月別アーカイブ: 2008年12月

南山手居留地界隈  長崎市南山手町ほか

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南山手居留地界隈  長崎市南山手町ほか

長崎・南山手居留地界隈の風景。
煉瓦造の廃ビル、四海楼の前庭像、妙行寺と大浦天主堂、南山手レストハウス、建設中の大浦小学校、グラバースカイロードから市街遠望、居留地の井戸、大楠の通り、ドンドン坂、荒木家住宅、馬渡外科医院、居留地の小川、南山手地区町並み保存センター、同前の通りなど。

東山手居留地・出島和蘭商館跡・唐人屋敷跡・大浦天主堂・長崎グラバー園・居留地標石(境石・地番標)は別項。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

長崎市東山手・長崎市南山手  重要伝統的建造物群保存地区(国指定)

指定年月日 昭和3年4月30日  所在地 長崎市東山手町ほか  管理団体 長崎市
長崎市東山手・南山手地区は、安政5年(1858)の5カ国修好通商条約により設けられた長崎の開港場の旧居留地内にあり、東山手地区は、大浦の商館と港を見下ろす高台に位置し、領事館や礼拝堂、住宅などが立ち、現在は、これらの跡地にミッション系の学校が建てられている。南山手の居留地は、主として住宅用地として使われていたもので、明治時代初期から中期にかけての洋館住宅、教会などが良好に残っている。
東山手・南山手の町並みは、旧居留地の地割りを示す歴史的風致と洋館群や石畳・側溝など土木遺構を今日に伝えている。
東山手 約7.5ヘクタール  南山手 約17ヘクタール

大浦天主堂  長崎市南山手町

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大浦天主堂  長崎市南山手町

長崎市南山手町にある国宝(国指定)・建造物の「大浦天主堂」
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

大浦天主堂  国宝(国指定)・建造物  

指定年月日 昭和28年3月31日  所在地 長崎市南山手町乙1
所有者 カトリック長崎大司教区
安政の開国後、長崎に渡来する多くの西洋人のために必要という理由で、幕府もその建立を認めざるを得なかったカトリック教会堂で、フランス人フューレ神父と、その志を継いだプチジャン神父の努力によって完成した。横浜に次ぐ天主堂であるが、横浜天主堂が関東大震災で焼失したため、現存日本最古の天主堂となった。
元治元年(1864)末竣工。献堂式は翌2年の正月24日(1865.2.19)。26人の殉教者に捧げられたもので、「日本26聖人殉教者天主堂」という。大小三つの塔を持つ不思議な外観であったが、手まぜとなったので、明治11〜12年、前後左右に増築し、外壁木造漆喰塗は煉瓦造へ、3廊式は5廊となって、外観も現在のように大きく変わった。この時、創建時の内部造作はそのまま保存取入れられたものと思われる。数少ない洋風の国宝建造物である。

東山手居留地界隈  長崎市東山手町ほか

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東山手居留地界隈  長崎市東山手町ほか

長崎・東山手居留地界隈の風景。
十善会病院(籠町)とオランダ坂入口のモニュメント、東山手十三番館と活水学院前のオランダ坂、東山手十二番館(私学歴史資料館)、昭和会病院、池上家住宅、孔子廟、東山手洋館群と紅葉、南山手からの遠望など。

南山手居留地・出島和蘭商館跡・唐人屋敷跡・大浦天主堂・長崎グラバー園・居留地標石(境石・地番標)は別項。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

長崎市東山手・長崎市南山手  重要伝統的建造物群保存地区(国指定)

指定年月日 昭和3年4月30日  所在地 長崎市東山手町ほか  管理団体 長崎市
長崎市東山手・南山手地区は、安政5年(1858)の5カ国修好通商条約により設けられた長崎の開港場の旧居留地内にあり、東山手地区は、大浦の商館と港を見下ろす高台に位置し、領事館や礼拝堂、住宅などが立ち、現在は、これらの跡地にミッション系の学校が建てられている。南山手の居留地は、主として住宅用地として使われていたもので、明治時代初期から中期にかけての洋館住宅、教会などが良好に残っている。
東山手・南山手の町並みは、旧居留地の地割りを示す歴史的風致と洋館群や石畳・側溝など土木遺構を今日に伝えている。
東山手 約7.5ヘクタール  南山手 約17ヘクタール

長崎の西の空の夕日  その15

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長崎の西の空の夕日  その15

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下続く。

写真 1〜 3  平成20年11月17日の17時10分頃
写真 4〜 6  平成20年11月18日の17時03分頃
写真 7〜 9  平成20年12月 2日の17時08分頃

金 鍔 谷  長崎市戸町4丁目

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金 鍔 谷  長崎市戸町4丁目

約370年前、西坂の地で殉教し、先週の11月24日に行われた列福式で、福者に列せられたトマス金鍔次兵衛。禁教の時代にあって、キリシタン迫害の中、人々の救いのために命を捧げた。
次兵衛神父が潜伏した外海・神浦扇山町の「次兵衛岩」洞窟は、長崎さるくガイド山崎政行氏が、25年前に奥深い山中で発見した、列福式にあわせた探訪会と現地記念ミサの様子が、全国にテレビで流れ、山崎氏は朝日新聞「ひと」欄に紹介された。
12月6日には、長崎学さるくでも「次兵衛岩」洞窟を訪ねる行事がある(空き人員少々)。

ところで長崎市戸町にある「金鍔谷」。知っている人は多いが、洞窟内部はあまり写真により紹介されていない。自宅へ帰る途中の国道499号線脇なので、寄ってみた。
女神大橋の手前に「金鍔」バス停があり、信号機のあるところから左の坂段を登るとすぐである。
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年刊、108頁による説明は次のとおり。
後ろの写真は、夫婦川町・片渕2丁目の城ノ古址。「不動堂」と龍頭岩左の窪地、「金鍔谷」と呼ばれるのはこの一帯か?。
西坂町の日本二十六聖人記念館の庭には、武士姿の金鍔次兵衛像がある。

227 金 鍔 谷  (所在地:長崎市戸町4丁目30番)

金鍔谷は、金鍔次兵衛が潜伏した所と伝えられる。次兵衛は大村の生まれで、最初、有馬のセミナリョで教育を受け、さらにマニラのコレジョに進み、アウグスチノ会の修道士となり、トマス・デ・サン・アウグスチノと称し、後に神父に叙階された。
寛永8年(1631)頃、密かに帰国、以後、キリシタンの指導にあたった。次兵衛は長崎奉行所の馬丁などいろいろな者に変装したが、特に武士に変装、金鍔の脇差を帯びていたので、金鍔次兵衛と呼ばれた。次兵衛の探索は日増しに厳しくなり、同11年(1634)には佐賀、平戸、島原、大村の4藩に命じて、西彼杵半島全域で山関と呼ばれる大掛かりな山狩りが行われたが、次兵衛の行方はわからなかった。
しかし、同13年(1636)ついに捕らえられ、苛酷な拷問の後、西坂で穴吊りの刑で殉教した。現在、次兵衛が潜伏とした所は、金鍔谷とか次兵衛岩とか呼ばれ、この金鍔谷の他、琴海町の次兵衛岩や城ノ古址の金鍔谷なども著名であるが、特に城ノ古址の金鍔谷は、次兵衛が志賀親朋によって逮捕された所という。