「ふるさと長崎市」の古写真考 P.75 聖福寺付近から長崎港と市街を望む(明治20年代)
長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。
懐かしき風景・街並み P.75 聖福寺付近から長崎港と市街を望む(明治20年代)
〔写真説明〕
聖福寺の後山から長崎港と市街を撮影したもので、長崎港左側海岸線付近(写真中心部より左側)の木立の横のたてものが現在の県庁、その左が出島、さらに先の山の2合目付近に国宝・大浦天主堂を小さく見ることができる。写真右端がかつての佐賀藩の蔵屋敷、現在のJR長崎駅付近で、当時は台場町と呼ばれた。(提供:宮脇○○氏)
■ 確認結果
この項は前に載せたP.75「聖福寺付近から長崎港と市街を望む(明治20年代)」の〔再掲〕となるので、前記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1854
古写真は、墓地の登り口に「鳥居」(黄線部分)が確認できる。それに長崎港口の対岸左右の山の重なりをあわせると、撮影場所は「聖福寺の後山」と言うより、観善寺を越したもう少し右側の墓地の高台からと考えられ、福済寺横の「幣振坂」を登った「福済寺墓地」の端の方から撮影されたのではないか、と述べていた。
古写真の鳥居右となる木立の中に、福済寺山門と思われる屋根の一部が写っているようだ。右端は「佐賀藩」の蔵屋敷でなく「大村藩」のであろう。
実はまったく同じ古写真が、2枚目のとおり長崎市教育委員会「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の31頁に、「14 聖福寺裏山から見た長崎港〔彩色〕 神戸市立博物館所蔵」として掲載されている。137頁の図版解説は次のとおり。
写真−13(註:13は「福済寺裏山から長崎港を見る」長崎大学附属図書館所蔵)と同じく立山中腹から長崎港を見下ろしものだが、撮影地点は少し左に寄って聖福寺裏山の墓地付近とみられる。眼下に広がるのが手前から上・下筑後町、東・西上町、東・西中町の家並みで、中央下の横長の建物があるところが西中町と恵美須町の間にあった大村藩屋敷の跡。明治29年には、この地に中町カトリック教会が建てられることになる。右下の木の間に原爆で焼失した福済寺の伽藍の一部がみえる。中島川は変流工事を終え、出島の北側を河口としているので、明治20年代中頃の撮影であろう。やや色あせしているが、淡彩で着色された美しい写真である
2枚目の古写真もタイトルは、「聖福寺裏山から見た長崎港」としているが、解説中で「右下の木の間に原爆で焼失した福済寺の伽藍の一部がみえる」と説明しているとおり、撮影場所は「福済寺墓地」の端の方にしかならない。「ふるさと長崎市」P.75頁の古写真は、右側の福済寺の伽藍部分(焼失前「青蓮堂」と思われる)をカットし、撮影場所をわかりにくくしていた。
問題点はあと1つ。墓地の登り口に写っている「鳥居」。幣振坂の途中、映画「解夏」井戸上の石段入口脇に寄進石が立ち、昭和7年10月建「五社大明神一ノ鳥居及ニノ鳥居ニ至ル 敷石三百間」と刻み、鳥居があったことをうかがわせる、と述べていた。
きのう調べに出かけると、立山の次のバス停が「五社神社下」。神社は茶臼山といわれた「眺望最も広く風景甚だ佳」な、現在はホテル「長崎にっしょうかん」建物前にあった。バス停手前から、急な石段の参道を登りつめる。
正しくは「五社稲荷神社」である。昭和4年初版「長崎市史 地誌編神社教会部 下」428〜429頁にしか表われていない。「鳥居 貳基あり」とあるが、記しているのはバス通り下の、現在も西坂町の参道石段に立つ2基であった。
「一ノ鳥居当社より三丁余の麓に在り(安山岩高八尺五寸巾七尺)正一位五社大明神(額)明治二十四年辛卯九月吉日(左柱) ニノ鳥居一の後方一丁位の地点に在り(安山岩高八尺巾六尺)正一位五社大明神(額)奉、石鳥居一基、石本平蔵外拾四名(左柱)納、明治三十九年舊六月建之小林平造外拾四名(右柱)(銘)」
筑後町の鳥居は記していない。幣振坂の途中に「五社大明神一ノ鳥居及ニノ鳥居ニ至ル 敷石三百間」と刻んだ寄進石が立っているのは、ただここから先、五社神社鳥居までの道の敷石を寄進したという意味にしかならないようだ。
そうすると、鳥居はどこの神社だったのか。原爆もあって鳥居の跡形は何もない。古写真のみに残る謎の鳥居のまま、振り出しへ戻った。「長崎市史」には茶臼山に「大神宮神社」や「岩倉稲荷神社」が祀られている記述があり、調査をしたい。