香   焼 (6) 香焼と村井喜右衛門  長崎市香焼町

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香   焼 (6) 香焼と村井喜右衛門  長崎市香焼町

「香焼」(こうやぎ)は、長崎港口のかつて島であった町。長崎市の南部に位置し、市街地から車で約30分である。香焼山円福寺は別項。
長崎さるくマップブック「香焼界隈」74頁による説明は次のとおり。

平成17年1月、長崎市と合併。香焼はもともと香焼島、陰ノ尾島の2つの島からなり、徳川時代は佐賀藩深堀領の所領でした。廃藩置県後は長崎県深堀村に属しましたが、明治31年(1898)に分村。その後100年という長い年月は香焼町として石炭業、造船業と共に歴史を築いてきました。
昭和46年に完成した臨海工業用埋立で長崎半島と陸続きになり、旧造船所施設を三菱重工業(株)が取得し、世界的規模の造船機械産業の立地となりました。
香焼という地名は、弘法大師の焼香伝説に由来しています。

(6)は、鼠島(皇后島)の南方の暗礁「唐人瀬」に座礁したオランダ船を、弟亀次郎らと見事に引き揚げ、日本サルベージ草わけの出来事となった防州徳山出身、村井喜右衛門の香焼での話。次のとおりHP「村井喜右衛門」にあるので、詳しくは同HPを参照。

香焼町の村井喜右衛門

1798年10月17日、オランダ船エリザ号が長崎港入り口の神の島付近で座礁し沈没した。エリザ号のスチュアート船長の依頼で幕府は何度も引き上げを試みたが、ことごとく失敗に終わった。香焼村、栗の浦に仮屋を構える村井喜右衛門が無償で引き上げを申し出、式見など近隣の漁師たちに呼びかけ、150艘もの小船と、柱を海中に立て滑車をつかって、潮の干満と風を利用して引き上げに成功した。エリザ号は無事修理を終わって出帆することができた。
このことで村井喜右衛門は長崎奉行から銀30枚、幕府から表彰状をもらい、毛利藩から名字帯刀を許された。香焼には弟亀次郎の墓が浦上墓地に、もう一人の弟、音右衛門の墓が深堀町円城寺墓地にある。
香焼の栗の浦地区は今では10数軒の小さな集落であるが、当時はイワシ漁を中心とした漁業で、香焼で一番にぎわっていたらしい。喜右衛門は防州(山口県)出身の鰯廻船業者であるが、当時香焼周辺には防州出身の漁業関係者があちこちにいたとされ、各地の神社に鳥居の寄進などが行われている。
堀池神社の鳥居の材料は防州から運ばれた花崗岩で、防州から来るときは花崗岩を持ってきて、帰りは肥料用にイワシを加工して大阪や兵庫に持っていくという商いを行った。また、イワシは香焼の当時の重要なタンパク源で食料といえば「イモとイワシ」であった。

最初の写真が、香焼入口のシンボルパークに陶板で展示されている「阿蘭陀船於唐人瀬沈船 防州喜右衛門挽揚絵図」。徳山市の村井家伝書「蛮喜和合楽」にある。前記HPや香焼図書館蔵書の作間鴻東著「増補ニ 村井喜右衛門」を見てもらいたい。
香焼図書館には、香焼在住のマニア梅原喜一郎氏が平成8年製作された「オランダ船引き揚げ再現模型」が展示されている。中央が沈没したエリザ号。先頭が喜右衛門の持船、西魚丸。回りを小船がとり囲み、風力、潮の干満、滑車を利用して引き揚げた。

深堀神社には、寛政10戊午(1798年)防州櫛濱 村井喜右衛門・亀治郎寄進の石灯籠一対が残り、岩立神社に現存している石燈籠の一部(写真7,8)も、寄進時期は不明だが、弟亀次郎のものと考えられている。
岩崎鼻の石燈籠は、現在どこかに保管されているようでわからなかった。
前記のとおり弟村井亀次郎は、77歳で没。香焼町浦上墓地に墓石あり。碑文「徳勝軒徹心如堅居士 天保6未年(1835)7月13日 俗名村井亀次郎」
前記HPによる徳山市立図書館の「蛮喜和合楽」解説は次のとおり。

この蛮喜和合楽は、寛政10年(1798)10月、オランダ船(実は、オランダがチャーターした米国籍船という。6000石積)が長崎港外で沈没するに至った前後の事情から説き起こして、翌11年2月、その船体を、周防国都濃郡櫛ケ浜村(現、徳山市大字櫛ケ浜)の回船業、村井喜右衛門(1752−1804)が、工夫と才覚を凝らし、前後34日を費やして引揚げに成功し、再び同船を日本から無事船出させるまでの出来事を、上中下3枚の絵を中心にした読物にまとめたものである。その中でも、喜右衛門が苦心工夫した引揚げの手段方法が(本文には殆どこのことにふれていないが)実によく絵解きされていることに注目されたい。
この沈船引揚げの評判は、鎖国中の日本国内だけではなく、遠く欧米諸国にも伝わり、無名の1日本人村井喜右衛門の事蹟が、海外でも相当の話題になっていたことが、ヅーフ著の日本回想録やホークス編の米国艦隊極東遠征記等で知られる。