊女屋である。

目録番号:1844 神奈川七軒町の神風楼(2)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
七軒町にあった妓楼を海から撮影したもの。右手の日本家屋は日本人用、中央の洋館は外国人用である。総建坪1,600坪という規模の広大と自家発電による照明で知られた。右端の日本家屋の向こうにかすかに発電所の煙突が見えている。明治17年(1884)高島町遊廓から移転、同時に永楽町にも妓楼を設けたが、明治33年(1900)遊廓の反町移転を機に廃業し、営業を永楽町に一本化した。跡地の洋館は養生院(病院)、横浜ホテル、神脳院(精神病院)などとして、また日本家屋は神奈川病院、神風閣(料亭)などとして利用されたが、明治44年(1911)に火災で焼失した。洋館の左手に白い橋桁の見えているのが碧海橋で、その左手、和船の着岸しているのは、大手の酒問屋結城屋である。日下部金兵衛のカタログ番号585番の写真。

■ 確認結果

目録番号: 924「神奈川七軒町の神風楼(1)」の、超高精細画像データベースは「この写真はそれを海から撮影したもの」と画像解説しているが、次の目録番号:1844「神奈川七軒町の神風楼(2)」のとおり、船着場の対岸か、白い手すりのある橋のたもとから撮影している。

一方、目録番号:1844「神奈川七軒町の神風楼(2)」も、「七軒町にあった妓楼を海から撮影したもの」と画像解説しているので、調査中。
七軒町は、現在の横浜市神奈川区台町となっている。参考となる比較古写真や明治横浜地図が見当たらないため、地元で検証をお願いしたい。

メタデータ・データベースのタイトルは、1枚目が「神奈川の洋館」、2枚目が「神奈川の市街地(1)」となって、超高精細画像データベースと一致していない。
なお、妓楼名を「新風楼」とした目録番号もある。「新風楼」は誤りで、正しくは「神風楼」であろう。歌川国松の明治8年(1875)「横浜高嶋町神風楼之図」がある。

長崎外の古写真考 目録番号: 769 横浜の運河と山手

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 769 横浜の運河と山手

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 769 横浜の運河と山手
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
堀川は万延元年(1860)に開削され、外国人居留地と日本人市街の境界とされた。明治初期に護岸が整備されるが、この写真では地肌が露わで、河岸も整備されておらず、ボートは木の杭に吊されている。外国人居留地と定められた地域から立ち退きを迫られた横浜村住民は、丘の麓と堀川の間の細長い地域に移住し、元町が形成された。堀川の左側がその家並みである。堀川には海側から谷戸橋・前田橋・西の橋の三つの橋が架けられ、橋のたもとには関門番所が置かれて、外国人居留地への人の出入りが厳しくチェックされた。そのため、外国人居留地を含む開港場の中心部は「関内」と呼ばれた。この写真は谷戸橋からの撮影であろう。画面中央右よりの橋が前田橋。橋の左手、木柵で囲まれているのが関門番所である。橋の右手の大きな建物はキャメロン&クックの造船所で、ヨットを製造していた。もう一つ向こうの橋が西の橋である。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
ベアトによる1865年9月7日の書き込み。横浜居留地東端橋から堀川(運河)上流を望む。左の家並みは元(本)村、橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている。右手奥に見えるのはキャメロン&クックの小造船所である。

目録番号:6208 横浜の運河と山手(2) 後日、同じ写真が登載されている。

■ 確認結果

目録番号: 769「横浜の運河と山手」は、超高精細画像データベースては、〔撮影者:未詳〕。メタデータ・データベースでは、〔撮影者:F.ベアト〕と変っているのに修正されていない。タイトルも「横浜の運河と山手(1)」となろう。

こんな例は多数の作品に見られるから、調整が必要。メタデータ・データベースの「橋は谷戸橋、前田橋。西ノ橋もかすかに見えている」は解説間違い。谷戸橋から撮影?しているらしいので、「谷戸橋」は写っていない。

この写真は、横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊の26頁に掲載されている。同解説は次のとおり。
22.堀川と元町
堀川の右手が外国人居留地、左手は元町。中央右手の橋は前田橋、その右手の大きな建物はキャメロン&クックの造船所。遠方に西ノ橋が見えている。(C)

長崎の古写真考 目録番号:な し ベアト撮影「墓地」

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し ベアト撮影「墓地」

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し ベアト撮影「墓地」

目録番号:1289 中島川一の瀬橋(1)
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
橋の上には、刀を腰にさした男性と3名の女性、子供が写った蛍茶屋と一の瀬橋の風景を幕末の報道写真家F.ベアトが元治元年(1864)に来崎の折り撮影した写真である。この辺りを一の瀬といい、蛍の名所で、「一瀬晴嵐」として崎陽八景の名勝に数えられている。蛍茶屋は、長崎を訪れる人々が最初に市街地に入る地であり、また、長崎を旅立つ人々が別れを惜しんだ場所である。一の瀬橋は、本河内町と蛍茶屋間の長さ9.5m、巾4.9mの石造半円の石橋である。承応2年(1653)、中国浙江省の出身で唐通事陳道隆(日本名:頴川藤左衛門)が私財を投じ、4番目の石橋として架設した。長崎は幕末に至るまで、西洋文化の窓口であり、学問の中心地であった。長崎街道一の難所日見峠を越え学問を志す人々が通った橋である。坂本龍馬は「船中八策」に維新改革の綱領を打ち出し、高杉晋作は「上海日記」でアジア植民地化の実情を伝えた。

■ 確認結果

横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊の161頁に、「224.墓地」が掲載されている。撮影場所未詳か、タイトル以外、説明はない。
長崎大学データベースには見当たらない作品。

これは長崎の墓地であろう。長崎街道ここに始まる長崎市蛍茶屋。アーチ式石橋「一瀬橋」が残る一の瀬口手前左上の「光雲寺墓地」内(寺は出来大工町)。
左に写る「南妙法蓮華経」の大きな同じ石碑が現存する。文政七年(1824)眞龍院日琮聖人の建立。右面に「天下泰平国土安穏…」と刻む。右上奥は特徴のある「豊前坊」の山。

長崎大学データベースには、目録番号:1289「中島川一の瀬橋」がある。「橋の上には、刀を腰にさした男性と3名の女性、子供が写った蛍茶屋と一の瀬橋の風景を幕末の報道写真家F.ベアトが元治元年(1864)に来崎の折り撮影した写真である」と超高精細画像は解説している。
この墓地の写真も、同じ時に撮影したことが考えられる。墓地右下に立つ男性?が、一の瀬橋上の人物と白い着物で似ている。