月別アーカイブ: 2015年11月

鶴見地区のシシ垣  佐伯市鶴見中越浦 ( 大分県 )

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鶴見地区のシシ垣  佐伯市鶴見中越浦

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。今回は九商フェリーで島原外港から熊本港へ渡り、まず大分県佐伯市へ。佐伯市鶴見中越浦は、佐伯市街の新佐伯大橋から県道604号により鶴御崎半島へ向かう。中越浦は半島の中間ほどにある東海岸の集落。
集落を過ぎ県道を先へしばらく進むと、県道脇にシシ垣案内板があるので、右手の市道を山手へ上がる。登りつめた広場のところに遊歩道の橋があり、この一帯が細長い半島の尾根を横断する壮大なシシ垣見学の核心部となっていた。

鶴見地区のシシ垣 つるみ
佐伯市 吹浦〜日野浦〜下梶寄 猪垣(石塁・石垣) 長10数㎞,高2m,幅90㎝ 江戸末期〜明治期 市教委 残存確認箇所は離散的だが総延長は10数㎞に達する サツマイモを猪や鹿の害から守るため構築された言われる(鹿が対象として入っているのは、高さが所により2mを超えるため)/江戸中期までの史料にはシシ垣に関する記載がない 2 A

大分川の水刎?  大分市下郡 ( 大分県 )

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大分川の水刎?  大分市下郡

ブログ「ぐんさん 物見遊山記:豊後街道を歩く 乙津〜八幡田」間に表れる掲載写真の2枚目。大分川の水勢をやわらげる水刎か?。どんなものかと河口近くに場所確認に行った。
http://blog.livedoor.jp/gunchan1972/archives/51728762.html
豊後街道は、大分市「牧から下郡方面へ進み北下郡ガード西交差点を通過、滝尾橋へ。ここでJR日豊線をくぐり大分川沿いに南へと進路をとる。大分川の土手を歩く。豊後街道は大分川沿いを通っていたそうで、地元では「ひごどん道」と呼ばれていたとか。川岸になにやら石積みがいくつもあるがなんだろう。川漁師の船着場? 護岸のためのもの?」とある。

国道10号府内大橋を過ぎて宮崎交差点から大分川に沿う市道を北へ、下郡北のJR日豊本線ガード下まで行き、左方に大分川へ出た。川岸道路を上流側へ向かうと、車ランド展示場近くの川岸に、川に突き出たこの10基ほどの石積みがあった。下流側に日豊本線の大分川鉄橋が見える。
石積みのある川岸の中間くらいに、ちょうど架橋建設中の橋脚が完成している。石積みは新しく感じられ、年代物ではなく架橋護岸工事のための最近の工作物と思われる。遺産サイトもその見解だった。
河川工事事務所に確認する必要があるが、念のため記録しておく。

新村のエノキ  相良村柳瀬 ( 熊本県 )

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新村のエノキ  相良村柳瀬

熊本県HPの地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。人吉市から県道33号により相良村柳瀬橋まで行く。橋手前から村道を川辺川下流側へ下ると、くまがわ鉄道川村駅手前の新村にこのエノキがある。
現地説明板は写真のとおり。

新村のエノキ(しんむらのえのき)  相良村

所在地 球磨郡相良村柳瀬
新村のエノキとアサの話

○ 新村のエノキ
十島菅原神社から球磨川鉄道をわたり右に折れて、球磨川の堤防ぞいに新しくできた田んぼの中の広い道を、川村駅を右手に見てしばらく進むと、急に狭くなるところが出てきます。その角に大きなエノキが立っています。それが「新村のエノキ」です。このエノキは平成3年11月11日に“ふるさと熊本の樹木”に指定されています。幹まわり2、75m、樹高(じゅこう)約23m。以前このエノキの下に「オイデガマ」または「ウヲダテ釜」と呼ばれる大きな釜をすえて、その上に大きなおけ(高さ約3、5m)をかぶせ、アサを蒸していたそうです。「オ」とか「ウヲ」というのはこの地方でアサのことを言います。また「オイデガマ」の「イデ」というのは“ゆでる”という言葉が変わったものです。つまり「オイデガマ」は“アサをゆでる釜”といった意味があります。そして蒸(む)し上がるとこのエノキの枝に縄をかけておけを引き上げるのに使っていました。この「新村の榎」の土地の持ち主である堀田冨男(ほりたとみお)さんによれば、以前は縦型の桶を使っていたそうですが、その後横型の「麻箱(あさばこ)」に変わったそうです。また、アサは春の彼岸(ひがん)頃に種をまき、7月の土用(どよう)のとても暑い時期に1丈(いちじょう)つまり3、3mほど伸びたアサを刈り採って蒸していたそうです。この「新村のエノキ」でアサを蒸していたのは1955年頃までだったそうで、今はその現物は残っていませんが、山江村歴史民俗資料館に行くと横型の「麻箱」が展示してあります。

○ 球磨地方のアサ
山江村歴史民俗資料館の菖蒲和弘さんによると、球磨地方は古い昔からアサの産地として有名だったそうで、“球磨”の書き方に“求麻”という字をあてて“くま”と呼ばせているのが明治8年に作られた「球磨郡村地誌」に載っているそうです。とれたアサは皮をはぎ、天日(てんぴ)に干した後、灰を入れて煮られ、やわらかくなった皮は川で荒皮(あらかわ)をはがされて乾燥させ、製品して出荷していたそうです。残った芯(しん)の部分はアサガラとよばれ、子どものへその緒切りや提灯(ちょうちん)の線香(せんこう)立てに使っていたそうです。また、葉は集めて燃やし、その煙を病人に浴(あ)びさせて治療に使っていたとも言われているそうです。さらに、この葉はいい堆肥(たいひ)として田の肥料にも使われていたと話されていました。現在のアサの生産地は主に島根県出雲地方だそうです。
アサはクワ科の一年草、花や葉から麻薬がとれることから栽培は許認可制となり、球磨地方では栽培されなくなりました。通常アサとして使われているのは亜麻(アマ)の方で、日本では17世紀頃持ち込まれて栽培され続けています。こちらは、アマ科の植物です。

○ エノキ
ニレ科の落葉高木で、大木になると20mを越えます。花の時期は4月〜5月で、黄色い花をつけます。葉は左右に分かれ交互に着いていて、3本の葉脈が目立っていて縁にギザギザがあり、先はとがっています。果実は5〜6mmで赤っぽく、10月ごろつけます。昔はこの果実を空気鉄砲に使って遊んでいたそうです。「オイデガマ」には、なぜかきまってこのエノキがあって、縄を掛(か)けるのに使われました。

参考文献
・『野外観察ハンドブック 校庭の樹木』 岩瀬徹・川名興 全国農村教育協会 1991年
・『相良村誌(自然編)』 相良村誌編集委員会 相良村 1994年
・『ヤマケイポケットガイド13 野山の樹木』 姉崎一馬 山と渓谷社 2000年
・『Microsoftエンカルタ総合大百科2003』 Microsoft Cor

陣ノ内の瀬  相良村柳瀬 ( 熊本県 )

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陣ノ内の瀬  相良村柳瀬

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。人吉市から県道33号により相良村柳瀬橋まで行く。橋手前から村道を下流へ下ると、「舟場バス停」がある。
川辺川に出ると、広い川中に大きな瀬があり、これが「陣ノ内の瀬」と思われる。川辺川の本流は、左岸側を流れ、手前の右岸側は静かな流れであり、船着き場のような広いコンクリート舗装の岸壁があった。

陣ノ内の瀬 じんのうち
(球磨)相良村 球磨川 船着場 江戸期 歴史の道・球磨川水運p.51 大きな岩陰に淀みがあり格好の着船場になっている

深田の魚背岩(ぎょはいがん)  あさぎり町深田西 ( 熊本県 )

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深田の魚背岩(ぎょはいがん)  あさぎり町深田西

熊本県HPの地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。県道33号によりあさぎり町深田西へ行く。私が撮影したのは、古町橋の少し上流、立岩手前の県道上からとその対岸あたりから。

深田の魚背岩(ふかだのぎょはいがん) あさぎり町

所在地 球磨郡あさぎり町深田西
球磨川に巨大な魚の群れが見える
◆あさぎり町・深田西の古町橋から球磨川をのぞいてみると・・
古町橋の上から球磨川をみると、水面から上に出て見える川底の岩が巨大な魚の群れのように見えます。他の場所でも小規模には見られる風景かもしれませんが、この場所の風景は非常に大規模で、長さ5・6mほどの巨大な姿が多数見られます。その様子を球磨人吉の地質研究家・原田氏は「魚背岩(ぎょはいがん)」と呼んでいます。
◆魚背岩ができた原因について
深田周辺の地層には、加久藤溶結凝灰岩(かくとうようけつぎょうかいがん)と呼ばれる岩石があります。古町橋周辺の川底もそうです。溶結凝灰岩のつくる地形で代表的なものは、ポットホール(甌穴)と呼ばれる丸いくぼみですが、この古町橋周辺では少しちがった特徴になっています。このような地形ができた原因は、球磨川の川底を流れる泥砂や石と球磨川の水流です。土砂や石は、川の流れに沿いながら川底の熔結凝灰岩を傷つけ、削り取って行きます。川の水流が豊富で速かったために、一カ所を丸く削りこむのではなく、溝状に細長く深く削られ、1匹1匹の魚をつくり出しました。こうして魚背岩ができたのです。
◆加久藤熔結凝灰岩について
古町橋の上流300mほどの県道わきに、立岩と呼ばれる溶結凝灰岩の大きな岩があります。そして道向かいの崖も溶結凝灰岩でできています。これらの溶結凝灰岩は、ここから約20km南にある加久藤盆地を噴火口とした、大噴火によってつくられた火砕流堆積物(かさいりゅうたいせきぶつ)です。時代的には、約30数万年前の第4紀・後期更新世と考えられています。この古町橋周辺では、溶結凝灰岩の中に直径2〜3cmの軽石やカクセン石の斑晶がみられます。色が灰色で、溶結度が高いのが特徴です。
また、あさぎり町深田地区の溶結凝灰岩は、地域の人たちからは「深田石(ふかだいし)」と呼ばれ、生活の中に石垣や石臼(いしうす)などの石材として利用されていました。
参考文献
・深田村誌編纂委員会 『深田村誌』 深田村教育委員会 1994
・『日本の地質9「九州地方」』 日本の地質「九州地方」編集委員会 共立出版 1992
・町田洋ほか 『日本の地形7 九州・南西諸島』 東京大学出版会 2001
・田村実ほか 『土地分類基本調査 5万分の1表層地質図「人吉」』 熊本県 1982

多良木の道標  多良木町多良木 ( 熊本県 )

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多良木の道標  多良木町多良木

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。大分県佐伯市から宮崎県延岡市に出て、国道388号により熊本県多良木町へ行った。山岳ルートで特に西米良へ出る標高1140mの大河内峠越しは難所である。九州大学宮崎演習林があった。
多良木町多良木の道標は、県道33号馬門バス停から北の岩川内・松ヶ野を指す町道に入る。しばらく進んだ「多良木10区の2公民分館」前の三差路広場に立つ。幅24×横24×高さ85cm。

多良木の道標 たらぎ
(球磨)多良木町 (岩河内)<北目街道> 石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高85㎝,24㎝角 天明元(1781) 町教委/WEB(みさき道人) 移設 (正面)「從是、右 く王んをん道/左 松がのみち」 2 C

桜ケ瀬井路  津久見市新町 ( 大分県 )

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桜ケ瀬井路  津久見市新町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。津久見市街から国道217号か、県道35号により南西に向かうと、新町に桜ヶ瀬バス停がある。青江川畔に出ると、昭和26年建立だが水神があった。所在図参照。
資料は、津久見市史から。「この井路は、「津久見桜ヶ瀬より松崎・警固屋へ懸り候井手」であった。この井路は青江川に堰を設けて取水する方法を採ったものである」とあり、取水堰はこのあたりのことではないだろうか。町中の井路がどう流れているのかは、現在ではわからない。

桜ケ瀬井路 さくらがせ
津久見市 青江川 用水 弘化3(1846)以前 市教委(津久見市史p215) 開削の経緯は不明だが、弘化3に取水堰が石造化されるまで粗朶を用いていた

志手村用水  津久見市地蔵町 ( 大分県 )

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志手村用水  津久見市地蔵町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。県道217号臼津隧道を抜けて津久見市街地へ入る。青江橋先からJR日豊本線の踏切を渡り、右折。すぐの松崎交差点からまっすぐな市道を西へ進み、最奥の角を曲がると、青江川畔に志手村用水「墾田碑」がある。所在図参照。
資料は、津久見市史から。「井路は水源から青江川に延び、現石灰石輸送パイプの直下を岡町広場へと左岸に渡河したが、このため河底に送水管が敷設された」とは、この地点であろう。
付近の航空古写真は、津久見市提供。撮影年代は不詳。

志手村用水 して
津久見市 胡麻柄山山麓の湧水→志手村 用水 寛文年間(1661-72) 市教委(津久見市史p214) 志手村の石井正円が開削(詳細不明)/青江川とは底樋で交差(直径30㎝ほどの輪竹を桶状に編んだものを2本並べ周囲を三和土で固めた構造)

下り松台場・跡  臼杵市板知屋 ( 大分県 )

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下り松台場・跡  臼杵市板知屋

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。県道207号により臼杵造船所東端からJR日豊本線の踏切を渡り、下り松地区公民館まで行く。私が参考資料としたのは、佐伯史談会研修旅行の際の掲載写真で、「下り松の台場跡のある丘陵地」。
地元で聞き込みをするが、この写真はどこで撮影されたか、台場自体もどこにあったかも、はっきりしたことが聞けず、写真と合う光景はこのあたりでは見つけきれなかった(写真2〜4)。

臼杵市資料に「琵琶ヶ鼻の砲台跡 所在 臼杵市下り松」として、台場の場所は「琵琶ヶ鼻の砲台跡は、下り松の一番臼杵湾に向かって突き出した丘陵の先端、標高約三十メートルのところに位置しています」とはっきり記していた。
JR日豊本線トンネルがある山地の海岸先端へ県道をさらに進む。次に水ヶ浦バス停があり、この手前に(有)伊東自動車があった。佐伯史談会の写真は、バス停付近からこの整備工場の建物を写しているようだ。
工場主に聞くと、工場右横から奥にあと1軒民家があり、この家上の高台となる丘陵地が「下り松台場・跡」とのこと(写真5〜8)。台場・跡はヤブとなって、行き道や現地遺構はもうわからないだろうと聞いて、これ以上の調査はあきらめた。

下り松台場・跡 さがりまつ
臼杵市 台場 60m×30m程度 文久3(1863) WEB 丘陵地で植生が密生 臼杵藩台場 4 C

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

琵琶ヶ鼻の砲台跡(びわがはなのほうだいあと)  所在 臼杵市下り松

市内には、「臼杵の歴史」を語る際に欠くことのできない遺跡や遺物が数多く残されています。時代時代における世の中の動きに応じて作られ、或いは利用されてきたものが、時の移り変わりとともに、人の記憶の中から次第に忘れ去られてしまい、長い年月、人の手も加わらず、雑草に覆われていたり、倉の隅に追いやられていたりといったことがしばしば見られます。
琵琶ヶ鼻の砲台跡もそうしたものの一つです。現在は、深く雑草が生い茂り、訪れる人もほとんどなく、この遺跡が、歴史(時代)の要請を受けて生まれたものであることを知る人は少なくなっています。この砲台跡は、江戸時代の終わりごろ(十九世紀中頃)臼杵藩領の海岸線防備のために設けられて砲台跡の一つです。この当時、藩領の海岸線に五つの砲台が作られました。楠屋鼻(泊ヶ内と津久見市の境)、竹ヶ鼻(板知屋区の現天神ヶ鼻)、琵琶ヶ鼻、殿ヶ礁(以前の下ノ江少年自然の家の下)、的場山(津留地区)、将棊頭(東中グラウンドの北側)の五ヶ所です。今、砲台跡として残っているのは琵琶ヶ鼻と将棊頭の二箇所です。琵琶ヶ鼻の砲台跡は、下り松の一番臼杵湾に向かって突き出した丘陵の先端、標高約三十メートルのところに位置しています。砲台跡は、丘陵の北斜面を削りだし、コの字型をした高い土塁のような形に作られています。東西の長さおよそ十二メートル、南北の長さ八メートル、幅約三メートル、高さ二.五メートルをはかる非常に大きな施設となっています。
この時代、日本は鎖国政策をとっていたため、外国と接することはなく、唯一、例外的にオランダ国とだけは長崎の出島を通じて関係を維持していました。しかし、十八世紀後期になると、日本の近海に出没する外国船の数は益々増え、中でも北太平洋に移動する鯨の群れを追って来たアメリカやイギリスの捕鯨船が、淡水や食料を求めて我が国の海岸に接近することが多くなりました。沿海の諸藩は、補給のため海岸に接近した外国船に対し必要品を供給し、更に国法を説明して再び来ることの内容言い含めましたが、ほとんど効果はありませんでした。国法によって、渡来した外国船は穏便に帰帆させるよう指示されている反面、警備を特に厳重にするよう定められているので、海を持つ諸藩は、警備をおろそかにすることはできず、財政難に苦しんでいた当時の諸藩にとって大きな負担となっていました。臼杵藩の場合は、安政二年(一八五五)、藩士川崎重房の海防論をとり入れ、自領の海岸線防備のために、先に述べたような砲台を設置しました。

二王座の切通し・山下水・御口屋の井戸  臼杵市二王座ほか ( 大分県 )

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二王座の切通し・山下水・御口屋の井戸  臼杵市二王座ほか

臼杵市観光パンフレットから私が見た二王座の切通しと、南海添の山下水・御口屋の井戸。サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。

二王座の切通し におうざ
臼杵市 (臼杵) 切通し 数ヶ所 戦国〜江戸期 市教委 臼杵を代表する景観として観光地化 二王座(凝灰岩の台地)に登る坂道/家並の中心の切通しは石垣に、少し外れると岩肌が見え(写真の場所)、その外側は岩肌がむき出しになっている 2 B

海添の御口屋井戸 かいぞえ、おぐちや
臼杵市 (海添)<津久見街道> 石井戸 102㎝×102㎝,高60㎝,径70㎝の穴 延宝5(1677)以降 WEB/市教委 名水として知られる/米穀店の敷地内 津久見街道の城下入口に設けられた御口屋(番所)の井戸/厚さ30㎝の凝灰岩の中央を丸くくり抜き、2段重ねて井戸枠とした 1 B

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見よる説明は、次のとおり。

海添御口屋跡と井戸(かいぞえおぐちやあとといど)  所在 臼杵市大字海添

御口屋と言っても、聞きなれない言葉だけにちょっと戸惑うかもしれません。簡単に言えば、臼杵藩時代の番所のことです。この御口屋は、城下へ通じる主要な往来道(街道)の城下入り口の位置に設けられていました。ここは、城下へ出入りする人々の中に不審な者がいるかどうか監視をする役割を持ったところです。
海添の御口屋は、津久見街道口に設けられたものです。臼杵藩時代の記録「温故年表録」によると、「延宝五年丁巳 三月二十一日 海添口屋番所立」とあり、一六七七年に口屋番所が建てられたことがわかります。この口屋番所の建設によって、主に外からの侵入に対して無防備ともいえた津久見街道の海添口を固めると言う意味も含まれていたと思われます。
この口屋番所は、宝蓮寺の斜向いにあります斉藤米穀店の付近に位置していました。またこの店の敷地内には御口屋の井戸が残っています。
この井戸水は、今日名水の一つとして広く市民に知られています。井戸は立派なもので、井戸枠は、一辺
102cm、厚さ30cmの凝灰岩の中央部分に直径約70cmの穴を穿ったものを二つ重ねて作られています。井戸の内部は、珪岩などの自然石を積み上げて円筒状につくりあげています。深さは、井戸枠上面から水面まで245cmほどあります。
海添の御口屋が設けられた時期は、第五代鹿景通が臼杵藩主として藩政の改革や定められた数々の法規を確固たるものとし、積極的に城下の整備に努めた時代で、内政に力を注げるようになったということは、この頃に世情もようやく落ち着きを取り戻し、平穏な時代に入ったことを表しているのではないでしょうか。