月別アーカイブ: 2008年12月

長崎の古写真考 目録番号: 5528 茂木への道(愛宕付近)(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 5528 茂木への道(愛宕付近)(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 5528 茂木への道(愛宕付近)(1)

■ 確認結果

茂木街道の変遷は、東小島町の正覚寺前に説明板がある。長崎ライオンズクラブが設置した「長崎茂木街道ここに始まる」碑の右脇である。
「目録番号: 5528 茂木への道(愛宕付近)(1)」は、以前は「(田上付近)」と説明されていた。

特徴的な「愛宕山」の山腹を通る道の光景。変遷図を参照。この中の明治大正時代の茂木街道、現在で言うと「上愛宕」バス停手前付近から、愛宕山を入れて道行く人を写したものである。
指摘により、今はこの通り「(愛宕付近)」と訂正された。茂木街道の変遷をよく理解してもらうため、この古写真と説明図(不備が一部あるが)をまず掲げる。

茂木の立岩 (1)  長崎市茂木町

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茂木の立岩 (1)  長崎市茂木町

茂木から宮摺へ向い、潮見崎先の「立石」バス停から海岸を歩いて行く。茂木町教育委員会「茂木町郷土誌」昭和33年刊、第10章観光茂木の136頁による説明は次のとおり。
大田南(蜀山人)の歌がある。「またたくひあら磯浪のたて岩を 島このみする人にみせはや」
立 岩

注蓮ヶ崎の後にあたり、海辺をはなれて海中にあり、悄然としてそびえ起り、衝き立ち秀でる頂上に松あり、昔は五葉の巨松なりしが、中頃枯れて後又生れ出たるは常の松なり、隻巌ならび立つ、一つは大きくして数十丈、一つはやや低し、盆石を見るごとし。  (長崎名勝図絵より)

裳着神社  長崎市茂木町

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裳着神社  長崎市茂木町

裳着(もぎ)神社は、若菜橋を渡って旧茂木街道を道を行く。もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」による説明は次のとおり。
御垣内にある茂木ホテル創業者道永エイの名と、本殿四方欄干の牡丹・雲竜・鯉・金鯱・亀などの彫刻は写真のとおり。
裳 着 神 社

長崎市で最も古い神社で明治以前は八武者大権現を祭る。神功皇后が三韓出兵の途中当地に立ち寄り裳を着けたとの故事から裳着の地名が起り、その後当社が創建されたと伝えられる。
キリシタン布教で社殿を焼かれ一時廃社、寛永3年(1626)再建され茂木の鎮守となる。その後裳着神社となる。

玉台寺のイチョウ  長崎市茂木町

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玉台寺のイチョウ  長崎市茂木町

長崎市茂木町、玉台寺の本堂前左手にある。茂木で久々に見た大木。幹囲は4.7mあった。
市指定天然記念物の大音寺のイチョウは、長崎市では最大のもので、胸高幹囲3.90m、樹高20mとある。これと比べると大きい。 

玉台寺のさるく説明板にある同墓地内の、約3mの自然石でできた長尾安右衛門の墓は写真のとおり。島原の乱の際、キリシタン弾圧で功績をあげた。

長崎の古写真考 目録番号: 343 茂木(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 343 茂木(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 343 茂木(2)

■ 確認結果

古写真HPで条件を指定して探すと、「茂木」は59点の関連写真がある。3点は横浜の弁天通りなので、長崎の茂木関連は56点である。
昨日から茂木の調査にかかって現地へ出向いていたところ、偶然にも本日朝、朝日新聞にこの古写真が載った。現在、茂木を集中的に調査中。確認できた茂木関連を今後、しばらく続ける。

朝日新聞の昨年夏から土曜日の第2地方面シリーズものは、「長崎今昔 長大写真コレクション」。2008年12月13日付紙面は、「茂木の海岸 洋食文化 先取りの地」であった。
記事中、茂木を通る34号線は、国道でなく「県道」であろう。また間違っているようだ。

新聞の掲載写真が、「目録番号: 343 茂木(2)」。新聞とも撮影場所の説明がないが、この古写真は、茂木の玉台寺本堂裏の一番高い墓地あたりから、茂木の海岸と町並みを写しているようだ。
墓地へ登ると、それでも高度が足りなかった。その後、ビーチホテルや小浜・天草通船の波止場となった中央岬の高台と、奥の北浦との間に海面が見えなくてはならない。
玉台寺墓地の高部よりまだ高い山手から写したようだが、道が不明だった。

長崎の古写真考 目録番号: 977 ドンの山から見た出島と長崎港(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 977 ドンの山から見た出島と長崎港(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 977 ドンの山から見た出島と長崎港(1)
(関連作品)
目録番号: 4028 ドンの山から見た出島と長崎港(2)
目録番号: 4863 ドンの山から見た出島と長崎港(3)
目録番号: 4878 ドンの山から見た大浦居留地・出島
目録番号: 5296 ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(1)
目録番号: 5299 ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(2)
目録番号: 1292 小島付近墓地からの市街地

■ 確認結果

「ドンの山」は、東山手の上方の山。標高は131mほど。本来の名は「風取山」だったそうだが、明治から昭和にかけて38年間、この山から市民に正午を知らせる大砲の空砲を打っていたことから「ドンの山」と呼ばれている。
古写真HPで条件を指定して探すと、「ドンの山」で6枚、「どんの山」で1枚の関連作品が出てくる。ほとんどのタイトルや撮影場所を、前は「十人町」や「鍋冠山」「星取山」からと説明していた。

これは「十人町」からと説明していた目録番号:977の古写真。中央右に出島や新地が写り、広場場から流れる川の河口と梅香崎橋が斜め左上に上り、東山手の高台が続いている。
「十人町」でなく、東山手の上方「どんの山」山頂あたりから写したものである。
「十人町」とは高度がまったく違うし、港の対岸は稲佐山の尾根。その奥の岩屋山稜線との重なり具合から、判断していただきたい。

指摘により、タイトルは訂正されたが、居留地全体のほかの写真でも、橋名の「梅ヶ崎橋」「松ケ枝橋」「下り松橋」の混同した説明がある。
目録番号: 1292は、「小島付近墓地からの市街地」。説明は「長崎の正覚寺の右上、小島郷のどんの山の墓地付近から長崎の市内中央を望む」。どんの山は「元町」。「小島」とは、地形的にあまり結びつかない。

「ドンの山」関係の写真を取り上げたのは、目録番号:977と同じような写真の目録番号:4878「ドンの山(「から」の字抜け)見た大浦居留地・出島」が、東山手町の長崎市「古写真・埋蔵資料館」に展示されている。タイトルが「鍋冠山から見た大浦居留地・出島」となっていたようだ。入館は有料なのに、ほかにも2点、説明に疑問を感じたものがあった。
最新写真の後ろの2枚は、参考までに鍋冠山展望台からと星取山下の長崎霊園近くからの写真。方向が違う。目録番号:4878は、後日「星取山」からと確認した。
https://misakimichi.com/archives/1598

裏雲仙の舞岳坂段登りとみずほの森 (2)  平成20年12月

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裏雲仙の舞岳坂段登りとみずほの森 (2)  平成20年12月

平成20年12月7日(日)晴れ。裏雲仙の舞岳坂段登りとみずほの森へ。参加11人。
舞岳山荘10時発ー舞岳坂段登り往復ー舞岳山荘(昼食)ー田代原ーみずほの森遊歩道を一周 15時半解散

舞岳(標高703m)は、島原市有明町の百花台公園の背後にある山。左にすぐ平成新山がそびえる。舞岳山荘(体験学習研修施設)から山頂まで「舞岳ふれあいロード」という8888段の坂段登りがあり、両脇にツツジが植えられている。
日本一の段数というが段差は低く、楽に1時間半で登れる。ツツジの頃が良いようだ。

舞岳山荘へ戻って昼食。午後からは国道389号線により田代原へ上がり、「みずほの森公園」へ。タブ原のタブノキ大木2本(大きい方は幹囲7.25m)を見てから、公園内の遊歩道を1時間かけて一周した。
前日の寒波で平成新山は雪化粧。裏雲仙のすぐ近くからその姿を眺めた。
(1)は、舞岳坂段登り。(2)は、みずほの森一周の写真。

裏雲仙の舞岳坂段登りとみずほの森 (1)  平成20年12月

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裏雲仙の舞岳坂段登りとみずほの森 (1)  平成20年12月

平成20年12月7日(日)晴れ。裏雲仙の舞岳坂段登りとみずほの森へ。参加11人。
舞岳山荘10時発ー舞岳坂段登り往復ー舞岳山荘(昼食)ー田代原ーみずほの森遊歩道を一周 15時半解散

舞岳(標高703m)は、島原市有明町の百花台公園の背後にある山。左にすぐ平成新山がそびえる。舞岳山荘(体験学習研修施設)から山頂まで「舞岳ふれあいロード」という8888段の坂段登りがあり、両脇にツツジが植えられている。
日本一の段数というが段差は低く、楽に1時間半で登れる。ツツジの頃が良いようだ。

舞岳山荘へ戻って昼食。午後からは国道389号線により田代原へ上がり、「みずほの森公園」へ。タブ原のタブノキ大木2本(大きい方は幹囲7.25m)を見てから、公園内の遊歩道を1時間かけて一周した。
前日の寒波で平成新山は雪化粧。裏雲仙のすぐ近くからその姿を眺めた。
(1)は、舞岳坂段登り。(2)は、みずほの森一周の写真。

長崎の古写真考 目録番号: 982 中島川と編笠橋(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 982 中島川と編笠橋(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 982 中島川と編笠橋(1)

■ 確認結果

タイトルは、以前から「目録番号: 982 中島川と編笠橋(1)」。背景の山を前は「烽火山」と説明していた。平成19年4月指摘し、「健山」と訂正された。その際に「編笠橋」のはずなのに、「伊勢の宮の前に架かっている橋」と「高麗橋」の説明に変わっている。単純な間違いでないか。

古写真の撮影地点は、あくまで長崎市桶屋町「光永寺」の前である。中島川に架かる「古町橋」の左岸下にカメラを置き、中島川の1つ上流の石橋「編笠橋」を写している。
背景の山は、ビルの後ろとなるため、山が見える長崎市民会館手前の「魚市橋」から写した写真のとおり、(1)については、「金比羅山」や「烽火山」でなく、「健山」(たてやま)であろう。
現地説明板にある当時の「編笠橋」の姿も、古写真と同じようである。

説明をいつ修正されたか。大正4年(1915)橋の上部を鉄筋コンクリートで拡幅、長崎大水害後に解体された石橋「高麗橋」は、平成5年にすでに西山ダム下の公園に移築復元されている。「編笠橋」は、昭和61年に昭和の石橋として再建されている。
「高麗橋」や「阿弥陀橋」の背景に見えるのは、姿がまったく違う豊前坊や武功山の山である。

「関連する作品の一覧」によると「編笠橋」は7点、「高麗橋」は17点の古写真がある。これら写真から判断し、適切な説明をお願いしたい。
特に「目録番号:5633 中島川と編笠橋(6)」と説明文を参照。左から張り出した松は、編笠橋のたもとにあった「太平寺」(現・浪の平)の跡地、松寿軒のものと思われる。
最後の写真は、松寿軒側の「編笠橋」親柱の上に見えた「健山」のかすかな姿。

宮地嶽八幡神社陶器製鳥居  長崎市八幡町

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宮地嶽八幡神社陶器製鳥居  長崎市八幡町

宮地嶽八幡神社は、長崎市八幡町8番6号にある。普段、通らない通り。神社と鳥居の存在があまり知られていない。中島川に架かる伊勢宮神社前「高麗橋」の1つ上流の橋「阿弥陀橋」から右方の八幡町通りへ入ると、すぐである。この辺りは一方通行が複雑なので歩いて行く。

神社の現地説明板によると、全国で他に陶製鳥居があるのは、有田の「陶山神社」、佐賀の「松原神社」、愛知県の「瀬戸神社」。
有田の「陶山神社」(有田町大樽2−5−1、有田陶磁美術館前の車道反対側) の鳥居は製作者が3人とも同一で、陶製狛犬もある。写真は次を参照。 http://saraimac.sagafan.jp/t58205
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。
最後の写真は、出島和蘭商館跡にある陶製の門柱。

宮地嶽八幡神社陶器製鳥居  登録有形文化財(国指定)

登録年月日 平成9年7月15日  所在地 長崎市八幡町8−6  年代 明治21年
登録基準 三 再現することが容易でないもの
有田磁窯による大型細工でつくられた鳥居。親柱部分に残る銘によって製造人が岩尾久吉、角者細工人が金ヶ江長作、丸物細工人が峰熊一であることが判明する。
有田に製作者が同一のものが一つあるが、他に類例がない稀少的な存在である。