月別アーカイブ: 2008年9月

西津屋の漣痕  対馬市上県町西津屋

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西津屋の漣痕  対馬市上県町西津屋

上県町西津屋も対馬の北側海岸。国道382号線により佐久須を過ぎ、佐久須トンネルにかかる手前に、西津屋への入口があり、左折してこの道へ行き、海岸の集落まで進む。
小さな漁港に出ると左岸の道があり、「西津屋の漣痕」のすぐ前まで行けるが、細い道で落石が多い。歩いた方がよい。
上県町「上県町誌」平成16年刊、第8節対馬の天然記念物225頁による説明は次のとおり。

西津屋の漣痕  町指定 上県町西津屋

西津屋の海岸にある。高さ8m、長さ約70mのみごとな漣痕である。砂岩の上面を波や水流により、波状の凹凸をつくりあげている。

西津屋のタブノキとクロガネモチ  対馬市上県町西津屋

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西津屋のタブノキとクロガネモチ  対馬市上県町西津屋

上県町西津屋も対馬の北側海岸。国道382号線により佐久須を過ぎ、佐久須トンネルにかかる手前に、西津屋への入口があり、左折してこの道へ行き、海岸の集落まで進む。
集落に入ると、すぐ右方の大きな邸宅の入口にタブノキが見える。
阿比留家で対馬で由緒ある家系。防火用として昔から集落の要所に植えられた木が残ったという、近所の人の話である。

小さな漁港に出ると左岸の道に、墓石とともに樹形のよいクロガネモチの大木もあった。
対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」リストによると次のとおり。

4 西津屋のタブノ木キ  タブノキ  幹回り 4.23m  樹高 12.5m

「くじら橋」と鯨物語  対馬市上対馬町大浦

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「くじら橋」と鯨物語  対馬市上対馬町大浦

国道382号線が上対馬町へ入り、上対馬高の手前となる大浦湾奥の大浦川河口に、青色の橋が架かる。上対馬町発注、大浦漁港改修工事によって2000年6月竣工した「くじら橋」。
橋のたもとに珍しい説明板があり、「くじら橋」と命名したいわれと古写真があった。地元大浦の糸瀬光志氏が寄稿した「鯨物語」。
昭和22年11月晩秋の午下り、巨頭鯨(ごんどうくじら)の群が深浦に飛び込んできた。住民総出、大浦湾のこの奥へ追い詰め、3日がかりで鯨を捕獲した。

日本人は古くから鯨肉を食べ、鯨骨は縄文遺跡からも出土している。江戸時代初め、紀州からもたらされた捕鯨技術によって西海漁場は栄え、対馬も捕鯨基地の1つとなった。
幕末期に不漁となり、明治中期になるとノルウェー式近代捕鯨が始まり、戦後も細々と操業を続けていたが、西海漁場が完全に終焉したのは昭和40年代だそうである。

鯨の数は少なくなったが、今でも日本海へ数種が回遊しているらしい。2006年、対馬沖で高速船「ビートル」が衝突した物体は、クジラという説がある。
捕鯨基地として衰えた対馬の戦後の食糧難時代、鯨が大群で大浦湾に迷い込み、勇ましくおいしいことをした地元の話である。最後の文は、クリックで拡大する。

韓国展望所  対馬市上対馬町鰐浦

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韓国展望所  対馬市上対馬町鰐浦

国道382号線が上対馬町へ入り、上対馬高の手前となる大浦からか、比田勝港まで行って泉経由で対馬最北端の鰐浦まで行く。
鰐浦トンネルのところに「韓国展望所」へ登る車道入口がある。展望所の下手には、国指定天然記念物「鰐浦ヒトツバタゴ自生地」がある。
HP「対馬から 来てみんね!上対馬町」観光名所による説明は次のとおり。

韓 国 展 望 所

比田勝から車で約10分。ヒトツバタゴの自生地、鰐浦の山の上にあって、ここからは天気の良い空気の澄んだ日には、釜山港の建物が肉眼で見れます。
手前の島は、航空自衛隊の基地です。
平成3年3月20日に鰐浦韓国展望公園に「朝鮮国訳官使遭難追悼碑」が建立されていましたが、訳官使遭難者名が不詳でした。
後に対馬史民俗資料館の資料によりそれが明らかになりました。
平成7年3月に遭難から300年を迎えるということで、副碑(遭難者名碑)が、建立され3月 日に韓国からたくさんの御来賓をお招きし、除幕式が開催されました。
展望所駐車場より豊・砲台跡まで遊歩道があります。500mほど歩くことになりますが、健康をかねて足を運んでみてはいかがですか。

鰐浦ヒトツバタゴ自生地  対馬市上対馬町鰐浦

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鰐浦ヒトツバタゴ自生地  対馬市上対馬町鰐浦

国道382号線が上対馬町へ入り、上対馬高の手前となる大浦からか、比田勝港まで行って泉経由で対馬最北端の鰐浦まで行く。鰐浦トンネルのところが鰐浦集落の入口となる。
「木宮神社」がトンネルのすぐ近くにあり、社殿右の広場に国指定天然記念物「鰐浦ヒトツバタゴ自生地」の説明板がある。境内にイチョウの大木があるが、しかし、ヒトツバタゴは小さい。
説明板の写真の木は、木宮神社の左側の道から少し上がると、倒れないよう支え木をした古木が山手の斜面に立っている。この木が鰐浦で一番大きいヒトツバタゴだそうである。

鰐浦トンネル入口から「韓国展望所」へ車道を登る。高台の展望所の下手にも「ヒトツバタゴ自生地」の説明板がある。ここから10分ほど歩いて行くと、鰐浦集落を見下ろされる「ヒトツバタゴ展望所」がある。有名な開花期写真は、韓国展望所の展示写真から。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明、及び対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」リストによる説明は次のとおり。

鰐浦ヒトツバタゴ自生地  天然記念物(国指定)

指定年月日 昭和3年1月18日  所在地 上県郡上対馬町大字鰐浦字在所陽
管理団体 上対馬町
鰐浦は対馬最北端の漁港で、晴天の日には大陸の山々が望見できる。ヒトツバタゴは鰐浦の入江を囲む周囲の丘陵に多く自生している。大陸に最も近いこの地に、大陸系のこの植物が自生するところに意義がある。
現地では毎年5月初めごろ純白の花を咲く。波静かな海面に白く照りはえる眺めが美しいので、当地方では「ウミテラシ」といい、材が堅いので「ナタオラシ」とも呼んでいる。

1 鰐浦ヒトツバタゴ自生地  国  (上対馬町鰐浦一帯)

一般にはナンジャモンジャと呼ばれている珍しい木です。5月上旬頃に鰐浦の集落一帯を白い花で彩る対馬の名花・名木です。

本宮神社のイチョウ  対馬市上対馬町鰐浦

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本宮神社のイチョウ  対馬市上対馬町鰐浦

国道382号線が上対馬町へ入り、上対馬高の手前となる大浦からか、比田勝港まで行って泉経由で対馬最北端の鰐浦まで行く。鰐浦トンネルのところが集落の入口となる。
「本宮神社」は、トンネルのすぐ近くにあり、社殿右の広場にイチョウがある。
対馬観光物産協会発行「対馬の巨木と自然」リストによると次のとおり。

2 本宮神社のイチョウ  イチョウ(雌)  幹回り 5.12m  樹高 34m

(2015年11月3日 追 記)
コメントどおり指摘があり、「木宮神社」ではなく、「本宮神社」(ほんぐうじんじゃ)が正しいとのことで、本記事を修正した。

豊砲台跡  対馬市上対馬町鰐浦  

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豊砲台跡  対馬市上対馬町鰐浦

「豊砲台跡」は第2次世界大戦の遺物。朝鮮海峡が戦略上重要であったことから、旧陸軍により5年の歳月と巨費を投じ、昭和9年に完成した。終戦によって米軍により解体された。
砲塔部のコンクリート厚さは3mあまり、砲を操縦する動力は水圧を利用したといわれ、先進的な技術がうかがえる。実戦は行われることなく、「まぼろしの砲台」となったが、兵舎・台座・地下室は当時の姿に復し、見学できる。

比田勝港から県道182号線により泉を経由して鰐浦方面へ向かう。鰐浦へ出る前に旧道のトンネルが見え、案内標識により山手へ登って行くと「豊砲台跡」へ着く。
現地説明板は次のとおり。
豊 砲 台 跡

豊砲台は、朝鮮海峡に面し、当時、軍事上要衛の地にあり、日本海及び朝鮮海峡の制海権を確実にするため、昭和四年五月に起工、五ヶ年の歳月を費やし完成したものである。 この砲台は、大正十年国際連盟軍縮条約により、戦艦「長門」が廃艦となり、その主砲を移管改造したもので、一般的に四十五口径四十センチ加農砲といわれ、長さ十八メートル五十センチの砲身ニ門が構築された。
昭和九年三月、付帯施設を含む全ての工事が完了し、同時に試験射撃も行われ、名実ともに世界最大の巨砲であった。
発射指令(観測所)は、現在の海上自衛隊上対馬警備所、西泊権現山、上県町棹崎にあって、潮の干満、潮流の速度、距離など測定され、また砲撃指令は空中、地下、海底の三方方式で伝達されていた。
砲塔部及び地下室は、鉄筋コンクリート造りで、天井、脚壁の厚みは、爆撃に耐えられるよう二メートル以上、特に砲塔部は、三メートルの擁壁で保護されている。地下室は、操作用機械室、水圧用水槽などと区画され、往時の面影がしのばれる。
この砲台も、実戦には、一発の弾丸も発射することなく終戦を迎え、昭和二十年十月米軍の爆破班により解体された。
このような施設が二度と再び造られる時代のこないよう、人類永遠の平和を切望し、昭和五十九年十二月現状に復した。                  上 対 馬 町

三宇田浜  対馬市上対馬町泉

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三宇田浜  対馬市上対馬町泉

比田勝港から県道182号線により泉を経由して鰐浦方面へ向かう。泉隧道を出て「三宇田海水浴場」への案内標識により右折し、約1km行くと「三宇田浜」へ着く。
平成8年に「日本の渚・百選」に選ばれた白砂の海浜。
HP「対馬から 来てみんね!上対馬町」観光名所による説明は次のとおり。

三宇田海水浴場&キャンプ場

比田勝港より車で約5〜7分  ■ルート案内→①比田勝〜②古里〜③三宇田
三宇田海水浴場の海辺は日本渚百選に入る見事な景観です。特に砂浜の砂は貝殻成分が
大部分を占めて、きめの細かな白砂と成っています。
素足での感触と綺麗な海水をお楽しみ下さい。
三宇田浜を形成する岬にはキャンプ場と、温泉施設「渚の湯」が有ります。

塔の首遺跡  対馬市上対馬町古里

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塔の首遺跡  対馬市上対馬町古里

比田勝港から県道182号線により泉を経由して鰐浦方面へ向かうと、すぐのところの古里地区の左方高台に「塔の首遺跡」がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

塔の首遺跡  史跡(国指定)

指定年月日 昭和52年2月17日  所在地 上県郡上対馬町大字古里字在所陽
管理団体 上対馬町
上対馬町比田勝港の北東、西泊湾をのぞむ低い旧岬上にある弥生後期の墓地で、箱式石室4基からなる。銅釧(どうくしろ 腕輪)・各種の玉類、8000個におよぶガラス小玉・広形銅矛・方格規矩文鏡(青銅鏡)・小鉄斧等、多数の遺物が棺の内外から発見された。
特に注目されるのは、第3号棺から発掘資料としては初例の広形銅矛2点があり、しかも弥生式土器および韓国陶質土器とともに発見されたことである。このことは、広形銅矛の年代が明確になったこと、韓国の土器と日本の土器の年代比較が可能になったことを意味し、日韓文化の交流を如実に示すものとして注目される。

網代の漣痕  対馬市上対馬町網代

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網代の漣痕  対馬市上対馬町網代

「網代の漣痕」は比田勝港入口の南海岸にあり、比田勝町の中心通りを行き、比田勝川河口の公園角から右折して、比田勝ベイセブンブリッジの大橋を渡り網代漁港へ向かう。
網代漁港の前に轟島を繋いだ防波堤があり、この付け根の裏側海岸部に「網代の漣痕」が広がる。堆積構造の「流痕」との見方もあり、今後の検討を要すると言われている(厳原町誌第4編文化財1173頁)。
現地説明板は次のとおり。

町指定天然記念物  網代の漣痕

1 指定年月日 昭和49年2月1日 指定第5号
2 指 定 地 上対馬町大字網代字吉野□392番地(山林413㎡)
3 説   明
対馬の地質は主に、黒灰色をした泥岩と砂岩の互層よりなり、約3000万年前に堆積した地層で、対州層群とよばれる。
他の多くの場所でも砂岩の上面が漣痕が、また下面には流痕がある。
この漣痕は水流の作用により砂層の表面に形成された水流漣痕とよばれるもので、地層が堆積したあとの水の流れの方向(古流向)を知るうえで、学術的に貴重な資料である。
この漣痕があらわれている地層は、高さ10m〜15mで、約30度の傾斜をなし、延長約140mにわたる。きわめて広大で、美しく、景勝地として町民に親しまれている。
昭和57年2月1日  上対馬町教育委員会