豊砲台跡  対馬市上対馬町鰐浦  

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豊砲台跡  対馬市上対馬町鰐浦

「豊砲台跡」は第2次世界大戦の遺物。朝鮮海峡が戦略上重要であったことから、旧陸軍により5年の歳月と巨費を投じ、昭和9年に完成した。終戦によって米軍により解体された。
砲塔部のコンクリート厚さは3mあまり、砲を操縦する動力は水圧を利用したといわれ、先進的な技術がうかがえる。実戦は行われることなく、「まぼろしの砲台」となったが、兵舎・台座・地下室は当時の姿に復し、見学できる。

比田勝港から県道182号線により泉を経由して鰐浦方面へ向かう。鰐浦へ出る前に旧道のトンネルが見え、案内標識により山手へ登って行くと「豊砲台跡」へ着く。
現地説明板は次のとおり。
豊 砲 台 跡

豊砲台は、朝鮮海峡に面し、当時、軍事上要衛の地にあり、日本海及び朝鮮海峡の制海権を確実にするため、昭和四年五月に起工、五ヶ年の歳月を費やし完成したものである。 この砲台は、大正十年国際連盟軍縮条約により、戦艦「長門」が廃艦となり、その主砲を移管改造したもので、一般的に四十五口径四十センチ加農砲といわれ、長さ十八メートル五十センチの砲身ニ門が構築された。
昭和九年三月、付帯施設を含む全ての工事が完了し、同時に試験射撃も行われ、名実ともに世界最大の巨砲であった。
発射指令(観測所)は、現在の海上自衛隊上対馬警備所、西泊権現山、上県町棹崎にあって、潮の干満、潮流の速度、距離など測定され、また砲撃指令は空中、地下、海底の三方方式で伝達されていた。
砲塔部及び地下室は、鉄筋コンクリート造りで、天井、脚壁の厚みは、爆撃に耐えられるよう二メートル以上、特に砲塔部は、三メートルの擁壁で保護されている。地下室は、操作用機械室、水圧用水槽などと区画され、往時の面影がしのばれる。
この砲台も、実戦には、一発の弾丸も発射することなく終戦を迎え、昭和二十年十月米軍の爆破班により解体された。
このような施設が二度と再び造られる時代のこないよう、人類永遠の平和を切望し、昭和五十九年十二月現状に復した。                  上 対 馬 町