香   焼 (7) 栗辰墓地の墓碑  長崎市香焼町

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香   焼 (7) 栗辰墓地の墓碑  長崎市香焼町

「香焼」(こうやぎ)は、長崎港口のかつて島であった町。長崎市の南部に位置し、市街地から車で約30分である。香焼山円福寺は別項。
長崎さるくマップブック「香焼界隈」74頁による説明は次のとおり。

平成17年1月、長崎市と合併。香焼はもともと香焼島、陰ノ尾島の2つの島からなり、徳川時代は佐賀藩深堀領の所領でした。廃藩置県後は長崎県深堀村に属しましたが、明治31年(1898)に分村。その後100年という長い年月は香焼町として石炭業、造船業と共に歴史を築いてきました。
昭和46年に完成した臨海工業用埋立で長崎半島と陸続きになり、旧造船所施設を三菱重工業(株)が取得し、世界的規模の造船機械産業の立地となりました。
香焼という地名は、弘法大師の焼香伝説に由来しています。

(7)は、「栗辰墓地」の防州人墓碑。「栗辰墓地」は、香焼総合公園から下って行き、栗ノ浦と辰ノ口に分かれる手前の左側にある。新しい墓地で素通りしがちだが、古の墳墓地が伊王島大橋架橋現場の道路用地となった。そのため「堀池神社の鳥居」の笠戸屋を、同じく屋号とする笠戸屋久兵衛の墓石や古いお地蔵様造りは、ここに移設されている(小川家墓所内ほか)。
香焼町「香焼町郷土誌」平成3年刊の地区紹介341頁による旧栗ノ浦墓地の説明は次のとおり。最後の写真が栗ノ浦。

(2)栗ノ浦
…栗ノ浦の下の墓地には、防州櫛ヶ浜の住人の墓碑があり、そのうち最も古いのは、「寛政3亥4月□□」(1791)刻銘のもので、無名。お地蔵様造りで立派な花崗岩製の分厚いものである。香焼にはこの時代のこの種類のものは他にはないといってよいであろう。石は徳山みかげと思われ、防州で製作されたものを、干鰯船で運んで来て亡き同僚のために建立したと考えられる。
その横にも刻銘のない全くないお地蔵様型のものが1基。その上には「防州櫛ヶ浜住人笠戸屋久兵衛・享和2戌3月5日」(1801)の刻銘があるものが1基。その下のが最も新しく、「山口県都濃郡くしが浜・松田甚兵衛・広海月観居士・明治26年10月29日」(1893)刻銘で、30cm位の花崗岩製の1基があり、法名には深い意味がこめられているようである。これらの墓碑の年号からみれば、防州との交易は100年に及んでいることがわかる。また、このことは、香焼、なかでも栗ノ浦の漁業の歴史を知る上で大切なことである。…

※(注 意)
新しい墓地の墓石を探したが、「防州櫛ヶ浜住人笠戸屋久兵衛・享和2戌3月5日」(1801)の刻銘があるものが見当たらない。「笠戸屋久兵衛墓」でなく「笠戸屋徳兵衛墓」だった。徳兵衛墓は、岩立神社下の唐ノ船墓地にもある。
無縁有縁の仮置き場所にも見当たらない。墓地の移設に際し、徳山の縁者との関係で何かあったのだろうか。写真は「笠戸屋徳兵衛墓」の墓石を写してきている。