臼杵の町並み  臼杵市二王座ほか ( 大分県 )

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臼杵の町並み  臼杵市二王座ほか

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。臼杵市街の八町大路(中央通り商店街)や二王座歴史の道に行く。

町並み

大友宗麟が、丹生嶋(現在の臼杵公園)へ城を築いて以後、明治維新を迎えるまで臼杵は城下町として、あるいは商業都市として栄えてきました。現在でも市内の仁王座や横町、浜町周辺を歩いていると、どっしりとした量感溢れる門構えの武家屋敷跡や白壁の土蔵などが立ち並び、往時の城下町の姿や商業都市としての名残をとどめており、町全体に静かで落ち着いた風情が感じられます。
町形成の歴史は古く、丹生嶋城の築城と時を同じくして町づくりも始まったと考えられます。文禄二年(一五九三)、山口玄蕃頭宗永が作成した「豊後国海辺郡臼杵荘御検地帳 惣町屋敷」の中に唐人町、畳屋町、唐人町懸ノ町、海添中町、横浜町、吉永小路片町、浜町、菊屋町、横町、祇園之洲内などの町名が十町見え、あわせて三百二十九軒(この内、十三軒は無主)の屋敷があったとしるされています。このことから考えても文禄以前にすでに町が形成され、町割りも行われていたといえます。
その後、江戸時代になると各町の統合と分離が進み、さらに身分による生活地域の区分も行われています。万治年間(一六五八〜六〇)ごろの城下の様相を書き写した絵図を見ると、武家屋敷や寺院は福良から仁王座、海添にかけて立ち並び、町屋は現在の辻ロータリー、本町通りから北側、臼杵川までの範囲に限られています。現在の田町、畳屋町、本町、掛町、横町、浜町、新町、唐人町などの町並みは、ほぼこのころに形づくられたと思われます。
古い建物と新しい建物が同居し対称をなす町並み、そんなアンバランスの中にも伝統と歴史の重みがひしひしと感じられます。