長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5881 中島川河口(2) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5881 中島川河口(2)
〔画像解説〕
明治20年以前には中島川の河口は、現在の十八銀行の付近にあった。中島川河口に明治2年(1869)に新大橋が架設されたが、この橋の上から中島川の上流を撮影した写真。写真中央に見える橋は長久橋、左側は築町、右側は西濱町。現在と比べて川の水量が多く、中島川が物資の運搬路になっていたことが分かる。明治初期の写真。
目録番号:4030 中島川河口(1)
■ 確認結果
目録番号:5881「中島川河口(2)」は、次の目録番号:4030「中島川河口(1)」と同じ写真で、〔撮影者:スチルフリード 〕となるだろう。
画像解説のとおり、当時の「新大橋」の上から、「長久橋」を撮影しているのは間違いないようだ。この項は次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/2159
https://misakimichi.com/archives/2146
ところで、長崎であいの会ウェブサイト「中島川グリット」石橋に関するコラムに、同じような古写真が出てくる。 http://nagasaki.n-grit.com/
橋は同じだが。川に浮かぶ船の数が違う。「明治後期 万橋(よろずばし)」と解説している。「長久橋」が正しいようだが、現在もそのままとなっている。
この写真は長崎大学データベースに見当たらない。出所を調べていたが、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.1 No.22 1871/4/17 の写真とわかった。資料は九州大学デジタルアーカイブから。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊109頁に「長崎 1871年ころ ファー・イースト」として掲載されている。同解説は次のとおり。
長崎 1871年ころ ファー・イースト
長崎の河岸に、ところ狭しと並ぶ民家。長崎は入江が多く、舟は重要な交通手段であった。