月別アーカイブ: 2015年11月

落合の石畳  臼杵市久木小野〜落合 ( 大分県 )

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落合の石畳  臼杵市久木小野〜落合

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道502号障子岩交差点から県道25号に入り、途中から吉小野を通る近道により県道206号に出たところが久木小野の県道交差点である。
臼杵市資料によると、「殿様道は久木小野の県道交差点(現在)あたりからその北側にある標高115mほどの通称「茶屋峠」を越え、落合地区の南側へと出る延長約1kmの道です」とある。地形図の関係部分を参照。

さて、この殿様道の石畳は「落合地区への入口部分と、そこから約300mほど上った所の二ヶ所には延長20〜
30mにわたって凝灰岩の石畳が敷かれています」とあり、久木小野側に一部が残っているらしいが、久木小野交差点近くで地元聞き込みをしても判然としない。
高速道高架下をくぐると立派な神社があり、その先に茶屋峠へ登る山道があったが、今は藪道となって入口さえわからないだろうという話だった。

そのため、今度は反対の落合集落側へ行ってみた(写真5枚目以降)。集会所横にコンクリート舗装された急坂の狭い車道があり、これが殿様道だったようで、戦後も久木小野小学校への通学路として利用されていた。
この道は、現在の九六位ゴルフガーデン上部を通り、いったん舗装道路に出て横切り、久木小野の神社近くに出ていたということだったから、双方地元民の話は合う。
藪道をかき分けてまで、これ以上、石畳を調査する時間はなく、日没となったので調査を打ち切った。

落合の石畳 おちあい
臼杵市 <通称・殿様道> 石畳道(2ヶ所) 長20-30m 江戸期 WEB 久木小野から落合へ抜ける通称・茶屋峠越えの間道 –

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

殿様道と茶屋峠(とのさまみちとちゃとうげ) 所在

臼杵はかつて“東九州の浪華”と呼ばれるほど栄えた町として広く知られていました。鉄道がまだ発達しておらず、海上交通が物資流通の主役だった時代に、湾の奥にある良港をもっていたことがその背景にあるのです。そして港とその奥にある穀倉地帯や主要都市とを結ぶ陸上交通路がめぐらされていたことも見落とせません。
江戸時代に臼杵には、末広方面から大分に抜ける府内城路、武山方面から三重、竹田へと向かう岡城路、海添から津久見、佐伯へとゆく佐伯城路という三本の幹線道路がありました。これらが交通の要路となっていたのですが、さらにこの三本の要路をつなぐ間道が網の目のように設けられていたのです。
これらの道は廃道になっていたり、近・現代の道路改修によって現在ではほとんど当時の様子を残していませんが、今なおその面影を伝えている道もあります。久木小野から落合へと抜ける通称「殿様道」もその一つです。
この道は岡城路と府内城路を障子岩〜田尻でつなぐ間道の一部で、正式な名称は不明ですが、久木小野〜落合に限って地元の人が殿様道と呼んでいます。その由来はかつて岡(竹田)藩の中川候が参勤交代の折に通ったという落合地区の伝承によるものです。
殿様道は久木小野の県道交差点(現在)あたりからその北側にある標高115mほどの通称「茶屋峠」を越え、落合地区の南側へと出る延長約1kmの道です。
この道も他の旧道と同じように等高線や谷を上手に利用しながら、急な上り下りが少ないように造られているようです。道幅は1.5mから5,7mとわりと広めです。また、落合地区への入口部分と、そこから約300mほど上った所の二ヶ所には延長20〜30mにわたって凝灰岩の石畳が敷かれています。臼杵市内では府内城路、岡城路、佐伯城路にそれぞれ石畳道の一部が残っていますが、間道に石畳が敷かれている例は珍しく、この殿様道が当時の間道としてはよく整備された道であったことがわかります。
この道がいつ開かれたかは不明なのですが、天保二年(1831)に作られた「臼杵領内絵図」には記載されていることなどから江戸末期には既にあったようです。そして今年の二月に、その当時の様子を物語る遺構が発掘されました。それが茶屋峠の茶屋跡なのです。

温井の石風呂(塩石の石風呂)  臼杵市福良 ( 大分県 )

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温井の石風呂(塩石の石風呂)  臼杵市福良

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市街の土屋交差点から国道502号に入る。次の温井交差点から南に左折。送電鉄塔後ろ側にコンクリート擁壁の大きな岩が見える。
場所がわかりにくいが、小橋の先から右側の里道へ回り込みこの岩下の安東宅前まで行くと、温井の石風呂がある。

温井の石風呂(塩石の石風呂) ぬるい
臼杵市 石風呂 (横穴1ヶ所) 入口:高2m,幅2.2m 明和9(1772)以前 県有形民俗 WEB 保存状態良好 臼杵式の石風呂(他に、豊後大野市の「中ノ原の石風呂」参照)/豊後大野市の緒方に集中する火室を有するタイプとは発想が全く異なる→石を焼き、その上でセキショウなどの薬草を蒸して、近くにある海水をかけて蒸気を発生させ蒸し風呂としたもの/石風呂の前右上方の岩壁に、月桂寺第十世独園禅師の詩が陰刻:「地仙結宇倚岩陰/石室烟蒸薬気深/春夜眠醒纔出浴/何来風雨灑花林/春夜宿無一亭/明和壬辰釈処」→年代の根拠 1 B

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

温井の石風呂(ぬるいのいしぶろ)  所在 臼杵市温井

温井の塩石にある石風呂は、凝灰岩に掘られた横穴形式のもので入り口の高さ約2m、幅2.2mのものです。
内部の床面の左側に深さ20cmばかりの溝が掘られていますが、これが前壁の一部を破って外に通じています。用法についての言い伝えはありませんが、石を焼き、そのうえでセキショウなどの薬草をむして、近くまできていた海水を汲んではかけ、蒸気を出して浴していたものかと思われます。地形から海草が薬草として使われたとも思われます。
この石風呂の前右上方の岩壁には、月桂寺第十世独園禅師の詩が陰刻されています。
地仙結宇倚岩陰 石室烟蒸薬気深 春夜眠醒纔出浴 何来風雨灑花林 春夜宿無一亭   明和壬辰釈処
地仙いえを結んで岩陰による 石室えんじょう薬気深し 春夜眠りさめわずかに浴を出ず 何ぞ来る風雨花林
にそそぐ 春夜無一亭に宿す 
明和壬辰とあるので、明和九年(1772)にはこの石風呂は完成していたと推定されます。
昭和四十二年三月県の有形民俗文化財に指定されています。

不 欠 塚(ふかんづか)  臼杵市望月 ( 大分県 )

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不 欠 塚(ふかんづか)  臼杵市望月

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号により臼杵石仏入口方面へ向かう。東九州自動車道の高架下をくぐったすぐ先が望月で、国道左側に不欠塚の大きな石碑が見える。

不欠塚 ふかん
臼杵市 (望月) 石碑 高約190㎝ 天保9(1838) WEB/市教委 原位置 (正面)「不欠塚」/堤防の決壊を何とか喰い止めようとして「水の流れに従って水勢を和らげる」ような堤防を築いた疋田不欠の業績を称えて上望月村の村民が建立 1 B

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

不欠塚(ふかんづか)  所在 臼杵市大字望月

望月のバス停前から台地に連なる坂道のちょうど中ほど、望月の天満社の下にあたるところに、高さ約1.9mの石碑が一基建てられています。碑は、凝灰岩を角柱状に仕上げたもので、正面にあたる西側には「不欠塚」という文字が深彫りされています。それはまるで眼下に広がる田んぼとその中を東へ向かってゆるやかに流れる臼杵川を眺めているかのようです。
このあたりの田は、現在でこそ春には麦を、秋には稲を収穫する二毛作のできる、市内でも有数の実り多い肥沃な土地として知られていますが、江戸時代の中頃(十八世紀の初頭)までは、大雨が降るたびに洪水によって田が流され、何度も堤防を築いても、大雨のつど、堤が流れに直撃されて決壊し、田は土砂に埋まるという無残な姿をさらしていたそうです。この悲しい様子をいつも天満社の下で眺め、水が引くと田におりていろいろと観察をして、堤の崩壊の原因やその対策について考えていた人物がいました。その人の名は疋田不欠。ある時、不欠の家に泊った旅の僧と話すうちに、洪水に話が及び、不欠が「どう工夫しても堤が崩れる」と言うと、僧は「水は生き物、水に逆らってはどんな堤も破られます」と言い、翌日二人は荒らされた田を見て回りました。堤の切れ口と川の流れとの関係を話し合っている時、「水の流れに従って水勢をやわらげる」ことに気づいた不欠は早速、工夫して洪水にも崩れない堤防づくりを行ったということです。
彼は享保十四年(一七二九)に亡くなりましたが、その後天保九年(一八三八)に彼の業績をたたえ、上望月村の人たちがこの碑を建てました。

岩 崎 渠(いわさききょ)  臼杵市家野 ( 大分県 )

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岩 崎 渠(いわさききょ)  臼杵市家野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号により臼杵石仏入口先の臼杵市立南中学校前まで向かう。臼杵川の橋を渡って中学校下流側の山際まで行くと、難所の岩盤を切り開いた水路が残る。
後ろの写真は、まだ下流側、家野橋を渡った先で見た水路の状況。岩崎氏の功績碑は訪ねていない。

岩崎渠 いわさき
臼杵市 用水 文政7(1824) WEB/市教委 岩崎陣房・正房親子によって開削された灌漑用水路/岩崎陣房は過労のため工事途中で死去/延べ21000人が工事に携わった

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

岩崎渠(いわさききょ)  所在 臼杵市家野

家野地区の田には、昔から利用されている「岩崎渠」あるいは「岩崎井路」と呼ばれている水路があります。この水路は、文政二年(一八一九)から文政七年までの足かけ六年かかって完成したものです。今でこそ家野地区の田んぼは肥沃で、市内でも有数の穀倉地帯となっていますが、この水路ができる以前は、水不足になかされ日照りが少しでも続くと作物に大きな影響が出ていました。周りの村々が豊作に喜び賑わっているころ、家野村だけ不作に苦しんでいたということもたびたびでした。この様な村のたび重なる窮状を見かねて、臼杵川の上流から水路を掘削し、水を引こうと考えたのが村に住んでいた岩崎陣房という人物でした。彼は、村人たちに水路工事の必要を説いてまわり、協力を得るとともに自分の全財産をつぎ込んだと言われています。文政二年、工事に着手しましたが、早々、現在の南中学校の下手の固い岩盤の難所に突き当たり、石工達はあまりの硬さに逃げ出してしまい、工事は遅々としてはかどらず、陣房は過労のため倒れてしまいました。この様子を見て、義心が強く、名石工の誉れが高い大野村在住の織平が手助けに訪れ、その力によって難所を切り開くことができました。この開削成功の報を聞き陣房は喜びましたが、過労がたたってか、工事半ばにしてなくなってしまいました。陣房亡き後、息子の正房が工事を受け継ぎ、文政七年村人達が夢にまで見た水路がようやく完成しました。水路工事に参加した人々は、二万一千余人にものぼり、いかに大規模な土木工事であったかがうかがわれます。
弘化三年(一八四六)村人達は石碑を建て、岩崎氏の功績をたたえました。現在この碑は南中学校の南西約
300mの山際に建っています。

小切畑のシシ垣  臼杵市小切畑 ( 大分県 )

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小切畑のシシ垣  臼杵市小切畑

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号障子岩交差点先の次の市道を、武山の方へ右折する。すぐ左に小切畑入口の標識があり、この道を上がって行くと、高台の小切畑集落に着く。
シシ垣の場所は、地元小中氏に教えてもらった。集落から望める所在図の青囲線あたりである。すぐ近くまで狭い農道(軽トラは通行可)が入る。終点から平坦な山道を200mほど歩いた右下方谷間斜面を囲む土塁がそうであるらしい。

最初、私ひとりではわからなかった。そうすると小中氏がわざわざ鎌を持って現地案内してくれた。山林境界「二九一」の標柱が目印となる。同氏も若い頃の記憶である。現地は今、植林地となってシダなど下草が高く生い茂り、どうしても土塁は探しきれなかった。
市から調査に来ているので、シシ垣の正しい場所はここかも知れないが、農道終点からこの山林標柱の間、山道の右脇に高さ1.5mほどの長い土塁を見る。土塁内には移転した集落の墓地跡があった。そうするとこの間の土塁も、私には延長したシシ垣のようにも考えられるため、この現況写真(写真6〜8)を参考のため掲げる。

小切畑のシシ垣 こぎりはた
臼杵市 猪垣(土塁) 江戸期? 市教委 放置保存 2

武山の三郡境石1・2・3  臼杵市武山(コニタ) ( 大分県 )

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武山の三郡境石1・2・3  臼杵市武山(コニタ)

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号障子岩交差点先の次の市道を、武山の方へ右折する。正願橋手前の分岐はそのまま左へ。1.6km先の吐合橋手前に「武山三郡境の石碑」入口標識があるので、この道へ入る。
先は荒れた狭い車道で、普通車は通行不能だろう。10分ほど歩くと現地に着く。2枚目写真で大野郡境石は、左右の2本奥の木立内にあるので、注意して探す。寸法は、いずれも横27×幅27×高さ(台座上)150cm。
場所がわかりにくいから、所在図を載せる。

武山の三郡境石1 たけやま (写真 4〜 7)
臼杵市 (コニタ) 境界石 高約160㎝ 安政6(1859) 市有形 WEB/市教委 原位置 (正面)「従是寅卯之間 海部郡」/3本の境界石が3角に並ぶ 1 B

武山の三郡境石2 たけやま (写真 8〜11)
臼杵市 (コニタ) 境界石 高約160㎝ 安政6(1859) 市有形 WEB/市教委 原位置 (正面)「従是亥子之間 大分郡」/3本の境界石が3角に並ぶ 1 B

武山の三郡境石3 たけやま (写真12〜15)
臼杵市 (コニタ) 境界石 高約160㎝ 安政6(1859) 市有形 WEB/市教委 原位置 (正面)「従是午未之間 大野郡」/3本の境界石が3角に並ぶ 1 B

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

三郡境の石柱

臼杵は、東西19.35km、南北21.88kmと東西に比べ南北に長く、現在は約152.26平方kmの面積を有していますが、臼杵藩時代には大分郡・大野郡の一部を含み、今より2〜3倍の広さの土地を領有していました。
北は現在の臼杵坂ノ市有料道路の西側、屋山から丹生・宮河内を経て、大野川東岸の戸次・筒井まで、西は犬飼から国道326号線を南へ下がり、三国峠に至るほぼ国道の東側部分、南は川登から東・西神野を経て、平岩・徳浦そして長目浦に至るまでの土地を含む広い範囲でした。
他藩の領地との境は、飛地などがあったこともあり複雑に入り組んでいました。境はほとんどの場合、山の尾根、谷、川、道などによって分けられ、それでもなお判りにくい時は、境に石を積んだり、埋めたり、また木を植えたりしてはっきりさせていました。このことは、他領との境だけでなく、同じ領内においても言えることです。この場合のほうが、自分達の生活の上に直接年貢という税金の形で跳ね返ることが多かっただけに土地境をより明確にすることに心を配っていたようです。
土地の境を表すものは、前にも述べたように色々ありますが、市内武山字コニタには珍しい地境を示す凝灰岩製の石柱があります。ここは海部郡・大分郡・大野郡の三郡が接する場所であるため三方向にそれぞれの郡の土地であることを示す高さ約1.6mの石柱が建てられています。各郡を示す石柱の各面には次のような文字が刻まれています。
〈海部郡〉
(南面)従是寅卯之間 海部郡
(北面)岩屋川組 大庄屋
安部關蔵代
(東面)安政六年さい次巳未
(西面)三月上かん庚辰建焉
〈大分郡〉
(東面)従是亥子之間 大分郡
(西面)長小野組 大庄屋
釘宮守左衛門代
(北面)安政六年さい次巳未
(南面)三月上かん庚辰建焉
衡山(こうざん)書
〈大野郡〉
(西面)従是午未之間 大野郡
(東面)黍野組 大庄屋
さ土原雅之丞代
(北面)安政六年さい次巳未
(南面)三月上かん庚辰建焉

吐 合 橋  臼杵市武山 ( 大分県 )

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吐 合 橋  臼杵市武山

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号障子岩交差点先の次の市道を、武山の方へ右折する。正願橋手前の分岐はそのまま左へ、1.6km先にこの石橋が架かる。

№401  吐合(はきあい)橋

臼杵市武山-大分市志津留
橋長:7.9m  橋幅:4.2m  径間:3.9m  拱矢:2.0m
架設:昭和6年
大典橋よりさらに800m西進、分岐を左折、1.6Km先に架かっています。

大 典 橋  臼杵市武山 堤内 ( 大分県 )

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大 典 橋  臼杵市武山 堤内

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号障子岩交差点先の次の市道を、武山の方へ右折すると、750m右手にこの石橋が架かる。

№400  大典(たいてん)橋

臼杵市武山 堤内
橋長:11.1m  橋幅:2.6m
架設:昭和3年
国道502号線、臼杵石仏入口から3Km西進、町道へ右折。750m右手に架かっています。

竜原寺三重塔  臼杵市福良 ( 大分県 )

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竜原寺三重塔  臼杵市福良

大分県HP「おおいたデジタルアーカイブ」による説明は、次のとおり。臼杵市街の県道33号沿い平清水に竜原寺三重塔はある。

竜原寺三重塔 −県有形文化財指定・臼杵市−

臼杵市には、歴史的町並みと文化的遺産が数多く残っている。昭和32年3月に県の有形文化財に指定された竜原寺の三重塔もその代表的建築物。安政5年(1858)に完成したこの塔は、市内平清水に昔と変わらぬたたずまいを見せている。この寺の三重塔は、塔の中心を貫く心柱が一階部分には無く、振り子のように動くことで逆方向の揺れが生じ、地震の揺れを衰えさせる。当時、科学的裏づけが見出され、高層ビルの建築などに利用されるようになった

畳屋町の石敢當  臼杵市二王座 ( 大分県 )

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畳屋町の石敢當  臼杵市二王座

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市街の八町大路(中央通り商店街)、市営畳屋町駐車場のところに立つ。

畳屋町の石敢當 たたみや
臼杵市 石敢當(隅丸型) 高140㎝(塔身のみ),幅39㎝,厚14㎝ 明治20代の再刻 〔享和3(1803)以前〕 市有形民俗 WEB 現存遺物は明治期に建立されたもの 建立当時は木製、江戸期に石造なるが西南戦争で破壊/享和3に岡藩の儒学者・唐橋君山らが編纂した『豊後国志』には、戦国武将・大友宗麟が天正3(1575)に建立したと記載(この時期の書物には意図的な“誤解”を多いので間違いの可能性も大きいが、享和3に存在していたことは確実)→日本最古の石敢當との記載が時折見られる

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

石敢當の塔(せっかんとうのとう)

畳屋町本通りの仏具店と家具店の間に細い路地があり、掛町へと抜けています。この路地を畳屋町の通りから十メートルくらい入ると左手の鉄格子越しに石段が見えます。ここが養元山八幡社です。この八幡社境内に「石敢當」の塔があります。
「石敢當」は向かうところ敵無しという意味で、唐の時代にはじまりこの三字を石に刻んで路傍や橋畔などの要害のところに建てておくと災禍を除くといわれています。
塔は凝灰岩でできており高さは約1.6mあります。言い伝えによりますとこの塔を臼杵にもたらしたのは明(中国)の人だとか。はじめは市浜の呑碧寺か安養寺の門前にあったものが、この境内に移され、あるいは戦火に遭って再建されたともいわれています。
文字は名筆です。昭和四十二年に市の文化財に指定されています。
養元山八幡社の祭礼が三月十一日に行われ町内の若者によって獅子舞も行われます。