月別アーカイブ: 2008年9月

大雄寺の五百羅漢 (1)  諌早市富川町

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大雄寺の五百羅漢 (1)  諌早市富川町

国道34号線の本野入口から富川渓谷への県道212号線へ入る。案内標識により進むと本明川上流の富川渓谷に着く。大雄寺奥から滝にかけての岩面に、水害による死者を弔う503体の羅漢像が刻まれ、磨崖仏としては県内随一のものである。
写真は2007年11月撮影。現地は、昭和32年(1957)7月25日の諫早大水害にも遭い、磨崖仏は修復されていた。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

大雄寺の五百羅漢  県指定史跡

指定年月日 昭和52年5月4日  所在地 諌早市富川町925の一部ほか
所有者 大雄寺
元禄12年(1699)、諫早藩は洪水により多大の被害をうけ死者487人を出した。諫早藩7代茂晴公は死者の供養と今後の災害防止祈願のため、本明川の上流富川渓谷の地を開いて大雄寺を建立し、その壁面と川中の巨巌に503体の羅漢像を刻し宝永6年(1709)完成している。
磨崖仏としては県内随一のものであり、諫早水害史を物語る資料としても貴重なものである。

川頭遺跡  諌早市湯野尾町

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川頭遺跡  諌早市湯野尾町

国道34号線の本野入口から富川渓谷への県道212号線へ入る。本野小学校が見え、この先にある県営バス「本野学校前」バス停から右折して、山手の高台を目指す。
「川頭(こうがしら)遺跡」は、五家原岳(標高1057.3m)の南側中腹、目代川と湯野尾川の間の尾根にある。

高台の広い農道に上がり、しばらく進むと川頭集落に出、やがて車道左斜面にロープにより囲んだ一角があり、ここが縄文時代の開地遺跡「川頭遺跡」である。
現地へ行っても、草に覆われ何も見られないが、湯野尾川谷間にある同じ縄文時代からの生活遺構「善納岩陰」との関連から訪ねてみた。同岩陰遺跡からも車道はある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

川頭(こうがしら)遺跡  県指定史跡

指定年月日 昭和50年1月7日 所在地 諌早市湯野尾町793−19 所有者 諌早市
縄文時代早期および中期の遺跡で、多良山塊の中腹標高約360mの地にある。
縄文時代中期の土壙墓1基が検出され、径0.8m、深さ0.6mの円形土壙の底面に数個の礫をおき、阿高式土器の大形片が検出された。早期の遺構としては、径3.5m程の円周上に柱穴7〜8箇が配置された平地住居2棟分が検出され、押形文土器、石鏃、石匙、凹石等が発見された。
これらのことから、従前不明瞭であった西北九州の縄文時代早期および中期の様相の一端が展開され、同時に多良・雲仙岳等の山嶽中腹域の遺跡に対する視点が整理されることになった。

善納岩陰  諌早市湯野尾町

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善納岩陰  諌早市湯野尾町

国道34号線の本野入口から富川渓谷への県道212号線へ入る。二股で右へ分れ、湯野尾川に沿って上流まで遡る。県営バス「棚掛」終点から橋を渡り、民家が点在する道を100mほど行くと、左側山手に「善納岩陰」入口の石段が見える。

板状割り石で積み上げた石段を、100段近く登る。大師堂が広場にあり、旧石器時代からの生活遺構は、この堂の右背後となる岩陰で見つかったらしい。
建物を奥に寄せて建ててるためわかりにくいが、裏手へ回り上を見上げると確かに格好な岩のひさしとなっていた。
近くの岩場の割れ目から今も水が流れ、里の給水に使われている。水場の左にも切り立った岩面は50mほど続いたが、この方は崩落がある。
入口手前の車道脇にシイの大木があり、根元に古い小さな石塔が散乱していた。
現地説明板は次のとおり。 
市指定史跡  善納岩陰

人類が岩陰や洞穴で生活を営むようになったのは遠く旧石器時代に始まり、県内の遺跡では福井、泉福寺洞穴などが有名です。これらは今のところ県北地域に多いのですが、諫早北高地区で発見されたのは善納岩陰が初めてです。
この岩陰遺跡は湯の尾川右岸にあたりますが、標高は海抜260m位で南東に面して岩のひさしが出来ています。岩陰の奥行きは約2.8m、間口は約15mで、左側には生活に必要な豊富な湧水もあります。
出土遺物の代表的なものは押型文土器で、縄文時代早期に人間の生活が営なまれていたことを示しています。対岸の尾根には同じ縄文時代の開地遺跡(県指定川頭遺跡)があり、ここの岩陰遺跡と近接しています。
これらは先史時代のあり方を知るための貴重な資料で有ります。
昭和52年3月30日    諫早市教育委員会

御手水観音の磨崖仏群  諌早市御手水町

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御手水観音の磨崖仏群  諌早市御手水町

「御手水観音」は、五家原岳(標高1057.3m)の南側中腹。長田川の上流谷間にある。長田川沿いに御手水町集落へのバス道路を行くのが、最も道はわかりやすい。
JR肥前長田駅前の交差点で国道207号線から分れ、白木峰高原への登山道路へ入る。高架を渡るとすぐ左下に長田小学校と中学校が見え、学校の間の道へ行き、長田川沿いの道をまっすぐ進む。

御手水集落のバス終点を過ぎ、なお行くと広い農免道路と交叉する。「御手水観音」の入口案内看板がここにあり、観音まではまもなくである。
駐車スペースは道路脇に数台。御手水観音は車道左上の山手にあり、遊歩道を登る。途中の説明板のところの岩肌に磨崖仏群が刻まれていて、この先の御手水観音堂と滝へ着く。

御手水観音は、僧行基の開基という伝説もあるが、文献的には御館山神社所蔵の由来記に「開基は何れ之代と言ふ事を不知、堂前に瀑布有、岩面に至徳2乙丑歳(1385)と銘す、上に千手、不動、毘沙門3尊の種子在り、今現に見ゆ」とあり、中世以前からの霊場であることが判る。(湯〜マットdeRの「旅」HP)

現地説明板は次のとおり。磨崖仏をよく見ると、1体ごと脇に寄進の者か名を小さく刻んでいるのが多い。「至徳二乙丑歳」(1385年)と刻んであるとあるが、磨崖仏の岩面では見当たらない。由来記からするとこれは滝の方の岩面ととられる。確認する時間がなかった。
ここの磨崖仏は、富川渓谷の大雄寺にあるのと刻み方が似る。富川のは次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1253
滝の近くに、イチョウの大木があった。

市指定史跡  御手水観音の磨崖仏群

この磨崖仏が刻まれているところは御手水の観音といわれ、大昔から山岳仏教の霊場として知られています。切り立った巨大な岩の中からは澄み切った清水の滝が落下し、鬱そうたる樹木と相まって自ら神域をかもし出しています。
開山は何時頃か定かではありませんが、岩面に至徳二乙丑歳(1385年)と刻んであるため、この年代より大分さかのぼって開山されたのではないかと推察されます。
庶民信仰が盛んであつた当時は多くの信者が観音様に参拝し、夏なお冷気を帯びる滝に身を清めて修行に励んでいましたが、その中の奇篤家が永い間に49体の磨崖仏を刻んで信仰したものです。
この磨崖仏は多くの人によってそれぞれ違った姿の像が彫られており、当時の厚い信仰心を物語る貴重な文化財です。
昭和52年3月30日  諌早市教育委員会

和銅寺の十一面観世音菩薩立像と仁王像  諌早市高来町法川

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和銅寺の十一面観世音菩薩立像と仁王像  諌早市高来町法川

高来町の「和銅寺」は、元明天皇の勅願により和銅元年(708)行基が創建したので、和銅寺と名付けられたと伝えられる。全国的にも珍しい年号寺名の寺である。
開創千三百年祭が、本年5月行われた。本尊は十一面観世音菩薩立像。50年に1回しか開帳されない秘仏。県指定有形文化財である
境内には戦国時代、西九州を席巻した龍造寺隆信が島原出陣前にこの寺に滞在し、島津軍に敗れて討死したと伝えられている石塔の墓もある。

国道207号線により高来町へ向かう。JR湯江駅手前のガード下をくぐり町の中心に入る。大きな寺があるが、この寺は光宗寺。同寺の前を通り旧道を諫早方面へ約500mほど戻ると、橋を渡った高台に「和銅寺」がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による十一面観世音菩薩立像の説明は以下のとおり。写真は開創千三百年祭パンフレットから。

もう1つ関心があったのは、仁王門でなく本堂入口の両脇廊下に置かれた仁王像2体。朽ちかけた姿を今のうち写真に収めておきたかった。
境内の広場に珍しいムクロジの大木。奥にスタジイもあったが空洞ができ、枯れかかっていた。

和銅寺の十一面観世音菩薩立像  県指定有形文化財・彫刻

指定年月日 昭和48年5月18日 所在地 北高来郡高来町法川名20 所有者 和銅寺
十一面観世音菩薩は、頭部に十一面の顔をあらわしている変化観音の一つである。この像は、クス材を使用した木造りであるが、後補箇所も少なく、保存状態もよい。
室町時代の彫像で、引締まった容貌や美しい素木仕上げは、県下の十一面観世音像の代表作の一つと数えてよい。

西郷の板碑  諌早市西郷町

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西郷の板碑  諌早市西郷町

国道57号線により諫早総合運動公園前を行き、「栗面町」を過ぎると、次にタイヤ館がある「西小川町交差点」となる。
左折して埋津川の亀山橋を渡ると、すぐ左手に西郷町亀山市営住宅が一棟だけあり、住宅の川側広場へ回り込むと、中央に「西郷の板碑」がある。

奥の浄化槽隅に、墓碑など片付けられた一角もあり、今では住宅敷地内の史跡となっている。
板碑の下方にある紀年銘「建久元季才次庚戌十一月日」(1190年)は、最後が拡大写真。字の上図、②と③の間に陰刻している。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

西郷の板碑  有形民俗文化財(県指定)

指定年月日 昭和46年09月14日 所在地 諌早市西郷町148−1 所有者 諌早市
板碑は供養塔の一つとして鎌倉時代から南北朝時代にかけて主として関東地方に盛んに建立されたものである。この板碑は、高さ2m、幅1.2m、厚さ75cmで砂岩の自然石の板石塔婆である。板石上方の径75cmの月輪の中に五点具足の図①(ア)の誤字、右下の径35cmの月輪の中に図②(カーン)の誤字、左下の径35cmの月輪の中に図③(パイ)をいずれも刷毛書きの種子(しゅし)を双鉤字(かごうつし)に線刻してある。
上が胎蔵界大日如来、右下が不動明王、左下が毘沙門天に三尊にあてるとすれば、天台宗の三尊形式に例もかなりある。下方に「建久元季才次庚戌十一月日(1190)」と陰刻してある。県下の石造物の紀年銘のうち、最古のものとみられている。

久山の磨崖仏三十三観音  諌早市久山町

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久山の磨崖仏三十三観音  諌早市久山町

諫早公園の本明川対岸、諌早市城見町の慶巌寺に磨崖仏三十三観音があるが、これによく似た彫りの磨崖仏三十三観音が久山町にもある。
慶巌寺のは、 https://misakimichi.com/archives/1229 を参照。

国道34号線の久山「新屋敷交差点」から、丸い建物のホテル「ビルフェルド」に右折。若葉町の方へ向かうと案内標識がある。ここから左折して中央橋を渡り、すぐまた川沿いに右折して行くと、共同住宅「ニューライフ寺坂」奥に「久山の磨崖仏三十三観音」がある。
この道は先へ進むと、長崎街道「赤松坂」下へ出た。
現地の説明板は新しくなっているが、以前の説明板が次のとおり簡潔に記していた。

市指定有形文化財  久山の磨崖仏三十三観音  昭和59年7月26日指定

佐賀藩日記十二巻九段より謹写
南面する第三紀層砂岩の岩肌に観世音菩薩像が彫刻されています。
造立の縁起については、あまり明確ではありませんが「観音経」に説くように、観世音菩薩が三十三に変化し、衆生を救済するという観音思想で、庶民の救いを求める願望が合致して成立したものと思われます。
崖面のほぼ中央に、下のような記銘があります。文政十一年は、西暦一八二八年に当り、当時の民間信仰習俗を知る上で貴重なものです。
文政十一年子天
一月吉祥日
四良兵工
政五郎
虎五郎
宅次郎
赤松
当所 巡礼中
石工 三次郎
昭和61年2月20日  諫早市教育委員会

長崎入港サン・プリンセスの夜景  松ヶ枝国際観光埠頭

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長崎入港サン・プリンセスの夜景  松ヶ枝国際観光埠頭

8月31日、長崎港松ヶ枝国際観光埠頭に、国際観光船 ” サン・プリンセス “(国籍:バーミューダ 全長:261.31m、総トン数:77,441トン)が入港。
入港の写真は、ほしなべ氏のブログ版「長崎遠めがね」 http://blogs.yahoo.co.jp/hoshinabedon/16137471.html を。
あいにくの雨があがった午後8時ころ、ちょうど通りかかったので、船の夜景を写していた。
次の予定は、10月4日の ” コスタ・アレグラコスタ・アレグラ ” (国籍:イタリア 全長:187.25m、 総トン数:28,579トン)だそうだ。

立山防空壕 被爆建造物 長崎県防空本部跡  (2)  長崎市立山1丁目

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立山防空壕 被爆建造物 長崎県防空本部跡  (2)  長崎市立山1丁目            
長崎市立山1丁目の長崎歴史文化博物館横「立山防空壕 被爆建造物 長崎県防空本部跡」が、内外の補強整備工事を行い、平成17年11月から入場料無料により見学できるようになっている。
問い合わせ先の長崎原爆資料館HPの中の「立山防空壕を公開しています」による説明は次のとおり。
立山防空壕 被爆建造物 長崎県防空本部跡

この防空本部跡を公開するにあたり壕の内外には安全性を確保するために補強工事を行いました。また当時この場所にいた方の証言や解説パネル、ここから発見された現物資料などと併せて展示しています。

長崎県防空本部(立山防空壕)とは
太平洋戦争中、空襲警報が発令されると、県知事らが集まり警備や救援等の指揮・連絡を行なった場所であり、壕内には知事室や警察部長室などが配置されていました。
昭和20年8月9日、原爆投下
原爆の投下後、この場所から想像を絶する被害状況を国の防空総本部長などへ報告。また市外各地に救援救護の応援を発信しました。

原爆当時の防空壕をたくさんの方に見学していただき、被爆の実相や平和の大切さを感じて頂ければと願っています。
■入場料 無料
■休 み 毎月第3火曜日(祝日の場合は翌日が休場日また点検の為に臨時休場も有ります)
■時 間 9:30〜17:00
■アクセス 長崎歴史文化博物館横 長崎市立山1丁目
路面電車の場合 桜町電停下車徒歩9分 公会堂前電停下車徒歩11分 
路線バスの場合 桜町公園前バス停下車徒歩7分
■問い合せ先 長崎原爆資料館 TEL095−844−1231

立山防空壕 被爆建造物 長崎県防空本部跡  (1)  長崎市立山1丁目

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立山防空壕 被爆建造物 長崎県防空本部跡  (1)  長崎市立山1丁目            
長崎市立山1丁目の長崎歴史文化博物館横「立山防空壕 被爆建造物 長崎県防空本部跡」が、内外の補強整備工事を行い、平成17年11月から入場料無料により見学できるようになっている。
問い合わせ先の長崎原爆資料館HPの中の「立山防空壕を公開しています」による説明は次のとおり。
立山防空壕 被爆建造物 長崎県防空本部跡

この防空本部跡を公開するにあたり壕の内外には安全性を確保するために補強工事を行いました。また当時この場所にいた方の証言や解説パネル、ここから発見された現物資料などと併せて展示しています。

長崎県防空本部(立山防空壕)とは
太平洋戦争中、空襲警報が発令されると、県知事らが集まり警備や救援等の指揮・連絡を行なった場所であり、壕内には知事室や警察部長室などが配置されていました。
昭和20年8月9日、原爆投下
原爆の投下後、この場所から想像を絶する被害状況を国の防空総本部長などへ報告。また市外各地に救援救護の応援を発信しました。

原爆当時の防空壕をたくさんの方に見学していただき、被爆の実相や平和の大切さを感じて頂ければと願っています。
■入場料 無料
■休 み 毎月第3火曜日(祝日の場合は翌日が休場日また点検の為に臨時休場も有ります)
■時 間 9:30〜17:00
■アクセス 長崎歴史文化博物館横 長崎市立山1丁目
路面電車の場合 桜町電停下車徒歩9分 公会堂前電停下車徒歩11分 
路線バスの場合 桜町公園前バス停下車徒歩7分
■問い合せ先 長崎原爆資料館 TEL095−844−1231