月別アーカイブ: 2014年8月

地蔵峠  南阿蘇村

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地蔵峠  南阿蘇村

熊本県観光サイト なごみ紀行による説明は、次のとおり。
グリーンロード南阿蘇の駐車場から、約200m登ると地蔵峠へ着く。阿蘇五岳や九重の山々の眺めがよい峠だか、あいにくの霧だった。グリーンロードを阿蘇白川の方へ下って行くと、途中に羅漢山が良く見えるところがあった。

地蔵峠

所在地 阿蘇郡南阿蘇村
阿蘇郡南阿蘇村と西原村の村境、南阿蘇外輪縦走路の俵山・冠ヶ岳と大矢野岳の間にあり、峠に3体の地蔵尊像が祭られています。秋になると風に揺れる黄金色のススキの穂が見事で、山々も紅葉で色づきます。グリーンロード南阿蘇から上ってすぐのところにあり、ここから駒返り峠付近までブナの原生林などが続く南阿蘇の代表的トレッキングコースです。紅葉時期は10月下旬〜11月中旬です。

羅漢山の奇岩  南阿蘇村河陰

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羅漢山の奇岩  南阿蘇村河陰

熊本県HPの地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。伝説の「恐ヶ渕」が近くにある。
羅漢山の頂上付近に、凝灰角礫岩の自然石橋を見ることができるが、確認には行かなかった。羅漢山の麓から地蔵峠方面へ上がる狭いコンクリート舗装の車道があるが、長くて難路。通行は勧められない。

羅漢山の奇岩(らかんざんのきがん)

所在地 阿蘇郡南阿蘇村大字河陰
解説 中国の山水画を思わせるような久木野の奇岩

○旧久木野村の風土
旧久木野村は、阿蘇カルデラ南郷谷の一部を占め、東西に長く、南北に狭い形をしています。起伏に富み、急峻に見える南外輪山は、その向こう側に住む人々を寄せ付けないかの観を呈していますが、かつては多くの峠道が開かれていました。

○羅漢山の奇岩
久木野中学校の西部に位置する羅漢山では、先阿蘇火山岩類の中の輝石安山岩質凝灰角礫岩を見ることができます。このあたりの外輪山は先阿蘇火山岩類が侵食されて火山体の内部が露出し、中国の山水画を思わせるような特異な地形を作っています。

○凝灰角礫岩とは
火山の噴火が起こると、高温の火山ガスと共に火山灰や火山レキ、火山弾などの噴出物がすごい勢いで飛び出してきます。飛び出した噴出物は、火口の周辺に厚く降り積もっていきます。このようにして降り積もったもの(堆積物)が固まって岩石となっていきます。このとき、堆積したものが火山灰ならば凝灰岩といいます。ほとんどが火山レキからなる場合を火山角レキ岩といいます。火山灰と火山レキなどが混じっている場合にレキの量が多いものを凝灰角礫岩といいます。
また、羅漢山で見られる輝石安山岩とは、どういう岩石でしょうか。地表や地表付近でマグマが固まって出来た岩石を火山岩といいます。火山岩のうち、中間色(灰色)をしたものを安山岩といいます。この安山岩に特徴的に輝石の結晶を含むものを輝石安山岩と呼んでいます。

○なぜ、この特異な形に?
南郷谷側の外輪山は、古い火山が作るカルデラ外側(南側)の斜面が切り立っていて、流れやすい火砕流はとどまることができず、古い火山の稜線が埋め立てられずに残ってしまいます。この稜線は、火砕流に覆われることなく、浸食を受け続けているので、ギザギザした形をしています。
羅漢山の頂上付近には、凝灰角礫岩の石橋も見ることができます。

参考文献
藤崎清一著 久木野村誌編纂委員会編 『久木野村誌第一巻』 久木野村教育委員会発行 1985
久木野村誌編纂委員会 『久木野村誌第二巻』 久木野村教育委員会 1990
松本ゆき夫・松本幡郎 『阿蘇火山』 東海大学出版会 1981
日本地質学会第99年学術大会見学案内書 1992
渡辺一徳 『自然と文化阿蘇選書 阿蘇火山の生い立ち』 一の宮町 2001

地獄温泉  南阿蘇村河陽

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地獄温泉  南阿蘇村河陽

十六羅漢窟まで行って日没。この日は地獄温泉で泊まった。羅漢山へは明日再び出かける。ウィキペディアフリー百科事典による地獄温泉の説明は、次のとおり。
滝は地獄温泉の手前、垂玉温泉山口旅館の源泉「金龍山」より流れ落ちる「金龍の滝」。

地獄温泉

地獄温泉(じごくおんせん)は、熊本県阿蘇郡南阿蘇村河陽(旧長陽村)(旧国肥後国)にある温泉。温泉名の由来は温泉の裏山に火山ガス噴出による草木の生えていない場所(いわゆる地獄地帯)が存在することによる。

アクセス 鉄道:南阿蘇鉄道高森線長陽駅よりタクシー約15分。
泉質 単純硫黄泉(硫化水素型硫黄泉)

温泉街
「清風荘」1軒のみからなる。隣の垂玉温泉山口旅館もさほど離れていない場所に立地しているが、源泉が異なるため別の温泉として扱われている。宿は山の中に散在しているために、温泉街と言えるものではない。以前は国民宿舎「南阿蘇」も存在したが、2008年2月末に閉館した。

歴史
江戸時代は熊本細川藩の藩士しか入浴が許されていなかったという格式を誇る。また、入浴が許された藩士も帯刀を義務付けられるなど、数々の掟があった。清風荘の本館(旧館)玄関には当時の掟書が展示されている。

湯治場
明治以降、一般庶民に開放された地獄温泉は、庶民の湯治場として発展する。現在でも清風荘には、一般旅館部とは別に安価で素泊まり宿泊できる自炊設備を完備した簡素な部屋が存在する。近年までは旅館敷地内に湯治客のための食品や日用品を販売する売店が営業を続けていたが、経営者の高齢化により廃業してしまい、自動販売機コーナーになってしまった。また、テレビ等で紹介されたこともあり、一般観光客が増加して一般客室を増やすために、湯治客用の部屋は減っている。そのため以前の秘湯の雰囲気は後退している。

十六羅漢窟  南阿蘇村河陰

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十六羅漢窟  南阿蘇村河陰

南阿蘇村HPの芸術・歴史・文化による説明は、次のとおり。久木野中学校の西南、羅漢山の山頂近くで、駐車場までもわかりにくく、十六羅漢窟までは、急斜面をかなり登らないとならない。

十六羅漢窟

所在地  熊本県阿蘇郡南阿蘇村大字河陰5265-11
久木野中学校の西南、羅漢岩の中腹にある。村在住の郷土史家藤崎清一氏は、古記録から次のように推測する。「数百年前羅漢信仰が国内に広まった頃、この辺に羅漢寺が建立され、釈迦三尊に、十六羅漢がまわりに安置された。近くに久木野氏の滋水域もあって多くの信仰を集めたが、戦国の世兵火等の事変によって城も寺も滅び、仏像だけが残った」と。
宝永4年(1707)羅漢窟が野猿の遊び場となっていることに心痛めた庄屋浅尾善之丞は、有志と相談して、それまでの木仏を石仏に改めて奉納、今日にいたる。木仏釈迦如来像は御陣の江善寺に預けられている。石仏本尊を刻んだ仏師は有名な肥前の国平川与四右ヱ門信照。この近く一帯は、奇岩青松の景勝地で、鬼の目、仏が窟、獅子岩、恐ヵ淵等の名勝がある。

高森殿の杉  高森町高森

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高森殿の杉  高森町高森

HP「人里の巨木たち 全国巨樹探訪記」熊本県による説明は、次のとおり。
根子岳の東、箱石峠越えの国道265号により高森へ入った。高森峠の登り口村山交差点先に「高森殿の杉」の案内標識があるので、清栄山の方へ向かう。牧場内へ入る右手ゲート門が、殿の杉への入口。

名称 高森殿の杉 (たかもりどんのすぎ)
名称の典拠 現地の標柱(注1)
樹種 スギ
樹高 30m/30m(注2)
目通り幹囲 9.3m/5.7m(注2)
推定樹齢 400年以上(注3)
所在地の地名 熊本県阿蘇郡高森町高森
高森町指定天然記念物(1976年9月14日指定)

注1)高森町教育委員会が設置(設置年月不詳)。ただし、天然記念物指定名称は「高森殿杉」で、「の」がない
注2)環境省巨樹データベース(2000年フォローアップ調査」による
注3)熊本県公式ホームページより、「地域発 ふるさとの自然と文化」による

一部共用区間となっていた国道265号と325号は、村山集落のところで分岐する。そのあたりから、清栄山(1006m)の南を越えて、高尾野に至る道路がある。村山からその道を登って行くと、やがて牧場内に出る。控えめなスピードを保って走れば、右手の路傍に「高森殿の杉」と書かれた標柱が見つかることと思う。そこが大杉への入口である。
少し戻って、道が広くなった場所に車を駐め、金網のゲートを開けて分岐道を進む。(このようなケースでは、通り過ぎたらすぐ、またゲートを閉めるのが原則) 多分、牧場の管理用道路なのだろう。道幅は広く、歩きやすい。大杉までの距離はいくらでもない。景色を楽しみながら、緩やかな坂道を登る。

大杉は一般道と管理用道路の間、小さな谷の底に立っていた。明らかにウラスギ(アシウスギ)の仲間だ。自由奔放に伸ばした枝は、まるでメデューサの髪。一部は地に着いて、そこで発根している。素直に直立するだけの人工林のスギとは大違いだ。力強い姿に圧倒される。
ところで、近年、ここがパワースポットだということになったらしい。それまで、大杉など興味のなかった人も訪ねて来るようになった。物理学を専攻した者として、マスコミによるそのような宣伝行為を、私は客観的に捉えることが出来るつもりだが、心身の健康には精神状態が大きく作用することもまた事実だろう。ここに来て大木に触れることで、いい気持ちになることまで否定するつもりはない(現に私自身もそうだ)。それを契機に、巨木に愛着を感じるようになっていただけるなら、なお結構なことである。

しかし、残念ながら、なかには不心得者もいるようだ。樹皮を剥がぬよう訴える、手製の張り紙があった。樹皮を持ち帰って、お守りにでもするつもりなのだろうか。閑話休題。大杉の話に戻ろう。
天正14年(1586)1月23日、島津勢に敗れた高森城主伊予守惟直と家臣三森兵庫守能因が豊後に落ちようと当地まで逃れ来たが、ついに追手に囲まれ、ここで自刃した。(標柱に書かれた説明より)
高森殿の名は、そのことに関係するわけだ。怨念が籠もったようなおどろおどろしい姿の大杉に、いかにも似つかわしい話である。

金比羅スギ  南小国町満願寺 

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金比羅スギ  南小国町満願寺 

HP「全国巨樹探訪記」熊本県による説明は、次のとおり。
地蔵堂の所に「満願寺地区遊歩道」の地図があり、霊場巡りコースにより山の上の金比羅スギまで行く。登りはきつく、一周には1時間30分を要する。草刈していないときは遊きにくい。

名称 金比羅スギ (こんぴらすぎ)
名称の典拠 現地の案内板(注1)
樹種 スギ
樹高 28m(注2)
目通り幹囲 12.4m(注2)
推定樹齢 1000年(注3)
所在地の地名 熊本県阿蘇郡南小国町満願寺
国指定天然記念物(1959年7月24日指定)

注1)1991年3月に熊本県教育委員会が設置。国の天然記念物指定名称も同じ。ただし地元では「金毘羅杉」の文字をあてているようだ
注2)環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による
注3)上記案内板による

南小国町役場から、県道40号(南小国波野線)を南東方向に3.5kmほど進んだところに満願寺集落がある。集落の名は、文永11年(1274)、元寇を迎え撃つため、時の鎮西奉行北條時定が建立して戦勝を祈願した立護山満願寺にちなむ。また、満願寺には、海上航行の安全を祈願して、金比羅権現が祀られた。以来、満願寺の北に聳える山は、権現山と呼ばれるようになった。権現山中腹のこのスギも、周囲に知られる巨木となるに至って、金比羅杉と名付けられたのだろうと思われる。

集落のほぼ中央に、来訪者のための無料駐車場があり、そこに簡単な観光案内図が掲示されている。金比羅スギの位置も記されている。駐車場から川の対岸に渡り、県史跡の「満願寺石塔群付杉群」の前を通って山道に入る。3基の石塔は、満願寺開基の北條時定(執権北条時頼の弟)と、その弟定宗、及び嫡子随時の墓である。かつてはここも満願寺の境内だったのだ。墓の周囲に立つ大杉も史跡の一部として保護されている。

頭に入れた概略ルートと、ところどころに設置された案内表示(朽ちかけていた)を頼りに登ってゆく。途中、青龍権現社の前を通り(ここにも大杉がある)、息が切れかかる頃、金比羅スギに着く。途中休憩もせず、道を間違えなければ、下から15分くらいだろうか。目通り10mを超す体躯はさすがに大きい。が、樹勢の衰えが目立つようだ。
元禄年間(1688〜1704)の落雷で幹が裂けた。さらに昭和4年(1929)7月15日にも被雷した。このときは火災が発生、地元消防団などが消火にあたったが、鎮火までに19時間もかかったという。平成3年(1992)には、台風により、多くの元気な枝を失った。

長い時間を平穏無事のまま過ごすことは難しい。満身創痍は巨木の勲章なのかも知れない。しかし、過去の写真と比べて、ちょっと寂しい現況である。平成4年(1992)には腐食防止措置などもとられ、樹勢回復が期待されていたのだが。

満願寺と庭園・地蔵堂  南小国町満願寺

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満願寺と庭園・地蔵堂  南小国町満願寺

熊本県HPの地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。

満願寺(まんがんじ)

所在地  阿蘇郡南小国町満願寺
解説

■満願寺の歴史 

小国郷は承久3年(1221年)に起こった承久の乱により、公家の葉室氏から北条氏の所領となりました。モンゴル軍襲来に備えるため、九州中部の支配強化の必要性から、文永11年(1274年)、北条時定(執権・時頼の弟)は、北条定宗・随時(ゆきとき)とともに小国郷に下向しました。この地は九州のほぼ中央に位置しており、北条氏にとっては阿蘇氏をはじめ九州全土ににらみをきかせるという意味から重要な地点でした。

文永11年(1274年)10月にモンゴル軍が九州に襲来すると(いわゆる元寇)、時定は、敵国降伏祈願の勅願を得て、山城国醍醐寺三宝院の経杲(きょうこう)大僧正を招いて立護山満願寺を創建しました。経杲は別当坊多門院、密教坊密条院、北の坊理趣院、西の坊極楽院、中の坊祭蔵院の五坊を建て、さかんに敵国降伏の祈祷を行いました。

鎌倉時代末期まで北条氏の拠点であり、南北朝時代には後村上天皇の祈願寺となりました。戦国時代にも阿蘇惟豊、ついで豊後国の大友氏から保護されますが、天正15年(1587年)に起きた肥後国衆一揆の影響で多門院のみが残り、現在の満願寺となりました。

満願寺を中心とした志津地区は聖域とされ、地区の西の入り口と東の旧道の傍らにはそれぞれ入船石、出船石とよばれる舟形の石が置かれ、乗馬で通行することを禁じていたといいます。北条氏がこの地に下向し、故郷である鎌倉を思い、満願寺を港に見立て、入船石、出船石と名付けたともいわれています。

■絹本著色伝北条時定像と絹本著色伝北条時宗像

衲衣(のうえ)に袈裟をつけて、手は禅定印を結び、坐禅をしている頂相(ちんぞう、禅宗高僧の肖像画)形式の二幅の武将像は、明治初年に北条時定・時宗像と鑑定されました。ともに国指定重要文化財に指定され、伝時宗像は教科書に記載されたこともあります。

なお、寛文9年(1669年)の「国郡一統志」では、この二幅の像を北条時定像と北条定宗像と記していて、『熊本県の歴史』(山川出版社)では、梶谷亮二氏が「時定・定宗に近侍した和泉法眼道恵が定宗像を描かせ、永仁3年南甫紹明が大宰府崇福寺で著讃したというものであることをあきらかにした」ことを紹介しています。 いずれにせよ、鎌倉時代末期に制作されたこの画像は、現存する頂相形式の武将像としては最古のものです。

ほかにも満願寺には、木造毘沙門天立像、木造金剛力士像、木造六地蔵菩薩立像、満願寺仏画、満願寺宝塔、満願寺文書といった県指定重要文化財が残り、室町時代につくられた満願寺の庭園は県指定名勝および史跡に指定されています。

参考文献
熊本県教育委員会 編・発行  『熊本県の文化財 第1集 彫刻・書跡』 1979年
熊本県教育委員会 編・発行  『熊本県の文化財 第2集 建造物・絵画・考古資料』 1980年

竹の熊の大ケヤキ  南小国町赤馬場

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竹の熊の大ケヤキ  南小国町赤馬場

熊本県HPの地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。

竹の熊の大ケヤキ(たけのくまのおおけやき)

所在地  阿蘇郡南小国町赤馬場
解説  県下第一級の大ケヤキ

○竹の熊の大ケヤキ

大観望から国道212号を小国町方面に下っていくと、南小国町の役場などが集まる市街地に着きます。ここから、今度は県道40号へ右折して満願寺方面に向かい、約1.5km程進むと赤馬場という集落があります。市街地から家並みが続いているので、通り過ぎないように注意してください。(1枚目写真のとおり、道脇に案内標識があった)

この大ケヤキは、竹の熊の天満宮(菅原神社)の境内の一番左奥に立っています。同じ境内には阿弥陀様を祀る観音堂も建っています。熊本県下でも最大級のこの大ケヤキは、根元の周囲が約15.8m、幹の周囲が約
11.7m、木の高さは約33mあり、樹齢も千年を越すと言われています。地上7mの地点で、幹が分かれますが、そこに空洞があります。今はトタン板でおおってありますが、これは、戦後の台風により当時一番大きかった大枝が折れた跡です。その大枝は、払い下げになったのですが、その時の値段が、30万円と言いますから驚きです。お米一俵が二千数百円の頃の話です。

また、昭和の初め頃、この木を伐採するか保存するかをめぐって氏子の間で争いが起こり裁判にまでなりましたが、結局保存することになり、現在はきちんと整備されています。 この木には、ケヤキの巨木に普通見られるようなコブがなく、幹の表面が平らで、幹にはカズラが巻きついています。

○ケヤキとは

本州、四国、九州から朝鮮半島、中国などの温帯、暖帯の野山に自生するニレ科の落葉高木です。古くは、ツキノキとよばれ、農家では防風林として家の周りに植えられました。木の形がうつくしいので現在でも街路樹、公園樹、庭木などとして植えられています。幹はまっすぐと伸び、途中からわかれた枝が箒(ほうき)のようにのびのびとひろがって、よくめだつ木です。高さはふつう20〜25m。樹皮は灰褐色をしていて、老木になると一部が魚のうろこ状にはげたりします。葉は長丸い形で、ふちにはのこぎりの歯のように鋸歯(きょし)と呼ばれるギザギザがあります。4〜5月にうすい黄緑色の小さい花をひらき、実は秋に褐色に熟します。材質が強く、木目がうつくしいので、建築、家具、船舶、彫刻、楽器などにつかわれます。

○国指定の天然記念物

寿命が長い木なので、天然記念物に指定されている巨木が各地にあります。国指定のものは全国で18件あり、竹の熊の大ケヤキもその一つです。県下でも第一級の大ケヤキで昭和10年6月7日に指定されています。同じ九州では、「妙見の大ケヤキ」(熊本県矢部町)、「下野八幡宮の大ケヤキ」(宮崎県高千穂町)などが有名です。

○天満宮のお祭り

地域の人はこの大ケヤキを近くに祭られている阿弥陀尊、六地蔵、猿田彦大神とともに朝夕あがめています。8月25日には、境内で天満宮と観音様の祭りが行われます。竹の熊の地区の人が、わらを持ち寄ってしめ縄を編み、境内に飾り、神主さんを呼んで1年間の祈願をします。以前は、子どもたちを集めて境内で相撲が行われていましたが、現在では地域の子どもの減少により行われていないようです。

参考文献
『私たちの南小国町』 南小国町教育委員会
『南小国の文化財』 南小国町教育委員会
佐藤弘 『小国郷の史蹟・文化財』 熊本日日新聞情報文化センター 1986

阿弥陀スギ  小国町黒渕

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阿弥陀スギ  小国町黒渕

HP「全国巨樹探訪記」による説明は、次のとおり。
道の駅小国から国道387号を約5km西進すると、杉の平トンネル手前に案内板があり、黒渕集落内へ入る。

名称 阿弥陀スギ (あみだすぎ)
名称の典拠 現地の案内板(注1)
樹種 スギ
樹高 36m(注2) 今はずっと低い
目通り幹囲 11.6m(注2)
推定樹齢 1300年(注3)
所在地の地名 熊本県阿蘇郡小国町黒渕
国指定天然記念物(1934年12月28日指定)

注1)1997年2月に熊本県教育委員会が設置
注2)環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による
注3)上記案内板による

1995年刊行の講談社「日本の天然記念物」に、何の支えもなく、堂々と立っている阿弥陀スギの写真が載っている。写真のスギの根元では、放牧された牛が悠々と草をはみ、梢には緑濃い葉が厚々と繁っている。スギは途中から十数本の大枝に分かれ、それぞれの大枝がまた複数の大枝に分かれて、半球形の大きな樹冠を形作っていた。
その形が、まるで巨大な阿弥陀様(の光背?)のようだというので、阿弥陀杉と名付けられたという。(一説に、樹下に阿弥陀堂があったためとも)。それよりさらに遡ること百年弱の明治35年(1902)。阿弥陀杉が人手に渡り、伐採されそうになった。それを惜しんだ当時の北小国・南小国両村の村民は、浄財を出し合って、この大杉を土地ごと買い戻し、以来、きっと後世に伝えることを誓い合ったという。ここに住む人々は、いわば自然遺産保護の先駆者だったわけだ。
この何にも代え難い大杉が、平成11年(1999)9月24日の台風18号によって、壊滅的な被害を受けてしまった。なんとも残念なことである。現在まで残っているのは、本体と少し離れて、横向きに出ていた大枝のみ。低い位置にあったので、強風を免れたのだろう。幸い、残った枝は元気が良さそうだ。今は、人々の記憶と写真のほか、本来の樹形を伝えるものが無くなってしまった。かつての雄姿の形見として、この枝が長く生き続けてくれることを願う。