月別アーカイブ: 2009年1月

古写真に残る石橋風景  (8)浪の平の「了?福橋」

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古写真に残る石橋風景  (8)浪の平の「了?福橋」

長崎市浪の平町の「長崎市南公民館」先に、右へ入る昔の狭い幅の道がある。金刀比羅(琴平)神社鳥居がある参道口へ出る。
この道が明治期から、石橋より二本松を越えず、浪の平・小菅を経由した一時期の戸町・深堀道となり、「みさき道」となったと思われる道である。
路地に入ってすぐ古河町となり、町境の小川に長い板石を5本渡した桁橋がある。手前左に古い親柱が残り、「寄附者 永井傳之?」と刻んでいる。
橋は「古写真考」の次も参照。 https://misakimichi.com/archives/1546

ところが目録の古写真は、橋をはっきり確認できない。まだ良く写った写真だったはずにと、「長崎古写真集 居留地編」長崎市教育委員会平成7年刊を借りてきて、89・90頁の写真を見た。
ここに掲げた2枚目の古写真「75 浪の平一帯B(彩色) 長崎市立博物館所蔵」には、橋がはっきり写っている。
目録と同じ古写真なのに、橋の下部が少しカットされていたのである。拡大写真を参照。
1枚目の「74 浪の平一帯A(彩色)」は、現在の南公民館敷地にあった「尋常鎮鼎小学校」(長崎市立浪平小学校の前身)校舎が建つ前の古写真。このときは石橋は架かってなかったのか、確認できない。
いずれも、撮影場所は南側高台の金刀比羅(琴平)神社境内からと思われる。

「橋名」がわかった。再び訪ねると、汲み取りホース下の川岸に石柱が2本並べて横たえていた。1本に刻字があるようなので苔をはがすと、「了?福橋」と読めた。
大切に保存してほしい親柱である。架橋年代はない。刻まれていれば、古写真の撮影時期を推定できるのだが…
アーチ式石橋でないが、古写真にはっきり写り、しかもそのまま現存している珍しい桁石橋。すぐ上の支流流れ口にも、小さな桁石橋を確認した。
「長崎古写真集 居留地編」の145頁、林一馬先生稿「図版解説」は次のとおり。

74 浪の平一帯A(彩色)  横浜開港資料館所蔵
75 浪の平一帯B(彩色)  長崎市立博物館所蔵
ほぼ同一地点(浪の平の南側の丘にある琴平神社の参道付近)から類似した構図で居留地の南端と浪の平及び長崎港を望んだもの。遠くに出島や旧市街地、立山や金比羅山などの山々がみえている。

Aは、梅香崎の税関前の埋め立て地の様子や手前の南山手の建物の建ち方(17、18番の2棟はあるが、35番はまだ建っていないなど)からすれば、明治5〜10年頃のものであろう。ポールの立っているところがアメリカ領事館(明治8年4月以降ならばロシア領事館)で、ポール右上の屋根がリンガー邸であろう。南山手の周遊道路はすでにあり、石積みの手すりや石畳も24番地の前あたりまで整備されていたが、大浦地区からの遠さゆえにかこの居留地南端付近はまだ空き地が多かったことが確かめられる。一番手前にみえる洋館が図−4にも記載される24番のものだが、この当初建物ではヴェランダが下屋形式となっておらず、煙突もついていなかったことがわかる。

Bには、明治20年7月に新築移転してきた尋常鎮鼎小学校(のちの浪の平小学校)の校舎があり、その屋根上に明治22年8月上棟の二十五番館の棟頂ものぞくが、一帯の洋館群の様子は図−9よりもかなり前の状態なので、明治20年代中頃の撮影であろう。校舎の背後にみえる洋館2棟は24番の現・荒木茂康・君恵宅と荒木豊治氏宅だが、前者はAにみえた当初建物を明治10年前後に改築または建て直したものだったことがわかる。この頃になると南山手の区画もほぼ満杯状態になり、次には2階建て住宅がこの地区にも登場してくるようになる。

時津の茶屋(本陣)周辺の桁石橋  西彼杵郡時津町浦郷

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時津の茶屋(本陣)周辺の桁石橋  西彼杵郡時津町浦郷

江戸期、時津街道を往来する諸大名、幕府役人の休憩、宿泊にあてられた時津の茶屋(本陣)。古い屋敷が残り、外囲いに堀のような小川が流れる。
祐徳稲荷神社の方まで行って一周すると、桁石橋が3橋あった。大きい板石2つで造った茶屋(本陣)正門橋は、風格がある。裏手の方の上流にある住宅橋は、階段橋のようになっていた。
茶屋(本陣)の現地説明板は次のとおり。

茶屋(本陣)

時津は船待ちの港として神功皇后外征ゆかりの伝説を持つ港町である。殊に元亀2年(西暦1571年)長崎開港後は長崎奉行、学者、文人の往来を始め、中国、オランダ交易品の上方、関西方面送りなど大変、栄えたところである。
その本陣として寛永10年(西暦1633年)市場南に建立されたのが茶屋(本陣)のはじまりである。その後、茶屋(本陣)は、我国の外交内政の激動期、すなわち、徳川幕末近く、文化10年(西暦1817年)大村藩主の命によって、高谷正蔵が旧時津街道に沿い、この地に建てて諸大名、幕府役人の休憩、宿泊にあてたところである。
時津町教育委員会

本蓮寺・福済寺・観善寺と墓地風景  長崎市筑後町ほか

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本蓮寺・福済寺・観善寺と墓地風景  長崎市筑後町ほか

JR長崎駅近く。筑後町や玉園町の高台にある本蓮寺・福済寺・観善寺と墓地風景。
聖福寺は別項。長崎港を望めたが、高いビルが建ち、墓地の上まで上がらないと見えない。
長崎さるくマップブック42〜43頁の「本蓮寺」と「福済寺」の説明は次のとおり。
観善寺の大クスは、樹高20m、幹周り 8m。市指定天然記念物。

本 蓮 寺
大音寺、皓台寺と並ぶ長崎三大寺の一つ。お寺になる前は、二十六聖人の一人、聖ペトロ・パプチスタンゆかりのサン・ジョアン・パプチスタ教会とサン・ラザロ病院がありました。
その頃の井戸が、本堂右側の庭園に残っています。幕末に勝海舟が海軍伝習所で航海術を学んでいた頃、このお寺の一角に住んでいました。

福 済 寺
同じ唐寺の興福寺、崇福寺と合わせて三福寺と言われ、原爆で全焼するまでは国宝に指定されていました。亀の上に乗った大きな観音様は正式には「萬国霊廟長崎観音」といい、高さ18m、地面からだと34mもあります。観音様の中にある地球の自転を示す「フーコの振り子」は、わが国有数の大きさです。

聖福寺 大雄宝殿・天王門・山門  長崎市玉園町

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聖福寺 大雄宝殿・天王門・山門  長崎市玉園町

JR長崎駅から歩いて、約15分の近さにある。長崎随一の景観の寺。拝観料不要。
「聖福八景」として多くの文人が詩に詠んだ。さだまさしの映画「解夏」幼い日かくれんぼの舞台。
「じゃがたらお春の碑」は、裏に歌人・吉井勇の歌『長崎の鶯は鳴く 今もなほ じゃがたら文の お春あはれと』

聖福寺は、自然につつまれ、静かに当時のたたずまいを残す。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

聖福寺 大雄宝殿・天王門・山門  県指定有形文化財・建造物

指定年月日 昭和36年11月24日  所在地 長崎市玉園町3−77  所有者 聖福寺
唐僧木庵に師事し、名僧の誉れが高かった長崎の人鉄心道胖のために、時の長崎奉行牛込・岡野の両氏や在留唐人の有志で一寺創立したのが、この聖福寺であるから、他の興福・福済・崇福の3福寺とは創立の由来が異なる。建築様式も3福寺の唐風朱丹塗りを避け、細部に黄檗様式はあるが、概して本山の宇治黄檗山万福寺の殿堂に近いのは、鉄心が本山に長く修行したからであろう。
大雄宝殿は正徳5年(1715)改築のもの。棟梁は長崎の楠原与右衛門。釉瓦は珍しく、肥前武雄の製。半扉に彩色した桃の浮き彫りがある。天王殿は長崎では唯一の遺例で、布袋(弥勒)と韋駄天像を置く。棟梁藪本次兵衛以下堺の工匠で宝永2年(1705)の上梁。山門は堺の豪商が寄進し元禄16年(1703)の上梁。工匠は天王殿に同じ藪本以下堺の工匠である。

長崎の古写真考 目録番号:5653 時津の家並み

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5653 時津の家並み

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5653 時津の家並み
〔画像解説〕
大村湾に接する西彼杵郡時津村とその港。手前は密集した浦郷で、港の入り江を挟んで対岸は崎野の海岸から人家に至る。大村との往還にはこの港が頻繁に利用された。背後の丘陵地は、長与の岡郷、嬉里郷に続く一帯で、後方の高い山は、琴ノ尾岳。

■ 確認結果

2008年12月20日付朝日新聞長崎地域版「長崎の今昔 長大写真コレクション」に掲載があった古写真。
1886年ごろに撮影されたとされる時津村(現在の時津町)の家並み。明治の終わりに塩田は田畑に変わり、海岸は埋め立てられ、今では工場や学校、住宅地に姿を変えた。
HPや新聞記事は、密集した「浦郷」の家並みと港を写し、奥に「市場」や「八幡神社」があると説明している。撮影場所は記していない。どこだろうか。

当時の集落の全体と港が、西から東方へ見渡されるある程度の高台。国道交差点から時津川の西岸へ現在の「新地橋」で渡る。時津町立時津図書館の上手の高台、戦没者や原爆死没者の慰霊碑のある公園が、古写真の撮影場所と思われる。 
この公園は、宝永5年(1628)から浦郷北泊「稲荷大明神」が祀られ、地区の守護神となっている。公園片隅に現在も赤鳥居があり、古い石祠や灯篭が残っている。ゲートボール場や学童保育「つくしんぼ」の運動場として利用されている。

古写真の奥の木立は、拡大写真のとおり。右とすると「八幡神社」。左となると「萬行寺」である。八幡神社はムクノキが残る。左側にもイチョウの大木があったが、枯れた。
参道入口の「ともづな石」は、もとは70m位離れた中通りの現「高田測量・土地家屋調査事務所」前にあった。区画整理事業で移されている。
「市場」とは地名。茶屋(本陣)角の県道標石は、裏面に字名で「時津村字市場」と刻んでいる。

データベースの画像解説では「後方の高い山は、琴ノ尾岳」と説明している。間違いであろう。
左上鞍部のところが「扇塚峠」。写真に写っている右の高い山は「仙吾岳」(標高375.6m)と丸田岳方面。「琴ノ尾岳」(標高451.4m)は、左方の奥となるので古写真に収まっていない。
現在の写真では、大きなアンテナが目印となる山である。

大村郷村記に記す黒崎村出津郷「とひ崎飛地」の藩境石が見つかる

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大村郷村記に記す黒崎村出津郷「とひ崎飛地」の藩境石が見つかる

新年早々、友人川上氏からうれしいメールが入った。彼は柚の新種である「ゆうこう」発見のきっかけをつくり、昨年のトリノ大会で「世界のスローフード」に認定された。「ゆうこう」の木の分布とともに、三重・外海地区の佐嘉領飛地藩境石や藩境塚も調査している。
今回、新しく見つかった藩境石は、長崎市西出津町の「とひ崎」という海岸。後日、川上氏から詳しく報告してもらうが、概要のみ知らせておきたい。

国道202号線により出津大橋を渡り「出津教会」と食事処「日浦荘」前を通り、しばらく行くと、道路公園の手前に物産販売所「菜園」がある。
左方に海岸へ下る車道があり、途中の分岐は左へ行くと、村崎宅の前で車道は終る。コンクリート坂道を海岸へ下る。長い防波堤があり、角力灘の大角力・小角力の岩礁が見える。
これより磯伝いに出津側へ300mほど戻る。小さな先端となり、「日浦荘」の建物が見えてくる。ここが「とひ崎」と郷村記に記されている海岸と思われる。
ちょうど物産販売所の高台の下くらいとなる。

沖の先へは岩礁が飛び飛びに浮かんでいる。手前の磯の岩下を探すと、白い石柱が不釣合いに転がっている。寸法は23cm角、高さ80cm。刻字は1面のみ「従是 東大村領 西佐嘉領」。まぎれもない藩境石。
石の存在は、地元の人が前から知っていた。昨年4月、地元の研究家、前外海こども博物館長松川先生に話があり、川上氏は松川先生から本年1月4日、現地へ案内してもらっている。

川上氏からメールが入り、先日、同海岸を訪ねた。波が洗う海岸に、藩境石はよく残っていたものだ。刻面が上向きなのは、同氏らが1月4日写真を写したためらしい。
少し調べてみた。この藩境石のことは、藤野保編「大村郷村記」第六巻(図書刊行会 昭和57年)101頁の黒崎村「當領佐嘉領大境并傍爾石之事」出津郷の中に、次のとおり記している。

とひ崎飛地
一傍爾石文化十酉年(1813)熟談之砌、新規相建、銘書左之通
従是 東大村領 西南佐嘉領 西北大村領
(以下、文政11年(1828)大風により相損、元修復したことも記している)

最後の図絵は、長崎歴史文化博物館蔵「文久二年(1862) 彼杵郡紙津村図」から。「とひ崎」(青線囲み)海岸の位置に凡例とおりの「舫塚」(もやいづか:両藩で建てた藩境石と塚)の記号が表示されている。やはり、昔からこの近くの岩間に建っていたのだ。
平成20年3月の「大村郷村記に記す黒崎村出津郷の藩境石塚の調査」は、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/715

長崎の古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

■ 確認結果

古写真のタイトルは「南山手より長崎港湾奥を望む」。撮影場所は「南山手」だが、具体的な場所の説明がない。はたしてどのあたりから撮影されたのだろう。
港内には多くの船が停泊している。中央右下に三角旗の旗竿が見え、洋館を1棟確認できる。これが大浦天主堂の横坂、車が登る現在の三菱重工長崎造船所外国人住宅となっているところではないか。

湾奥に右から金比羅山の尾根、左から稲佐山の尾根が下りている。さらに奥の山並みの重なりを合わせると、現在の「長崎市南山手地区町並み保存センター」先の「KKR長崎ニューグラバー」ホテル(南山手町4−26 平成18年6月廃止)建物前と思われる。

「須加五々道美術館」の上で、道がちょうど曲がり角となり、港内の展望が良い。このあたりの外国人居留地が造成される前であろうか。古写真は松林の中の道である。
一段上となる現在の「長崎グラバー園」出口付近の道路まで上がると、最後の写真とおり、山の重なりが合わなくなってくる。

長崎諏訪神社一の鳥居前の石造橋「小橋」  長崎市上西山町

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長崎諏訪神社一の鳥居前の石造橋「小橋」  長崎市上西山町

長崎諏訪神社・長崎公園の石造橋と石門について、昨年10月次により紹介している。
https://misakimichi.com/archives/1423
ところが、諏訪神社一の鳥居前にも、立派な石造橋「小橋」という橋が残っている。欄干が片側にあるのに、ほとんど気付く人はいない。
HP長崎市観光・宿泊ガイド”あっ!と ながさき”の記事を見て、私も初めて知り、初詣客が少なくなった1月5日夕方、どんな橋か確認に行った。

諏訪神社入口を国道側から石段を3段登ると、一の鳥居前、両脇の大きな石燈籠まで参道の敷石が少しアーチ状になっている。これが石造橋の「小橋」である。
参道左の「諏訪神社」とある大きな碑の横に、橋の欄干が残っている。親柱に「諏訪幼稚園園児募集」の立看板がくくりつけられていたので、はずしてみたが「橋名」はなかった。転がっている石柱などにも何も刻字はない。

橋の下を芦原歯科側から覗いた。アーチ式ではなく、桁石橋だった。小さな溝となって、水が右方から流れている。上面を測ると、参道幅は12m、長さ2.4mほどが橋部分となるようである。
江戸時代中期からある橋らしい。記録は調べていないが、参道に珍しい橋が気付かれずに、今日まで残っている。
諏訪神社も、境内案内で「狛犬散歩道」や「縁結びの陰陽石」と同様、珍しいものとしてHPにより「小橋」を紹介してもらえれば、後世への記録となろう。
最後の写真は、拝殿左の奥まった「神池」にもあった石造橋。

長崎の古写真考 目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り
目録番号:3249 長崎西山松の森(1)
目録番号:5357 長崎西山松の森(2)

■ 確認結果
古写真の中央左の高台に見えるのは、金比羅山に続く後ろの山の稜線などから考えて、現在の長崎市上西山町、松の森神社境内脇にある老舗料亭「富貴樓」に間違いない。
2007年に文化庁「登録有形文化財」指定の建造物。登録番号: 42 − 0068
中島川の支流「西山川」の川際から撮影している。現在の新大工商店街入口のアーチが下に残る石橋「大手橋」の橋上からと思われる。1つ上流の「西山橋」も石橋だったらしい。

だいたい同じアングルの古写真。タイトルを統一してよいと思われる。不思議なのは、2枚目の古写真に写る川原左にあるもの。タイヤに見えるが、回っている「水車」のようだ。
「富貴樓」の前身は、寛政時代に遡る。HP「富貴樓」による歴史説明は、次のとおり。

閑静な松の森神社境内わきにある老舗料亭「富貴樓」。創業百有余年、古色豊かな純和風の店構えの中に老舗ムードが漂う。百畳敷きの大広間をはじめ、大・小の八部屋を擁する当亭には貴族方・内外高官も来亭した。
富貴樓の前身は千秋亭・吉田屋とも云い、寛政時代には「崎陽松の森千秋亭」で知られる有数の料理屋として栄えた。明治二十年内田トミが譲り受け富士亭と改めた。
明治二十二年(1889)二月、ときの内閣総理大臣伊藤博文公来亭の折、豪華に咲き競う前庭の牡丹花を賞で、それまでの富士亭を改め、内田トミの「富」をとり「富貴樓」と称するように薦められたで、トミは有り難くお受けして、以後、これを屋号とした。内田トミと牡丹花がこの料亭の名物だったからである。
料理のメーンは二百有余年の伝統の技で作る長崎の郷土料理「卓袱料理」(富貴樓では[卓子料理]と称す)この伝統の味を求めて県内はもとより、県外からも多くの来亭者がある。