月別アーカイブ: 2014年8月

熊本県のアーチ式石橋  蓬莱橋  小国町黒渕

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熊本県のアーチ式石橋  蓬莱橋  小国町黒渕

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,207  蓬莱橋  (架設当初:鳳来橋)

阿蘇郡小国町大字黒淵字東蓬莱(ほうらい)
橋長:14.4m  橋幅:3.6m  径間:10.0m  拱矢:3.8m  環厚:51cm
架設:明治25年(1892)  架替:昭和28年(1953)

道の駅小国から国道387号線を2.9Km西進、神社前を右折、300m先左手です。

鍋ヶ滝  小国町黒渕

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鍋ヶ滝  小国町黒渕

熊本県観光サイト なごみ紀行による説明は、次のとおり。鍋ヶ滝は、裏見の滝としても有名。

鍋ヶ滝   所在地 熊本県阿蘇郡小国町黒渕

坂本善三美術館から車で5分。地元の有志が滝までの歩道を整備、人の手を加えすぎない癒しの空間となっている。滝の高さは9m、長さ20mと落差よりも川幅が広いため優しい印象で、新緑の頃は特にその姿は美しい。
※ゴールデンウィーク期間中には滝を裏側からライトアップするイベントを開催。

下城の滝  小国町下城

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下城の滝  小国町下城

熊本県HPの地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。1枚目が「下城の滝」。
2枚目以降の写真は、上流の滝と滝上展望所までの遊歩道からの景色。滝壺までの遊歩道は、崩壊し通行禁止となっていた。

下城の滝  

所在地  阿蘇郡小国町下城
解説   谷を埋めた火砕流堆積物にかかる雄大な滝

■阿蘇−4火砕流堆積物

約9万年前に噴出した阿蘇−4火砕流堆積物は阿蘇カルデラ北方の丘陵地斜面や台地表面を広く覆い、小国町や南小国町に広く分布します。阿蘇火砕流としては最大規模の噴出であった阿蘇−4火砕流堆積物は岩相が著しく変化します。一般的に非溶結の軽石流堆積物として観察されることが多いのですが、低地では、弱〜強溶結の溶結凝灰岩として谷を埋めています。この谷が再び浸食され、見事な柱状節理を見ることができる場所もあります。
阿蘇−4火砕流堆積物の特徴としては、少量の角閃石を斑晶として含むことで他の阿蘇火砕流堆積物と容易に識別できます。堆積物の厚さは、噴出時の地形に影響されるため一定していませんが、最大で200mに達すると考えられています。

■谷を埋めた阿蘇−4火砕流堆積物にかかる下城の滝

阿蘇郡小国町宮原の約3km北方の下城本村の樅木川に「下城の滝」はかかっています。落差約30m、幅5mで豪快な流れが特徴的な滝です。「下城の滝」は、滝と滝崖をつないでみると、全体的に半円形の形をしています。この滝もカルデラ縁の北側で広く谷を埋めて分布している阿蘇−4火砕流堆積物を浸食してかかっています。滝崖には強溶結した火砕流堆積物が冷却するときの名残を残す柱状節理が発達していて雄大な景観を呈します。
このほか小国地方には小国七滝と言われるように数多くの滝がありますが、強溶結の阿蘇−1火砕流堆積物にかかる「はん田滝」以外は、ほとんど谷を埋めて溶結している阿蘇−4火砕流堆積物を浸食してかかっています。
「下城の滝」を見るときは、国道212号を小国町中心の宮原から3.5kmほど北上します。そこで、樅木川にかかる本村橋を過ぎた後、右折して約500mほど行くと、右手に滝を見下ろす展望台が
あります。近くにある「下城の大イチョウ」の黄葉の時期には、ライトアップされます。

下の城のイチョウ  小国町下城(坂下)

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下の城のイチョウ  小国町下城(坂下)

HP「全国巨樹探訪記」熊本県による説明は、次のとおり。

名称 下の城のイチョウ (しものじょうのいちょう)
名称の典拠 現地の案内板(注1)
樹種 イチョウ
樹高 20m(注2)
目通り幹囲 10.0m(注2)
推定樹齢 300年以上(注2)
所在地の地名 熊本県阿蘇郡小国町下城(坂下)
国指定天然記念物(1934年12月28日指定)

注1)1988年3月に熊本県教育委員会が設置
注2)環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による

「下の城」は地名。熊本県には国指定天然記念物のイチョウが2本ある。これは、そのうちの1本。 放射状に出る支幹が太く、力強い。これらが、どっしりと大きい樹冠を支えている。
小高い塚のような地面に立っており、根元には五輪塔(の一部)が見える。この五輪塔は、戦国末期の城主下城上総介経賢の母妙栄尼の墓と伝えられている。また、イチョウそのものが妙栄尼の墓標だとも伝えられているのだろうか。設置された2種類の案内板の説明には、内容に若干の差異がある。
このイチョウにも乳授けの伝承があるようだ。気根(ここでは乳瘤=「ちこぶ」と言う)を削って煎じて飲むのだそうだ。霊験はあらたかだそうで、ためにこのイチョウは「ちこぶさん」と呼ばれることもあるとか。しかし、雌株であることもあり、気根はあまり見えない。そのためか、別の案内板では、表皮を削って煎ずるのだとしている。
教育委員会が設置した2つの案内板とはまた別に、下城商栄会(地元商店の会だろうか?)が設置した案内板もある。その一番立派な案内板には、(母乳のありがたみが薄れてしまった現代では?)、子宝祈願、恋愛成就を願う人が絶えない、と記されていた。
イチョウの近くには落差50mの下城滝もある。ここはちょっとした観光地なのだ。国道212号沿いには、滝とイチョウ見学者のための大駐車場もある。(イチョウ見学だけなら、イチョウのすぐ近くまで車で行ける)。葉が黄金色に色づく季節にはライトアップもされるようだ。

織田武人氏稿「長崎街道雑記」No.3のプリント版

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織田武人氏稿「長崎街道雑記」No.3のプリント版

次の文書を添えて、織田武人氏稿「長崎街道雑記」No.3のプリント版が送付されました。小冊子として発刊されるかは未定ですから、No.1、No.2に続き、各位の長崎街道研究資料として活用ください。

異常な天候が続いております。皆様方には、いかがお過ごしでしょうか。
つきましては、「長崎街道雑記」として、黒岩竹二先生のご指導の下で、発刊しておりましたが、休刊しておりました。
私なりに諸資料をメモしておりましたので、簡単にコピーにてメモを小冊子にプリントいたしました。考証等出来ませず失礼ですが、お送りさせていただきます。
◇シーボルトの江戸参府の折りの、諫早での宿泊は安勝寺。
◇龍馬が、長崎への来崎は、洛陽日記で一つのヒントになるのか。
◇砂糖の運搬(送り)については、2通ですが資料には。

「長崎街道雑記」No.2は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/225
街道石標の実際の写真は、本ブログ次などを参照。
https://misakimichi.com/archives/181
https://misakimichi.com/archives/470
https://misakimichi.com/archives/1444

押戸石の丘  南小国町中原

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押戸石の丘  南小国町中原

私は「マゼノミステリーロード」というので、畜産試験場阿蘇支所から右折して(地図が古かった)行ったが、この道はなかなかわかりにくかった。かえって大観峰から南小国町へ国道212号を下ると、赤馬場手前に最近設置された標識があり、案内に従い西部農免農道へ入る。押戸橋手前にまた案内板があり、これから「押戸石の丘」まで約2km、狭い悪路を登る。駐車場から丘の上まで一周して歩くが、これもかなりきつい。

現地は、NPO法人 押戸石の丘 南小国町観光協会が管理している。同会HPによる説明は、次のとおり。 
http://www.oshitoishi.com/index.html を参照。
写真7が、シュメール文字が刻まれているという「鏡石」だが、私たちにはわからない。解説板がほしい。

押戸石の巨石群

平成元年2月、南小国町教育委員会は、この巨石に不思議な線刻文様があることを見つけ、その後山頂一帯にある巨石群は、人工的に配置された9組の環状列石遺構であることがニューヨーク州立大学のライル・ボルスト教授によって確認され、ユネスコ岩石芸術会をはじめアメリカやカナダの岩石芸術学会、日本ペトログラフ協会等の国際学会で先史時代の巨石文化遺跡であることが認証されました。また山頂の太陽石から南西方向に下る山腹の直線上に、約5m間隔で岩石が直線配列されており、”クロムレック”(”環状の石”の意)とも呼ばれています。

シュメール文字が刻まれた鏡石
この石には神聖なる雄牛の文字と蛇神の文字がはっきりと刻まれていることがわかる。蛇神をナーガ、聖牛をバールと読む。ここの地名は南小国町中原(なかばる)である。シュメール文字の読み方の名残か?

祭壇石
神事における供え物置き場(祭壇)として使用されたものか?この祭壇石と夏至・冬至の太陽が昇る道と90°に交わる線上の北側を水の道、南側を火の道と呼ぶ。

太陽石
高さ5.5m、周囲15.3mの巨石であり、この巨石群の中心をなす。頂点の真北には北極星がある。この岩の周囲では、磁気の働きが、正常ではなく方位磁石がクルクルと回る。人を癒すパワーの源はここにあるのか、昔はこの石に登ると雨が降るとの言い伝えから、秋から、稲刈りの時期に登ると大人たちから怒られたものである。“鬼のお手玉”とも呼ばれていた。

はさみ石
夏至にはこの岩の間から太陽が昇り、冬至には太陽が沈む。古代、日時計の役割があったのか?嘘つきがこの間を通ると挟まれるとの言い伝えがある。

地図の源  阿蘇市西湯浦

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地図の源  阿蘇市西湯浦

「地図の源」石碑は、菊池渓谷から阿蘇市へ県道45号を上がって行くと、入口に標識がある。阿蘇市役所 |
Facebook の記事は、次のとおり。

阿蘇市役所  2012年11月29日
【地図の源が阿蘇市にあります!】

阿蘇市西湯浦の深葉地区にあるこの場所は、九州の大部分を含む座標系の中心で『東経131度00分00秒、北緯33度00分00秒』に位置し、まさに「地図の源」と言える場所です。
写真の石碑は2000年10月に熊本県土地家屋調査士会が土地家屋調査士の制度が誕生して50年を記念して建てられたもので、日本測地系に基づいて示されています。
人工衛星を使った測量などの普及により2002年4月から世界測地系が使われるようになるまで、この場所を原点に、様々な場所の距離などを表すことができていました。

GPSなどで示される地図は世界測地系が用いられていますので、携帯電話やスマートフォンなどで表示される地図の緯度経度ではこの石碑から400mほど南東の山の中の位置を示します。
日本測地系と世界測地系の詳細については国土地理院のホームページを参照ください。
http://www.gsi.go.jp/LAW/G2000-g2000-h3.htm

阿蘇市と菊池市を結ぶ県道45号(主要地方道阿蘇公園・菊池線)沿いにあり大観峰から西へ約9キロ、菊池渓谷から東へ約7キロの地点ですので、ドライブやツーリングで通る際にはぜひ立ち寄ってみてください。

熊本県のアーチ式石橋  永山橋  菊池市永山

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熊本県のアーチ式石橋  永山橋  菊池市永山

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№254  永山橋 (架設当初名:永山村目鑑橋)

菊池市大字原字永山(ながやま)
菊池川
橋長:21.14m  橋幅:4.7m  径間:20.4m  拱矢:7.7m  環厚:72cm
輪石:47列
架設:明治11(1878)年
石工:橋本勘五郎

立門橋からT字路に引き返し、県道45号線で約2Km進むと右手に「永山橋」の標識があります。そこから歩いて下ります。

永山橋  菊池市文化財指定
「旧永山橋は、現永山橋より130m下流に文政6年(1823年)に架けられたが、文政12年5月の洪水で流失している。現永山橋は、明治11年完成している。架橋は古老の武藤逸美氏は「私の祖父甚平に妻(祖母)がお嫁にきたのが明治9年であった。その年が着工の年で翌々年明治11年の春約2ケ年の歳月を費して現在の橋を見るに至った」と語る。工事中一度枠組みに失敗して再度やり直したと伝えられている。当時、永山橋は熊本、合志、菊池と小国、豊後との交通上の要路で、この西片4Kmの地点にある日田往還よりの立門橋と共に肥後と豊後の交易の要路上の重要な橋としての意義は大きなものがあった。石工は肥後八代種山手永の橋本勘五郎である。
使用石材は近くの上崩迫より切りだして多くの石工、大工、人夫によって構築されている。明治4年に東京に召された橋本勘五郎は、江戸橋、万世橋、浅草橋等の眼鏡橋を架けて当時の東京市民の生活の便をはかっている。内務省土木寮測量士の辞令を貰い、その辞令によると、明治7年の日付けで「月給弐拾円也」となっている。永山橋は欄干の形状に特長があるといわれる。
規模 長さ24.4m 高さ17.0m 幅 4.7m 輪石45枚」
環境庁  熊本県

不動岩  山鹿市蒲生

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不動岩  山鹿市蒲生

山鹿から菊池へ行く途中、国道325号から撮影している。クマみる|熊本情報サイトによると、これは熊本二十五景のひとつ、奇岩名勝の山鹿「不動岩」だろう。

不動岩

この不動岩は、山鹿市三玉(みたま)地区の蒲生(かもう)にあり、その北東・標高389メートルの山の中腹から頂上にかけ、天に向かって突き出しています。岩の高さは約80メートル、根回りは100メートルです。
不動岩は、5億年以上も前の古生代(オルドビス紀)の『変はんれい岩』からできたもので、まだ日本列島の形すらできていない時代のものです。
この変はんれい岩が気の遠くなる年月をかけて崩れて海に流され、海水に洗われ丸い小石や砂(さざれ石)になり、そのさざれ石が海底に厚く積み重なって強い圧力を受け岩磐となり、その周囲が削り取られていわゆる国歌「君が代」の歌詞にある「さざれ石の巌(いわお)」となったものが不動岩です。
また奇岩名勝として、熊本二十五景のひとつにも数えられています。

不動岩の名は平安時代、山伏たちがこの山中にこもり、不動明王を本尊として祀り修行したことに由来します。当時たくさんの山伏たちがこの岩の周りに坊を建て、修行していたと伝えられています。現在も不動岩の付け根には不動神社の拝殿があります。
不動岩のふもとまでは登山道路(九州自然遊歩道)が整備されており、乗用車が5台駐車できる展望所もあります。前不動・中不動・後不動の三つの岩から構成され、中不動と後不動には、遊歩道を使って登ることができ、そこからの眺望はまさに絶景といえます。

金剛乗寺の石門  山鹿市山鹿

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金剛乗寺の石門  山鹿市山鹿

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋による説明は、次のとおり。
なお、本堂右横の境内には「童子椿」がある。宥明法印お手植えと伝わり、法印が修業の旅に出て帰ってこないので、花が咲かないのだという。野口雨情の山鹿小唄に「童子椿は花なし椿 山鹿千軒たらいなし」と唄われている。

金剛乗寺の石門

山鹿市山鹿
高野山真言宗護国密山佛性院
金剛乗寺談義所略由緒
「そもそも山鹿湯町なる菊池加藤細川の代々藩主の祈祷寺 遠き由来を尋ぬれば五十三代淳和亭八二五年 天長二年の巳の年に弘法大師が九州に 真言秘密の妙教を弘めんためし山鹿にも錫を留めて地を選び 建立し給う霊地なり 大師九日のその間 茲に談義をし給えば九日町や談義所の名も是よりぞ出でにける西の高野と言う程に名も高かりし霊跡も 星霜うつり年かはり衰へたるを元暦のかたじけなくも後鳥羽院勅願再興あらせらる 然るを元徳元年に 中僧正恵鏡法印 中興の祖として薫せらる そののち文明五年の春1473年 当時法印菊池家の兼朝公の舎弟なる宥明法印大徳が 温泉出止みしその時に 祈祷によりて朧月の夜の丑の刻身命不惜の法力に涸れたる湯をば祈り出し 重朝公より境内一町三セ 寺領八十石僧屋敷 十八ケ所賜はりて 後の世までの幸いを残し給うぞ有難たき御恩を受けたる法印の徳を慕うて感恩の儀式は今に湯祭灯篭と 残りて町の繁栄を一しほ添ふるものぞかし山が湯町の氏寺と歴史を重ねて井磨ここに真言祈祷の大院なり 南無大師遍照金剛」