長崎の風景・史跡 (県 南)」カテゴリーアーカイブ

常灯鼻  五島市福江町

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常灯鼻  五島市福江町

五島市指定史跡「常灯鼻」は、福江港ターミナル近くから北西方の漁協などがある岸壁を見るとすぐわかる。福江川河口の海岸通りを行き、港大橋を渡ってこの突堤へ着く。
五島市観光協会HP「五島市観光情報サイト 五島」による説明は次のとおり。

福江港の常灯鼻  ◎福江港内

第30代五島盛成が福江城(石田城)を築く際、北東から吹き寄せる巨浪を防ぎ,築城工事を容易にするため,城代家老松尾頼母を総監督とし,蔵奉行小田幸右衛門を現場責任者として築かせた。
弘化3年(1846)5月に完成し,さらに丸木よりの導水堤(防波堤)ができあがったのは嘉永元年(1848)。築城術の発達した江戸時代末期の造りだけあって、造築以来百余年,激浪に耐え,出入の船舶を守り、秀麗な姿を水面に映し、城下町ムードを盛り上げている。

明人堂  五島市福江町

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明人堂  五島市福江町

福江港ターミナルから福江商店街へ入る。奥浦方面への県道162号線により唐人橋へ向かうと、橋の少し手前左方に五島市指定史跡「明人堂」がある。
五島市観光協会HP「五島市観光情報サイト 五島」による説明は次のとおり。

倭寇の守り神・明人堂  ◎福江港から歩いて10分

天文9年(1540)、当時東シナ海を舞台に貿易商として活躍していた明国の王直は、通商を求め福江に来航した。財政的に苦しんでいた領主宇久盛定公は喜んで通商を許し、城下(江川城)の高台に居住地を与えた。これが現在の唐人町である。
その一画に王直ら中国人が、航海の安全を祈るために廟堂を建立し、その跡が現在の明人堂であると云われている。王直はその後、平戸に居を構え、倭寇の大頭目に転じていくことになる。以前は明人堂のそばに、交易の時に使用したと思われる荷揚げ場が残されており、付近一帯が交易の場として栄えていたと思われる。
現在の新しい明人堂は、官民一体となった建設資金の募金活動により、島内外の浄財を集め建設されたものであり、建設にあたっては石材等は中国から取り寄せ、中国風の瓦葺きや壁画は中国の工人の手によりなされたものである。

六角井(ろっかくいど)  五島市江川町

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六角井(ろっかくいど)  五島市江川町

福江港ターミナルから福江商店街へ入る。奥浦方面への県道162号線により唐人橋へ向かうと、橋の少し手前に案内標識があり、県道から右方路地へ入るとすぐ県指定史跡「六角井」がある。
五島市観光協会HP「五島市観光情報サイト 五島」による説明は次のとおり。

倭寇の遺跡・六角井戸  ◎明人堂のすぐそば

倭寇の頭目・王直が、当時深江と呼ばれていた福江に来航し、藩主に通商を求めたのは天文9年(1540)である。江川城主第17代宇久盛定は、海外貿易の必要を認め、財政再建のため通商上の黙約を結んだ。そして彼らに居住地(現在の唐人町)を与え、更に飲料、船舶用水として江川城本丸下に井戸を掘らせた。これが六角井戸である。
平戸市にある六角井より早く造られたこの井戸は、井戸枠(広いところで125センチ)を六角形に板石で囲み、井戸の中も水面下まで六角形の井壁が板石で造られているので、ちょうど六角柱を地中に立てたような形になっている。
五島における倭寇時代の貴重な遺跡の一つである。

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (4) 鉄道橋と千々石(釜山)砲台跡

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温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (4) 鉄道橋と千々石(釜山)砲台跡

平成20年6月3日、温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる。温泉鉄道は愛野から唐比へ出、愛野展望台下の海岸を千々石まで行き、なお橘湾沿いに木津・富津を経由、小浜温泉入口まで走った。
軌道跡は現在国道251号線の一部や県道201号線となって、九州自然歩道のコースである。
愛野駅を除き駅跡の碑を全部写したので、写真が多くなった。その(4)は余談。

長崎本線(大草経由)を済み次は温泉鉄道跡をと、鉄道橋を調べるのが本来の目的。
川や道をまたぐことはあまりなく、煉瓦アーチはなかった。唐比手前で短い桁橋が2つ残っていた位である。
国道57号線から千々石商店街へ入ったところで、親和銀行千々石支店横に清流が流れる。道路下を覗くとアーチが見えた。石造橋かとときめいたが、コンクリート張り。
地元の識者島村酒店の主に確認したら、戦後造られたという。この川は上流に「柳原水源」、下流に洗い場のよいのがある。千々石ホテル跡もある。

千々石(釜山)砲台跡とは、温泉鉄道の千々石第一トンネルと関係する。ほとんど知る人はいないが、トンネル右横の海を向いた高台岩場に砲台が構築された。
太平洋戦争末期、米軍の九州本土侵攻を阻止するため。すでに廃線となっていたトンネルの横腹に穴を開け、砲台への出入りと大砲格納に利用した。トンネルが工廠だった話も聞く。
戦後、壁面を塞いだ。トンネル内にその跡がはっきりわかるから面白い。
橘湾沿岸の戦争遺跡の項を参照。 https://misakimichi.com/archives/9

最後の写真は今回、富津の「額栗岩」下の鉄道沿いに大きな防空壕を見かけた。頂上岩は監視所のみで、この防空壕が大砲を据えた富津砲台とも考えられる。
温泉鉄道跡は、緑のトンネルも続き景観はよく、鉄道の歴史にひたりウオーキングに向いた道である。

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (3)

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温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (3)

平成20年6月3日、温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる。温泉鉄道は愛野から唐比へ出、愛野展望台下の海岸を千々石まで行き、なお橘湾沿いに木津・富津を経由、小浜温泉入口まで走った。
軌道跡は現在国道251号線の一部や県道201号線となって、九州自然歩道のコースである。
その(3)は、木津の浜駅から肥前小浜駅までの区間。終点は北野のこの信号の手前で、旅館街へは送迎バスだった。国道の上から見た風景、富津や小浜の写真も入れた。
鉄道の歴史資料は次のとおり。以下続く。

小浜町史談編纂委員会編 「小浜町史談」 小浜町 昭和53年
雲 仙 鉄 道         384〜385頁

愛野駅を基点として千々石までの温泉鉄道が、愛野・千々石両村の資産家などによって計画され、その会社の創立は大正九年七月六日、軽便鉄道の敷設工事が終ったのは大正十二年五月三日であった。
これとは別に千々石・小浜間の小浜鉄道会社が生れたのは大正十年、延長五哩あまり、途中三ヵ所のトンネルは難工事であった。とくに千々石・木津間トンネル、南口付近の測量は百㍍の断崖を命綱たよりに続けられた。工事着手とともに千々石・木津・富津・北野に土工納屋が建てられ、朝鮮人工夫と地元の労務者がこれにとり組んだ。
そのときの測量技師が「こんな難工事は第一が日本海に面する親不知(おやしらず)、子不知(こしらず)、次はここだ」と云ったそうである。わずかの区間に三ッのトンネル、八十度の傾斜を削って線路を通したが、道具はツルハシとノミ、ダイナマイトとトロッコだけであった。トンネル内の側面や天井の石材はすべてそのあたりの安山岩であった。
大正十五年三月に全線の工事が終り、開通式は肥前小浜駅で三月十日、列車は黒煙を吐いて気関車一、客車二、貨車一という編成で一日六往復、北野には旅館街へ送迎のバスが運行された。
愛野・愛津・水晶観音・竹火ノ浜・千々石の各駅までが温泉鉄道、千々石・上千々石・木津が浜・富津・肥前小浜駅までが小浜鉄道、自動車が次第に多くなるなかでこれでは経営が成り立たぬ。島原鉄道からの直通運転が昭和二年六月六日から開始されたが、昭和七年十一月十六日解約、昭和八年七月、両社は合併して雲仙鉄道と改名した。
千々石湾沿いの景観はよい。それを目的で乗る客もありはしたが、バスや自家用自動車がふえるにつれ、黒煙を吐かないガソリン車になってはいたが、鉄道客はへるばかり、その上に日支事変に突入したことが大きく影響して昭和十三年七月二十三日、会社解散となってしまい、レールが敷かれていた跡は舗装道路となり、その盛衰をものがたっている。

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (2)

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温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (2)

平成20年6月3日、温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる。温泉鉄道は愛野から唐比へ出、愛野展望台下の海岸を千々石まで行き、なお橘湾沿いに木津・富津を経由、小浜温泉入口まで走った。
軌道跡は現在国道251号線の一部や県道201号線となって、九州自然歩道のコースである。
その(2)は、千々石駅から木津の浜駅までの区間。沿線近くの写真も入れる。
鉄道の歴史資料は次のとおり。以下続く。

小浜町史談編纂委員会編 「小浜町史談」 小浜町 昭和53年
雲 仙 鉄 道         384〜385頁

愛野駅を基点として千々石までの温泉鉄道が、愛野・千々石両村の資産家などによって計画され、その会社の創立は大正九年七月六日、軽便鉄道の敷設工事が終ったのは大正十二年五月三日であった。
これとは別に千々石・小浜間の小浜鉄道会社が生れたのは大正十年、延長五哩あまり、途中三ヵ所のトンネルは難工事であった。とくに千々石・木津間トンネル、南口付近の測量は百㍍の断崖を命綱たよりに続けられた。工事着手とともに千々石・木津・富津・北野に土工納屋が建てられ、朝鮮人工夫と地元の労務者がこれにとり組んだ。
そのときの測量技師が「こんな難工事は第一が日本海に面する親不知(おやしらず)、子不知(こしらず)、次はここだ」と云ったそうである。わずかの区間に三ッのトンネル、八十度の傾斜を削って線路を通したが、道具はツルハシとノミ、ダイナマイトとトロッコだけであった。トンネル内の側面や天井の石材はすべてそのあたりの安山岩であった。
大正十五年三月に全線の工事が終り、開通式は肥前小浜駅で三月十日、列車は黒煙を吐いて気関車一、客車二、貨車一という編成で一日六往復、北野には旅館街へ送迎のバスが運行された。
愛野・愛津・水晶観音・竹火ノ浜・千々石の各駅までが温泉鉄道、千々石・上千々石・木津が浜・富津・肥前小浜駅までが小浜鉄道、自動車が次第に多くなるなかでこれでは経営が成り立たぬ。島原鉄道からの直通運転が昭和二年六月六日から開始されたが、昭和七年十一月十六日解約、昭和八年七月、両社は合併して雲仙鉄道と改名した。
千々石湾沿いの景観はよい。それを目的で乗る客もありはしたが、バスや自家用自動車がふえるにつれ、黒煙を吐かないガソリン車になってはいたが、鉄道客はへるばかり、その上に日支事変に突入したことが大きく影響して昭和十三年七月二十三日、会社解散となってしまい、レールが敷かれていた跡は舗装道路となり、その盛衰をものがたっている。

温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (1)

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温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる  (1)

平成20年6月3日、温泉鉄道跡を小浜まで訪ねる。温泉鉄道は愛野から唐比へ出、愛野展望台下の海岸を千々石まで行き、なお橘湾沿いに木津・富津を経由、小浜温泉入口まで走った。
軌道跡は現在国道251号線の一部や県道201号線となって、九州自然歩道のコースである。
その(1)は、愛野駅から海水浴場前の千々石駅までの区間。沿線近くの写真も入れる。
鉄道の歴史資料は次のとおり。以下続く。

小浜町史談編纂委員会編 「小浜町史談」 小浜町 昭和53年
雲 仙 鉄 道         384〜385頁

愛野駅を基点として千々石までの温泉鉄道が、愛野・千々石両村の資産家などによって計画され、その会社の創立は大正九年七月六日、軽便鉄道の敷設工事が終ったのは大正十二年五月三日であった。
これとは別に千々石・小浜間の小浜鉄道会社が生れたのは大正十年、延長五哩あまり、途中三ヵ所のトンネルは難工事であった。とくに千々石・木津間トンネル、南口付近の測量は百㍍の断崖を命綱たよりに続けられた。工事着手とともに千々石・木津・富津・北野に土工納屋が建てられ、朝鮮人工夫と地元の労務者がこれにとり組んだ。
そのときの測量技師が「こんな難工事は第一が日本海に面する親不知(おやしらず)、子不知(こしらず)、次はここだ」と云ったそうである。わずかの区間に三ッのトンネル、八十度の傾斜を削って線路を通したが、道具はツルハシとノミ、ダイナマイトとトロッコだけであった。トンネル内の側面や天井の石材はすべてそのあたりの安山岩であった。
大正十五年三月に全線の工事が終り、開通式は肥前小浜駅で三月十日、列車は黒煙を吐いて気関車一、客車二、貨車一という編成で一日六往復、北野には旅館街へ送迎のバスが運行された。
愛野・愛津・水晶観音・竹火ノ浜・千々石の各駅までが温泉鉄道、千々石・上千々石・木津が浜・富津・肥前小浜駅までが小浜鉄道、自動車が次第に多くなるなかでこれでは経営が成り立たぬ。島原鉄道からの直通運転が昭和二年六月六日から開始されたが、昭和七年十一月十六日解約、昭和八年七月、両社は合併して雲仙鉄道と改名した。
千々石湾沿いの景観はよい。それを目的で乗る客もありはしたが、バスや自家用自動車がふえるにつれ、黒煙を吐かないガソリン車になってはいたが、鉄道客はへるばかり、その上に日支事変に突入したことが大きく影響して昭和十三年七月二十三日、会社解散となってしまい、レールが敷かれていた跡は舗装道路となり、その盛衰をものがたっている。

JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)沿いの風景 (2)

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JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)沿いの風景 (2)

平成20年5月30日、JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋を見に行った。そのついでの風景。写真の説明はわざと省略した。自分の目で探していただきたい。

琴ノ尾岳を越す松頭トンネル入口までを(1)、松頭トンネルを出てからを(2)としている。
鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋は、次を見てほしい。
(1) https://misakimichi.com/archives/942
(2) https://misakimichi.com/archives/943

JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)沿いの風景  (1)

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JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)沿いの風景 (1)

平成20年5月30日、JR長崎本線(大草経由 長崎駅ー喜々津駅間)の鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋を見に行った。そのついでの風景。写真の説明はわざと省略した。自分の目で探していただきたい。

琴ノ尾岳を越す松頭トンネル入口までを(1)、松頭トンネルを出てからを(2)としている。
鉄道橋と沿線に残るアーチ石橋は、次を見てほしい。
(1) https://misakimichi.com/archives/942
(2) https://misakimichi.com/archives/943

道の尾温泉の歴史と風景  西彼杵郡長与町

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道の尾温泉の歴史と風景  西彼杵郡長与町

浦上水源池の畔にあるラジウム温泉「道の尾温泉」は、近くは通るがよく見たことはなかった。タッちゃんのブログで最近、長崎市の日帰り温泉「道の尾温泉」が次のとおり記事に出た。

明治元(1868)年創業というから長崎市近郊としては歴史のあるほうで、居留地の外国人や入港する外国船の乗組員に人気があった天然温泉。
そのうえ九州には数少ない飲泉の湯でもある。受付のすぐ近くに飲泉用の蛇口があるので、是非とも飲んだほうがいい。ちなみにボクが知っている飲泉で有名な他の温泉は、①佐賀県の嬉野温泉、②大分県の湯平温泉。
画像は、道標になっていた石柱・外にある効能の説明板・明治時代の版画。
( http://blogs.yahoo.co.jp/turbobf1516/42265747.html 参照)

この石柱を写しに行った。温泉の建物はリニューアルされているが、旧道沿いに昔のたたずまいを残す一角があった。泉源には「明治元年華氏八十度」(摂氏で26.7度)と書かれ、水神の石祠、大正九年の「架橋紀念」碑があった。
同温泉会社のHP「道の尾温泉 長崎の温泉 歴史」を読むと、「蓬菜(?)橋」という橋。温泉のそばに架けたとしかわからない。明治時代の版画にはもちろん表われないし、長崎大学の古写真もない。
碑の下に溝があり、石材だったようなものは転がっている。脇は山手からの小川が流れ、多分このあたりだろう。

近くには4,5軒の旅館とホテルもあったそうだ。旧家がそのまま1軒残り、花壇の公園らしき場所も旅館跡だった。
同HPによると、創業者古田吉平は事業経営のみならず地域発展にも貢献し、諫早ー長崎間の鉄道建設時のルート案を検討する際にも奮闘し、温泉から500mの位置に「道の尾駅」を設置。現在のJR長与線のルートとなっている。
古田氏は道の尾駅から温泉に至る農道を車の通る道路にするため、個人出資で自らも工事監督として整備を進めたため、古田氏自らを「道の王」と自称するようになり、俗に地名「道の尾」の由来は、ここからきているとも言い伝えられている人物である。