二王座の切通し・山下水・御口屋の井戸  臼杵市二王座ほか ( 大分県 )

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二王座の切通し・山下水・御口屋の井戸  臼杵市二王座ほか

臼杵市観光パンフレットから私が見た二王座の切通しと、南海添の山下水・御口屋の井戸。サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。

二王座の切通し におうざ
臼杵市 (臼杵) 切通し 数ヶ所 戦国〜江戸期 市教委 臼杵を代表する景観として観光地化 二王座(凝灰岩の台地)に登る坂道/家並の中心の切通しは石垣に、少し外れると岩肌が見え(写真の場所)、その外側は岩肌がむき出しになっている 2 B

海添の御口屋井戸 かいぞえ、おぐちや
臼杵市 (海添)<津久見街道> 石井戸 102㎝×102㎝,高60㎝,径70㎝の穴 延宝5(1677)以降 WEB/市教委 名水として知られる/米穀店の敷地内 津久見街道の城下入口に設けられた御口屋(番所)の井戸/厚さ30㎝の凝灰岩の中央を丸くくり抜き、2段重ねて井戸枠とした 1 B

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見よる説明は、次のとおり。

海添御口屋跡と井戸(かいぞえおぐちやあとといど)  所在 臼杵市大字海添

御口屋と言っても、聞きなれない言葉だけにちょっと戸惑うかもしれません。簡単に言えば、臼杵藩時代の番所のことです。この御口屋は、城下へ通じる主要な往来道(街道)の城下入り口の位置に設けられていました。ここは、城下へ出入りする人々の中に不審な者がいるかどうか監視をする役割を持ったところです。
海添の御口屋は、津久見街道口に設けられたものです。臼杵藩時代の記録「温故年表録」によると、「延宝五年丁巳 三月二十一日 海添口屋番所立」とあり、一六七七年に口屋番所が建てられたことがわかります。この口屋番所の建設によって、主に外からの侵入に対して無防備ともいえた津久見街道の海添口を固めると言う意味も含まれていたと思われます。
この口屋番所は、宝蓮寺の斜向いにあります斉藤米穀店の付近に位置していました。またこの店の敷地内には御口屋の井戸が残っています。
この井戸水は、今日名水の一つとして広く市民に知られています。井戸は立派なもので、井戸枠は、一辺
102cm、厚さ30cmの凝灰岩の中央部分に直径約70cmの穴を穿ったものを二つ重ねて作られています。井戸の内部は、珪岩などの自然石を積み上げて円筒状につくりあげています。深さは、井戸枠上面から水面まで245cmほどあります。
海添の御口屋が設けられた時期は、第五代鹿景通が臼杵藩主として藩政の改革や定められた数々の法規を確固たるものとし、積極的に城下の整備に努めた時代で、内政に力を注げるようになったということは、この頃に世情もようやく落ち着きを取り戻し、平穏な時代に入ったことを表しているのではないでしょうか。