月別アーカイブ: 2008年9月

牧崎の鬼の足跡とゴリラ岩  壱岐市郷ノ浦町渡良東触

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牧崎の鬼の足跡とゴリラ岩  壱岐市郷ノ浦町渡良東触

郷ノ浦港から町の中心通りを北西の牧崎半島へ向けて進む。車で約15分。牧崎の先端に海食崖の大穴があり、「鬼の足跡」と呼ばれている。
右方断崖すぐ近くに「微笑むゴリラ岩」。海中に立つ大岩。
七夕会壱岐観光情報HP「壱岐ファイル」自然環境編による説明は次のとおり。

牧崎・鬼の足跡  場所 ● 郷ノ浦町渡良東触牧崎  アクセス ● 郷ノ浦港から車で15分

郷ノ浦町の西端、牧崎の先端にある。玄武岩の海蝕崖の絶壁上に広がる草原に、ぽっかり開いた周囲110mの大穴。これは途方もなく長い時間をかけて波浸食した海蝕洞の先端部が、陥没してできた穴である。壱岐を代表する景観で、地元では、大鬼のデイが鯨をすくい捕るために踏ん張ってできた足跡で「鬼の足跡」と呼ばれている。この時のもう片方の足跡は勝本町辰ノ島の蛇ケ谷にある足跡である。牧崎の海岸に突き出たにんまり笑うゴリラ岩が愉快だ。

微笑むゴリラ岩  場所 ● 郷ノ浦町渡良東触牧崎  アクセス ● 郷ノ浦港から車で15分

牧崎公園の「鬼の足跡」の北側海岸にある玄武岩の大岩を眺めていると、巨大なゴリラの横顔に見えてくる。頭頂部の尖り具合など絶妙なバランスで、鼻や口元の造形が粗いのもご愛敬として見れば、ゴホゴホと肩を揺らして不敵に笑っているようにも見える。黒崎半島にある壱岐のシンボル「猿岩」に向かって、まるで話かけているように海中に立っている。

壱岐渡良のアコウ  壱岐市郷ノ浦町渡良東触

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壱岐渡良のアコウ  壱岐市郷ノ浦町渡良東触

郷ノ浦港から町の中心通りを北西の牧崎半島「鬼の足音」方面へ向かう。「鬼の足跡」は、渡良浦分岐から右の道へまっすぐ進むが、しばらく行くと道路沿いの墓地前を通る。
墓地の間に「渡良のアコウ」の案内標識があり、ここから右方の車道を200m下って行くと、半城湾に臨む小さな入り江に着く。

車道は海岸で行き止まり。右上の林内を見上げると「渡良のアコウ」がすぐ近くにある。隣に空家があった。案内標識がある墓地は、渡良浦分岐と鬼の足跡のちょうど中間くらいの地点。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

壱岐渡良のアコウ  県指定天然記念物

指定年月日 昭和33年6月5日  所在地 壱岐郡郷ノ浦町渡良東触字美鹿崎858
所有者 郷ノ浦町
あこうは南方系のクワ科の樹木で、同科のイチジクやイタビ類に近く、その北限の一つは佐賀県の高串で、そこがあこう北限地として国の指定を受けている。
壱岐は、九州本島からはるかに離れた玄海に浮かぶ島であるが、この島の西海岸、半城湾に臨んだ海辺に指定のあこうがある。自生か植えたものかの判断は困難であるが、もし植えたものとしても貴重である。
指定は2本であるが、そのうち1本は指定前に途中から切られている。残りの1本は根回り4m、生育は旺盛である。

壱岐産ステゴドン象化石  壱岐市郷ノ浦町・壱岐郷土館

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壱岐産ステゴドン象化石  壱岐市郷ノ浦町・壱岐郷土館

郷ノ浦港から町の中心通りを北西の「鬼の足音」方面へ向かう。壱岐市役所郷ノ浦庁舎への交差点も曲がらず、そのまま行くとすぐ左方に「壱岐郷土館」と「壱岐文化ホール」の大きな建物が見える。

ステゴドン(旧象)化石産出地は、勝本町立石西触の通称「六郎瀬鼻」と呼ばれる海岸。湯本温泉の国民宿舎「壱岐島荘」の真北700mにあたる。
昭和46年、流紋岩が露出した海食崖で、ステゴドン象の化石が発見された。この象は1,200万年前から200万年前にアジア大陸に生息した象の先祖で、壱岐が大陸と地続きだった頃に渡ってきたものと考えられている。

化石は壱岐郷土館に展示されており、庭にはステゴドン象の実物大復元模型があった。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

壱岐産ステゴドン象化石  県指定天然記念物

指定年月日 昭和52年5月4日 所在地 壱岐郡郷ノ浦町本村触字平田445・壱岐郷土館
所有者 郷ノ浦町
昭和46年1月7日、勝本町湯ノ本浦西方六郎瀬鼻の海食崖に露出する地層から田島俊彦氏(当時長崎市茂木中学校教諭)が象化石を発見した。その後の本格的発掘調査により、臼歯の一部、門歯(いわゆる象牙、大小あり、2頭分と思われる)の他、多数の骨片
を掘り出し、ステゴドン象化石であることが確認された。発掘した化石標本(約20個)は、郷ノ浦町壱岐郷土館に収蔵されている。
ステゴドンは、長鼻目、ステゴドン科に属する大型の旧象であり、屋根型の稜が列をなす臼歯が特徴である。壱岐産のステゴドンの右上顎の大臼歯の特徴は、日本産のアカシゾウやトウヨウゾウとは区別され、中国北部の楡社統(鮮新世中期)の旧象に類似する点が多い。

壱岐の鏡岳神社社叢  壱岐市郷ノ浦町初山東触

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壱岐の鏡岳神社社叢  壱岐市郷ノ浦町初山東触

壱岐島の最南端の方となり、「初瀬の岩脈」海岸入口前が鏡岳神社である。郷ノ浦町の国道382号線沿いから岳ノ辻にいったん登り、若松経由で初瀬へ下っていくのが、案内標識が整備されてわかりやすい。
鏡岳神社の前に駐車場があり、正面の鳥居奥が小半島となり、「鏡岳神社社叢」を形成している。左手の民家の前を通る坂道と越すと岩脈の海岸へ出る。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

壱岐の鏡岳神社社叢  県指定天然記念物

指定年月日 昭和48年9月4日  所在地 壱岐郡郷ノ浦町初山東触字花川1587
所有者 鏡岳神社
この社叢は、壱岐の南端近く、突出した小さな半島の全体をおおっている。海抜は50m程度、山腹にはスタジイを優占種とする照葉樹林が発達している。そのほか、クロガネモチ・ヤブニッケイ・ホルトノキ・モッコクが林冠を形作り、林内にはトベラ・サンゴジュ・ネズミモチ・ハマビワ・ハクサンボク・ヒサカキ・マサキ・アオキ・ギョクシンカズラなどの常緑低木、林下にはベニシダ・テイカカズラ・ノシラン・ビナンカズラ・サカキカズラ・キジョラン・キヅタなどが繁茂する。
かつてシロシャクジョウ・ムヨウラン(ともに白色の腐生植物)、アヤランなどの稀産種が生じたこともある。ギョクシンカはここが分布北限地である。この社叢は海に接する丘陵地の照葉樹林の原型をよく残している、壱岐には数少ない樹林地である。

初瀬の岩脈  壱岐市郷ノ浦町初山東触

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初瀬の岩脈  壱岐市郷ノ浦町初山東触

壱岐島の最南端の方となるので、郷ノ浦町の国道382号線沿いから岳ノ辻にいったん登り、若松経由で初瀬へ下っていくのが、案内標識が整備されてわかりやすい。
鏡岳神社の前に駐車場があり、左手の民家の前を通る坂道と越すと岩脈の海岸へ出る。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

初瀬の岩脈  県指定天然記念物

指定年月日 昭和41年9月30日  所在地 壱岐郡郷ノ浦町初山東触字花川1586
所有者 西八幡神社
壱岐島は低い丘陵性の地形をもち、その地質は大部分が玄武岩類によって構成されている。南部の海岸地帯には、玄武岩に被覆される古期の火山岩類に属する安山岩や流紋岩が露出する。初瀬〜久喜間、および久喜〜印通寺間の海岸地帯に分布する流紋岩は、白〜灰白色を呈する黒雲母流紋岩であり、変質安山岩を被覆する。
初瀬の鏡岳神社の北側では、流紋岩が露出する断崖絶壁に、幅17〜18mの玄武岩の岩脈が貫入し、縁辺部には流紋岩の捕獲岩を取り込んでいる。真白な流紋岩中に、真黒な岩脈がほぼ垂直に貫入している状態は、玄武岩が割目噴出をして、地表に溶岩流として溢れ出る過程を説明することのできる貴重な地質学的資料である。

平人触山川家のエノキ  壱岐市郷ノ浦町平人触

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平人触山川家のエノキ  壱岐市郷ノ浦町平人触

石田町印通寺港から国道382号線により郷ノ浦町へ向かう。約5分ほど行くと町境で郷ノ浦町平人触。県道の右手を見て行くと、一段高い広い草地の真ん中にこのエノキの大木が立っているのがわかる。志原小学校のまだ手前である。
郷ノ浦町「郷ノ浦町史」平成10年刊、第三編文化財254頁による説明は次のとおり。

平人触山川家のエノキ  町指定文化財 一株

エノキはニレ科の樹木で日本国中どこにも普通にみられる落葉高木である。昔から一里塚に植樹したり、神聖木として神社の境内に多くみかける。また壱岐の諺に「左榎に右槐」「東榎に西街道」とあって大吉とされる縁起木でもある。
このエノキも諺通り、左榎に右槐である。壱岐島最大のものである。
幹囲6.05m、樹高11.00mである。

壱岐の岳ノ辻にある明治22年建「緯度測定標」  壱岐市郷ノ浦町

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壱岐の岳ノ辻にある明治22年建「緯度測定標」  壱岐市郷ノ浦町

郷ノ浦町の岳ノ辻(標高212.86m)は、壱岐島内で一番高い山。烽場であった。古代から海外の侵攻に備える警備の要所。近世は平戸藩遠見番所が置かれた。
国道382号線沿いの2箇所(壱岐酒造前に「登山口」バス停がある)から、山頂まで車道が上がり駐車場がある。
一等三角点と緯度測定標(水路部 明治22年)がある山頂は、見上神社側の駐車場からすぐ。草地が広がり、四阿があり北の展望が開ける。
少し離れた南のピークには、テレビ塔と展望台が建つ。

壱岐へ行ってぜひ写真を撮りたかったのは、この岳ノ辻山頂の標石「緯度測定標」である。
刻面は「緯度測定標」「水路部」「明治廿二年三月」。
参 照  https://misakimichi.com/archives/960
直接写して、近代測量史研究の京都市上西先生へ画像を送りたかった。

ところで、「緯度測定標」とはどんなものか。HP「全国地図測量史跡」紹介によると次のとおり。
壱岐島・岳ノ辻も記されている。「現存しているというがまだ未調査」とある。

項  目  出雲崎妙福寺境内の経緯度天測標と浜田測候所の天測標ほか
史跡所在地
新潟県三島郡出雲崎町岩舟町1592 妙福寺
島根県浜田市大辻町235−3 旧浜田測候所
秋田市千秋北の丸2番 秋田和洋女子高校グラウンド敷地内
佐賀県唐津市鎮西町馬渡島
長崎県壱岐市郷ノ浦町永田触(壱岐島・岳ノ辻)

旧海軍の水路部は、海図作成のため、明治9年の静岡と青森を初めとして、全国各地の 100余の海岸地域で経緯度測定を実施したという。新潟県出雲崎には明治11年、すでに電信局が設置されていたことから、明治21年7月に行われた経度測定は、電信を利用した方法によって行われた。その結果は、東経9h14m3.9s、北緯37度32分30秒であった。

出雲崎町は「良寛の里」、北前船が寄港した風情を残す妻入りの町並みの町として知られている。この町の日本海を望む高台、妙福寺の境内には1辺20cmほどの直方体の経緯度測定の跡を示す標石が現存している。
標石上部には十字が、側面にはそれぞれ「経緯度測定標」、「水路部」、「明治廿一年八月」の文字が刻まれている。
標石は、貴重なものとして大切に保存されてきたが、その位置は設置時からは多少移動したようで、境内の崖縁に追いやられて、やや傾きかげんで大木の枝に抱かれるように海を見下している。

また、石段を降りた左手にある芭蕉公園には、「北陸街道人物往来史」の看板があり、「享和2年(1802)伊能忠敬海岸を測量に来る」の記入がある。伊能忠敬の測量隊は、享和2年9月29日寺泊から入り10月1日に柏崎へと進んだ。さらに翌年には富山、糸魚川方向から出雲崎に入り、佐渡の小木に渡ったことが「測量日記」に記されている。

さて、同様な直方体の天測標であるが、秋田市千秋(「緯度測量点」「水路部」「大正七年五月」とある)、佐賀県唐津市馬渡島(「緯度測定標」「水路部」「明治廿二年六月」とある)、 長崎県壱岐市郷ノ浦町永田触(壱岐島・岳ノ辻)(「緯度測定標」「水路部」「明治廿二年三月」とある)、北海道小樽市(「水路部」、「明治二六年一〇月」)にも現存しているというが未調査である。

また、島根県浜田市大辻町の旧浜田測候所構内にも、変わった天測標が保存されていた。…
いずれも、測地学・天文学史上貴重な史跡の一つであり、今後も大切に保存されることを願いたい(浜田測候所のそれは、その後撤去され不明である)。
(→経緯度基点銅板碑→日本経緯度原点)

壱岐にある明治38年建の街道標石  壱岐市石田町・郷ノ浦町

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壱岐にある明治38年建の街道標石  壱岐市石田町・郷ノ浦町

写真のとおり明治38年8月に建てた街道の標石を、壱岐市へ行って2本見かけた。
1本は、印通寺港から国道382号線により郷ノ浦町へ向かうと、すぐ右手から中心街を抜けてきた車道と合う交差点がある。昔からここが街道の辻だったのだろう。
今も付いてある道路標識と電柱の根元に古い標石があった。
四面に刻字。「←いんつふじ道 ごふのうら道→」「←いしだついき道」「明治三十八年八月建」「石田村」。

あと1本は、今度は郷ノ浦町に着いて「壱岐郷土館」の庭で見た。壱岐では「ステゴドン象化石」が発見されているので、象の実物大復元模型を庭に据えている。
その近くに隠れて、石田町交差点で見た標石とまったく同じ造りの標石があった。
四面に刻字。「←ひの□□道 ごふのうら道→」「←いんつふじ道」「明治三十八年八月建」「武生水村」。場所は、移設して展示しているのだろうか。

当時の街道、県道標石と思われる。同種のものは、長崎市矢上町・西彼杵郡時津町・諌早市・大村市で見ている。
取り立てるほど珍しい標石ではないが、数は少なくなっている。壱岐へ行って偶然、2本を見かけたので記しておく。

対馬市に残る石橋 (3)  金田城跡・和多都美神社・海神神社などの橋

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対馬市に残る石橋 (3)  金田城跡・和多都美神社・海神神社などの橋

対馬市に残るアーチ石橋は、1橋。厳原町の中心街、厳原川の下流に架かる「佐野屋橋」は(1)、そのほか見かけた桁石橋などの石造橋を(2)(3)で紹介している。
(3)は、厳原町以外の史跡、金田城跡・和多都美神社・海神神社などの橋。
史跡・巨樹の項も参照。

写真  9           金田城跡の橋          美津島町黒瀬
浅茅湾の南辺。白江村の海戦(667年)に敗れた天智天皇が、国の守りの最前線として築かせた日本最古の城跡。日露戦争の際、再び要塞化され砲台跡もある。国指定の特別史跡。
国道382号線により美津島町鶏知交差点まで行き、箕形方面への県道24号線に入る。洲藻を過ぎて箕形に下る右方へ岩山が見え、県道脇に金田城跡に行く案内坂がある。
城跡石塁や山頂へは、車道終点から急な道をかなり歩く。途中で見た板石橋。近年のものかも知れない。

写真 10           和多都美神社の橋       豊玉町仁位
豊玉町の由来になった豊玉姫命と、「海彦山彦」の日々出見命を祭神とする海宮。
豊玉町仁位から県道232号線に左折し、町の中心を通り仁位浅茅湾に出てから「和多都美大橋」を渡って神社へ行く。烏帽子岳展望台への登山道路の登り口となる。
参道左に海水が入る池があり、橋はこの池に架かる。

写真 11           海神神社の橋          峰町木坂
木坂の海神神社は海の守護神豊玉姫命を祀る。かっての対馬一の宮。国道382号線の峰町三根から左折して、西海岸の木坂へ向かう。海岸のはずれに海神神社がある。
板石の橋は、入口鳥居をくぐった右広場にある。ここも本殿まではかなり石段を登る。

写真 12           横浦の橋             豊玉町横浦
国道382号線により万関橋を渡り対馬上島に入り、豊玉町「和坂交差点」より右折し東海岸を行く県道39号線に入る。すぐ大漁湾に出るので、「横浦大橋」を渡って右岸の横浦漁港へ向かう。「横浦」バス停のところに小橋が2つあった。

写真 13           鳴滝自然公園の橋       上対馬町浜久須
同上県道39号線により上対馬町の浜久須までかなり北上する。比田勝へ越す峠の高台に「鳴滝自然公園」入口がある。鳴滝は対馬一の高さ15mの滝。
滝への遊歩道の途中に、写真の橋がある。近年、架けられた木とコンクリートの橋だが、造りや景観はよい。

対馬市に残る石橋 (2)  万松院・宗家墓所・金石城跡の橋

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対馬市に残る石橋 (2)  万松院・宗家墓所・金石城跡の橋

対馬市に残るアーチ石橋は、1橋。厳原町の中心街、厳原川の下流に架かる「佐野屋橋」は(1)、そのほか見かけた桁石橋などの石造橋を(2)(3)で紹介している。
(2)は、厳原町の史跡、万松院と同院内の対馬藩主・宗家墓所、近くの金石城跡の橋。
史跡・巨樹の項も参照。

写真  4           万松院の参道入口橋        厳原町西里
対馬藩主・宗家菩提寺「万松院」の駐車場へ入る道にある。金石川の左からの支流に架かる。両脇の親柱に架橋年「明治十八年三月」と、奉納者の刻字が読める。

写真  5           万松院内の塀沿い橋        厳原町西里
万松院内へ入って、墓所へ行く道の内部塀沿いにある。金石川に架かる。墓所入口橋のすぐ上流橋となる。後は、近くで見る板石を渡しただけの橋。

写真  6           宗家墓所の参道入口橋       厳原町西里
万松院の山門右側に、対馬藩主・宗家墓所の参道入口門があり、金石川に架かる橋がある。通常はこの入口門は閉門され、墓所へは万松院の中へ入ってから行くこととなるが、橋は駐車場側から見れる。

写真  7           宗家墓所内の橋           厳原町西里
宗家墓所へは、万松院から大スギ3本が立つ「百雁木」(ひゃくがんぎ)と呼ばれる参道石段を130段くらい登って行くこととなる。この山手左側墓所の前にも橋があった。
後は、墓所内の道で見る板石を渡しただけの橋。

写真  8           金石城跡内の橋           厳原町今屋敷
宗家居城「金石城跡」。万松院から行くと、往時の広い庭園の池跡などが見学できる。写真はここで見かけた板石の橋と、現在の金石川に架かるコンクリート新橋。