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長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 227P 医学伝習所址

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 227P 医学伝習所址

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部 「写真の開祖 上野彦馬」

227P — 医学伝習所址 文久元年(1861)8月養生所・医学所として、小島に開院した。
260P — 長崎市万才町・医学伝習所跡

■ 確認結果

「写真の開祖 上野彦馬」の、第2部解説編にある2枚の同じ小写真。「医学伝習所址」碑は、長崎奉行所西役所の地、万才町に設置されており、260Pの解説が正しい。
同碑は、現在、農林中央金庫設置「旧外浦町由来」に変わり、文中に医学伝習所があったと記している。
「改定郷土史事典42 長崎県」(石田 保著/昌平社発行)による説明は、次のとおり。

医学伝習所

安政(1857)4年8月、海軍伝習所の医官としてポンペが渡来した。幕医松本良順の二人を中心に医学の伝習所が形づくられていった。翌9月、長崎奉行所西役所の一室でポンペは医学の講義を始める。
聴講者は良順ら14名であった。翌日からポンペが作った講義時間表によって講義が進められ、物理学、化学、包帯学、解剖学、組織学、生理学、治療学、調剤学、内科学、外科学、眼科学の順で、時間があれば、法医学、医事法制、産科学をすることにしていた。
西役所の一室では狭くなったので、安政4年11月、大村町の高島秋帆邸内の一棟を借りて医学伝習所をそこへ移した。
同5年5月、中国経由で入国した米軍艦ミシシッピ号の船員にコレラ患者が発生した。この船は下田沖で吉田松陰らが密航しようとして乗りつけた船であるが、コレラは長崎から日本の西半分の地域に蔓延することになった。
ポンペは学生たちと共に日夜治療に当たり、奉行所を動かし、予防法を通達させた。 10月にいたりようやくコレラは衰えたが、江戸では数万の死者を出した。コレラ流行を機に、ポンペは医学伝習所の設立を幕府へ要請した。
安政6年8月、ポンペは死刑囚の死体解剖を実施した。これは奉行所の強硬な交渉によって許可されたもので、実習は西坂刑場で行われた。46名の学生が参加、うち女性1人、シーボルトの娘イネであった。この解剖は3日間、早朝から夕暮までかかった。
幕府がポンペの要請によって病院の設立を認めたのは安政6年のことであった。名称は「養生所」とし、場所は小島郷(長崎市西小島町)に決まった。
文久元(1861)年7月、小島養生所は完成した。病棟2棟(各8室)、隔離患者室、手術室、薬品機械類備付室、料理室、浴室、運動室などがあった。
ポンペは、後任のボードウィンが着任したので、文久2年9月、長崎を去った。日本滞在5年であったが、種痘の公認、梅毒検査、公娼制度廃止を唱えるなど多くの功績を残している。その門人たちは、すべてが明治の医学界を背負って立った人々である。
小島療養所は現在の長崎大学医学部の前身となった。

稲佐山南尾根から立岩権現岩へ縦走  2012年12月

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稲佐山南尾根から立岩権現岩へ縦走  2012年12月

2012年12月16日(日)晴れのち曇り。稲佐山南尾根から稲佐山(標高340.3m)・立岩権現岩へ縦走。みさき道歩会の例会。参加10人。本年最後の山行。
飽の浦公園9:40—飽の浦峠(入船が丘)10:10—南尾根岩10:51—稲佐山展望台
12:10 昼食 13:00—ドッグラン13:24—権現岩14:10—立岩神社 15:24(徒歩距離 約8km)

飽の浦公園から飽の浦峠(入船が丘)へ里道を上がる。廃屋が目立つ坂道。高部の道脇、昔の防火水槽後ろに陸軍省要塞標が残る。この見学もきょうの目的。
峠から稲佐山の南稜線へ登る。岩場が多く危険なコースだが、展望が良い。
「世界新三大夜景」に認定となった稲佐山山頂展望台の、リニューアルぶりを見に行き、広場で昼食。ハート石あり。テレビ塔も統合されすっきりし、歩道がプロムナードに整備されていた。

午後は大駐車場の方へ下り、ドッグランのところから、権現岩の縦走道へ入る。山頂から約1時間歩いて権現岩の上部に立つ。長崎港は見えなくなるが、長崎市街北部を一望する。遭難碑は長崎南稜山岳会の碑。危険なので早々に退散。
下の方には、ローソク岩やどんく岩と呼ばれる岩がある。西城山の立岩神社まで下って解散。
宮さんの参加ブログ記事は、  http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/30383933.html

欧陽雲台の墓  長崎市東立神町

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欧陽雲台の墓  長崎市東立神町

長崎在住の有力唐人貿易商であって、輿福寺創建当時の代表的な壇越(檀家、檀那)の一人として有名な欧陽雲台(唐通事陽氏祖)の墓が、東立神墓地内にある。
現地説明板は次のとおり。

歐陽雲臺の墓について

歐陽雲臺を祖とする
正保参年(1646)友人萬國鼎拝贈
雲臺歐陽公之墓
孟冬吉旦孝男摠三郎孫 虎之助 摠太郎 泣血立
一、雲臺歐陽公 この人が何時渡来したかはつきりしない 譯統譜の唐年行司始之由緒につぎのようにある
一、慶長(1596)年中より住宅唐人之内唐年行司役被仰付候由愽承候得共 來暦相知れ不申候
一、寛永十二亥年(1635)榊原飛騨守仙石大和守様御在勤之節 住宅唐人之内 歐陽雲臺何王官銀七官張三官何八官陳奕山此の六人に唐年行司役被仰付候
右のように書かれているので長崎住宅唐人形成初期の有力者であつたのだろう 正徳五年(1615)成立の長崎図志によると興福寺は昔皆吉氏の廃宅であったのを元和(1615)の初め歐陽氏が買つてこれを別荘としたと書いてある また 後述するこゝ立神墓地も或るいは別荘の跡とも考えられる
相当の資産家であったと思われる資料は見当たらないが最初は貿易商人であったと
想像される
陽氏  過去帳は次のようになつている。
生保三年(1646)歳在丙戌孟冬十有五日
即世辰忌
開祖 福建省漳州府 歐陽雲臺公
寛政七年(1795) 乙卯十月十五日値百五十遠忌
命日は十五日である
この過去帳によつて 歐陽雲臺は
福建省漳州府の人であつた
平成七年十月参百五十遠忌資料収集 中村記

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 135P 立山立親館

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 135P 立山立親館

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 135P

243 — 立山立親館 明治30年(1897)頃撮影。

■ 確認結果

「写真の開祖 上野彦馬」は、立山「立親館」と解説しているが、長崎県会議事院兼迎賓館だった「交親館」が正しい。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による長崎県立長崎図書館の沿革は、次のとおり。現在の県立図書館建物は、1960年(昭和35年)建築。1968年(同43年)増築。

明治
1894年(明治27年) – 安中半三郎、香月薫平らによって長崎文庫が設立。
1909年(明治42年) – 小学校教員学力補充のため、長崎県回覧文庫を設立。
1912年(明治45年)6月1日 – 回覧文庫を基に、県立長崎図書館を創立。
・場所 – 長崎市新橋町(現:諏訪町)の県有家屋
・蔵書 – 2,400冊
・初年度利用者 – ひと月平均239名
大正
1915年(大正4年)8月10日 – 永山時英が初代専任館長に就任。
・11月25日 – 長崎市上西山町(現在地)に移転し、開館。
御大典(大正天皇即位)記念として、諏訪公園の交親館(県会議事院兼外賓接待所)を改修。書庫を増築。長崎文庫図書が寄贈される。
・11月28日 – 落成式を挙行。

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 130P 小菅造船所

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 130P 小菅造船所

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 130〜131P

227 — 小菅造船所 明治10年代(1880)撮影。フランス人、ワンサン・フロランの指導のもとに着工し、明治15年5月完成。エントツの建物はポンプ室。現在の三菱造船所。

目録番号:3863 立神ドック(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
この写真は、長崎市街地の長崎港を挟んで西岸の立神にある、三菱会社の立神ドックである。写真右側の海の向こうに東山手居留地が遠望できるが、東山手の丘の上にすでに活水学院の明治15年創建のラッセル館が見えている。明治10年(1877)代後期の写真である。目録番号4729(整理番号93-21)の写真は、ほぼ同じ角度から撮影した写真であるが、施設の整備状況からみて、こちらの写真が5年程経たものである。ドックハウスが完成し、ドックの周りにさまざまな施設が整備されている。ドックには修理のために、戦艦が入っている。立神ドックは明治7年(1874)、フランス人技師ワンサン・フロランの指導によって構築され、明治12年(1879)に竣工した。長さ135.7m、幅33.4m、深さ、11.6mの本格的なドックである。明治17年(1884)7月長崎造船局は三菱に払い下げられ民営になった。写真は明治20年(1887)代の、三菱会社に払い下げられた後の立神ドックを撮影した写真である。

■ 確認結果

「写真の開祖 上野彦馬」は、「小菅造船所」と解説しているが、目録番号:3863「立神ドック(1)」のとおり、「立神ドック」が正しい。
長崎港を挟んで、立神の対岸側が小菅であり、ソロバンドック(小菅修船場)がある。

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 122P 寺町晧台寺後山の墓地

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長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 122P 寺町晧台寺後山の墓地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 122P

212 — 寺町晧台寺後山の墓地 明治10年(1877)頃撮影。彦馬の墓所でもある。

目録番号:767 長崎の墓地(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
F.ベアトによる書き込みに1866年3月とあって、撮影者と時期が判明する。ベアトは長崎では墓地をよく撮影していたが、これは春徳寺墓地の一葉である。春徳寺は、もとトードス・オス・サントス(ポルトガル語で諸聖人の意)という永禄12年(1569)に創設された長崎最初のカトリック教会があった場所で、現在は県の史跡に指定されている。この教会が慶長19年(1614)に破壊されたあと、寛永17年(1640)にそれまで岩原郷にあった寺を移転して創建したという、臨済宗の寺院である。その墓地は、境内から裏山に広がり、そこには著名な「東海の墓」(県指定有形文化財)もある。現在は墓域が再整備されているため、画面の位置を特定することは難しいが、地形からすれば「東海の墓」の裏手あたりか思われる。左上の樹叢が長崎氏の城跡「城の古趾」に連なるのであろう。ベアトの別の一葉の解説では、春徳寺を「“SPRING VIRTUE” TEMPLE」とも訳していた。

■ 確認結果

撮影された長崎の墓地が、「写真の開祖 上野彦馬」では、寺町「晧台寺後山の墓地」、ベアトコレクションでは、夫婦川町「春徳寺墓地」と解説が異なっており、現地調査した。
双方が見落としているのは、目録番号:767「長崎の墓地(1)」を超高精細画像で見るとわかるが、墓地背後に大きな谷間の集落があり、上まで耕された山の稜線がうっすらと写っている。
どの山だろうか。確認が必要ではないか。
現地へ行っても、どっちもどっち。はっきりした確証が得られない。カメラがこのように立てたか、墓地の地形も問題となる。

私の感じでは、背後の稜線から鍛冶屋町「大光寺墓地」が、最も考えられる(写真6)。上野彦馬はベアトと大光寺を訪ねた写真が残る。このあたりから小島養生所方面も写している。
筑後町「福済寺墓地」は、少し違うようである(写真7)。
古写真左下に写る地蔵の列の道や、墓碑で明らかに読める「足巌良正居士」「圓徳院殿興岳永隆居士」が残っていないだろうか。撮影場所となった墓地の研究をお願いしたい。
ベアト撮影では、別の次の写真を長崎蛍茶屋の墓地と確認している。
https://misakimichi.com/archives/2829

長崎の古写真考 写真の開祖上野彦馬 118P 高島礦業所二子坑立坑 ほか

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 長崎の幕末・明治期古写真考 写真の開祖上野彦馬 118P 高島礦業所二子坑立坑 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

産業能率短期大学出版部「写真の開祖 上野彦馬」 118〜121P

208 — 高島礦業所二子坑立坑、現在の三菱高島礦業所 明治初年撮影。
209 — 高島礦業所二子坑、石炭積込み桟橋、船は石炭積取り船、手前は坑内で使用する坑木 明治初年撮影。
210 — 高島二子坑、石炭積込み桟橋、右前方は沖之島 明治初年撮影。(掲載略)

目録番号:2415 高島炭鉱南洋井坑

目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

■ 確認結果

長崎県立図書館に郷土資料として、「写真の開祖 上野彦馬」があった。産業能率短期大学出版部が昭和50年発行。上野一郎氏も監修。上野彦馬研究の第一級機関である。
古い写真集で、今ごろ取り上げるのはどうかと思うが、解説の疑問を数点、説明する。ほかの写真集が、この間違いをいつまでも引きずり出版されている。
地元長崎として困っているので、写真所蔵先日本大学芸術学部とも、早く本元において研究をお願いしたい。

この項は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3480
https://misakimichi.com/archives/2763
https://misakimichi.com/archives/1619

208「高島礦業所二子坑立坑」は、「南洋井坑」ではないか。
209「高島礦業所二子坑、石炭積込み桟橋」は、「尾浜坑の石炭積込み桟橋」ではないか。
210「高島二子坑、石炭積込み桟橋、右前方は沖之島」は、「北渓井坑」の石炭積込み桟橋「南風泊港」ではないか。したがって右前方は「飛島」、左後方が「沖之島」である。

名寺の境界標石  長崎市晧台寺・春徳寺・聖福寺・悟真寺

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名寺の境界標石  長崎市晧台寺・春徳寺・聖福寺・悟真寺

長崎市の古い名寺の墓地など寺域境界標石。どこにあるのか、自分で探して見てもらいたい。

晧 台 寺  長崎市寺町     「晧境目」 「晧臺寺墓地境界標」
春 徳 寺  長崎市夫婦川町  「春徳寺」
聖 福 寺  長崎市玉園町    「従是西聖福寺境内」
悟 真 寺  長崎市曙町     「福建境地界」(旧唐人屋敷内天后堂塀にもあり)

桜馬場天満神社(威福寺跡)石垣のキリシタン墓碑  長崎市桜馬場1丁目

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桜馬場天満神社(威福寺跡)石垣のキリシタン墓碑  長崎市桜馬場1丁目

新大工商店街の先、“シーボルト通り”から左へ入る。桜馬場天満神社は、参道橋や天井絵は有名だが、外回りの威福寺跡石垣にキリシタン墓碑?らしい石がはめ込まれている。 

「ナガジン」発見!長崎の歩き方「越中先生と行く 長崎、開港以前」3.開港時の遺構に出会う道〜夫婦川から桜馬場を歩く(桜馬場天満神社〜織部神社〜トッポ水)は、次のとおり。
「長崎の町ではよくありますよ。それが2つもあるんですよ」。あと1つはどこだろう。右の石のことか。  http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0702/index2.html

越中先生
「私達は今、長崎の町を離れてシーボルトも歩いた“シーボルト通り”にいます。新大工町までは旧長崎の町でしたが、ここから右へ行くと長崎村字桜馬場郷です。ここには“長崎街道ここにはじまる”という碑が建てられています。つまりここは、江戸時代、江戸へと続く街道の起点となったところですね。この石碑の字は、前の市長さん、本島等さんに書いていただいたものなんですよ。この道をシーボルトが歩いたのは事実で、シーボルトはこの先にあるお寺の中で休み、お昼ご飯を食べたと著書『江戸参府紀行』に記しています。そのお寺というのが真言宗の威福寺(いふくじ)というお寺でした。」

出島の和蘭商館医として来崎したシーボルトは、江戸に上り、将軍に拝謁して献上品を送り貿易に対する謝意を表す商館長の毎年の行事(のちに4年に1度)である江戸参府に同行した。当時の威福寺は、江戸へ向かう際はここで別れの宴と旅支度を改め、帰途の際は、旅装を解く重要な場所だったそうだ。

越中先生
「威福寺は、長崎に初めて天満宮を持ってきた場所でもあります。昔はお寺とお宮と一緒にあったんですね。だから諏訪神社よりも古いお宮だったんですよ。そして、明治になってここでも神仏混淆禁止令によって神様と仏様を一緒に祀れなくたったので、桜馬場天満宮となったんです。シーボルトの時代はお寺でしたが、この界隈はそれ以前、長崎の城下町だったんです。さて、私はこの天満宮の中にあるモノを見つけましたのでご案内しましょう。」

隣のビルの壁面を削ってまでいかされた鳥居をくぐり抜け、すぐ左にある階段を下り、天満宮を取り囲む石垣に注目!
越中先生
「私がこの威福寺を調査しているときに、いろいろみつけたんですが、一つはこの石垣の中にキリシタン墓碑がでてきたんです。ここに石垣を作った年号が書かれているんですが、この石垣を作るときに、キリシタンの墓を壊してはめ込んだんですね。長崎の町ではよくありますよ。それが2つもあるんですよ。」

確かにこれは以前目にしたことがあるキリシタン墓碑の形。裏返った形で石垣にきれいにはめ込まれている。そして、石垣をよくよく見てみると、時代によって、石の種類、積み方に違いがあることがわかる。

釣れた? 釣具店の釣人 (23)  長崎市平山町

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釣れた? 釣具店の釣人 (23)  長崎市平山町

長崎半島平山町の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
Fishing shop OGAWA

ハロウィンの10月末以来。店はまだ時々飾る。もうすぐクリスマス。イルミネーションもつけている。