虹 澗 橋・虹澗橋碑  臼杵市野津町・豊後大野市三重町 ( 大分県 )

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虹 澗 橋・虹澗橋碑  臼杵市野津町・豊後大野市三重町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道326号三重町三重原から分岐して、国道502号を臼杵方面へ約2.5km、新虹澗橋から左折する。

虹澗橋 こうかん
臼杵市・豊後大野市 一般道/三重川 石アーチ橋 長31m,S25.2m(A) 文政7(1824) 国重文 日本百名橋p219-220/WEB(石橋) /市教委 大型車を通すため取り付け部を1mほど嵩上げして水平に→端部では高欄上にC壁 臼杵へ年貢米を運搬する際の最大の難所だった柳井瀬に、3人の豪商(三重・市場の油屋富治と後藤喜十郎、臼杵城下の茶屋・甲斐源助)が藩の許しを得て自費で架けたもの→私財投入で身代が傾いた/石工棟梁:臼杵の大野織平、支保工:大工・磯五郎/虹型の美しいアーチ橋 2 A

虹澗橋碑 こうかん
臼杵市 虹澗橋 石碑 高215㎝(地表部約135㎝),幅約110㎝ 文政9(1826) 大分の石橋記念碑p70-71 原位置/下部埋設(管理が悪い) (正面頂部)「虹/澗/橋/記」、(正面)「豊之三重郷桺瀬渡兩嶔夾峙澗流百尋奔突浹□形雖小己東之峽□以□也以過渉不可/舟自昔行李啇旅落砥碕之嶮窄而蹈碓石之出水故方秋霖夏潦溢浪迅激砅巖泐嵃租賦/爲之諬留販旅積日羪阻烏乎天之倹介夫誰奪之乎凡石橋之可記者趙州洨□梁集萬安/千百之一耳郷邑有甲斐源助多田富治後藤喜十者研精構思數十年始見神功可兾也□/是得石工織平者而相與謀之乃結高基於深淵之回巖起累石□絶壁之鑿空無一條之柱/脚連鎖之牢縶皆畳石爲之邊以巨石節〃相以龍鱗結絡凢巨淵趾五丈一尺基石相距八/丈四尺亭〃如初月低天鏟□既就被以土石南北兩邊畳石爲壁合橋東西捄築之地面三/十九丈六尺合七十九丈餘肬後連石爲橋長十丈二尺廣二丈七尺勾欄四角皆以巨石爲/界橋東西或威夷□通□曲折濔迆皆與四會相通創造文政四年辛巳正月至七年甲申六/月訖功於是租載□方軌擔負可摩肩材木□以運重行李不以賲時爲凢物難於始製而易/於襲跡固矣故趙石橋於李春蜀七星於黄一中古人係記銘干其神功者豈不以其難而不/可爲故乎若其不難何有乎記銘哉此斯橋□以須記也烏乎奪天嶮而令就安乃期永固於/堅石功利之大豈不偉哉豊人其令余記其事胡越之隔余雖未渉其地美其事而不敢辭爲/之記且係以銘曰/夫□人工之無巳奪自然之妙有架□□梁可濟驅神人石可敺嗟此橋創意豈假干喁盤根/雲構截嶮鏟陡累石梱緻長短別趣流無逆伏□□畫守四朞初就奇特無偶宛虹飲澗盤龍/蚴蟉□與山争利與地厚此諸鬼橋烏能可醜梱載無累來往殷阜維石不滅齊頼悠久」 3 B

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。

№96  虹澗橋(柳井瀬橋)

豊後大野市三重町菅生−臼杵市野津町大字西畑
大分県有形文化財(昭和54年5月15日指定)
国指定重要文化財(平成11年12月1日指定)

三重川
橋長:31m   橋幅:6.5m  径間:25.2m 
架橋:文政7年(1824)
国道326号線三重町より分岐して国道502号線を臼杵方面へ約2.5Km、新虹澗橋を左折。

虹澗橋
「虹澗(こうかん)橋は通称柳井瀬橋という。三重川の河口から5Kmにある石造アーチ橋である。虹はにじ、澗は谷川という意味である。三重川の渓谷にかかる華麗な姿から虹澗橋と命名された。
岡城下から臼杵城下に至る街道のうち、ここ柳井瀬は最も交通の難所であり、人馬の通行はもちろん物資の輸送の大きな障害となっていた。
臼杵(臼杵市)の甲斐源助、三重市(三重町)の多田富治ならびに後藤喜十郎は、人々の困苦を救済しようと文政3年(1820)、臼杵藩に架橋を願い出て許可を得、下ノ江村の名石工井沢織平を選んで、翌文政4年着工、4年の歳月を経た文政7年(1824)に完工した。
この架橋のため、人馬の交通はきわめて便利となったが、莫大な出費によって3人の豪商は家運を傾けたという。
以来170余年、美しい姿を保ちながら、よく過酷な交通量に耐え、昭和63年(1988)、上流に架けられた新虹澗橋にその使命を譲った。このときにあたって三重町民ひとしくこの名橋の恩恵に感謝し、あわせて架橋に尽力した故人の功績をたたえる。」
平成12年5月  豊後大野市