月別アーカイブ: 2008年9月

対馬市に残る石橋 (1)  佐野屋橋・桜橋・銀山上神社参道橋

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対馬市に残る石橋 (1)  佐野屋橋・桜橋・銀山上神社参道橋

対馬市に残るアーチ石橋は、1橋。
厳原町の中心街、厳原川に下流に架かる「佐野屋橋」(写真1)。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による「佐野屋橋」の説明は次のとおり。

写真2は、対馬市役所横の「桜橋」。新橋の脇に橋名の昔の親柱だけが残されている。
写真3は、厳原町の中心街から矢立山を越したまったく反対の西海岸側となる久根田舎にある「銀山上神社参道橋」。今回、初めて見かけた。

写真  1   第 104 番   佐野屋橋(下橋)    厳原町今屋敷川端通り
大正6(1817)年      長さ 12.2m   幅員 6.2m(拡幅)
厳原本川の最も下流にあるので一名「下橋」ともいい、寛文年間の架橋で川のたもとに佐野屋という問屋があったので命名され、享保7年石の桁橋に改め、大正6年に倉成、藤野、小野三氏によってアーチ橋に架け替えられた。
佐野屋橋は拡幅改修されているので、橋の上からはアーチ橋であるとは思えない。上流の大手橋からも良くはわからず、有田橋からアーチの形が見えるのみ。

享保7年あるいは4年と過去紹介されていたが、このときは同じ石橋でも桁橋であったそうで、石造アーチ橋になったのは大正6年とのことです。
山口祐造氏が著書「石橋ものがたり」で拱矢5.0の扁平な橋は、とても江戸時代の橋とは考えにくいと述べられているが、やはり技術者の目は確かであった。

写真  2               桜     橋       厳原町国分
対馬市役所右横の金石川に架かる。新橋の脇に橋名の昔の親柱2本だけが残されている。

写真  3               銀山上神社参道橋   厳原町久根田舎
対馬下島の下部、西海岸側に久根田舎はある。椎根と豆酸間の県道24号線沿い、集落の北はずれに「銀山上神社」があり、県道から「御所橋」を渡って行く。
参道橋の架橋年は、近くに「大正五(?)年御幣祭記念」と刻んだ石碑が立ち、この頃のものではないだろうか。
煉瓦造アーチ石橋かと思ったが、中は平石を渡し、両脇の欄干部分のみ煉瓦アーチに築いていた。「石の島」対馬にしては、煉瓦も使った珍しい橋。
長さ3m、幅員3.5m(拡幅)ほど。下の小川は、コンクリート水路となっている。

「佐野屋橋」「桜橋」については、厳原町「厳原町誌」平成9年刊、第二編地誌124〜130頁「橋梁」の項の説明は次のとおり。

佐 野 屋 橋  厳原本川の最下流に架かった橋を佐野屋橋というのは、この橋のたとに佐野屋という海産物問屋が店舗を構えていたからである。東ノ浜から国分町に通じる渡河点にあり、寛文7年(1667)の架橋という。佐野屋の開祖は泉州佐野(大阪府泉佐野市)の商人五味氏といわれ、寛文の頃に問屋を開業、佐野船の世話をした。佐野船とは当時佐野から出漁してきた漁船団のことである。
当初の橋は木橋であったが、享保7年(1722)に石橋に架け替えられ、さらに大正6年(1917)、倉成綱作・藤野小十郎・小野久次郎らの出資により、アーチ式石橋に改造されたが、それも昭和55年(1980)に改修して舗装され、さらに平成4年(1992)再度拡幅改造された。

桜      橋  金石川の上流、金石屋方(府中金石城)の大手門前で、国分の奥里と、今屋敷の山下通りを結ぶ渡河点に架けられた橋である。城の大手に通じる石橋であったことから、築城時に架橋されたことは疑いなく、桜橋という名称も、屋形との関係を示唆しているようである。
現在、石橋は解体され、大きく拡幅されて、新橋に架け替えられた。

壱岐市に残る石橋

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壱岐市に残る石橋

壱岐市に残るアーチ石橋は、現在のところ見当たらない。
桁石橋など探したところ、次の4橋を見かけた。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による「住吉神社の御神橋」(写真1)の説明は次のとおり。この橋は、親柱に「天保十四年卯九月」と寄進年があった。

同橋以外に、写真2〜4の「安国寺の参道橋」「弥佐支刀神社の参道橋」「印通寺の民家橋」を見かけた。
写真5は、筒城浜海水浴場前の「白沙八幡神社の参道橋」。これはコンクリート橋だった。

写真  1   第 k-039 番   住吉神社の御神橋     芦辺町住吉東触
架橋年は未確認     長 さ   m  幅 員    m  スパン   m
住吉神社の御神橋
壱岐7社のうちの一座であり、国幣中社である由緒正しい日本最古の住吉神社には、立派な石橋が有った。鳥居を潜った正面に石橋を見たときは、一瞬アーチ橋か?と思った。それはさておき、石の板橋等を除いて考えれば、この御神橋が、壱岐唯一の石橋だろうか?
神池の中の池内の小祠(竹生島神社)。この下に神功皇后三韓出兵の陣鐘があり、そこから鏡を掘り出すと雨が降るという言い伝えがあるらしい。明治4年に大陸系鏡十二面及び和系鏡五面が発見された。

写真  2               安国寺の参道橋      芦辺町深江栄触
安国寺の左手横、県道側の駐車場下の参道に架かる橋。脇の古い親柱を見ると、何代か架け替えられたか、他の場所のを持ってきているよう。橋名は「渡香橋」「津合橋」、年代も「元治二年」「昭和十年一月」とかある。
山門正面口にある説明板には、「座禅石」とともに「山門前の石橋」が記されている。これは前記の橋と違い、あくまで山門前の橋のことだろう。コンクリート橋に変わっている。

写真  3               弥佐支刀神社の参道橋   郷ノ浦町大原触
国道382号線沿い、印通寺から郷ノ浦町に入ると右手に志原小学校があり、この正門前の神社に架かる橋。上流に水源、少し離れて「奉寄進石橋」「明治三十八年八月建」の刻柱が残っていた。

写真  4               印通寺の民家橋       石田町石田西触
印通寺港から国道382号線により郷ノ浦町へ向かうと、すぐ右手に小川に架かる民家の入口橋。確認しなかったが、松永記念館やふるさと資料館の裏手口とも思われる。

写真  5               白沙八幡神社の参道橋   石田町筒城仲触
対馬空港先、筒城浜海水浴場の前に大鳥居が立つのが白沙八幡神社。参道を行くと立派な石橋があったが、コンクリート橋だった。

写真  6               鬼 の 足 跡          郷ノ浦町渡良東触
有名な海食でできた天然アーチ橋をついでに。「鬼の足跡」と呼ばれる。牧崎半島の先端にあり、郷ノ浦町の中心通りから標識により北西へ進む。
アーチの上部は草原。散歩道ができている。風景の項も参照。

小ヶ倉水源池のカゴノキ  長崎市上戸町4丁目

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小ヶ倉水源池のカゴノキ  長崎市上戸町4丁目

長崎バス「上戸町」バス停から小ヶ倉水源池に行く。水源池の右の岸を回り、烏帽子岩と市民の森へ登る市道があり、ダム堰堤横を過ぎて50mほど進んだ左方、立入禁止のフェンス内にカゴノキの大木を見る。

ここは小沢の流れがあり、車道が湾曲している谷間である。幹囲は3.5mほど。上は2つの大きな支幹に分かれ、枝を高く張っている。樹高は15m以上ある。市内の近くで見られるカゴノキの高大木と思われる。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」による樹木説明カゴノキは次のとおり。

カゴノキ(鹿子の木)

クスノキ科カゴノキ属 常葉高木 雌雄異株
樹皮はまだらに剥がれて白い鹿の子模様になる。葉は枝先に集まって互生し、倒卵状楕円形で葉先は尖る。革質で葉裏は粉白色。
8〜9月、葉腋に淡黄色の散形花序をつける。花柄はない。総苞片は4個で、花弁は6裂する。雌株(雌花)の花冠は4mmほどで、1個の雌しべと9個の短い仮雄しべがある。雄株(雄花)は8mmほどとやや大きく、雄しべは9個で長い。
果実は1cm弱の倒卵状球形で、翌年の7〜8月に紅色に熟する。
本州(茨城・石川県以西)、四国、九州、沖縄に自生。

鍋冠山から唐八景・市民の森へ  平成20年9月

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鍋冠山から唐八景・市民の森へ  平成20年9月

平成20年9月7日(日)薄くもり。鍋冠山から唐八景・市民の森へ。参加7人。まだ暑いから近くの山歩き。
石橋9時半発ー鍋冠山ー星取山ー田上ー唐八景(昼食)ー市民の森ー巨大スギー小ヶ倉水源池15時着

スカイロードでグラバー園の上へ行き、鍋冠山・星取山へ。田上準提観音に出て唐八景で昼食。展望はかすんでいた。森林体験館はパス。巨大スギへ下る。小ヶ倉水苑を見て解散。
女神大橋から延伸された長崎外環状線が、ダム前に工事中である。

大崎自然公園  東彼杵郡川棚町小串郷・三越郷

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大崎自然公園  東彼杵郡川棚町小串郷・三越郷

川棚町の大崎半島。昭和38年に全域が大村湾県立公園に指定された。くじゃく園・キャンプ場・海水浴場など整備され、国民宿舎「くじゃく荘」と天然温泉「しおさいの湯」がある。
国道205号線「大崎公園」交差点から入り、約3.8Km。きょうも日暮れた。
まだ何もないころ、小串郷の駅から歩いてキャンプに行ったことがあった。

天満宮のタブノキ  東彼杵郡東彼杵町小串郷

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天満宮のタブノキ  東彼杵郡東彼杵町小串郷

国道205号線の川棚町「大崎公園」の次が「小串小学校入口」交差点である。右折して東小串郷公民館前を過ぎ、高台へ上がって行くと小串小学校がある。「天満宮」は小学校正門先の右手に鳥居があり、参道を登る。

タブノキは社殿の広場右にあり、幹囲4m、樹高10mほど。大きな神木と聞いたが、さほどではなかった。幹の上部は折れて、樹形はあまりよくない。
小学校へ着く手前の車道脇に、クロガネモチの大木があった。根元に祀られていたのは、屋敷神という。ここは宅地跡である。

波佐見の宿橋で見た長崎要塞地帯標  東彼杵郡東彼杵町宿郷

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波佐見の宿橋で見た長崎要塞地帯標  東彼杵郡東彼杵町宿郷

9月4日、波佐見町中尾山の窯元「山慶」前の煉瓦造アーチ石橋を見に行った。その帰り川棚へ戻るため、波佐見町の現在の中心通り県道1号線でなく、南側の街中の旧道を通った。
大イチョウを過ぎると、川棚川に架かる「宿橋」を渡る。
橋のたもとに古い標石が立っていた。何かと見ると今は架け替えられている「宿橋」の、昔の橋名銘や架橋年月日のある親柱類。この一角に大切に保存されていた。

このようなことは、他所の橋でもよく見られる。気をひいたのは、真ん中の大瓶の下の低い標石。2面上部に「陸」と「第」の刻字があり、黒ペンキ塗りされている。下部は埋められ刻字不明。
まぎれもない佐世保地域の「長崎要塞地帯標」である。裏面へ回ると「長」の字があった。
説明板がなく、この標石の詳しくはわからない。佐世保の高橋輝吉氏へ聞いてみなくてはならない。高橋氏は、この場所の標石の存在を知っているのだろうか。

原書房刊「海軍制度沿革史」巻十五 昭和47年発行(海軍省編 復刻原本=昭和17年発行)127〜130頁の「◎長崎二於ケル陸海軍防禦営造物ノ地帯区域」によると、波佐見地区は、「要塞地帯法」関係の次の告示改正別図に表われる。
「長崎要塞地(其二)」の図中、「上波佐見」「下波佐見」の地名のあるところが、概ね宿郷「宿橋」のある地点である。(其一)は長崎市、(其三)は五島灘江ノ島近辺の図。

昭和十一年八月一日(陸軍省 海軍省告示六)
明治三十二年八月陸軍省海軍省告示中左ノ通改正ス
「長崎要塞地」ヲ「長崎要塞地(其一)」二改メ左ノ図ヲ加フ
長崎要塞地(其二)
長崎要塞地(其三)

長崎要塞地帯標は、明治32年設置されてから、何回かの法改正と地帯変更があった。終戦後、戦争遺物の市町村資料はすぐ廃棄され、標石はほとんど撤去された。地元でも詳細を知る手がかりがない。
波佐見町「宿橋」の標石は、上記の頃の告示改正が設置年代の目安となるだろう。詳しくは高橋氏が調査し、地元へ伝えてもらえればと思う。

高橋氏のこれまでの調査によると、波佐見地区の標石を同氏は次のとおり確認している。
① 第 1号 川棚民俗資料博物館にあり ② 第11号 西有田民俗資料館にあり
③ 第22号 個人宅にあり ④ 第32号 有田近くの寺にあり

中尾山で見つかった煉瓦アーチ橋  東彼杵郡波佐見町中尾郷

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中尾山で見つかった煉瓦アーチ橋  東彼杵郡波佐見町中尾郷

本年6月初め、波佐見町中尾山で小さい煉瓦アーチ橋が新しく見つかっている。次の記事により波佐見町に残るアーチ石橋は、15橋と紹介していたが、これで16橋となった。
https://misakimichi.com/archives/684
見つけられたのは、” fwd−net 長崎・諫早 ”のHP「長崎県の石橋を訪ねて」zento1氏。なんの情報もなく中尾山へ奥さんと窯元めぐりに行き、気づかれた橋。

波佐見町の中心街を通る県道1号線の「中尾山入口」交差点から右折。中尾山へ向かう。入口右の通りにある陶山神社近くの「伊東橋」のほか、中尾山には石橋は2つ残る。
中尾山へ着いて「陶郷中尾山」のゲートをくぐると、すぐ右の川に煉瓦アーチ「永田橋」が見え、次に「中尾山陶源橋」を渡るが、下を覗くとこれは立派な石造アーチ橋である。

今回、見つかったのは、この川の右横に並行して流れている小川。家並みの中はほとんど暗渠となっている。「中尾陶源橋」の先に、右へ30mの窯元「山慶」に入る車道があり、この道路下に小さな煉瓦アーチ橋が残っていた。下側の駐車場奥から見るとよくわかる。
上へ路地へ回って上流へ行くと、桁石橋の小さなものも残っていた。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真     第 199 番   山慶前のレンガ橋      波佐見町中尾山
架橋年は未確認       長 さ 1.5m  幅 員1.6m+拡張
上流側に石柱を渡して拡張している。
波佐見町の中尾山に入ってゲートを潜った右手が永田橋(中尾レンガ橋)、本通りを少し上がった所が中尾山桃源橋。その先に右手に駐車場が有って山慶さんに入るところに架かる橋。

下流の永田橋(中尾レンガ橋)と同じようにレンガをブロック状に切り出して石拱橋の工法で架けた橋。陶芸の里らしい橋だ。環厚は0.3m、拱矢0.5m、スパン1.5mの小さな橋とはいえ、何度も通った中尾山に見落としが有ったということは、もっと見つかる可能性が高まったと嬉しくなる。(06/08/2008)

彼杵の古墳(ひさご塚)  東彼杵郡東彼杵町宿郷

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彼杵の古墳(ひさご塚)  東彼杵郡東彼杵町宿郷

国道34号線の東彼杵交差点から右折し、東彼杵町の中心へ入るとすぐ左手にある。一帯は歴史公園「彼杵の荘」として整備され、ひさご塚や石室の奥に東彼杵町歴史民俗資料館があり、副葬品などを展示している。
公園には、そのほか切間石・旧家岳中邸・しだれ桜・体験工房などあった。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

彼杵の古墳  県指定史跡

指定年月日 昭和25年4月10日  所在地 東彼杵郡東彼杵町宿郷字古金屋道上
所有者 国
長崎県の代表的前方後円墳で、規模は県内最大級。彼杵川河口、大村湾に面した砂礫丘上、標高2m程に位置する。主軸はN62°Wを測り、後円部側にカサンガン(重棺)古墳が位置する。
全長58.8m、後円部直径37.7m、高さ6.3m、くびれ部幅11.0m、前方部長さ21.1m、幅18.5m、高さ2.6mを測り、前方部の低い古式の墳丘形態を呈する。前方部が著しくくびれており、通称「ひさご塚」の由縁である。
墳丘上に埴輪の樹立は確認できないが、裾には人頭大の葺石が良好に残存している。埋葬施設は後円部上に2基検出され、副葬品には銅鏡1面、ガラス製小玉(300点ほど)や鉄鏃、鉄剣、鉄斧、刀子などの鉄製品もみられる。
5世紀前半頃の築造で、墳丘が復元され、隣接する東彼杵町歴史民俗資料館では副葬品などが展示され、古墳の墳丘とともに自由に見学することができる。

熊野神社のスタジイ  諌早市真崎破籠井名

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熊野神社のスタジイ  諌早市真崎破籠井名

諌早市真崎破籠井名の熊野神社は、風観岳(標高236.2m)の南麓にある。国道34号線諫早バイパスの明峰中学校前交差点に「破籠井」の道路標識があり左へ入る。県営バス「下破籠井」バス停で道が交差するが、まっすぐ行って住宅地の高台を越すと近道。
下ると風観岳下の谷間となり、前方に最近、護岸をした川にガードレールの橋がある。この橋を渡り、田の道を登って行くと熊野神社に着く。下破籠井までは長崎街道の道。

「諫早近代史」諌早市平成2年刊の特記すべき植物個体147頁によると、スタジイとして諌早市第一の巨樹。幹囲4.42mとある。
参道石段左にイスノキ、社殿へ上がって左の林にも、同じくらいのスタジイの大木があった。
Otkji.K氏「長崎の樹木」の中の街路樹による熊野神社の説明は次のとおり。

熊野神社

諫早市・破籠井(ワリゴイ)にある神社。入口近くにはスタジイの大木がある。本堂前の境内にはサザンカが咲いていた。神社社叢には、イスノキ、アラガシ、ムクロジの他、ヤブツバキ、ハリギリ、カクレミノ、ミミズバイ、シイモチ、サザンカ、ミサオノキを見ることができる。シュロも自生していた。 ミサオノキの低木が多く自生しているのが特徴。

案内板によると、平家の落人が近くに住みつき、建仁2年(1202年)に平家の守護神・熊野大権現を建立したのが、熊野神社であるという。毎年2月1日に桃手祭りが行なわれる。昭和62年10月には、鎮座800年祭りが行なわれており、平家の落武者にまつわる由緒深い神社である。