片淵で見つかった標石—長崎実録大成などに「豊後 臼杵」の記録

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片淵で見つかった標石—長崎実録大成などに「豊後 臼杵」の記録

「臼杵陣所」という刻面のある標石が、現在、「片淵3丁目公民館」の建物下に保管されている。標石が見つかったいきさつは、次のとおり。
https://misakimichi.com/archives/1380
縦15cm、横18cm、高さ45cmの石柱。5年ほど前、公民館左方の道路工事した際、ショベルカーが掘り出した。自治会は長崎市文化財課に報告し、文献調査と保存を願い出たが、はっきりしたことがわからず、公民館前に置いたまま、5年が経っていた。

2隻のポルトガル船が来航したのは、正保4年(1647)。長崎警備のため出陣した臼杵藩(大分県)が、この辺りの農家などを借り上げ、陣所を構えたものなのか。また、事件後、西日本の諸藩は、長崎に自前の蔵屋敷を設け、聞役を置き、長崎での情報を速やかに入手して、長崎出陣に備えるようになった。
蔵屋敷を置いた藩は14に上がる。佐賀藩では所領が長崎に隣接していたために、支藩(鹿島支藩)や大身の家臣(諫早領・深堀領)も自らの蔵屋敷を設けていた。

ほかの小藩も、蔵屋敷や陣所などを置いた可能性がある。当時の事件を思い起こさせる珍しい標石?ということで、近くの西山に住む長崎楽会中尾氏に調査を頼んでいた。「豊後 臼杵」の記録を中尾氏が見つけてくれた。
「田辺茂啓著 長崎実録大成 正編」と「松浦東渓著 長崎古今集覧 上巻」。いずれも長崎文献叢書にある。関係部分は、上記写しのとおり。
「異国船来津之節諸家陣所之事」などに、「豊後 臼杵」藩の「用場所」として「長崎村之内馬場郷」の地名が出てくる。

両文献の記述内容は違う。記録年代はいつか、陣所と用場所の違い、標石との関係などは、今後、専門的な研究に任せるしかない。
片淵で見つかった貴重な標石「臼杵陣所」が、早くに解明されるよう望みたい。