月別アーカイブ: 2009年3月

野母の大立神灯台  長崎市野母町

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野母の大立神灯台  長崎市野母町

長崎半島の南端、野母の大立神灯台は、権現山展望公園下の海面に突き出た「大立神岩」に立つ。展望公園に登る途中から見えるが、海岸へ近寄って写した写真は見当たらない。
権現山展望公園へ以前は、野母バス停から野母小学校前を通り登っていたが、最近、野母崎病院前から海岸沿いを上がる新しい道路が開通し、案内標識の矢印を変えている。

3月20日WBC観戦後、午後3時頃に野母へ行った。葉山神社先の野母終末処理場から海岸へ降りたら、ちょうど干潮時だった。大立神岩まで海岸伝いに歩いてみた。砂浜が多く、1時間ほどで着く。切り立った岩礁は高さ約18m。取り付け階段が手前側に見える。
「小立神岩」という岩もあり、これは海岸へ降りたすぐ近くの岩礁であろう。対岸は、脇岬海水浴場や樺島大橋、樺島灯台の景色となる。500m歩くと水場とタイル跡がある。
HP「日本の灯台」による説明は、次のとおり。

都道府県別 長崎県  ●6351 大立神灯台 [O^tategami]

位置 [Lat/Long]  九州西岸 北緯 32°34′ 01″, 東経 129°44′ 26″
塗色及び構造 [Colour, Structure]  白色 塔形 [White, Tower]
等級及び灯質 [Class, Characteristic]  単閃白光 毎3秒に1閃光 [Fl W 3s]
光度 [Luminous Intensity(Cd)]  500カンデラ (8M)
光達距離 [Range(M)]  12海里
高さ [Tower Height, Focal Plane Height]  地上〜頂部:6.6m、水面〜灯火:30m
初点灯 [Commissioning Date]  昭和46年1月29日 [1.29.1971]
管理事務所 [Office]  第七管区海上保安本部 長崎航路標識事務所

伊能忠敬研究会HPの「伊能忠敬測量日記」による関係記録は次のとおり。忠敬の足取りどおり歩いたようだ。
文化10年9月9日 (西暦1813年10月2日)
…元庄屋の岩永行助宅で昼休み。又、今朝横切った後浜のウの印より初めて、沿海を逆に測る。右に三十間斗(55mほど)引き込んで浄土宗蔵徳寺。左に小立岩(小立神岩)。但し三町斗(327.27mほど)沖。大立神。高さ十間斗(18mほど)の尖った岩。野母崎の内、字門ノ口。又、大絶壁で風と波が強くて測量が難しくなったので、サの印を残して沿海を逆に測る。二十七町六間(2,956.36m)。沿海を順と逆に合計一里十六町九間(5,686.09m)。横に一町四十二間(185.45m)。…

長崎の西の空の夕日  09− 5

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長崎の西の空の夕日  09− 5

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下、続く。

写真 1〜 6  平成21年 3月 9日の17時48分頃 (3の奥は五島列島)
写真 7〜11  平成21年 3月15日の18時17分頃
写真12〜14  平成21年 3月17日の18時23分頃

藤田尾・千々古道と自然史跡めぐり (2)  平成21年3月

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藤田尾・千々古道と自然史跡めぐり (2)  平成21年3月

平成21年3月15日(日)快晴。藤田尾・千々古道と自然史跡めぐり。石鍋製作所跡、領界目印石、金鉱跡、大ツバキを見学する。参加15人。
為石バス停9時半発ー白川稲荷神社ー石鍋製作所跡ー藤田尾古道ー飛瀬領界目印石ー金山金鉱跡(昼食)ー藤田尾ー大ツバキー千々古道ー千々14時半着。

白川稲荷神社は三和中からの寺岳登山道の途中にある。年に一度の大祭があっていてふるまい酒を貰う。石鍋製作所跡を見て、為石海岸の浜川橋に出、千々古道に入る。昔の古道で、藤田尾の子どもたちの通学路であった。
寺岳を左上に見ながら藤田尾近くで県道34号線と合い、県道を少し戻って飛瀬海岸に降りる。寺岳から下ったこの尾根が御領(茂木村藤田尾)と佐賀藩領(為石村)の境で、天保8年(1837)領界争いを解決した目印石(無刻)が2本残っている。
飛瀬よりそのまま海岸の岩場伝いに20分ほど歩いて、字金山の金鉱跡まで行く。海岸の黄色がかった層の岩場の中段に、ポッカリと穴が空いている。坑口は2か所。中で通じ、広場となって5mほど奥へ入れる。金脈に賭けたはかない夢の跡。採鉱は思わしくなかった。

昼食後、藤田尾へ上がり大ツバキを見学。長崎市指定天然記念物。市内一の大木である。海岸が見える所にもう1本の大木がある。下の海岸近くの川口にあるのは、かつての石橋架橋記念碑。ゲートボール場の前から千々古道へ入る。
登って行くと、旧県道の道へ出る。天草灘を望む枇杷畑が多い中の道から、眼下にニッ岳崎が見える。カーブする道を連続しながら下ると、千々先のきれいな浜と岩場に着く。この道路が千々集落へ車で行く唯一の道だった。川筋のツバキは3本立ち。右のは幹囲1.5mある。浜でワカメ拾い。ツワとともに思わぬ収穫となった。休みの日で天気が良く、釣り人が多い。
海岸伝いを含め、約11kmを歩いていた。千々発14時50分のバスに間に合った。為石組は宮さん車にお世話になった。写真は(1)からの続き。庭の裸像と望遠鏡はラビリンス用撮影。

領界目印石の資料の詳しくは、https://misakimichi.com/archives/80
金山金鉱跡の資料の詳しくは、https://misakimichi.com/archives/281
藤田尾と千々古道の詳しくは、https://misakimichi.com/archives/224

お宮さんの参加ブログ記事は、http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/12372256.html

藤田尾・千々古道と自然史跡めぐり (1)  平成21年3月

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藤田尾・千々古道と自然史跡めぐり (1)  平成21年3月

平成21年3月15日(日)快晴。藤田尾・千々古道と自然史跡めぐり。石鍋製作所跡、領界目印石、金鉱跡、大ツバキを見学する。参加15人。
為石バス停9時半発ー白川稲荷神社ー石鍋製作所跡ー藤田尾古道ー飛瀬領界目印石ー金山金鉱跡(昼食)ー藤田尾ー大ツバキー千々古道ー千々14時半着。

白川稲荷神社は三和中からの寺岳登山道の途中にある。年に一度の大祭があっていてふるまい酒を貰う。石鍋製作所跡を見て、為石海岸の浜川橋に出、千々古道に入る。昔の古道で、藤田尾の子どもたちの通学路であった。
寺岳を左上に見ながら藤田尾近くで県道34号線と合い、県道を少し戻って飛瀬海岸に降りる。寺岳から下ったこの尾根が御領(茂木村藤田尾)と佐賀藩領(為石村)の境で、天保8年(1837)領界争いを解決した目印石(無刻)が2本残っている。
飛瀬よりそのまま海岸の岩場伝いに20分ほど歩いて、字金山の金鉱跡まで行く。海岸の黄色がかった層の岩場の中段に、ポッカリと穴が空いている。坑口は2か所。中で通じ、広場となって5mほど奥へ入れる。金脈に賭けたはかない夢の跡。採鉱は思わしくなかった。

昼食後、藤田尾へ上がり大ツバキを見学。長崎市指定天然記念物。市内一の大木である。海岸が見える所にもう1本の大木がある。下の海岸近くの川口にあるのは、かつての石橋架橋記念碑。ゲートボール場の前から千々古道へ入る。
登って行くと、旧県道の道へ出る。天草灘を望む枇杷畑が多い中の道から、眼下にニッ岳崎が見える。カーブする道を連続しながら下ると、千々先のきれいな浜と岩場に着く。この道路が千々集落へ車で行く唯一の道だった。川筋のツバキは3本立ち。右のは幹囲1.5mある。浜でワカメ拾い。ツワとともに思わぬ収穫となった。休みの日で天気が良く、釣り人が多い。
海岸伝いを含め、約11kmを歩いていた。千々発14時50分のバスに間に合った。為石組は宮さん車にお世話になった。写真の続きは(2)へ。庭の裸像と望遠鏡はラビリンス用撮影。

領界目印石の資料の詳しくは、https://misakimichi.com/archives/80
金山金鉱跡の資料の詳しくは、https://misakimichi.com/archives/281
藤田尾と千々古道の詳しくは、https://misakimichi.com/archives/224

お宮さんの参加ブログ記事は、http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/12372256.html

上丹馬のエノキ  長崎市香焼町

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上丹馬のエノキ  長崎市香焼町

長崎市香焼町の豊前坊社と岩立神社のエノキが、ともに樹高約20m、根回り約4mで、樹齢約200年と推定され、町当時から引き続き長崎市指定天然記念物になっている。
香焼にこれより大きいと思われるエノキを見かけた。豊前坊社前のエノキの車道反対側、左下となる。

上丹馬バス停から安保トンネルの安保側出口へ下る車道があり、しばらく行くと、カーブ地点の手前右斜面地にある。上は浜浦宅で、犬が吠える。エノキが2本あり、下が目通り幹囲2m、上が同幹囲4mはあると思われる。急な斜面地に根を張り、計測ができない。根を見せているためか、大きく感じる。
この手前の車道右脇には大きな岩があり、くりぬいた小さな穴に地蔵が祀られ、アコウの大木が横たわって生えていた。水場だったようである。

エノキの大木は、式見小学校のが別格、幹囲5.8m(高さ1.7mで3本の幹に分かれる)で一番大きく、市指定天然記念物になっている。香焼の幹囲4mほどなら、高浜海水浴場右側の川畔に防風林として植えられた老木の大木がある。蚊焼漁港にも大木がある。
次を参照。 https://misakimichi.com/archives/436
https://misakimichi.com/archives/538
後ろの2枚が、高浜海水浴場近くと蚊焼漁港のエノキ。幹囲はそれぞれ4.0mあった。

イチョウも大音寺墓地のが、市内一の大木とされ、市指定天然記念物になっているが、茂木の玉台寺境内の方のが、幹囲は大きいと思われる。
次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1514
地区によって天然記念物指定の不均衡とならないよう、専門家・関係者による正確な調査をお願いしたい。私の間違いがあるかも知れない。一応、紹介しておく。

香   焼 (9) 香焼炭鉱の海岸試錐跡  長崎市香焼町

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香   焼 (9) 香焼炭鉱の海岸試錐跡  長崎市香焼町

「香焼」(こうやぎ)は、長崎港口のかつて島であった町。長崎市の南部に位置し、市街地から車で約30分である。香焼山円福寺は別項。

(9)は、香焼炭鉱の海岸試錐跡  安保海岸に明治40年の炭層試錐跡が3本現存していた。
香焼町「香焼町郷土誌」平成3年刊の香焼の歴史39頁に1枚の写真があり、次のとおり記している。

(湧水や鉄道隆起のため収支伴わず横島炭鉱に続き)…香焼炭鉱も明治37年(1904)3月廃鉱(停止)となり、時あたかも日露戦争が勃発し、村としても多難なときを迎えた。しかし幸いに、山下コークス製造所は相変わらず発展しており、明治33年末より着工していた長浜鉄工場が、明治37年10月、軍需の波にのって、漸く活動を開始したことは、村の発展を期待させる事柄であった。
香焼炭鉱は廃鉱になったが、川田社によって採掘跡の残柱採掘が行われた。香焼炭鉱はこの後も、三菱に試錐(鉱床探査)を依頼、明治40年(1907)に海岸試錐に成功し、炭層の存在を確認することができた。このときの試錐の跡は、海岸に3か所あったが、現在では第1・第2次の跡は流失している。しかし第3次試錐の跡は現在でも残っている。恵理下と栗ノ浦との間の「高石」と呼ばれる岩場にあるのがそれである。

この海岸試錐は、永い間採掘された陸上には開拓の余地なしとみて、海底炭田の開拓を目指したものである。試錘の結果は第1次で、上5尺、、上3尺、7尺、下3尺の各炭層を認め、第2次では断層の位置で5尺、上3尺の炭層を認めている。次の第3次試錐では第1次と同じ炭層を確認している。
操業を停止していた香焼炭鉱は、操業を再開し、明治42年(1909)には7尺層の海底炭に着炭、地元では盛大なお祝いが行われている。これ以来、香焼炭鉱は、大正13年(1924)に休止するまでの間、本格的な採炭が行われた。… 

以上が海岸試錐の記述である。同郷土誌の鉱工業180頁には、昭和42年岩本武重氏作成の「香焼炭鉱の最盛期(T.5前後)の主要施設概説図」があり、現地の安保海岸へ行ってみた。発電所跡の赤レンガ造の痕跡は、もはや確認できない。
現在、伊王島大橋の架橋に伴い、開通している「香焼トンネル」の安保側から海岸を「高石」と呼ばれる岩場まで歩いた。試錐跡は、第3次の跡だけでなく、概説図の位置に第1・第2次の跡も流失していることなく、現存しているのが確認できた。

第1次試錐の跡は、海岸道路の終点すぐ手前の石垣の下に半分は埋れていた。第2次の跡は、それから海岸伝いに100mほど歩いた所。第3次の跡は、またそれから100mほど歩き、郷土誌どおり「高石」と思われる岩場手前の所にあった。ここまで来ると、栗ノ浦の対岸の岬が見えてくる。途中の海岸には炭層が露出していると思われる所もあった。
試錐の跡の形状は、縦90cm、横70cm、高さ1m位。土台は+5cmとしたコンクリートの四角い固まり。ボーリングの鉄管穴が中心にある。荒波により破損の状況や高さはそれぞれ違うが、3つとも造りは同じだったから、試錐の跡に間違いないと思われる。写真は各4枚ずつとした。
前の海にかつての横島炭鉱と高島炭鉱の島が近くに浮かぶ。炭鉱の歴史を学ぶことができた。

最後の写真は、3月24日に再調査。第2次試錐と第3次試錐の跡の中間に水場であろう赤煉瓦造が残っていた。後は、恵理から栗ノ浦への山道に塞がれて残る試掘の跡「狸穴」である。

香   焼 (8) その他史跡・碑  長崎市香焼町

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香   焼 (8) その他史跡・碑  長崎市香焼町

「香焼」(こうやぎ)は、長崎港口のかつて島であった町。長崎市の南部に位置し、市街地から車で約30分である。香焼山円福寺は別項。
長崎さるくマップブック「香焼界隈」74頁による説明は次のとおり。

平成17年1月、長崎市と合併。香焼はもともと香焼島、陰ノ尾島の2つの島からなり、徳川時代は佐賀藩深堀領の所領でした。廃藩置県後は長崎県深堀村に属しましたが、明治31年(1898)に分村。その後100年という長い年月は香焼町として石炭業、造船業と共に歴史を築いてきました。
昭和46年に完成した臨海工業用埋立で長崎半島と陸続きになり、旧造船所施設を三菱重工業(株)が取得し、世界的規模の造船機械産業の立地となりました。
香焼という地名は、弘法大師の焼香伝説に由来しています。

(8)は、その他史跡・碑
写真  1〜 2  長浜御番所の井戸  (三菱香焼工場正門左側の消防分団裏)
写真  3〜 4  香焼山円福寺の石門  (地域福祉センターひまわり裏の参道入口)
写真  5〜 8  香焼小学校明治26年当時の石垣、門柱 (円福寺参道途中の右側駐車場)
写真  9〜11  蔭ノ尾大橋架橋記念碑 (岩立神社第1児童公園の長崎市合併記念碑横)
写真 12〜13  深堀村からの分村紀念碑  (岩立神社神殿の右上)
写真 14〜17  遠見番所の跡  (円福寺上方の遠見岳山頂、豊前坊社先から登る)
写真 18〜20  深堀・香焼埋立地の市町境界柱 (埋立地大通り中間の信号手前左歩道)

香   焼 (7) 栗辰墓地の墓碑  長崎市香焼町

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香   焼 (7) 栗辰墓地の墓碑  長崎市香焼町

「香焼」(こうやぎ)は、長崎港口のかつて島であった町。長崎市の南部に位置し、市街地から車で約30分である。香焼山円福寺は別項。
長崎さるくマップブック「香焼界隈」74頁による説明は次のとおり。

平成17年1月、長崎市と合併。香焼はもともと香焼島、陰ノ尾島の2つの島からなり、徳川時代は佐賀藩深堀領の所領でした。廃藩置県後は長崎県深堀村に属しましたが、明治31年(1898)に分村。その後100年という長い年月は香焼町として石炭業、造船業と共に歴史を築いてきました。
昭和46年に完成した臨海工業用埋立で長崎半島と陸続きになり、旧造船所施設を三菱重工業(株)が取得し、世界的規模の造船機械産業の立地となりました。
香焼という地名は、弘法大師の焼香伝説に由来しています。

(7)は、「栗辰墓地」の防州人墓碑。「栗辰墓地」は、香焼総合公園から下って行き、栗ノ浦と辰ノ口に分かれる手前の左側にある。新しい墓地で素通りしがちだが、古の墳墓地が伊王島大橋架橋現場の道路用地となった。そのため「堀池神社の鳥居」の笠戸屋を、同じく屋号とする笠戸屋久兵衛の墓石や古いお地蔵様造りは、ここに移設されている(小川家墓所内ほか)。
香焼町「香焼町郷土誌」平成3年刊の地区紹介341頁による旧栗ノ浦墓地の説明は次のとおり。最後の写真が栗ノ浦。

(2)栗ノ浦
…栗ノ浦の下の墓地には、防州櫛ヶ浜の住人の墓碑があり、そのうち最も古いのは、「寛政3亥4月□□」(1791)刻銘のもので、無名。お地蔵様造りで立派な花崗岩製の分厚いものである。香焼にはこの時代のこの種類のものは他にはないといってよいであろう。石は徳山みかげと思われ、防州で製作されたものを、干鰯船で運んで来て亡き同僚のために建立したと考えられる。
その横にも刻銘のない全くないお地蔵様型のものが1基。その上には「防州櫛ヶ浜住人笠戸屋久兵衛・享和2戌3月5日」(1801)の刻銘があるものが1基。その下のが最も新しく、「山口県都濃郡くしが浜・松田甚兵衛・広海月観居士・明治26年10月29日」(1893)刻銘で、30cm位の花崗岩製の1基があり、法名には深い意味がこめられているようである。これらの墓碑の年号からみれば、防州との交易は100年に及んでいることがわかる。また、このことは、香焼、なかでも栗ノ浦の漁業の歴史を知る上で大切なことである。…

※(注 意)
新しい墓地の墓石を探したが、「防州櫛ヶ浜住人笠戸屋久兵衛・享和2戌3月5日」(1801)の刻銘があるものが見当たらない。「笠戸屋久兵衛墓」でなく「笠戸屋徳兵衛墓」だった。徳兵衛墓は、岩立神社下の唐ノ船墓地にもある。
無縁有縁の仮置き場所にも見当たらない。墓地の移設に際し、徳山の縁者との関係で何かあったのだろうか。写真は「笠戸屋徳兵衛墓」の墓石を写してきている。

香   焼 (6) 香焼と村井喜右衛門  長崎市香焼町

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香   焼 (6) 香焼と村井喜右衛門  長崎市香焼町

「香焼」(こうやぎ)は、長崎港口のかつて島であった町。長崎市の南部に位置し、市街地から車で約30分である。香焼山円福寺は別項。
長崎さるくマップブック「香焼界隈」74頁による説明は次のとおり。

平成17年1月、長崎市と合併。香焼はもともと香焼島、陰ノ尾島の2つの島からなり、徳川時代は佐賀藩深堀領の所領でした。廃藩置県後は長崎県深堀村に属しましたが、明治31年(1898)に分村。その後100年という長い年月は香焼町として石炭業、造船業と共に歴史を築いてきました。
昭和46年に完成した臨海工業用埋立で長崎半島と陸続きになり、旧造船所施設を三菱重工業(株)が取得し、世界的規模の造船機械産業の立地となりました。
香焼という地名は、弘法大師の焼香伝説に由来しています。

(6)は、鼠島(皇后島)の南方の暗礁「唐人瀬」に座礁したオランダ船を、弟亀次郎らと見事に引き揚げ、日本サルベージ草わけの出来事となった防州徳山出身、村井喜右衛門の香焼での話。次のとおりHP「村井喜右衛門」にあるので、詳しくは同HPを参照。

香焼町の村井喜右衛門

1798年10月17日、オランダ船エリザ号が長崎港入り口の神の島付近で座礁し沈没した。エリザ号のスチュアート船長の依頼で幕府は何度も引き上げを試みたが、ことごとく失敗に終わった。香焼村、栗の浦に仮屋を構える村井喜右衛門が無償で引き上げを申し出、式見など近隣の漁師たちに呼びかけ、150艘もの小船と、柱を海中に立て滑車をつかって、潮の干満と風を利用して引き上げに成功した。エリザ号は無事修理を終わって出帆することができた。
このことで村井喜右衛門は長崎奉行から銀30枚、幕府から表彰状をもらい、毛利藩から名字帯刀を許された。香焼には弟亀次郎の墓が浦上墓地に、もう一人の弟、音右衛門の墓が深堀町円城寺墓地にある。
香焼の栗の浦地区は今では10数軒の小さな集落であるが、当時はイワシ漁を中心とした漁業で、香焼で一番にぎわっていたらしい。喜右衛門は防州(山口県)出身の鰯廻船業者であるが、当時香焼周辺には防州出身の漁業関係者があちこちにいたとされ、各地の神社に鳥居の寄進などが行われている。
堀池神社の鳥居の材料は防州から運ばれた花崗岩で、防州から来るときは花崗岩を持ってきて、帰りは肥料用にイワシを加工して大阪や兵庫に持っていくという商いを行った。また、イワシは香焼の当時の重要なタンパク源で食料といえば「イモとイワシ」であった。

最初の写真が、香焼入口のシンボルパークに陶板で展示されている「阿蘭陀船於唐人瀬沈船 防州喜右衛門挽揚絵図」。徳山市の村井家伝書「蛮喜和合楽」にある。前記HPや香焼図書館蔵書の作間鴻東著「増補ニ 村井喜右衛門」を見てもらいたい。
香焼図書館には、香焼在住のマニア梅原喜一郎氏が平成8年製作された「オランダ船引き揚げ再現模型」が展示されている。中央が沈没したエリザ号。先頭が喜右衛門の持船、西魚丸。回りを小船がとり囲み、風力、潮の干満、滑車を利用して引き揚げた。

深堀神社には、寛政10戊午(1798年)防州櫛濱 村井喜右衛門・亀治郎寄進の石灯籠一対が残り、岩立神社に現存している石燈籠の一部(写真7,8)も、寄進時期は不明だが、弟亀次郎のものと考えられている。
岩崎鼻の石燈籠は、現在どこかに保管されているようでわからなかった。
前記のとおり弟村井亀次郎は、77歳で没。香焼町浦上墓地に墓石あり。碑文「徳勝軒徹心如堅居士 天保6未年(1835)7月13日 俗名村井亀次郎」
前記HPによる徳山市立図書館の「蛮喜和合楽」解説は次のとおり。

この蛮喜和合楽は、寛政10年(1798)10月、オランダ船(実は、オランダがチャーターした米国籍船という。6000石積)が長崎港外で沈没するに至った前後の事情から説き起こして、翌11年2月、その船体を、周防国都濃郡櫛ケ浜村(現、徳山市大字櫛ケ浜)の回船業、村井喜右衛門(1752−1804)が、工夫と才覚を凝らし、前後34日を費やして引揚げに成功し、再び同船を日本から無事船出させるまでの出来事を、上中下3枚の絵を中心にした読物にまとめたものである。その中でも、喜右衛門が苦心工夫した引揚げの手段方法が(本文には殆どこのことにふれていないが)実によく絵解きされていることに注目されたい。
この沈船引揚げの評判は、鎖国中の日本国内だけではなく、遠く欧米諸国にも伝わり、無名の1日本人村井喜右衛門の事蹟が、海外でも相当の話題になっていたことが、ヅーフ著の日本回想録やホークス編の米国艦隊極東遠征記等で知られる。

香   焼 (5) 堀池神社の鳥居・天満宮の祠  長崎市香焼町

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香   焼 (5) 堀池神社の鳥居・天満宮の祠  長崎市香焼町

「香焼」(こうやぎ)は、長崎港口のかつて島であった町。長崎市の南部に位置し、市街地から車で約30分である。香焼山円福寺は別項。
長崎さるくマップブック「香焼界隈」74頁による説明は次のとおり。

平成17年1月、長崎市と合併。香焼はもともと香焼島、陰ノ尾島の2つの島からなり、徳川時代は佐賀藩深堀領の所領でした。廃藩置県後は長崎県深堀村に属しましたが、明治31年(1898)に分村。その後100年という長い年月は香焼町として石炭業、造船業と共に歴史を築いてきました。
昭和46年に完成した臨海工業用埋立で長崎半島と陸続きになり、旧造船所施設を三菱重工業(株)が取得し、世界的規模の造船機械産業の立地となりました。
香焼という地名は、弘法大師の焼香伝説に由来しています。

(5)は、香焼の鰯網漁関係資料 堀池神社の鳥居・天満宮の祠

長崎市指定有形民俗文化財「堀池神社の鳥居」は香焼山円福寺の先、「天満宮の祠」は香焼総合公園先の車道沿いにある。
香焼はかつて多くの防州出身者が移り住み、鰯網漁が盛んだった。その頃の関係資料である。円福寺の「石燈籠」も同関係資料として指定されている。

長崎さるくマップブック「香焼界隈」74頁による「堀池神社の鳥居」の説明は次のとおり。
鳥居の右柱に「防州櫛ヶ濱笠戸屋徳左衛門」と刻んでいる。笠戸屋の屋号としては、他にも唐の船墓地(岩立神社下)に笠戸屋徳兵衛(写真6)、栗ノ浦墓地に笠戸屋久兵衛の墓石が残されていて、いずれもその石材は徳山御影と推定されている。

堀池神社の鳥居

享和元年(1801)に笠戸屋徳左衛門の寄進によって建立されたもので、その石材は”徳山御影”と呼ばれる花崗岩と推定されています。笠戸屋徳左衛門は、防州櫛ヶ浜(現在の山口県徳山市)の人。寛政11年(1799)、長崎港に沈没したオランダ船を引き上げた村井喜右衛門をはじめ、多くの防州出身者が香焼とその周辺に移り住み、盛んに漁業を行っていました。この鳥居は、香焼と防州(徳山)とのかつての交流の様子を物語っています。

次が現在、香焼総合公園展望台となった天神山から栗ノ浦の車道沿いに移されている「香焼の鰯網漁関係資料 天満宮の祠」。祠の右側外石に「安永2年(1773)」の年号を刻む。
香焼町「香焼町郷土誌」平成3年刊の地区紹介340〜341頁による説明は次のとおり。

(2)栗ノ浦
…天神山の山頂に祭られていた天満宮は、最近その山麓付近に遷宮されたが、境内には、安永2年(1773)の刻銘のある祠がある。この時代は防州櫛ヶ浜(今の徳山市)の住民村井喜右衛門などが、干鰯商いのために防州と香焼との間を往来していたところである。円福寺の開山より約100年後であるが、今から、200余年も前のことであるから、町内の建造物では古いものの一つで、貴重な文化財といえるであろう。…