月別アーカイブ: 2011年6月

長崎外の古写真考 目録番号:1192 熊本城(3) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1192 熊本城(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1192 熊本城(3)
〔画像解説〕
撮影時期は明治の初期。手前に写っている加藤清正神社の存在で大体の撮影時期が特定できる。明治4年(1871)に創建された社殿は明治7年には京町台に移されている。整理番号12-2、16-34とほとんど同一の写真。

目録番号:6670 熊本城(6)

目録番号: 532 熊本城(1)    (同写真 掲載略)
目録番号: 744 熊本城(2)    (同写真 掲載略)

■ 確認結果

目録番号:1192「熊本城(3)」と、次の目録番号:6670「熊本城(6)」は、同じ写真と思われる。〔撮影者:富重利平〕とも考えられる。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊112頁に、「熊本城 富重利平」として掲載されている。同解説は次のとおり。

熊本城 富重利平
九州、熊本城の雄姿。慶長6(1601)年加藤清正の築城。大小の天守閣は明治10(1877)年の西南戦争直前の火災で焼失したが、昭和35(1960)年に復元された。

しかし、これは最後の資料写真どおり、明治天皇の西国・九州巡幸に随行した「内田九一」が撮影した写真だろう。金子隆一氏論文HP”内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置”70頁に、「図33 熊本城 左ニ加藤社」として報告されている。東京都美術博物館蔵。

長崎の古写真考 目録番号:5313 稲佐悟真寺墓地

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5313 稲佐悟真寺墓地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5313 稲佐悟真寺墓地
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
上野彦馬アルバム所載の1葉。悟真寺は稲佐山の麓に位置し、慶長3年(1598)の創立という長崎近郊では最初に再興された浄土宗の寺院である。裏山に広がるその墓地は、早くから長崎で客死した中国人やオランダ人の埋葬に当てられており、幕末以降には来航したロシア人なども加えられて、それぞれに区画された墓域をなす国際墓地を形成していた。画面左手の松林の向こうにロシア正教の礼拝堂があり、中央下に蓮池に架かる石橋が見えることからして、現在の「悟真寺国際墓地」入り口に当たる。橋の上の人物は、中央の水桶を天秤で担ぐのは服装からして中国人のようで、両脇の褌に半纏を羽織り、頭に鉢巻きをした人足風の二人はまだ髷を結っているようにもみえる。とすれば、明治初年の撮影であろうか。画面に墓域の明確な区画は見えないが、オランダ人墓地の周囲に煉瓦塀を構えるようになったのは、ずっと下って大正7年(1918)のことであった。

■ 確認結果

目録番号:5313「稲佐悟真寺墓地」は、超高精細画像データベースでは〔撮影者:上野彦馬〕となっているが、〔撮影者:F.ベアト〕ではないだろうか。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊111頁に「長崎 1860年代 ベアト」として掲載されている。同解説は次のとおり。

長崎 1860年代 ベアト
長崎市曙町、悟真寺の墓地。古くから長崎在住の中国人墓地であったが、後にオランダ、ロシア、アメリカ、イギリス等の外人墓地が造成されて、現在の稲佐国際墓地に発展した。世界でも稀な、異教徒混在の墓地。

長崎の古写真考 目録番号:5881 中島川河口(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5881 中島川河口(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5881 中島川河口(2)
〔画像解説〕
明治20年以前には中島川の河口は、現在の十八銀行の付近にあった。中島川河口に明治2年(1869)に新大橋が架設されたが、この橋の上から中島川の上流を撮影した写真。写真中央に見える橋は長久橋、左側は築町、右側は西濱町。現在と比べて川の水量が多く、中島川が物資の運搬路になっていたことが分かる。明治初期の写真。

目録番号:4030 中島川河口(1)

■ 確認結果

目録番号:5881「中島川河口(2)」は、次の目録番号:4030「中島川河口(1)」と同じ写真で、〔撮影者:スチルフリード 〕となるだろう。
画像解説のとおり、当時の「新大橋」の上から、「長久橋」を撮影しているのは間違いないようだ。この項は次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/2159
https://misakimichi.com/archives/2146

ところで、長崎であいの会ウェブサイト「中島川グリット」石橋に関するコラムに、同じような古写真が出てくる。 http://nagasaki.n-grit.com/  
橋は同じだが。川に浮かぶ船の数が違う。「明治後期 万橋(よろずばし)」と解説している。「長久橋」が正しいようだが、現在もそのままとなっている。

この写真は長崎大学データベースに見当たらない。出所を調べていたが、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.1 No.22 1871/4/17 の写真とわかった。資料は九州大学デジタルアーカイブから。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊109頁に「長崎 1871年ころ ファー・イースト」として掲載されている。同解説は次のとおり。

長崎 1871年ころ ファー・イースト
長崎の河岸に、ところ狭しと並ぶ民家。長崎は入江が多く、舟は重要な交通手段であった。

長崎外の古写真考 目録番号:2821 布引山入口(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2821 布引山入口(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2821 布引山入口(3)
〔画像解説〕
明治中期の、布引の滝登り口。突き当たりの坂を登ると、雌滝や雄滝に至る。現在の、山陽新幹線の新神戸駅から新神戸オリエンタルホテルあたりの風景。撮影は、横浜の写真師日下部金兵衛。左角に「1207」の文字が見えるが、同じ原版の写真には、もともと「1207. NUNOBIKI YAMA KOBE. 」とあった。目録番号4893と同じ写真。

目録番号:4893 布引山入口(4)
〔画像解説〕
明治中期の、布引の滝登り口。右手向こうの山は砂山 (いさごやま) で、左手前の山との間を生田川が流れている。突き当たりの坂を登って左に曲がって少し行くと、雌滝がある。彩色は異なるが、目録番号2821と同じ写真。名所風景の中に、このあたりで暮らす人々の姿を記念撮影のように収めたのは、日下部金兵衛らしい演出。

■ 確認結果

目録番号:2821「布引山入口(3)」は同画像解説や、次の目録番号:4893「布引山入口(4)」にあるとおり、〔撮影者:日下部金兵衛〕として良いのではないか。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊102頁に、「布引山 
1880年代 金幣アルバム」として掲載されている。同解説は次のとおり。

布引山 1880年代 金幣アルバム
布引の滝の入口。坂道の奥に滝がある。西国街道の近くで、古くから貴族、文人の来訪で賑わった。

長崎外の古写真考 目録番号:3149 芦ノ湖からの富士山(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3149 芦ノ湖からの富士山(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3149 芦ノ湖からの富士山(3)
〔画像解説〕
目録番号5080・4147とほぼ同じ構図である。芦の湖畔の元箱根からの景で、手前の芦ノ湖、右手の箱根神社の杜、左手の三国山の裾野、その奥に台形の均整の取れた富士山を望む構図は、箱根を代表する風景として著名である。ただ、山体が湖面に映るいわゆる逆さ富士である点が他と異なっている。

■ 確認結果

目録番号:3149「芦ノ湖からの富士山(3)」は、〔撮影者:日下部金兵衛〕ではないだろうか。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊72頁に、「箱根の湖 
1890年代 金幣アルバム」として掲載されている。同解説は次のとおり。

箱根の湖 1890年代 金幣アルバム
箱根外輪山内にひょうたん形に横たわるカルデラ湖。湖面に映るさかさ富士は美しい。現在は観光船やボートなどが行き交い、大いに賑わっている。

長崎外の古写真考 目録番号:2966 大涌谷(3) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2966 大涌谷(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2966 大涌谷(3)
〔画像解説〕
明治九年(1876)東京医学校教授として来日したベルツは明治二十年(1887)大涌谷の噴泉に目を付け、温泉を医療的に利用する一大温泉場設立の建白書を内務省に提出したが、この提案は実らず、失意のうちにドイツに帰国した。写真では噴煙が上がる中、小屋に向かうと思われる人物の後ろ姿が見える。

目録番号:3131 大涌谷(5)  (同写真 掲載略)

■ 確認結果

目録番号:2966「大涌谷(3)」と、目録番号:3131「大涌谷(5)」は、〔撮影者:日下部金兵衛〕ではないだろうか。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊74頁に、「噴気の大地獄 1880年代 金幣アルバムか」として掲載されている。同解説は次のとおり。

噴気の大地獄 1880年代 金幣アルバムか
明治5(1872)年、天皇の箱根巡幸の際に大地獄を大涌谷と改称。閻魔台と地獄沢からなり、閻魔台は現在も硫気を含んだ水蒸気を噴出している。

長崎外の古写真考 目録番号:2583 石山寺から琵琶湖を望む(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2583 石山寺から琵琶湖を望む(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2583 石山寺から琵琶湖を望む(1)
〔画像解説〕
石山寺(いしやまでら)の月見亭あたりから眺める瀬田川の流れ。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。特にこの場所は近江八景(おうみはっけい)の1つ石山秋月(いしやまのしゅうげつ)を表現する図像として、写真絵はがきなど、様々な構図で写真が残されている。

目録番号:2932 石山寺から琵琶湖を望む(2)  (同写真 掲載略)

■ 確認結果

目録番号:2583「石山寺から琵琶湖を望む(1)」と、目録番号:2932「石山寺から琵琶湖を望む(2)」は、〔撮影者:日下部金兵衛〕ではないだろうか。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊88頁に、「琵琶湖 1880年代 金幣アルバム」として掲載されている。同解説は次のとおり。

琵琶湖 1880年代 金幣アルバム
石山の展望台から琵琶湖を望む。京都近郊の地の利から石山詣での人々で賑わった。

長崎外の古写真考 目録番号:5708 鶴岡八幡宮若宮社(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5708 鶴岡八幡宮若宮社(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5708 鶴岡八幡宮若宮社(2)

■ 確認結果

目録番号:5708「鶴岡八幡宮若宮社(2)」は、〔撮影者:ベアト〕であろう。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1−幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊51頁に、「48.若宮社。右手神楽殿の石段に腰掛けている3人の外国人は、ベアトの同行者達であろう」として、掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:6495 浦カスミ

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6495 浦カスミ

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6495 浦カスミ

■ 確認結果

目録番号:6495「浦カスミ」は、東京霞ヶ関で「外務省」であろう。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊26〜27頁に、同じ建物が「外務省 1872年ころ ファー・イースト」として掲載されている。同解説は次のとおり。

外務省 1872年ころ ファー・イースト
コレクションの資料には外務省となっている。明治2(1869)年太政官制の改革により外国官制を廃して外務省創設。人力車が斜めを向いているのは、坂道で加速しすぎないように蛇行しながら下っているため。

小沢健志氏監修「古写真で見る 江戸から東京へ」世界文化社2001年刊45頁には、「旧筑前福岡藩黒田家上屋敷 現在の霞が関2丁目外務省付近の潮見坂の光景」となっている。

長崎の古写真考 目録番号: 652 中島川阿弥陀橋と高麗橋(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 652 中島川阿弥陀橋と高麗橋(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 652 中島川阿弥陀橋と高麗橋(1)
〔画像解説〕
手前に阿弥陀橋、奥に高麗橋が写っている。上流から下流に向かって撮影されている。近くには上野彦馬邸があった。

目録番号: 693 中島川阿弥陀橋と高麗橋(2)  (掲載略)
目録番号:5589 中島川阿弥陀橋と高麗橋(3)  (掲載略)

■ 確認結果

目録番号: 652「中島川阿弥陀橋と高麗橋(1)」など3作品は、同じ写真である。〔撮影者:ベアト〕であろう。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊14頁に、「長崎の石橋 1860年代 ベアト」として掲載されている。