長崎の風景・史跡 (県 南)」カテゴリーアーカイブ

御手水観音の磨崖仏群  諌早市御手水町

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御手水観音の磨崖仏群  諌早市御手水町

「御手水観音」は、五家原岳(標高1057.3m)の南側中腹。長田川の上流谷間にある。長田川沿いに御手水町集落へのバス道路を行くのが、最も道はわかりやすい。
JR肥前長田駅前の交差点で国道207号線から分れ、白木峰高原への登山道路へ入る。高架を渡るとすぐ左下に長田小学校と中学校が見え、学校の間の道へ行き、長田川沿いの道をまっすぐ進む。

御手水集落のバス終点を過ぎ、なお行くと広い農免道路と交叉する。「御手水観音」の入口案内看板がここにあり、観音まではまもなくである。
駐車スペースは道路脇に数台。御手水観音は車道左上の山手にあり、遊歩道を登る。途中の説明板のところの岩肌に磨崖仏群が刻まれていて、この先の御手水観音堂と滝へ着く。

御手水観音は、僧行基の開基という伝説もあるが、文献的には御館山神社所蔵の由来記に「開基は何れ之代と言ふ事を不知、堂前に瀑布有、岩面に至徳2乙丑歳(1385)と銘す、上に千手、不動、毘沙門3尊の種子在り、今現に見ゆ」とあり、中世以前からの霊場であることが判る。(湯〜マットdeRの「旅」HP)

現地説明板は次のとおり。磨崖仏をよく見ると、1体ごと脇に寄進の者か名を小さく刻んでいるのが多い。「至徳二乙丑歳」(1385年)と刻んであるとあるが、磨崖仏の岩面では見当たらない。由来記からするとこれは滝の方の岩面ととられる。確認する時間がなかった。
ここの磨崖仏は、富川渓谷の大雄寺にあるのと刻み方が似る。富川のは次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1253
滝の近くに、イチョウの大木があった。

市指定史跡  御手水観音の磨崖仏群

この磨崖仏が刻まれているところは御手水の観音といわれ、大昔から山岳仏教の霊場として知られています。切り立った巨大な岩の中からは澄み切った清水の滝が落下し、鬱そうたる樹木と相まって自ら神域をかもし出しています。
開山は何時頃か定かではありませんが、岩面に至徳二乙丑歳(1385年)と刻んであるため、この年代より大分さかのぼって開山されたのではないかと推察されます。
庶民信仰が盛んであつた当時は多くの信者が観音様に参拝し、夏なお冷気を帯びる滝に身を清めて修行に励んでいましたが、その中の奇篤家が永い間に49体の磨崖仏を刻んで信仰したものです。
この磨崖仏は多くの人によってそれぞれ違った姿の像が彫られており、当時の厚い信仰心を物語る貴重な文化財です。
昭和52年3月30日  諌早市教育委員会

和銅寺の十一面観世音菩薩立像と仁王像  諌早市高来町法川

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和銅寺の十一面観世音菩薩立像と仁王像  諌早市高来町法川

高来町の「和銅寺」は、元明天皇の勅願により和銅元年(708)行基が創建したので、和銅寺と名付けられたと伝えられる。全国的にも珍しい年号寺名の寺である。
開創千三百年祭が、本年5月行われた。本尊は十一面観世音菩薩立像。50年に1回しか開帳されない秘仏。県指定有形文化財である
境内には戦国時代、西九州を席巻した龍造寺隆信が島原出陣前にこの寺に滞在し、島津軍に敗れて討死したと伝えられている石塔の墓もある。

国道207号線により高来町へ向かう。JR湯江駅手前のガード下をくぐり町の中心に入る。大きな寺があるが、この寺は光宗寺。同寺の前を通り旧道を諫早方面へ約500mほど戻ると、橋を渡った高台に「和銅寺」がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による十一面観世音菩薩立像の説明は以下のとおり。写真は開創千三百年祭パンフレットから。

もう1つ関心があったのは、仁王門でなく本堂入口の両脇廊下に置かれた仁王像2体。朽ちかけた姿を今のうち写真に収めておきたかった。
境内の広場に珍しいムクロジの大木。奥にスタジイもあったが空洞ができ、枯れかかっていた。

和銅寺の十一面観世音菩薩立像  県指定有形文化財・彫刻

指定年月日 昭和48年5月18日 所在地 北高来郡高来町法川名20 所有者 和銅寺
十一面観世音菩薩は、頭部に十一面の顔をあらわしている変化観音の一つである。この像は、クス材を使用した木造りであるが、後補箇所も少なく、保存状態もよい。
室町時代の彫像で、引締まった容貌や美しい素木仕上げは、県下の十一面観世音像の代表作の一つと数えてよい。

西郷の板碑  諌早市西郷町

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西郷の板碑  諌早市西郷町

国道57号線により諫早総合運動公園前を行き、「栗面町」を過ぎると、次にタイヤ館がある「西小川町交差点」となる。
左折して埋津川の亀山橋を渡ると、すぐ左手に西郷町亀山市営住宅が一棟だけあり、住宅の川側広場へ回り込むと、中央に「西郷の板碑」がある。

奥の浄化槽隅に、墓碑など片付けられた一角もあり、今では住宅敷地内の史跡となっている。
板碑の下方にある紀年銘「建久元季才次庚戌十一月日」(1190年)は、最後が拡大写真。字の上図、②と③の間に陰刻している。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

西郷の板碑  有形民俗文化財(県指定)

指定年月日 昭和46年09月14日 所在地 諌早市西郷町148−1 所有者 諌早市
板碑は供養塔の一つとして鎌倉時代から南北朝時代にかけて主として関東地方に盛んに建立されたものである。この板碑は、高さ2m、幅1.2m、厚さ75cmで砂岩の自然石の板石塔婆である。板石上方の径75cmの月輪の中に五点具足の図①(ア)の誤字、右下の径35cmの月輪の中に図②(カーン)の誤字、左下の径35cmの月輪の中に図③(パイ)をいずれも刷毛書きの種子(しゅし)を双鉤字(かごうつし)に線刻してある。
上が胎蔵界大日如来、右下が不動明王、左下が毘沙門天に三尊にあてるとすれば、天台宗の三尊形式に例もかなりある。下方に「建久元季才次庚戌十一月日(1190)」と陰刻してある。県下の石造物の紀年銘のうち、最古のものとみられている。

久山の磨崖仏三十三観音  諌早市久山町

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久山の磨崖仏三十三観音  諌早市久山町

諫早公園の本明川対岸、諌早市城見町の慶巌寺に磨崖仏三十三観音があるが、これによく似た彫りの磨崖仏三十三観音が久山町にもある。
慶巌寺のは、 https://misakimichi.com/archives/1229 を参照。

国道34号線の久山「新屋敷交差点」から、丸い建物のホテル「ビルフェルド」に右折。若葉町の方へ向かうと案内標識がある。ここから左折して中央橋を渡り、すぐまた川沿いに右折して行くと、共同住宅「ニューライフ寺坂」奥に「久山の磨崖仏三十三観音」がある。
この道は先へ進むと、長崎街道「赤松坂」下へ出た。
現地の説明板は新しくなっているが、以前の説明板が次のとおり簡潔に記していた。

市指定有形文化財  久山の磨崖仏三十三観音  昭和59年7月26日指定

佐賀藩日記十二巻九段より謹写
南面する第三紀層砂岩の岩肌に観世音菩薩像が彫刻されています。
造立の縁起については、あまり明確ではありませんが「観音経」に説くように、観世音菩薩が三十三に変化し、衆生を救済するという観音思想で、庶民の救いを求める願望が合致して成立したものと思われます。
崖面のほぼ中央に、下のような記銘があります。文政十一年は、西暦一八二八年に当り、当時の民間信仰習俗を知る上で貴重なものです。
文政十一年子天
一月吉祥日
四良兵工
政五郎
虎五郎
宅次郎
赤松
当所 巡礼中
石工 三次郎
昭和61年2月20日  諫早市教育委員会

慶巌寺の磨崖仏三十三観音  諌早市城見町

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慶巌寺の磨崖仏三十三観音  諌早市城見町

諫早公園の眼鏡橋から見ると、本明川の対岸に見える寺が慶巌寺なので、近くの公園橋などを通って行く。 慶巌寺の参道橋を渡り石段にかかる。岩肌に彫った小さな観音像がある。参道のここのはもっとも右端となるので、川沿い道路の駐車場へ行くと説明板があり、「慶巌寺の磨崖仏三十三観音」の全体が見渡せる。

寺下の崖面の左右に、小さいながら精巧に彫られた表情豊かな三十三体の観音像。まだ彩色が残るものも見られる。一部、崖は崩落している。左隣家の先へも続いているので、回り込んで見る。
諫早には、久山台近く新屋敷交差点から入ったところに同じような磨崖仏三十三観音があり、御手水観音には富川渓谷のような磨崖仏群49体があるので、これらも見てみたい。
いずれも諌早市指定文化財や史跡。現地説明板は次のとおり。
HP ” いさはやWEB情報室 ”の「諌早の歴史と文化を知ろう  名所旧跡編」が、<諫早市の文化財(市教委)>からこれらをよく紹介しているので参照。

慶巌寺の磨崖仏三十三観音  市指定有形民俗文化財 昭和59年7月26日指定

本域南端の第三紀僧砂岩の岩肌に、西を起点として33体の観音菩薩像が整然と彫刻しています。光背型(仏・菩薩の背後に有る光明を示す型)にえぐり込んだ中に、観音像を陽刻してあり、高さ約40cm、幅30cm前後を測ります。観音像の右側には、「西国三十三所○○番」というように番号が陰刻されています。

建立の縁起については、あまり明確ではありませんが、「観音経」に説くように、観音菩薩が33に変化し衆生を救済するという三十三観音信仰思想と庶民の救いを求める願望が合致して成立したものと思われます。
崖面のほぼ中央に記銘があり、
「明和七年  西国三十三観音大士願主福田源太夫母  二月吉祥日」
と記しています。明和七年は西暦1770年に当たります。

なお、三十三観音の祀り方には、石塔の上に観世音菩薩を据えて祀る形と磨崖仏として崖壁に彫り込む形があり、前者では永昌町の八天狗社・金比羅岳頂上の権現堂周りのもの、後者では久山の磨崖仏が知られています。
いずれも当時の民間信仰、習俗を知る上で貴重なものです。
平成11年3月31日                    諌早市教育委員会

慶巌寺と名号石  諌早市城見町

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慶巌寺と名号石  諌早市城見町

諫早公園の眼鏡橋から見ると、本明川を挟んで対岸に見える寺が慶巌寺であるので、近くの公園橋などを渡って行く。
慶巌寺は、元諫早村小路(原口町泉野)にあった常楽寺を、二代諫早藩主の室、慶巌院の志願により、慶長10年(1605)今の城見町岩小屋に移転・改築し、寺号を慶巌寺と改めた。諫早領主の帰依寺となり、霊屋廟所が設けられた。

八橋検校ゆかりの「六段発祥地」。諫江八十八ヶ所霊場第十五番札所。
参道の左右崖面の摩崖仏「三十三観音」(別項)は市指定有形文化財。右手には天明7(1787)年建立の芭蕉を偲んだ「翁塚」がある。
仁王門をくぐった正面が本堂で、佐賀鍋島藩の紋「杏葉」が打たれている。諫早家家宝「明珍の鎧」もここに保管されている。
境内左には、県指定有形民俗文化財「慶巌寺の名号石」がある。そのほか水害の慰霊碑や十六羅漢像がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による名号石の説明は次のとおり。

慶巌寺の名号石  県指定有形民俗文化財

指定年月日 昭和56年3月27日 所在地 諌早市城見町15−19 所有者 慶巌寺
碑面中央部に南無阿弥陀仏の名号を楷書で陰刻し、枠の線とともに薬研彫りである。右側に意趣と年紀の銘がある。これによれば、貞和7年(1351)衆生平等利益を祈念して建立されたものであるが、建立にかかわった人の名前と思われる碑面最下部の僧名や建立の具体的動機にかかわる歴史的背景等については不明な点が多い。
しかしこの種の名号石は県下に類例がなく、地方史研究のうえからも貴重である。

この「名号石」は、奇縁があってこの寺に祀られることとなったらしい。
「長崎県の石橋を訪ねて」のHP氏 ” Fwd−net 長崎・諫早 ”の散歩コーナーによる話は次のとおり。
慶巌寺の名号石

本明川に面してあり、諫早公園の対岸にあたる慶巌寺の境内にある。慶巌寺の山門脇に建つ屋根を被せた板碑が、この「名号石」です。
正面に彫ってある「南無阿弥陀仏」の彫り方が、特殊な「薬研彫(やけんぼり)}であることと、年代が貞和7(1351)年であることから、県の文化財に指定されている。

名号石の正面の銘は、下記のとおりである。
右意趣者為法界衆生平等利益也   一結  敬白。
南 無 阿 弥 陀 仏
貞和七年辛卯四月十三日
また、下の方に二十数名の名前が刻んであるようだが、判読できない。貞和七年は観応二年に変わっているのだが、観応の年号を使わなかったのは、後醍醐天皇と対立する南北朝時代なので、北朝の足利直冬が使わせなかったといわれ、諫早地方が当時足利勢の勢力下にあったという、歴史的な事実が浮かび上がってくる。

この名号石は、元々慶巌寺に有ったのではなく、以前は、大城戸(おおじょうご)と呼ばれた現在の諫早郵便局のあたりの小川に渡して、橋がわりに使われていたもの。
ところが、この石が夜になると、怪しい光を出すため、付近の人が畏れて使わなくなり、渡れば祟りがあるとの噂が流布された。
そのため、あらためて調べてみると、石板の裏側に南無阿弥陀仏の銘が読めたので、「墓石だ!」と肝を潰したという。こともあろうに、墓石を橋に使って踏みつけていたと思った住民は、祟りを恐れて供養のために慶巌寺に運んだ。

慶巌寺で「これは、名号石だ」とわかり、境内に祀って、磨耗を防ぐために屋根も設けた。さすがに名号石だけあって、自分で住民に知らせて、慶巌寺に収まったと考えるのは、考えすぎだろうか? でも、そう思ったほうが、楽しい。

日島の石塔群  南松浦郡新上五島町日島郷ほか

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日島の石塔群  南松浦郡新上五島町日島郷ほか

奈良尾から行くと若松大橋を渡り若松側GSから左折し、県道169号線により若松島北西部の突端にある日島を目指す。魚生大橋や有福島を通り、日島まで堤防道路などで陸続きとなっているが、約15kmはある。
若松港からは山手の若松トンネルを越し中央小学校へ出、少し海岸沿いに戻ると同県道へ出る。

日島へ堤防を渡ったすぐのところの海岸部に曲地区の石塔類はあり、海水浴場などとともに島全体が「若松ディアパーク」となっていた。
宝篋印塔があるところは、島の先へさらに進み日島漁港の最奥、釜崎地区の丘の上である。印塔の基礎部等はほとんど復元されたものが置かれてあり、紀年銘はわからなかった。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。 

日島の石塔群  県指定史跡

指定年月日 平成12年2月22日  所在地 南松浦郡若松町日島郷字曲12番地及び字釜崎281番地  管理責任者 若松町
若松島の北西に位置する日島・曲地区の、海に向かって延びる礫丘部分全域にわたって、中世以来の石塔類が約70基分林立している。
また、曲地区から1km程離れた同じ日島の釜崎地区の丘の上に、紀年銘を刻んだ高さ約2mの大型の宝篋印塔が1基、海を見下ろすように存在し、基礎の左側に正平22年(南朝暦・1367年)の銘が刻まれている。
曲地区の主な石塔や釜崎地区の宝篋印塔は、その石材や高度な彫出技術等から、石造文化が進んだ関西・北陸地方で1300年代から1400年代にかけて製作され、日本海ルートで日島へ搬入されたと推測される。
現在の一離島に、全国的に見ても大規模な石塔類が集中していることは、当時、日島が重要な貿易拠点であり裕福であったことや活発な海上交易が行われていたことを示し、学術的にも非常に価値が高い。指定面積は1990.15㎡。

矢堅崎の奇岩  南松浦郡新上五島町網上郷

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矢堅崎の奇岩  南松浦郡新上五島町網上郷

新上五島町青方から県道170号線により奈摩に出、奈摩湾沿いに行くと新魚目から津和崎への県道32号線と合う。湾沿いに県道を進み、「青砂ヶ浦教会」を過ぎ曽根の集落から白草峠まで上ると、県道下の断崖が「新魚目曽根火山赤ダキ断崖」である。

ここまでの県道途中、奈摩湾の反対側先に常に見える円錐形の奇岩島。渡ることはできないが、手前の網上郷突端に「矢堅目公園」がある。奇岩は奈摩から公園へ行って近くで見られるようだ。
後の2枚は、青方から小値賀へ渡ったフェリー太古の船上から写す。
新上五島町観光物産協会HP「まるごと体験!新上五島」による説明は次のとおり。

矢堅目公園

波の造形、円錐形の奇岩と複雑に入り組んだ海岸。鬼ユリの群生と自然のままの磯。潮風を感じる散策スポットです。
有川港から車で30分。

新魚目曽根火山赤ダキ断崖  南松浦郡新上五島町曽根郷

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新魚目曽根火山赤ダキ断崖  南松浦郡新上五島町曽根郷

新上五島町青方から県道170号線により奈摩に出、奈摩湾沿いに行くと新魚目から津和崎への県道32号線と合う。湾沿いに県道を進み、青砂ヶ浦教会を過ぎ曽根の集落から白草峠まで上ると、この県道下の断崖が「新魚目曽根火山赤ダキ断崖」である。

海岸には灯台の格好をした新魚目町「海のふるさと館」と漁港があり、下の海岸まで降りると赤ダキ断崖の全容が眺められる。
国指定重要天然記念物。長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

新魚目曽根火山赤ダキ断崖  国指定天然記念物

指定年月日 昭和53年3月31日  所在地 南松浦郡新魚目町曽根郷
所有者 新魚目町
曽根火山は、番岳(標高442m)と小番岳(標高322m)との間の鞍部に噴出した玄武岩質の噴石丘であり、火山地形でいう臼状火山(ホマーテ)に属し、火口は北西に開いている。最高点は海抜143mであり、噴出時には直径およそ1kmの基底面をもっていたものと推定されるが、南側は海食により著しく削られて「赤ダキ断崖」となり、よく成層した火山砕屑物の見事な断面をあらわしている。
火山砕屑物は、上下2層に識別される。下部層は、玄武岩の岩片や黒色の岩滓を含む黄〜黄灰色の凝灰岩で、よく固結している。上部層は、地表にも広く分布する赤色の岩滓層で、多量の火山弾を含み、固結度は下部層に比べ低い。成層面は、断崖に向かって右手(東側)は東へ約15°傾斜し、左手(西側)は西へ10〜20°傾斜する。中央部の水平に見える部分は手前へ20°傾いている。