月別アーカイブ: 2009年7月

長崎の古写真考 目録番号:3883 外国人の野外パーティー(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3883 外国人の野外パーティー(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号:3883 外国人の野外パーティー(1)
〔画像解説〕
元アルバムと思われる台紙に糊付けされた着色鶏卵紙で四辺は刃物で切り取られている。裏に書き込まれた黒ペンのキャプションも一部が切り取られているが、残された部分はTaken on Jubilee Day,June 22ed 1897−Gate of ”Sagarimatz”(1897年6月22日ビクトリア女王在位60年記念日、「下り松」玄関)と読める。右側の大木が巨大になった「下り松」であり、ベルビューホテル(現全日空ホテル)の玄関にあたる。提灯にデザインされたイギリスの国旗が見え、奥の横断幕に60 YEARS OUR QUEEN(我女王の60年)と読める。この写真は明治30年(1897)のこの日に催されたビクトリア女王在位60年記念の祝賀会場を撮影していることがわかる。提灯は夜会の準備を表している。前の煉瓦の囲いは古井戸か。手前の男性は剪定バサミを持っている。外の5人もホテルの従業員か。男性の作業着はパッチに半纏である。右下隅に男児が偶然写されている。

目録番号:3884 外国人の野外パーティー(2)
〔画像解説〕
目録番号3883(整理番号75-26)と台紙の色が異なるが、同じようにアルバムに糊付けされたものから画面だけを切り離した1枚もの。目録番号3885(整理番号75-28)と併せて3枚組みで発見されているから、ビクトリア女王在位60周年記念の祝賀会の一部と推測される。場所は、目録番号3885の写真に写る高鉾島と比較して、長崎港口に稲佐側から突き出した神崎鼻である。写されているのは、夜間の野外パーティのためこの地に上陸したイギリス側ホストの領事夫妻と、長崎県知事(小松原)夫妻及び居留地の各国領事といった客人か。テーブル上にはガラスのビクトリア風の水差しとグラス、氷入れが、また食前酒と思われるワイン、シェリー、リキュール等も見える。木箱は塵紙入れか。下にはこれらを運んだバスケットが、奥には絨毯が掛かったベンチが見え、それぞれ男性の帽子が無造作に置かれている。夕暮れ前のひと時、メインテーブルの祝賀の会食に向かう直前のようである。背後の山並みは長崎半島である。

目録番号:3885 外国人の野外パーティー(3)
〔画像解説〕
台紙貼り付け着色鶏卵紙で目録番号3883(整理番号75-26)および目録番号3884(整理番号75-27)との3枚の組写真。場所は後ろの高鉾島の角度から神崎鼻と思われる。夜間のパーティのためホテルの従業員たちが船で運んできた資材で俄かに宴席を設営し藤の椅子が不揃いである。目録番号3884にも写っている女性は白服の外国男性と夫婦かと思われる。扇子をもち、時期が6月末であることに符号する。ホテル(ベルビューホテルか)の従業員は和服と洋服半々であり、中国人と思われるものもいる。テーブルは夜のためにキャンドルとランプ、提灯が用意されている。テーブルセットは本格的なフルコースで、グラス類は多く、パンのそばのナプキンには青い葉があしらわれ、カットレルもおそらく銀であり大きい。メインのディッシュは仔豚のロースト(丸焼き)で、丸ごと焼かれて大皿で並べられている。ここには出島時代の蘭人宴会の雰囲気がある。デザートにはスイカやメロン、ケーキ等が見える。

参考 目録番号:6195 ねずみ島のピクニック(1) 目録番号:6245 同(2)

■ 確認結果
画像解説は、本年6月に追加されて作成されたのでなく、以前からからあった解説と思われる。見落としていて初めて読んだ。
野外パーティは「神崎鼻」でなく、ねずみ島(皇后島)で行われた。これも現地確認のうえ、すでに次の記事にしているので参照。 https://misakimichi.com/archives/1540

2枚目のはるかな山の稜線は、八郎岳縦走尾根。3枚目では高鉾島がすぐ前にこのような形で見え、奥は香焼島と沖の島の間の海である。
ねずみ島は安政年間から外国人の遊歩が許された。1864年(元治元年)ベアト撮影にあるように、外国人のピクニック(?)とかに親しまれた島である。ねずみ島の高台広場に会場を設け、野外祝賀パーティをしたと考えられる。ねずみ島水泳道場は、1903年(明治36年)から始まった。島の高台はひらけていたと思われる。
1枚目も当時の「ベルビューホテル」玄関入口の坂道の姿ではない。現在の「長崎グラバー園」出口の坂道が、一番よく似ている。

3枚目の古写真が平成19年夏頃、朝日新聞長崎地域版のシリーズ「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った。撮影場所は「ねずみ島」であると、4月に研究レポートを届け知らせていたのに、「神の島」と説明し掲載された。
その後、なぜか「神崎鼻」と訂正されている。「神の島」や「神崎鼻」からは、このような景色とはならない。肝心な撮影場所の説明を誤っていたら、他の詳しい解説は重みがなくなる。

長崎の古写真考 目録番号:3816 稲佐海岸(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3816 稲佐海岸(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3816 稲佐海岸(2)
〔画像解説〕
長崎港の湾奥の西岸では、稲佐地区が半島のように突き出ている。その最頂部から長崎市街地に向けて連絡船の航路があった。この写真は稲佐の先端から長崎市街地を遠望した写真である。撮影時期は、長崎市街の建物から判断して、明治20年(1887)代である。写真手前は稲佐の桟橋で、手前の石段の品格から見て、使用頻度の高い施設であることが分かる。木製の桟橋の先に、洗練された金属製の街灯が設置されている。対岸は長崎市街地の沿岸部である。中央の林が見えているところが長崎県庁である。その右に出島がある。写真の左側、船の向こう側は大波止から浦五島町である。この付近の沿岸部には、倉庫を構えた屋敷が立ち並んでいる。左の山は立山で、山裾に筑後町の寺院群が見える。

(関連写真)
目録番号:5630 稲佐海岸(3)
目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋
目録番号:6094 稲佐の岬

■ 確認結果

要点は、稲佐お栄が造った「お栄の桟橋」と言われる桟橋は、ホテル・ヴェスナー時代の「稲佐崎」か、それとも、胸を病み静養を兼ねて烏岩神社のすぐ下、平戸小屋にホテルを開業した時代の「丸尾山」の入江か、ということである。この関係は、次によりすでに考察を述べているので参照。  https://misakimichi.com/archives/1547

目録番号:3816「稲佐海岸(2)」と、目録番号:5630「稲佐海岸(3)」は同じ古写真である。
画像解説は、本年6月に追加されて作成された文と思われる。初めて読んだ。2枚目の古写真の目録番号:5519では「ホテル・ヴェスナーと桟橋」と判定しながら、なぜこのような解説になるのだろう。撮影者も上野彦馬か未詳か、一致していない。

「旧渕村の歴史を顕彰する会」が所蔵する「お栄の桟橋」古写真から見て、稲佐崎(同会は現丸尾公園西角の波止場と主張するが、そこからは写真にある大久保山が写らないので論拠が合わない)の「ホテル・ヴェスナーの桟橋」として認めて良いのではなかろうか。

データベースに最近追加された古写真で、珍しいものを見つけた。目録番号:6094「稲佐の岬」。ここが稲佐崎である。ホテル・ヴェスナーが建てられ、明治26年(1893)11月開業した。
なお、解説にある「長崎県庁」は、現地から見ると古写真の左端となる。写っている左の山は「英彦山」である。「立山」でないので、筑後町の寺院群は写らない。

獅子と白象? 福済寺の鐘楼門  長崎市筑後町

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獅子と白象? 福済寺の鐘楼門  長崎市筑後町

福済寺はJR長崎駅近くの高台、筑後町にある黄檗宗の寺院。寛永5年(1628)の建立。崇福寺、興福寺とともに「長崎三福寺」、さらに聖福寺も加えて「長崎四福寺」に数えられる唐寺である。本堂(大雄宝殿)などの建造物は、国宝に指定されていたが、原子爆弾投下で焼失した。

昭和54年(1979)、万国霊廟長崎観音が、原爆被災者と戦没者の冥福を祈って大雄宝殿跡に建立された。
山門の鐘楼も新しいデザインで再建されている。文殊般若の門の「如意棒をくわえた獅子の面」と、普賢法界の門の「経巻を鼻に戴く白象」。

長崎の古写真考 目録番号:6272 海から見た大浦居留地

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6272 海から見た大浦居留地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

このデータベースには、本年6月に長崎関係には300点以上が追加された。新しく目にする古写真が多く、調査不完全なまま収録されている。これまでと同様、気付いたものを順次、現地調査して報告したい。

目録番号:6272 海から見た大浦居留地

(関係写真)
目録番号:1022 出島からの大浦居留地
〔画像解説〕
1871年(明治4)8月16日付、横浜の写真貼り付け英字新聞”The Far East”に掲載された長崎港の写真。キャプションにはNAGASAKI,FROM THE DUTCH CONSULATE(オランダ領事館からの長崎)とある。出島の海岸通りに面した2,3番地のオランダ領事館付近から、大浦・下り松・浪の平にかけての洋館群を撮影。写真から出島前面の海岸は中島川の運ぶ土砂で干潟化していたことが判る。長崎港の入り口方面には、沖合での停泊を余儀なくされた大型船舶が多数写されている。この状態を改善するために、中島川の変流工事が提案された。慶応3年(1867)に造成された、出島・海岸通りの護岸の石積み欄干が写真の手前に写っている。大浦天主堂は改修前であったが、両脇の尖塔部分は台風によりすでに失われている。海岸に突き出した黒っぽい建物は、梅香崎の外務局運上所(税関)、南山手の「ヨンゴ松」横の洋館はグラバー邸である。

目録番号:5865 出島の商館長邸横の日本庭園から大浦居留地を望む

■ 確認結果

目録番号:6272「海から見た大浦居留地」は、撮影した場所がわからないためこのようなタイトルにしたか、それとも船上から撮影したと判断したのだろうか。
以下のコレクション説明にあるとおり、誕生間もない写真術で、揺れる船上から撮影はできただろうか。一方、海から見たとしながら、同コレクション・アルバムの中では、「長崎のパノラマ」とし、丸尾岸壁(昔は大鳥崎があった)から写した現在の写真を対比させている。

それが古写真の下段に載せた横長の写真。もちろん「※現在の写真の視点および注視点について、なるべく当時の撮影に従っていますが、諸事情により完全には一致していません」のことわり書きはある。
一見似ているが、背景の山をよく見てみる。古写真は鍋冠山の裾と奥には星取山がなければならないのに、星取山と唐八景を写している。

古写真の光景は、水辺の森公園で大浦天主堂を眺めた際に、同じようになるのを思い出すだろう。船上でないとして、線を引き伸ばしてみる。
明治26年、稲佐お栄がホテルヴェスナーを開業することとなる旭町「稲佐崎」や、現在の旭大橋たもと「志賀の波止」が考えられる。ここからも現在の写真が撮れないので、旭大橋の高い位置からと目線を落とし稲佐崎近く旭町岸壁から大浦海岸と山を写してみた。
大浦天主堂が実際、近くに見えるのである。水辺の森公園と丸尾岸壁から撮影した場合の参考写真も掲げた。しかし、鍋冠山の麓に写る大浦天主堂の位置がどこも合わなかった。

記事掲載後、「ほしなべ」氏のコメントにより確証的なヒントを得た。すなわち港の対岸稲佐方面でなく、「出島の西端」から撮影されたのではないか。
末尾に3枚の写真を追加した。目録番号:1022「出島からの大浦居留地」と目録番号:5865「出島の商館長邸横の日本庭園から大浦居留地を望む」。古写真左側が、鍋冠山の麓に大浦天主堂を同じような位置に写している。
撮影場所はこの「出島の商館長邸横の日本庭園から」ではないだろうか。
現在の状況は、出島に代わり鍋冠山がビルの上にかろうじて確認できる水辺のプロムナード「東山手橋」方面から望む写真を掲げてみた。(この部分は、7月15日追記)

日本古写真アルバム ボードイン・コレクション

ボードイン・コレクションは、養生所(のち精得館と改称。長崎大学医学部の前身)の第2代教頭であるオランダ人、アントニウス・ボードインが、弟アルベルト・ボードイン(出島商人、オランダ領事)と協力し、日本滞在中に撮影および収集した古写真のアルバムです。

在日期間中(1862-1866,1867,1869-1870)、ボードインは、長崎のみならず大坂医学校(大阪大学医学部の前身)、大学東校(東京大学医学部の前身)でも医学を講義し、上野の森を公園にするよう進言したことでも知られています。
その一方で、誕生間もない写真術にも興味をもち、長崎の街の様子や人物などを自ら撮影するとともに、日本の写真を収集し、特別な装幀を施したアルバムも作成していました。
1980年代後半、日本の新聞社によって広く紹介され、その後の古写真ブームの火付け役となったコレクションです。

長崎の古写真考 目録番号:6273 山から見た大浦居留地 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6273 山から見た大浦居留地 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6273 山から見た大浦居留地
目録番号:6163 東山手から大浦居留地を望む(2) ほか関係写真は多くあり

■ 確認結果

目録番号:6273「山から見た大浦居留地」は、2009年年7月9日付朝日新聞長崎版「長崎今昔 長大写真コレクション」に「龍馬の見た大浦居留地」として掲載された。 「ボードインコレクションの1枚で、1865年ごろにボードイン博士自身が撮影したと推測されます。…撮影場所は、当時、デント商会に務めていたポルトガル人ジョセ・ローレイロの住居だった10番の高台付近から、大浦川右岸を埋め立ててできた居留地を撮影しています」とある。

最近、データベースに大量に追加された古写真のようで、初めて見た。新聞の写真説明は専門的すぎ、現在のどこからどのあたりを写し、対岸とその山の説明などがまったくない。東山手居留地の「10番」は、活水坂を上って昭和会病院の裏通りへ行く左側。現在、高い石垣が築かれ、海星学園の校庭だ。どうも違う。対岸の岩瀬道が正面にこない。

次の目録番号:6163「東山手から大浦居留地を望む(2)」の古写真と比べてもらいたい。撮影場所は現在の昭和会病院あたりからとされる。両方の白塀の通りを注視する。屋根に煙突がある2階建の白い大きな洋館がある。
両方からわかるのは「10番」でなく、昭和会病院の裏通りを石橋の方へまだ進んだ「9番」前の道路からで良いのではないか。「9番」は現在の海星学園校舎(東山手の旧イギリス領事館だった)。ここまで上がらないと、今は高いビルが建て込み、対岸の山並みを合わせられない。

新聞では今回から数回に分けて、この居留地に刻まれた歴史の残像を追いかけるてみるとある。現地確認を正しくして、一般読者にわかりやすい説明をぜひお願いしたい。
坂本龍馬がブームだが、あまり引き合いに出すのもどうか。大浦海岸には弁天橋通りがすでにできている。昔の遠回り道をグラバー邸へ通っただろうか。

弁 天 橋? 松ヶ枝橋の説明は  長崎市松が枝町

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弁 天 橋? 松ヶ枝橋の説明は  長崎市松が枝町

最近、長崎さるく説明板が新しく多くの場所に設置されている。古写真を掲げ、結構なことであるが、ときどき首をかしげるものがある。古写真を所蔵する資料館などの解説がそもそもおかしいものと、さるく事務局が行う古写真の選定や設置場所がどうかと思われるものがある。古写真考において数ヵ所を指摘している。

これはつい先日、大浦海岸の松ヶ枝橋で見かけた「弁天橋と大浦川」。松ヶ枝橋を渡った先にあった。大浦川の河口で、古写真の撮影場所は松ヶ枝橋からであり、当時、大浦川両岸が居留地や船の係留場として賑わった状況を説明するため、最近、ここに設置されたのだろう。
しかし、弁天橋は長崎市営松が枝町第2駐車場の暗渠下で確認できない。弁天橋には橋脇に「弁天橋と洋式ホテル」と別の説明板があった。

松ヶ枝橋に設置しているのに、居留地時代の貴重な「松ヶ枝橋」の説明は何もない。橋の説明板の場所から電車通り、川の対岸の駐車場階段下を見てもらいたい。
明治3年(1870)に木造の「松ヶ枝橋」が完成。松ヶ枝橋は当初、「下り松橋」と呼ばれていて、明治中期に鉄橋に架け替えられ、後に鉄筋コンクリート橋となった。
鉄橋の松ヶ枝橋の姿は、次の「目録番号: 328 大浦海岸通り(1)」を参照。
https://misakimichi.com/archives/1539
鉄橋時代の橋脚が、現在の橋の東側に一部残っている(山口広助氏の丸山歴史散歩)。

ここは松ヶ枝橋の古写真とも、2枚を載せた説明板とした方が良いではないか。
最後は資料が古いが、平成18年2月第2版「長崎さるくマップブック」裏表紙。彩色絵葉書のタイトルは「長崎大浦松江橋通り」。これは「弁天橋通り」ではないか。そのまま、公式資料に利用しないようにお願いしたい。

釣鐘とプロペラ? つりがね堂薬局の目印  長崎市新地町

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釣鐘とプロペラ? つりがね堂薬局の目印  長崎市新地町

元気がひびく街の健康ステーション。(有)つりがね堂薬局です。長崎新地中華街南門湊公園前に大きな釣鐘と飛行機のプロペラの看板が目印の薬局です。
2000品目を越す医療用医薬品、一般用医薬品、漢方薬、健康食品などを取りそろえています。日中医薬研究会会員でもあり漢方相談や健康相談を行っています。どうぞお気軽にお立ち寄りください。(同店HP)

明治43年創業。釣鐘もだが、下のは九一式戦闘機一型のプロペラ。昭和10年製で本物の珍しいものらしい。詳しくは次にある。 http://ksa.axisz.jp/a8305Nagasaki.htm
鐘の字は「釣鐘堂総本家」「質量優越 効能顕著 天下の良薬 虫くだし」「ききめで 鳴り響く つりがね印 虫くだし」「つりがね堂薬局」か。
ラビリンスな広告風景。他の人が多く紹介しているが、本ブログも載せないわけにはいかない。

最後は、すぐ前の湊公園内にある造形石。顔に似ているところが多くある。

長崎の西の空の夕日  09−13

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長崎の西の空の夕日  09−13

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真 1〜 3  平成21年 7月 2日の19時42分頃から
写真 4〜 6  平成21年 7月 4日の19時21分頃から
写真 7〜11  平成21年 7月12日の19時16分頃から

「ふるさと」の古写真考 P.75 聖福寺付近から長崎港と市街を望む(明治20年代) 〔再掲〕

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.75 聖福寺付近から長崎港と市街を望む(明治20年代)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.75 聖福寺付近から長崎港と市街を望む(明治20年代)
〔写真説明〕
聖福寺の後山から長崎港と市街を撮影したもので、長崎港左側海岸線付近(写真中心部より左側)の木立の横のたてものが現在の県庁、その左が出島、さらに先の山の2合目付近に国宝・大浦天主堂を小さく見ることができる。写真右端がかつての佐賀藩の蔵屋敷、現在のJR長崎駅付近で、当時は台場町と呼ばれた。(提供:宮脇○○氏)

■ 確認結果
この項は前に載せたP.75「聖福寺付近から長崎港と市街を望む(明治20年代)」の〔再掲〕となるので、前記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1854

古写真は、墓地の登り口に「鳥居」(黄線部分)が確認できる。それに長崎港口の対岸左右の山の重なりをあわせると、撮影場所は「聖福寺の後山」と言うより、観善寺を越したもう少し右側の墓地の高台からと考えられ、福済寺横の「幣振坂」を登った「福済寺墓地」の端の方から撮影されたのではないか、と述べていた。
古写真の鳥居右となる木立の中に、福済寺山門と思われる屋根の一部が写っているようだ。右端は「佐賀藩」の蔵屋敷でなく「大村藩」のであろう。

実はまったく同じ古写真が、2枚目のとおり長崎市教育委員会「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の31頁に、「14 聖福寺裏山から見た長崎港〔彩色〕 神戸市立博物館所蔵」として掲載されている。137頁の図版解説は次のとおり。

写真−13(註:13は「福済寺裏山から長崎港を見る」長崎大学附属図書館所蔵)と同じく立山中腹から長崎港を見下ろしものだが、撮影地点は少し左に寄って聖福寺裏山の墓地付近とみられる。眼下に広がるのが手前から上・下筑後町、東・西上町、東・西中町の家並みで、中央下の横長の建物があるところが西中町と恵美須町の間にあった大村藩屋敷の跡。明治29年には、この地に中町カトリック教会が建てられることになる。右下の木の間に原爆で焼失した福済寺の伽藍の一部がみえる。中島川は変流工事を終え、出島の北側を河口としているので、明治20年代中頃の撮影であろう。やや色あせしているが、淡彩で着色された美しい写真である

2枚目の古写真もタイトルは、「聖福寺裏山から見た長崎港」としているが、解説中で「右下の木の間に原爆で焼失した福済寺の伽藍の一部がみえる」と説明しているとおり、撮影場所は「福済寺墓地」の端の方にしかならない。「ふるさと長崎市」P.75頁の古写真は、右側の福済寺の伽藍部分(焼失前「青蓮堂」と思われる)をカットし、撮影場所をわかりにくくしていた。

問題点はあと1つ。墓地の登り口に写っている「鳥居」。幣振坂の途中、映画「解夏」井戸上の石段入口脇に寄進石が立ち、昭和7年10月建「五社大明神一ノ鳥居及ニノ鳥居ニ至ル 敷石三百間」と刻み、鳥居があったことをうかがわせる、と述べていた。
きのう調べに出かけると、立山の次のバス停が「五社神社下」。神社は茶臼山といわれた「眺望最も広く風景甚だ佳」な、現在はホテル「長崎にっしょうかん」建物前にあった。バス停手前から、急な石段の参道を登りつめる。

正しくは「五社稲荷神社」である。昭和4年初版「長崎市史 地誌編神社教会部 下」428〜429頁にしか表われていない。「鳥居 貳基あり」とあるが、記しているのはバス通り下の、現在も西坂町の参道石段に立つ2基であった。
「一ノ鳥居当社より三丁余の麓に在り(安山岩高八尺五寸巾七尺)正一位五社大明神(額)明治二十四年辛卯九月吉日(左柱) ニノ鳥居一の後方一丁位の地点に在り(安山岩高八尺巾六尺)正一位五社大明神(額)奉、石鳥居一基、石本平蔵外拾四名(左柱)納、明治三十九年舊六月建之小林平造外拾四名(右柱)(銘)」

筑後町の鳥居は記していない。幣振坂の途中に「五社大明神一ノ鳥居及ニノ鳥居ニ至ル 敷石三百間」と刻んだ寄進石が立っているのは、ただここから先、五社神社鳥居までの道の敷石を寄進したという意味にしかならないようだ。
そうすると、鳥居はどこの神社だったのか。原爆もあって鳥居の跡形は何もない。古写真のみに残る謎の鳥居のまま、振り出しへ戻った。「長崎市史」には茶臼山に「大神宮神社」や「岩倉稲荷神社」が祀られている記述があり、調査をしたい。

写真展「新興善救護所の被爆者たち」  市立図書館で22日まで開催

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写真展「新興善救護所の被爆者たち」  市立図書館で22日まで開催

7月8日から22日まで長崎市立図書館新興善メモリアルで、写真展「新興善救護所の被爆者たち」(主催 長崎原爆資料館・長崎市立図書館・NBC長崎放送)が開催されている。入場無料。
原爆投下後に救護所となった旧新興善国民学校の様子を写真や映像でつづり、核兵器の残虐さを伝えている。

旧長崎医科大(現長崎大医学部)が壊滅的な被害を受けたため、市内各地の国民学校や寺院に救護所が設けられた。爆心地から約3キロの地点にあった同国民学校でも、1945年8月17日からの15日間だけで約8000人が治療を受けたとされる。

写真展では被爆直後の長崎、広島両市を記録した旧日本映画社(現日映アーカイブ)の撮影隊が撮った映像や、その映像をプリントした写真20点を展示。放射線の影響で髪の毛が抜けた少女や下半身に大やけどを負った少年らをとらえている。…
(=2009/07/09付 西日本新聞朝刊から)