長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5313 稲佐悟真寺墓地
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5313 稲佐悟真寺墓地
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
上野彦馬アルバム所載の1葉。悟真寺は稲佐山の麓に位置し、慶長3年(1598)の創立という長崎近郊では最初に再興された浄土宗の寺院である。裏山に広がるその墓地は、早くから長崎で客死した中国人やオランダ人の埋葬に当てられており、幕末以降には来航したロシア人なども加えられて、それぞれに区画された墓域をなす国際墓地を形成していた。画面左手の松林の向こうにロシア正教の礼拝堂があり、中央下に蓮池に架かる石橋が見えることからして、現在の「悟真寺国際墓地」入り口に当たる。橋の上の人物は、中央の水桶を天秤で担ぐのは服装からして中国人のようで、両脇の褌に半纏を羽織り、頭に鉢巻きをした人足風の二人はまだ髷を結っているようにもみえる。とすれば、明治初年の撮影であろうか。画面に墓域の明確な区画は見えないが、オランダ人墓地の周囲に煉瓦塀を構えるようになったのは、ずっと下って大正7年(1918)のことであった。
■ 確認結果
目録番号:5313「稲佐悟真寺墓地」は、超高精細画像データベースでは〔撮影者:上野彦馬〕となっているが、〔撮影者:F.ベアト〕ではないだろうか。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊111頁に「長崎 1860年代 ベアト」として掲載されている。同解説は次のとおり。
長崎 1860年代 ベアト
長崎市曙町、悟真寺の墓地。古くから長崎在住の中国人墓地であったが、後にオランダ、ロシア、アメリカ、イギリス等の外人墓地が造成されて、現在の稲佐国際墓地に発展した。世界でも稀な、異教徒混在の墓地。