月別アーカイブ: 2008年12月

片淵で見つかった標石—長崎実録大成などに「豊後 臼杵」の記録

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片淵で見つかった標石—長崎実録大成などに「豊後 臼杵」の記録

「臼杵陣所」という刻面のある標石が、現在、「片淵3丁目公民館」の建物下に保管されている。標石が見つかったいきさつは、次のとおり。
https://misakimichi.com/archives/1380
縦15cm、横18cm、高さ45cmの石柱。5年ほど前、公民館左方の道路工事した際、ショベルカーが掘り出した。自治会は長崎市文化財課に報告し、文献調査と保存を願い出たが、はっきりしたことがわからず、公民館前に置いたまま、5年が経っていた。

2隻のポルトガル船が来航したのは、正保4年(1647)。長崎警備のため出陣した臼杵藩(大分県)が、この辺りの農家などを借り上げ、陣所を構えたものなのか。また、事件後、西日本の諸藩は、長崎に自前の蔵屋敷を設け、聞役を置き、長崎での情報を速やかに入手して、長崎出陣に備えるようになった。
蔵屋敷を置いた藩は14に上がる。佐賀藩では所領が長崎に隣接していたために、支藩(鹿島支藩)や大身の家臣(諫早領・深堀領)も自らの蔵屋敷を設けていた。

ほかの小藩も、蔵屋敷や陣所などを置いた可能性がある。当時の事件を思い起こさせる珍しい標石?ということで、近くの西山に住む長崎楽会中尾氏に調査を頼んでいた。「豊後 臼杵」の記録を中尾氏が見つけてくれた。
「田辺茂啓著 長崎実録大成 正編」と「松浦東渓著 長崎古今集覧 上巻」。いずれも長崎文献叢書にある。関係部分は、上記写しのとおり。
「異国船来津之節諸家陣所之事」などに、「豊後 臼杵」藩の「用場所」として「長崎村之内馬場郷」の地名が出てくる。

両文献の記述内容は違う。記録年代はいつか、陣所と用場所の違い、標石との関係などは、今後、専門的な研究に任せるしかない。
片淵で見つかった貴重な標石「臼杵陣所」が、早くに解明されるよう望みたい。

小ヶ倉水源池上の立岩  長崎市上戸町

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小ヶ倉水源池上の立岩  長崎市上戸町

次は長崎市上戸町、小ヶ倉水源池上の立岩。星取山のアンテナのちょうど下くらいの山中となる。見事な垂直岩で大師堂がある。戸町・田上間の新道ができて、行きやすくなった。
小ヶ倉水源池の左側から新道を田上へ上がって行く。逆に田上の準提観音から市民の森への車道を行き、途中の分岐から下る。分岐に「立岩大師堂 徒歩約10分」の案内標識がある。
岩永弘氏著「「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006年春刊の67頁による説明は次のとおり。

立 岩 大 師

準提観音より市民の森への道を5分ほど下り、戸町線道路の道を600m下ると、右側土手に立岩大師の案内表示があり、巾1mのセメント道があります。谷に向かって70mほど下ると霊場立岩大師があります。深山幽谷の地です。通り抜け洞穴、石仏・女神・地蔵などが祀られています。
今は雑木が茂り山道も判然としませんが、茂木戸町間のルートとして、道行く人々もお参りしたことが考えられます。田上の先、河平バス停下の谷道、茂木旧道に「戸町二至ル」の碑が残っており、山を越えてこの谷を下って行ったことでしょう。
戻って新道を下って行き、小ヶ倉水源池わきを通り、戸町バイパスへ出ることになります。

潮見崎観音と月見台  長崎市茂木町

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潮見崎観音と月見台  長崎市茂木町

長崎市茂木から宮摺の方へ向う。茂木港の南側先端、防波堤が出ている上に「潮見崎観音と月見台」がある。
平野露治氏著「茂木史談」昭和63年刊、第4章名所・旧蹟等38頁による説明は次のとおり。

潮 見 崎

潮見崎観音堂は宝永3年(1706)の開山。本尊は十一面観音として信仰され、長崎の市中からも参拝者が多い。8月10日の千日祭は夜店もたくさん出てにぎわっている。
月見台は潮見崎の上にあり、注連(しめ)が崎ともいう。月は赤井が崎の上から出て、その光を海に映し、注連が崎、月見台の下にかけて布を引いたようになるので、「布引の月」といっている。

裳着神社と玉台寺の「夫婦銀杏」  長崎市茂木町

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裳着神社と玉台寺の「夫婦銀杏」  長崎市茂木町

長崎市茂木町で見た大木として、玉台寺の大イチョウを前項に載せた。裳着神社も史跡の項に載せ、イチョウを写している。この2本の大きな木を、地元では「夫婦銀杏」と呼んでいるという話。

玉台寺のイチョウが大きいのは、寛政4年(1789年)島原の眉山の大爆発のとき漂着した死者を大量土葬した墓地(慰霊碑あり)に生えているから、という話もある。
平野露治氏著「茂木史談」昭和63年刊、第4章名所・旧蹟等42〜43頁による説明は次のとおり。

夫 婦 銀 杏

茂木の町に、四季折々の風情をそえる2本の大きな銀杏の木がある。町の人はこれを、「お宮の銀杏は雄銀杏、お寺の銀杏は雌銀杏」といっている。
お宮というのは、茂木の氏神様裳着神社、お寺というのは松尾山玉台寺のこと。いずれも、寛永3年(1626)の建立で、今から353年前のことになる。別に縁起をかつぐわけではないが、お宮お寺の建立が同じ年、2本の銀杏がまた、樹齢といい、大きさといいほぼ同じで、しかもそれぞれの地にあることなど思い合せて、なにか興味深いものがある。

2本の銀杏の樹齢は、もちろん推定だが、どちらも500年位だろうといわれる。根周りは、お寺の銀杏が5m、お宮の銀杏は4.6mでやや小さい(昭和37年調)。高さは目測で、お寺の方が20〜25m位だが、お宮の方はもっと低い。
だが、樹相というか、その姿となると、お寺の方は堂々とそびえて如何にも男性らしく、お宮の方は横に枝がはって豊満な感じだし、むしろこちらの方が女性を思わせる。学問的事はわからないが、こんなところに自然の愛敬があるのかもしれない。

それにしても、遠い昔の「通い夫」(かよいづま)のように、銀杏の木の精が、小高い裳着神社の地から若菜川を越え町並みを越えて、平地の玉台寺へ飛び、見事に銀杏を実らせる図は、思うだにおおらかで楽しい。
ちなみに、裳着神社は、初め八武者大権現といい、明治初年の神仏分離に改称したものだが、この八武者大権現と同じ年に、同村の各郷の神々の、つまり、田上の山王権現、稲荷大明神、木場の山神、宮摺の三方荒神、大崎の加茂大明神、千々の盟寵大明神が建立されている。

茂木の立岩 (2)  長崎市茂木

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茂木の立岩 (2)  長崎市茂木町

茂木から宮摺へ向い、潮見崎先の「立石」バス停から海岸を歩いて行く。茂木町教育委員会「茂木町郷土誌」昭和33年刊、第10章観光茂木の136頁による説明は次のとおり。
大田南(蜀山人)の歌がある。「またたくひあら磯浪のたて岩を 島このみする人にみせはや」
(2)は、潮を見計らって12月17日午後に再訪。立岩の近景。岩の裏側にも回った。

立 岩

注蓮ヶ崎の後にあたり、海辺をはなれて海中にあり、悄然としてそびえ起り、衝き立ち秀でる頂上に松あり、昔は五葉の巨松なりしが、中頃枯れて後又生れ出たるは常の松なり、隻巌ならび立つ、一つは大きくして数十丈、一つはやや低し、盆石を見るごとし。  (長崎名勝図絵より)

長崎の西の空の夕日  その16

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長崎の西の空の夕日  その16

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下続く。

写真 1〜 3  平成20年12月 9日の17時06分頃
写真 4〜 6  平成20年12月10日の17時10分頃
写真 7      平成20年12月14日の17時49分頃
写真 8〜 9  平成20年12月17日の 7時31分頃 これは東の空の朝焼け

長崎の古写真考 目録番号: 365 茂木街道(1)  ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:365 茂木街道(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 365 茂木街道(1)
〔画像解説〕
茂木街道は長崎から茂木への街道。写真はこの街道途中にある田上を撮影。田上はこの街道の峠になり、街道の要所であった。

目録番号:3842 茂木街道の水車

■ 確認結果

茂木街道沿いの大水車。昭和33年発行「茂木町郷土誌」は記してない。水車は水量がなければならない。集落や田がある川の中・下流域と思われる。
目録番号:365「茂木街道(1)」は、街道を下る途中、上部から水車と川を写し、「街道途中の田上を撮影」と説明している。田上とは「田上峠」のある一帯で、少し上流すぎる。
絵葉書の目録番号:3842「茂木街道の水車」は、前記と同じ水車小屋の近景である。小さな桁石橋もよくわかる。

明治18年(1885)に整備された旧県道の道を、転石から河平川の谷間へ下って行って、似た光景を見た。コンクリート小道を川まで下ると橋が渡り、対岸はひわ畑の平地があった。
畑の人に聞くと、ここが古写真の水車小屋の跡。長崎大水害により地形や川の流れが変わった。水車を回すため上流に堰があり、水路があった(古写真の左下から伸びているのが「水路」と思われる)が、跡はわからなくなった。
水車小屋はあと1軒あった。古写真に離れて写っている白い屋根の家である。ここもビニールハウスの畑に変わっていた。

場所は旧県道の、ちょうどアーチ式石橋「河平橋」の下あたりとなる。「戸町二至ル」の標石がある四叉路を、河平川の本流の方へ下るとここに出る。農道の橋から見ると、上流にコンクリートの小橋がある。小橋の右脇のひわ畑が大きな方の水車小屋の跡である。
白い屋根の家跡は、農道の橋を渡ったすぐ右下のハウス畑である。
旧県道沿いの水車は、茂木小学校まで行く間に別に4台あったことと場所を聞いている。

茂木街道旧県道の道下谷間にあった水車小屋の場所は、略図を載せる。明治34年測図国土地理院旧版地図でもこの場所に表示している。 

長崎の古写真考 目録番号: 5250 茂木道(1)

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            長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 5250 茂木道(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 5250 茂木道(1)

■ 確認結果

茂木街道にある橋について、最初に次を記事と写真を参照。
「柳山橋」  https://misakimichi.com/archives/428
「河平橋」  https://misakimichi.com/archives/427
「目録番号: 5250 茂木道(1)」の橋を、「柳山付近と思われる」と説明しているが、旧茂木街道の道を柳山へ下って行くと、渡る橋はアーチ式石橋であった(長崎大水害で流失)「柳山橋」以外にない。今もアーチ式石橋として残る「河平橋」は、明治18年(1885)に新道(旧県道)として整備された道にある。

古写真の橋は、「柳山付近」でなく谷を隔てた、この新道(旧県道)として整備された道にある。河平川の谷間となり、橋名は「上橋」という。水害前は桁石橋だった。
絵葉書下部は「長崎茂木道」とだけあり、橋名や具体的な場所を記していない。道の曲がり具合と、背景の茂木方面の山の稜線から、「上橋」に間違いないだろう。

旧県道を「河平橋」を渡って下って行くと、人家が現われ、やがて「(有)中村米穀ライス・ファクトリー」の工場(茂木町1240番地)がある。
道は直角に曲がり、河平川の本流を渡る。この橋が字河平の「上橋」である。「下橋」は下流にあるが、旧県道の道から離れる。
旧県道をしばらく進むと、「黒橋」バス停の所で、昭和9年(1934)開通した新県道(現 国道324号線)へ出る。後ろの写真が、現在の「柳山橋」と「河平橋」。

長崎の古写真考 目録番号: 1365 茂木街道(2)

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      長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 1365 茂木街道(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号: 1365 茂木街道(2)

■ 確認結果
国道324号線の田上を過ぎ、次の「転石」バス停から左の道へ入る。これがかつての茂木街道である。ホテル古都の先で、すぐ道は二手に分かれる。
まっすぐ左へ下るのが、江戸時代の街道。右へ曲がって谷間の川沿いに下るのが、明治大正時代の街道(旧県道)である。人力車や荷馬車が通行できる近代的な道路に改修するため、明治18年(1885)に街道の新ルートが造られた。

「目録番号: 1365 茂木街道(2)」は、撮影場所など何も説明がないが、この古写真はその分岐の少し先(現 田上1丁目)まで行き、左道脇の高台に上がり、街道を写したのではないか。
明治大正時代の街道が分岐から右へ曲がり、谷間へ降りている状況が古写真に写っている。現在は住宅地となり、谷方の見通しはきかない。
長崎自動車道の早坂入口高架橋が上をまたいでいるあたりである。

したがって、古写真の撮影場所は、前項で紹介した「目録番号: 5868 茂木への道(Road to Mogi)(5)」とほぼ同じところ。分岐へ進み、カメラの向きを変えたから、谷間が開け背景に茂木の山の稜線が写っているようである。
撮影年代は、これも新ルートができた明治18年(1885)以降と思われる。

長崎の古写真考 目録番号: 5868 茂木への道(5)

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 長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 5868 茂木への道(Road to Mogi)(5)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号: 5868 茂木への道(Road to Mogi)(5)

■ 確認結果
国道324号線の田上を過ぎ、次の「転石」バス停から左の道へ入る。これがかつての茂木街道である。ホテル古都の先で、すぐ道は二手に分かれる。
まっすぐ左へ下るのが、江戸時代の街道。右へ曲がって谷間の川沿いに下るのが、明治大正時代の街道である。人力車や荷馬車が通行できる近代的な道路に改修するため、明治18年(1885)に街道の新ルートが造られた。

「目録番号: 5868 茂木への道(Road to Mogi)(5)」は、撮影場所など何も説明がないが、この古写真はその分岐の手前(現 田上1丁目)から、右方の明治大正時代の街道を写している。
谷間へ降りるため、街道がヘアピンカーブとなり、2段の線(3段目は川の線)となった状況が古写真に写っている。現在は住宅地となり、谷方の見通しはきかない。
長崎自動車道の早坂入口高架橋が上をまたいでいるあたりである。
古写真の撮影年代は、したがって新ルートができた明治18年(1885)以降となる。