月別アーカイブ: 2015年11月

臼杵の町並み  臼杵市二王座ほか ( 大分県 )

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臼杵の町並み  臼杵市二王座ほか

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。臼杵市街の八町大路(中央通り商店街)や二王座歴史の道に行く。

町並み

大友宗麟が、丹生嶋(現在の臼杵公園)へ城を築いて以後、明治維新を迎えるまで臼杵は城下町として、あるいは商業都市として栄えてきました。現在でも市内の仁王座や横町、浜町周辺を歩いていると、どっしりとした量感溢れる門構えの武家屋敷跡や白壁の土蔵などが立ち並び、往時の城下町の姿や商業都市としての名残をとどめており、町全体に静かで落ち着いた風情が感じられます。
町形成の歴史は古く、丹生嶋城の築城と時を同じくして町づくりも始まったと考えられます。文禄二年(一五九三)、山口玄蕃頭宗永が作成した「豊後国海辺郡臼杵荘御検地帳 惣町屋敷」の中に唐人町、畳屋町、唐人町懸ノ町、海添中町、横浜町、吉永小路片町、浜町、菊屋町、横町、祇園之洲内などの町名が十町見え、あわせて三百二十九軒(この内、十三軒は無主)の屋敷があったとしるされています。このことから考えても文禄以前にすでに町が形成され、町割りも行われていたといえます。
その後、江戸時代になると各町の統合と分離が進み、さらに身分による生活地域の区分も行われています。万治年間(一六五八〜六〇)ごろの城下の様相を書き写した絵図を見ると、武家屋敷や寺院は福良から仁王座、海添にかけて立ち並び、町屋は現在の辻ロータリー、本町通りから北側、臼杵川までの範囲に限られています。現在の田町、畳屋町、本町、掛町、横町、浜町、新町、唐人町などの町並みは、ほぼこのころに形づくられたと思われます。
古い建物と新しい建物が同居し対称をなす町並み、そんなアンバランスの中にも伝統と歴史の重みがひしひしと感じられます。

辻 井 戸  臼杵市臼杵 ( 大分県 )

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辻 井 戸  臼杵市臼杵

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR臼杵駅前から臼杵城跡の臼杵公園に向かう。公園の南西側、辻バス停の観光交流プラザ敷地内に辻井戸はある。

辻井戸 つじ
臼杵市 (臼杵) 石井戸 江戸期 WEB/市教委 保存状態良好 『稲葉家譜』に、「古老の言によれば、大友氏の家臣であった辻井某がこの辺りに居住しており、辻井殿と呼ばれていた」「辻井戸というのは辻井殿がなまったもの」と記されている/臼杵城下を代表する井戸/塩分を含まない上質の水が湧出するため、上水道が普及するまでは飲用だけでなく、醸造用にも使用 2 B

臼杵城跡桁橋  臼杵市臼杵 ( 大分県 )

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臼杵城跡桁橋  臼杵市臼杵

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。臼杵城跡は臼杵公園となっており、県道33号などにより行く。この石橋は公園西側にある。

№1,566 臼杵城跡桁橋

臼杵市臼杵
4径間桁橋 

洲崎台場・跡(将棋頭台場・跡)  臼杵市臼杵 ( 大分県 )

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洲崎台場・跡(将棋頭台場・跡)  臼杵市臼杵

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市役所の西隣り、臼杵市立東中学校校庭の臼杵湾に面した海岸側に、洲崎台場・跡が残る。市役所駐車場から歩いて見学する。近くに郷土の作家、野上弥生子が過ごした家もある。

洲崎台場・跡(将棋頭台場・跡) すさき
臼杵市 台場(石塁) 文久3(1863) WEB/市教委 石垣が残る(東中学校の東) 臼杵藩の台場中最大規模で、延べ32000人の農民を使役して構築/洲崎の先端部に造られた大規模な石垣の中央部が突出しているため、「将棋頭」の別称がある 3 B

虹 澗 橋・虹澗橋碑  臼杵市野津町・豊後大野市三重町 ( 大分県 )

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虹 澗 橋・虹澗橋碑  臼杵市野津町・豊後大野市三重町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道326号三重町三重原から分岐して、国道502号を臼杵方面へ約2.5km、新虹澗橋から左折する。

虹澗橋 こうかん
臼杵市・豊後大野市 一般道/三重川 石アーチ橋 長31m,S25.2m(A) 文政7(1824) 国重文 日本百名橋p219-220/WEB(石橋) /市教委 大型車を通すため取り付け部を1mほど嵩上げして水平に→端部では高欄上にC壁 臼杵へ年貢米を運搬する際の最大の難所だった柳井瀬に、3人の豪商(三重・市場の油屋富治と後藤喜十郎、臼杵城下の茶屋・甲斐源助)が藩の許しを得て自費で架けたもの→私財投入で身代が傾いた/石工棟梁:臼杵の大野織平、支保工:大工・磯五郎/虹型の美しいアーチ橋 2 A

虹澗橋碑 こうかん
臼杵市 虹澗橋 石碑 高215㎝(地表部約135㎝),幅約110㎝ 文政9(1826) 大分の石橋記念碑p70-71 原位置/下部埋設(管理が悪い) (正面頂部)「虹/澗/橋/記」、(正面)「豊之三重郷桺瀬渡兩嶔夾峙澗流百尋奔突浹□形雖小己東之峽□以□也以過渉不可/舟自昔行李啇旅落砥碕之嶮窄而蹈碓石之出水故方秋霖夏潦溢浪迅激砅巖泐嵃租賦/爲之諬留販旅積日羪阻烏乎天之倹介夫誰奪之乎凡石橋之可記者趙州洨□梁集萬安/千百之一耳郷邑有甲斐源助多田富治後藤喜十者研精構思數十年始見神功可兾也□/是得石工織平者而相與謀之乃結高基於深淵之回巖起累石□絶壁之鑿空無一條之柱/脚連鎖之牢縶皆畳石爲之邊以巨石節〃相以龍鱗結絡凢巨淵趾五丈一尺基石相距八/丈四尺亭〃如初月低天鏟□既就被以土石南北兩邊畳石爲壁合橋東西捄築之地面三/十九丈六尺合七十九丈餘肬後連石爲橋長十丈二尺廣二丈七尺勾欄四角皆以巨石爲/界橋東西或威夷□通□曲折濔迆皆與四會相通創造文政四年辛巳正月至七年甲申六/月訖功於是租載□方軌擔負可摩肩材木□以運重行李不以賲時爲凢物難於始製而易/於襲跡固矣故趙石橋於李春蜀七星於黄一中古人係記銘干其神功者豈不以其難而不/可爲故乎若其不難何有乎記銘哉此斯橋□以須記也烏乎奪天嶮而令就安乃期永固於/堅石功利之大豈不偉哉豊人其令余記其事胡越之隔余雖未渉其地美其事而不敢辭爲/之記且係以銘曰/夫□人工之無巳奪自然之妙有架□□梁可濟驅神人石可敺嗟此橋創意豈假干喁盤根/雲構截嶮鏟陡累石梱緻長短別趣流無逆伏□□畫守四朞初就奇特無偶宛虹飲澗盤龍/蚴蟉□與山争利與地厚此諸鬼橋烏能可醜梱載無累來往殷阜維石不滅齊頼悠久」 3 B

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。

№96  虹澗橋(柳井瀬橋)

豊後大野市三重町菅生−臼杵市野津町大字西畑
大分県有形文化財(昭和54年5月15日指定)
国指定重要文化財(平成11年12月1日指定)

三重川
橋長:31m   橋幅:6.5m  径間:25.2m 
架橋:文政7年(1824)
国道326号線三重町より分岐して国道502号線を臼杵方面へ約2.5Km、新虹澗橋を左折。

虹澗橋
「虹澗(こうかん)橋は通称柳井瀬橋という。三重川の河口から5Kmにある石造アーチ橋である。虹はにじ、澗は谷川という意味である。三重川の渓谷にかかる華麗な姿から虹澗橋と命名された。
岡城下から臼杵城下に至る街道のうち、ここ柳井瀬は最も交通の難所であり、人馬の通行はもちろん物資の輸送の大きな障害となっていた。
臼杵(臼杵市)の甲斐源助、三重市(三重町)の多田富治ならびに後藤喜十郎は、人々の困苦を救済しようと文政3年(1820)、臼杵藩に架橋を願い出て許可を得、下ノ江村の名石工井沢織平を選んで、翌文政4年着工、4年の歳月を経た文政7年(1824)に完工した。
この架橋のため、人馬の交通はきわめて便利となったが、莫大な出費によって3人の豪商は家運を傾けたという。
以来170余年、美しい姿を保ちながら、よく過酷な交通量に耐え、昭和63年(1988)、上流に架けられた新虹澗橋にその使命を譲った。このときにあたって三重町民ひとしくこの名橋の恩恵に感謝し、あわせて架橋に尽力した故人の功績をたたえる。」
平成12年5月  豊後大野市

旗返峠の堀切り  豊後大野市三重町奥畑 ( 大分県 )

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旗返峠の堀切り  豊後大野市三重町奥畑

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。三重町市場一区交差点から国道326号に入り、三国峠の方へ向かう。往時の日向道だった「旗返峠」の場所は、地形図のとおり。三国トンネルを抜けた先(樫峰入口)から黄色線のとおり進む。国道ガード下の入口には「この先通り抜け出来ません」の標識があった。点線区間は車は通れないし、落石と草茫々の荒れた道である。

私のバイクで通れる所まで行って、それから1時間ほど歩き、県道化工事で隧道を掘りかけ中止した跡に着いた。こんな道は今は誰も歩かないし、峠まで登る道は倒木などで全く不明。左植林地や雑木林をやみくも突破して尾根上に出て、隧道真上の峠と思われる鞍部にやっとたどり着いた。時間はかなり要した。
近くに弘化3年建立「大来妙典一字一石塔」が立つ。地形図からもこの鞍部が日向道「旗返峠」と判断した。

さて、頂上付近が低い切通しになっているという「旗返峠の堀切り」。明確なものは見当たらないが、峠西側直下の道に写真のとおりそれらしき場所があったので写してきた。私はアプローチを考えて三国トンネル先から峠へ登ったのだが、西側は奥畑から登る道である。この方が今、伐採関係者が入り、道は明確なようである。
遺産リストのあと1件「旗返峠の石畳」も、この奥畑側にあるので、それなら奥畑側から登ったのにと悔やまれた。石畳は未調査。「歴史の道」本を私は持たない。正確なことは遺産サイトで確認をお願いしたい。

旗返峠の堀切り はたがえし
豊後大野市 旗返峠<日向道> 切通し 江戸期 歴史の道・日向道p42 保存状態良好 旗返峠の頂上付近が低い切通しになっている 1 –

旗返峠の石畳 はたがえし
豊後大野市 旗返峠<日向道> 石畳道 長30m,50m,20m 江戸期 歴史の道・日向道p40・41 峠道の各所に短い石畳が残る/石が剥がれて路傍に積まれている部分も 4 C

浄運寺つつじ園  豊後大野市三重町内田 ( 大分県 )

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浄運寺つつじ園  豊後大野市三重町内田

豊後大野市HPの文化財による説明は、次のとおり。三重町市場一区交差点から国道326号に入り、三国峠の方へ向かう。市街のはずれの国道沿いに浄運寺はある。

市指定名勝  浄運寺つつじ園

久良知区浄運寺裏にある庭園である。山腹を利用し自然石を巧みに生かし、下方には泉水を配しており優雅な趣がある。ツツジは約200本あり、大きいものは八畳程の広さがあり、樹齢は200年を越えると推定される。6月上旬の開花期には全山が花に覆われ多くの見物客を集めている。当寺の開基は慶長8年(1603)松山藩主の子、光誉良意上人と伝えられているが、南北朝時代の宝篋印塔等の中世石塔類が所在するため歴史的にも古いことが推定される。しかし明治25年の火災のため記録を焼失し、造園についての由来は明確でない。
所在地:三重町内田(塔ノ迫)
指定年月日: 平成17年3月31日市指定(昭和47年3月27日三重町指定)

蓮城寺の町石(十一丁)  豊後大野市三重町秋葉 ( 大分県 )

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蓮城寺の町石(十一丁)  豊後大野市三重町秋葉

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。三重町市場一区交差点から国道326号に入り、三国峠の方へ向かう。市街のはずれの国道沿いに年神社があり、境内南端の植え込みの中にこの標石がある。

蓮城寺の町石(十一丁) れんじょう
豊後大野市 (秋葉)鬼塚区の年神社 町石 高約0.5m 文化2(1805) 市有形民俗 市教委 移設 蓮城寺までの丁数を示す/「十一丁」 2 –

豊後大野市HPの文化財による説明は、次のとおり。

市指定有形民俗文化財  町 石

鬼塚区の国道326号線沿いの年神社境内にある。総高85cmの凝灰岩製四角柱で、上部に梵字、下に「十一丁 文化二年」と刻まれており、文化2年(1805)の造立であることが分かる。同様のものが他にもあったが、現在はこの町石だけしか現存しない。町石は内山観音の参道に一丁(町)毎に建てられたもので、内山観音まであと何丁かを示す道標である。起点は市場付近と考えられ、最終は内山観音の一丁手前であったと推定されている。〔※一丁(町)は江戸時代の距離の単位で、60間・110m弱〕
所在地:三重町秋葉(年ノ神)
指定年月日:平成17年3月31日市指定(昭和38年3月30日三重町指定)

年神社社叢 豊後大野市三重町秋葉 ( 大分県 )

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年神社社叢 豊後大野市三重町秋葉

豊後大野市HP文化財による説明は、次のとおり。三重町市場一区交差点から国道326号に入り三国峠の方へ向かう。市街のはずれの国道沿いに年神社がある。

市指定天然記念物  年神社の社叢

鬼塚区の国道沿いに所在する年神社境内に神木としての巨木群がある。エノキ・ムク・フジがあり、3種11本がある。人為的で下草が乏しい状態であるが、特にエノキの巨木(胸高幹囲3.15m、高さ20m)やムク(胸高幹囲2.9m、高さ18m)は、巨樹として貴重である。
所在地:三重町秋葉(年ノ神)
指定年月日: 平成17年3月31日市指定(昭和61年8月8日三重町指定).

長峰の石畳  豊後大野市千歳町長峰 ( 大分県 )

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長峰の石畳  豊後大野市千歳町長峰

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。場所は豊後大野市千歳支所に所在地図のとおりと聞いて出かけた。
支所から国道57号に出て、東へ向かう。千歳町特産品直売所の先に「野尻橋」があり、橋を渡って高台に進んだ最初の四つ角手前あたりが、その場所である。

現地へ行っても現況が変わり、旧道がどこか、ブッシュで石が見えないとあるとおり、前記事の「一の谷の石畳」と同じく、私にはさっぱりわからなかった。
地図の場所とは少し外れるが、四つ角左上には造成された工藤産業の新しい建物が建っている。この後ろ側に旧道らしい跡は少しは感じられるが、藪ではどうしようもない。市道をまっすぐ登りつめると、史跡「茶屋の辻庚申塔」が立つ原があった。

長峰の石畳 ながみね
豊後大野市 (長峰) 石畳道(廃道) 長20m程度 江戸期? 市教委 一部残存(ブッシュで石が見えない) 肥後往還から明覚寺へ行くための参道の急勾配の地点に敷設 4 –