練習用」タグアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:5260 茂木若菜川河口(1)ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5260 茂木若菜川河口(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 336 茂木(1)
目録番号:5260 茂木若菜川河口(1)   関連作品 5261 同(2)も同じ。
目録番号:5875 茂木若菜川河口(3)

■ 確認結果

いずれも茂木若菜川河口の「若菜橋」を写したものである。今はSマート前に新橋「弁天橋」が架かるが、「若菜橋」はこの上流の旧道にある橋。
古写真の説明でわからないのは、「川の左奥の建物は茂木役場」。現地さるく説明板もそう説明している。古写真のどの建物なのだろうか。

明治12年7月、郡制施行に当り西彼杵郡茂木村となり、旧庄屋跡に戸長役所をおいたが、明治22年4月、町村制実施に当り、茂木村役場と改称し、役所を本郷片町165番地に移した(昭和33年「茂木町郷土誌」 最後の役場古写真も)。
ここは現在、「茂木商工会館」の白い建物が建っている所である。若菜橋の道脇左に大きく建った建物は、昔の「茂木郵便局」であろう。川奥の建物に見えない。今は解けて駐車場となっている。

戸長役所に郵便局が併設されていたことも考えられるが、「茂木村役場」は明治22年には、もう若菜橋から離れた場所に建てられた。古写真でよく確認できない建物を説明するなら、わかりやすく記していただきたい。

3枚目の古写真「目録番号:5875 茂木若菜川河口(3)」の説明もわからない。古写真の若菜橋は橋脚下の造りを見ると、すでに全て「コンクリート橋」のようである。目録番号: 336 茂木(1)は「近代建築」のキーワードとしている。
「長崎ホテル茂木支店」も、茂木にはホテルが2つあった。ホテル名の記述を統一してほしい。北浦へ続く道は若菜橋を渡った古写真の「右先」でないだろうか。

長崎の古写真考 目録番号:5128 長崎片町道路並川(茂木)(1)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5128 長崎片町道路並川(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5128 長崎片町道路並川(茂木)(1) 関連作品 5129 同(2),5130 同(3)も同じ。

■ 確認結果

この古写真を取り上げたのは、タイトルがどうかと思ったからである。絵葉書の下部に「長崎片町道路並川」とあるから、そうしていると思われるが、「並川」とは片町の対岸で、今の字名は「南川」となると思われる。
若菜川が字境。ほとんど「並川」は写っていないのに、タイトルとなるのはどうか。「片町」も厳格に言うと、まだ下流域となろう。

古写真は川沿いの広い立派な道路を写している。明治18年(1885)に、人力車や荷馬車が通るように新道(旧県道)として整備された道である。
今の茂木小学校前まで来た状景と思われる。道路左側に小学校の校舎ができ、対岸の広場が学校のグランドとなって、学校専用橋で結ばれている。
ここで学校先の尾根稜線後ろに、背景の北浦の山がこの格好に覗いて見えるようである。

後ろのモノクロ写真は、茂木商工会30周年記念誌の67頁から。「茂木街道の景(大正時代)」として、今の茂木小学校ができた辺りを写している。
茂木小学校が現在の地(茂木村字辻)にできたのは、明治28年4月。
なお、裳着神社へ行くと、まったく同じ場所の雪景色写真が、「渕頭より眺める大正初期の茂木旧街道(現茂木小学校付近)」と説明し展示されていた。

長崎の古写真考 目録番号:5253 茂木道(4)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5253 茂木道(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5253 茂木道(4)    関連作品 5254 茂木道(5),5255 同(6)も同じ。

■ 確認結果

古写真の説明は「田上から下り終えた柳山付近と思われる」としている。川幅は広くなり、街道が川岸をまっすぐに長く通る。広い河原で荷馬車の馬か休んでいる。
旧茂木街道の石橋だった「柳山橋」付近は、まだ川が狭く、このような川沿いの道はない。
これは、明治18年(1885)に、人力車や荷馬車が通るように新道(旧県道)として整備された道である。若菜川本流を「大川橋」で渡り、今の茂木小学校の手前まで来た状景と思われる。

川が折れ曲がって河原ができ、今も飛び石がある。茂木の町の視界が開ける。海水がここまで来る。ちょうど古写真の左上あたりに小学校の校舎ができ、対岸の広場が学校のグランドとなって、学校専用橋で結ばれている。
後ろのモノクロ写真は、茂木商工会30周年記念誌の67頁から。「茂木街道の景(大正時代)」として、今の茂木小学校ができた辺りを写している。
次項「長崎片町道路並川(茂木)」の古写真の状景も参照。

長崎の古写真考 目録番号:5251 茂木道(2)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5251 茂木道(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5251 茂木道(2) 関連作品 5252 茂木道(3)も同じ。

■ 確認結果

古写真の説明は「田上から下り終えた転石付近と思われる」としている。川幅は広くなり大きな橋が架かり、立派な道路となっている。
街道の道が通る方向と対岸の家、後ろの段々畑に注視する。もう拓けた茂木集落の入口にさしかかっているのである。

明治18年(1885)に新道(旧県道)として整備された道の、若菜川本流を渡る「大川橋」と思われる。バス停は「黒橋」。ガソリンスタンドがある所である。
これから「大川橋」を渡り、茂木小学校の方へ旧県道の道は川沿いに進む。
後ろのモノクロ写真は、茂木商工会30周年記念誌の67頁から。「茂木街道の景(大正時代)」として、当時の「大川橋」を橋を渡る手前から写している。

片淵で見つかった標石—長崎実録大成などに「豊後 臼杵」の記録

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

片淵で見つかった標石—長崎実録大成などに「豊後 臼杵」の記録

「臼杵陣所」という刻面のある標石が、現在、「片淵3丁目公民館」の建物下に保管されている。標石が見つかったいきさつは、次のとおり。
https://misakimichi.com/archives/1380
縦15cm、横18cm、高さ45cmの石柱。5年ほど前、公民館左方の道路工事した際、ショベルカーが掘り出した。自治会は長崎市文化財課に報告し、文献調査と保存を願い出たが、はっきりしたことがわからず、公民館前に置いたまま、5年が経っていた。

2隻のポルトガル船が来航したのは、正保4年(1647)。長崎警備のため出陣した臼杵藩(大分県)が、この辺りの農家などを借り上げ、陣所を構えたものなのか。また、事件後、西日本の諸藩は、長崎に自前の蔵屋敷を設け、聞役を置き、長崎での情報を速やかに入手して、長崎出陣に備えるようになった。
蔵屋敷を置いた藩は14に上がる。佐賀藩では所領が長崎に隣接していたために、支藩(鹿島支藩)や大身の家臣(諫早領・深堀領)も自らの蔵屋敷を設けていた。

ほかの小藩も、蔵屋敷や陣所などを置いた可能性がある。当時の事件を思い起こさせる珍しい標石?ということで、近くの西山に住む長崎楽会中尾氏に調査を頼んでいた。「豊後 臼杵」の記録を中尾氏が見つけてくれた。
「田辺茂啓著 長崎実録大成 正編」と「松浦東渓著 長崎古今集覧 上巻」。いずれも長崎文献叢書にある。関係部分は、上記写しのとおり。
「異国船来津之節諸家陣所之事」などに、「豊後 臼杵」藩の「用場所」として「長崎村之内馬場郷」の地名が出てくる。

両文献の記述内容は違う。記録年代はいつか、陣所と用場所の違い、標石との関係などは、今後、専門的な研究に任せるしかない。
片淵で見つかった貴重な標石「臼杵陣所」が、早くに解明されるよう望みたい。

小ヶ倉水源池上の立岩  長崎市上戸町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

小ヶ倉水源池上の立岩  長崎市上戸町

次は長崎市上戸町、小ヶ倉水源池上の立岩。星取山のアンテナのちょうど下くらいの山中となる。見事な垂直岩で大師堂がある。戸町・田上間の新道ができて、行きやすくなった。
小ヶ倉水源池の左側から新道を田上へ上がって行く。逆に田上の準提観音から市民の森への車道を行き、途中の分岐から下る。分岐に「立岩大師堂 徒歩約10分」の案内標識がある。
岩永弘氏著「「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006年春刊の67頁による説明は次のとおり。

立 岩 大 師

準提観音より市民の森への道を5分ほど下り、戸町線道路の道を600m下ると、右側土手に立岩大師の案内表示があり、巾1mのセメント道があります。谷に向かって70mほど下ると霊場立岩大師があります。深山幽谷の地です。通り抜け洞穴、石仏・女神・地蔵などが祀られています。
今は雑木が茂り山道も判然としませんが、茂木戸町間のルートとして、道行く人々もお参りしたことが考えられます。田上の先、河平バス停下の谷道、茂木旧道に「戸町二至ル」の碑が残っており、山を越えてこの谷を下って行ったことでしょう。
戻って新道を下って行き、小ヶ倉水源池わきを通り、戸町バイパスへ出ることになります。

潮見崎観音と月見台  長崎市茂木町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

潮見崎観音と月見台  長崎市茂木町

長崎市茂木から宮摺の方へ向う。茂木港の南側先端、防波堤が出ている上に「潮見崎観音と月見台」がある。
平野露治氏著「茂木史談」昭和63年刊、第4章名所・旧蹟等38頁による説明は次のとおり。

潮 見 崎

潮見崎観音堂は宝永3年(1706)の開山。本尊は十一面観音として信仰され、長崎の市中からも参拝者が多い。8月10日の千日祭は夜店もたくさん出てにぎわっている。
月見台は潮見崎の上にあり、注連(しめ)が崎ともいう。月は赤井が崎の上から出て、その光を海に映し、注連が崎、月見台の下にかけて布を引いたようになるので、「布引の月」といっている。

裳着神社と玉台寺の「夫婦銀杏」  長崎市茂木町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

裳着神社と玉台寺の「夫婦銀杏」  長崎市茂木町

長崎市茂木町で見た大木として、玉台寺の大イチョウを前項に載せた。裳着神社も史跡の項に載せ、イチョウを写している。この2本の大きな木を、地元では「夫婦銀杏」と呼んでいるという話。

玉台寺のイチョウが大きいのは、寛政4年(1789年)島原の眉山の大爆発のとき漂着した死者を大量土葬した墓地(慰霊碑あり)に生えているから、という話もある。
平野露治氏著「茂木史談」昭和63年刊、第4章名所・旧蹟等42〜43頁による説明は次のとおり。

夫 婦 銀 杏

茂木の町に、四季折々の風情をそえる2本の大きな銀杏の木がある。町の人はこれを、「お宮の銀杏は雄銀杏、お寺の銀杏は雌銀杏」といっている。
お宮というのは、茂木の氏神様裳着神社、お寺というのは松尾山玉台寺のこと。いずれも、寛永3年(1626)の建立で、今から353年前のことになる。別に縁起をかつぐわけではないが、お宮お寺の建立が同じ年、2本の銀杏がまた、樹齢といい、大きさといいほぼ同じで、しかもそれぞれの地にあることなど思い合せて、なにか興味深いものがある。

2本の銀杏の樹齢は、もちろん推定だが、どちらも500年位だろうといわれる。根周りは、お寺の銀杏が5m、お宮の銀杏は4.6mでやや小さい(昭和37年調)。高さは目測で、お寺の方が20〜25m位だが、お宮の方はもっと低い。
だが、樹相というか、その姿となると、お寺の方は堂々とそびえて如何にも男性らしく、お宮の方は横に枝がはって豊満な感じだし、むしろこちらの方が女性を思わせる。学問的事はわからないが、こんなところに自然の愛敬があるのかもしれない。

それにしても、遠い昔の「通い夫」(かよいづま)のように、銀杏の木の精が、小高い裳着神社の地から若菜川を越え町並みを越えて、平地の玉台寺へ飛び、見事に銀杏を実らせる図は、思うだにおおらかで楽しい。
ちなみに、裳着神社は、初め八武者大権現といい、明治初年の神仏分離に改称したものだが、この八武者大権現と同じ年に、同村の各郷の神々の、つまり、田上の山王権現、稲荷大明神、木場の山神、宮摺の三方荒神、大崎の加茂大明神、千々の盟寵大明神が建立されている。

茂木の立岩 (2)  長崎市茂木

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

茂木の立岩 (2)  長崎市茂木町

茂木から宮摺へ向い、潮見崎先の「立石」バス停から海岸を歩いて行く。茂木町教育委員会「茂木町郷土誌」昭和33年刊、第10章観光茂木の136頁による説明は次のとおり。
大田南(蜀山人)の歌がある。「またたくひあら磯浪のたて岩を 島このみする人にみせはや」
(2)は、潮を見計らって12月17日午後に再訪。立岩の近景。岩の裏側にも回った。

立 岩

注蓮ヶ崎の後にあたり、海辺をはなれて海中にあり、悄然としてそびえ起り、衝き立ち秀でる頂上に松あり、昔は五葉の巨松なりしが、中頃枯れて後又生れ出たるは常の松なり、隻巌ならび立つ、一つは大きくして数十丈、一つはやや低し、盆石を見るごとし。  (長崎名勝図絵より)

長崎の西の空の夕日  その16

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

長崎の西の空の夕日  その16

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下続く。

写真 1〜 3  平成20年12月 9日の17時06分頃
写真 4〜 6  平成20年12月10日の17時10分頃
写真 7      平成20年12月14日の17時49分頃
写真 8〜 9  平成20年12月17日の 7時31分頃 これは東の空の朝焼け