長崎の風景・史跡 (県 南)」カテゴリーアーカイブ

大雄寺の五百羅漢 (2)  諌早市富川町

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大雄寺の五百羅漢 (2)  諌早市富川町

国道34号線の本野入口から富川渓谷への県道212号線へ入る。案内標識により進むと本明川上流の富川渓谷に着く。大雄寺奥から滝にかけての岩面に、水害による死者を弔う503体の羅漢像が刻まれ、磨崖仏としては県内随一のものである。
現地は、昭和32年(1957)7月25日の諫早大水害にも遭い、磨崖仏は修復されていた。
前項の(1)写真は2007年11月撮影のため、詳しく写し直しに行った。本堂前に石造橋があった。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

大雄寺の五百羅漢  県指定史跡

指定年月日 昭和52年5月4日  所在地 諌早市富川町925の一部ほか
所有者 大雄寺
元禄12年(1699)、諫早藩は洪水により多大の被害をうけ死者487人を出した。諫早藩7代茂晴公は死者の供養と今後の災害防止祈願のため、本明川の上流富川渓谷の地を開いて大雄寺を建立し、その壁面と川中の巨巌に503体の羅漢像を刻し宝永6年(1709)完成している。
磨崖仏としては県内随一のものであり、諫早水害史を物語る資料としても貴重なものである。

小野金比羅山 (2)  諌早市宗方町

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小野金比羅山 (2)  諌早市宗方町

国道57号線により諫早市街から諌早市小野町まで行く。小野小学校の次に「小野」交差点があり、右折して旧道の道へ入る。小野の天満宮や郵便局前を通り、小野団地入口まで行くと、「金比羅山頂 ←2.3km」の標識がある。
団地内を通り、山頂すぐ下の駐車場まで車道があり、山頂はこれから歩いて15分ほどである。

金比羅山(標高247m)の山頂一帯は、寛延元年(1748)建てられた曹洞宗「性円寺」の廃寺跡。諫早平野の眺望もよく、諌早市指定名勝。
小野小学校の背後に見える山。登山道路は小野町から上がり、ほかの金比羅山と区別するため、小野金比羅山または小野嶽と呼ばれる。
地図によると山頂部分は宗方町となっていた。久し振り山頂にある雰囲気がよい史跡と出会った。(1)(2)により詳しく紹介する。
現地説明板は次のとおり。

諌早市指定名勝  金比羅山頂    昭和52年3月5日指定

金比羅山頂は曹洞宗性円寺の寺領です。性円寺は寛延元年(1748)に建てられ、日本独特の神仏習合の祭祀がなされましたが、現在は本堂跡の敷石のみが残っています。
昔は諫早領主の祈祷所として、また航海安全の神、武運長久の神として崇められました。参道脇、境内には左記の石仏、石造物などがあります。

金比羅大権現(上宮)  宝暦元年(1751)の建立。
常 夜 灯  文政5年(1822)の建立。この灯火を目当てにして橘湾の漁師は夜間の漁をしたと伝えられています。
松 尾 社  酒徳・寿福の神様として信仰を受けてきた京都松尾神社の分神とされ、文化6年(1809)に建てられました。
唐 風 山 門  石造山門として、市内でも珍しい山門です。(扁額には「金光明山」、文政12年(1829)の年紀銘が見られる)
三十三観音像  上宮の周囲に配置されています。市内の観音霊場としては、ほかに八天神社(永昌町)、慶巌寺の磨崖仏三十三観音(城見町)、久山の磨崖仏三十三観音(久山町)などがあります。
諫江八十八霊場第五十番札所  文政8年(1825)に建てられた弘法像。
翁   塚  松尾芭蕉の句碑。文化10年(1813)の建立で「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげ也」と刻まれています。市内では他に慶巌寺(城見町)などにあります。
八天狗の巨石  大日如来をあらわす梵字と「八天狗」と刻んであります。天保8年(1695)の奉祀。
平成17年3月  諌早市教育委員会

小野金比羅山 (1)  諌早市宗方町

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小野金比羅山 (1)  諌早市宗方町

国道57号線により諫早市街から諌早市小野町まで行く。小野小学校の次に「小野」交差点があり、右折して旧道の道へ入る。小野の天満宮や郵便局前を通り、小野団地入口まで行くと、「金比羅山頂 ←2.3km」の標識がある。
団地内を通り、山頂すぐ下の駐車場まで車道があり、山頂はこれから歩いて15分ほどである。

金比羅山(標高247m)の山頂一帯は、寛延元年(1748)建てられた曹洞宗「性円寺」の廃寺跡。諫早平野の眺望もよく、諌早市指定名勝。
小野小学校の背後に見える山。登山道路は小野町から上がり、ほかの金比羅山と区別するため、小野金比羅山または小野嶽と呼ばれる。
地図によると山頂部分は宗方町となっていた。久し振り山頂にある雰囲気がよい史跡と出会った。(1)(2)により詳しく紹介する。
現地説明板は次のとおり。

諌早市指定名勝  金比羅山頂    昭和52年3月5日指定

金比羅山頂は曹洞宗性円寺の寺領です。性円寺は寛延元年(1748)に建てられ、日本独特の神仏習合の祭祀がなされましたが、現在は本堂跡の敷石のみが残っています。
昔は諫早領主の祈祷所として、また航海安全の神、武運長久の神として崇められました。参道脇、境内には左記の石仏、石造物などがあります。

金比羅大権現(上宮)  宝暦元年(1751)の建立。
常 夜 灯  文政5年(1822)の建立。この灯火を目当てにして橘湾の漁師は夜間の漁をしたと伝えられています。
松 尾 社  酒徳・寿福の神様として信仰を受けてきた京都松尾神社の分神とされ、文化6年(1809)に建てられました。
唐 風 山 門  石造山門として、市内でも珍しい山門です。(扁額には「金光明山」、文政12年(1829)の年紀銘が見られる)
三十三観音像  上宮の周囲に配置されています。市内の観音霊場としては、ほかに八天神社(永昌町)、慶巌寺の磨崖仏三十三観音(城見町)、久山の磨崖仏三十三観音(久山町)などがあります。
諫江八十八霊場第五十番札所  文政8年(1825)に建てられた弘法像。
翁   塚  松尾芭蕉の句碑。文化10年(1813)の建立で「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげ也」と刻まれています。市内では他に慶巌寺(城見町)などにあります。
八天狗の巨石  大日如来をあらわす梵字と「八天狗」と刻んであります。天保8年(1695)の奉祀。
平成17年3月  諌早市教育委員会

小野の六地蔵石幢群 六基  諌早市小野町ほか

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小野の六地蔵石幢群 六基  諌早市小野町ほか

国道57号線により諫早市街から諌早市小野町まで行く。宗方町の次に「小野小学校前」交差点があり、右折して旧道の道へ入る。すぐ「小野の天満宮」があり、鳥居をくぐって中へ入ると、境内の右の一角に「小野の六地蔵石幢群」が祀られている。
天満宮入口の鳥居の先にある石造参道橋や石門も見事なものであった。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

小野の六地蔵石幢群 六基  県指定有形民俗文化財

指定年月日 昭和56年3月27日 所在地 諌早市小野町676、赤崎町748の1ほか
所有者 諌早市小野町町内会、赤崎町町内会ほか
小野の六地蔵石幢群は、旧小野村に残っている数少ない石造物である。銘によれば何れも天文年間(1532〜1554)に建立されたものである。また建立者の銘「悦岩宗喜」、「藤原尚信」などは、西郷氏の領国経営にかかわる人物と思われる。
形状は、何れも佐賀型で、宝珠、笠、龕中台、上竿、下竿からなる重制、正体であるが、尊像の頭部を欠いているものが多い。これらの六地蔵石幢は、県下でも古く、長い年月の風化にたえ、地域の人々の信仰に支えられて、今日まで保存継承されてきたものであり、民俗文化財として貴重である。

横津の石槨(せつかく)  諌早市飯盛町下釜

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横津の石槨(せつかく)  諌早市飯盛町下釜

国道251号線により矢上大橋を渡り、諌早市飯盛町の交差点まで行き、右折して飯盛漁港へ出る。突堤の先が前ノ島と向島である。別名三味線島。
その手前、船だまりが下釜集落。下釜公園から右手へ路地に入ると、横津の岬の防風林一帯に「下釜石棺・石室群及び下釜貝塚」がある。

その1つがこの「横津の石槨」。路地脇に明瞭に確認できる。「石槨」は文化財用語で、読みは(せつかく)または(いしき)。棺を納めるために墓の中につくった石の部屋。
他の石室や貝塚は、住宅地などとなってよくわからない。
現地説明板は次のとおり。

諌早市指定文化財(史跡) 横津の石槨  昭和63年12月20日指定

昭和2年に枇杷島の海水浴場工事の際に発見されました。人骨3体が発見され、1体には石の枕がしてあり、1体には腕に貝輪がつけられていました。遺物などは長崎大学に保管されていましたが、原爆の被害により焼失しました。
横津の岬上の防風林の中には他にも石棺や石室が発見されており、他にも縄文時代後期、弥生時代前期から中期の貝塚も発見されています。
平成19年3月 諌早市教育委員会

天祐寺と諫早家墓所  諌早市西小路町

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天祐寺と諫早家墓所  諌早市西小路町

国道207号線の諌早市宇都町交差点から市役所の方へ向い、上山公園駐車場先の天祐寺前交差点からまたすぐ右折すると「天祐寺」がある。
境内の左側に県指定史跡「諫早家墓所」がある。
現地説明板及び長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

天 祐 寺 (曹洞宗)

「坤松山天祐寺」といいます。戦国時代、100年以上この地を治めた西郷氏の菩提寺で、天文期(1532〜1554)に建てられました。西郷氏は天正15年(1587)に龍造寺家晴との戦いに敗れましたが、その後この地を治めた龍造寺氏も天祐寺に帰依し、同氏の菩提寺としました。
諫早家墓所(県指定文化財)、島原の乱戦没者追悼碑(市指定文化財)、諫早義挙殉難者の霊碑、石造五重塔、六地蔵石幢、背くらべ地蔵、独立の掲額があります。
平成17年3月   諌早市教育委員会

諫早家墓所  県指定史跡

指定年月日 昭和52年5月4日  所在地 諌早市西小路町1116−2ほか
管理責任者 天祐寺
諫早家初代家晴公より18代家興公までの墓碑18基と正・側室・子息の墓25基、家臣30基、一族の墓4基、雑塔56基、石碑5基、六地蔵4基、燈籠177基など1613年より1913年までに作られた墓碑群が比較的よくまとまっている。
中でも4代茂真公夫妻とその母と思われる墓には、県内では最も立派な石造御霊屋がつくられ、墓城の一部には弥勒49院を石造卒塔婆に刻んで外柵をしているのも特異なものである。
諫早家墓所は幕藩時代の領主の墓地形式をよく残している。

諌早市郷土館  諌早市西小路町

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諌早市郷土館  諌早市西小路町

国道207号線の諌早市宇都町交差点から市役所方面へ向い、上山公園駐車場先の天祐寺前交差点からすぐまた右折すると、天祐寺の先の県道左方に「諌早市郷土館」がある。
諫早の貴重な郷土資料を多数展示している。入館料は無料。

諫早の原始から近世までと水害・干拓などの展示コーナーがある。前庭には街道標石など昔の諫早を偲ぶ資料が屋外展示されている。街道標石・巨樹は別項も参照。
NIBテレビ”ひるじげどん”(2005.10.1放送)の「あの街この町」が、次のとおり施設紹介をしている。
諌早市郷土館

かつての諫早のお殿様の子孫が住んでいた邸宅が、現在は諫早市の郷土資料館として一般に公開されています。諫早の遺跡から発掘された出土品や、明治時代の農機具や生活用品、諫早家縁のお道具類など様々な展示品があります。特に幻の器と言われる17世紀末の『現川焼』のコレクションは大変貴重で、一見の価値有り!です。
住 所  諫早市西小路町774-1    TEL 0957−23−3001
開館時間 9:00〜17:00        休館日 毎週月曜日及び年末年始

大雄寺の五百羅漢 (1)  諌早市富川町

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大雄寺の五百羅漢 (1)  諌早市富川町

国道34号線の本野入口から富川渓谷への県道212号線へ入る。案内標識により進むと本明川上流の富川渓谷に着く。大雄寺奥から滝にかけての岩面に、水害による死者を弔う503体の羅漢像が刻まれ、磨崖仏としては県内随一のものである。
写真は2007年11月撮影。現地は、昭和32年(1957)7月25日の諫早大水害にも遭い、磨崖仏は修復されていた。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

大雄寺の五百羅漢  県指定史跡

指定年月日 昭和52年5月4日  所在地 諌早市富川町925の一部ほか
所有者 大雄寺
元禄12年(1699)、諫早藩は洪水により多大の被害をうけ死者487人を出した。諫早藩7代茂晴公は死者の供養と今後の災害防止祈願のため、本明川の上流富川渓谷の地を開いて大雄寺を建立し、その壁面と川中の巨巌に503体の羅漢像を刻し宝永6年(1709)完成している。
磨崖仏としては県内随一のものであり、諫早水害史を物語る資料としても貴重なものである。

川頭遺跡  諌早市湯野尾町

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川頭遺跡  諌早市湯野尾町

国道34号線の本野入口から富川渓谷への県道212号線へ入る。本野小学校が見え、この先にある県営バス「本野学校前」バス停から右折して、山手の高台を目指す。
「川頭(こうがしら)遺跡」は、五家原岳(標高1057.3m)の南側中腹、目代川と湯野尾川の間の尾根にある。

高台の広い農道に上がり、しばらく進むと川頭集落に出、やがて車道左斜面にロープにより囲んだ一角があり、ここが縄文時代の開地遺跡「川頭遺跡」である。
現地へ行っても、草に覆われ何も見られないが、湯野尾川谷間にある同じ縄文時代からの生活遺構「善納岩陰」との関連から訪ねてみた。同岩陰遺跡からも車道はある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

川頭(こうがしら)遺跡  県指定史跡

指定年月日 昭和50年1月7日 所在地 諌早市湯野尾町793−19 所有者 諌早市
縄文時代早期および中期の遺跡で、多良山塊の中腹標高約360mの地にある。
縄文時代中期の土壙墓1基が検出され、径0.8m、深さ0.6mの円形土壙の底面に数個の礫をおき、阿高式土器の大形片が検出された。早期の遺構としては、径3.5m程の円周上に柱穴7〜8箇が配置された平地住居2棟分が検出され、押形文土器、石鏃、石匙、凹石等が発見された。
これらのことから、従前不明瞭であった西北九州の縄文時代早期および中期の様相の一端が展開され、同時に多良・雲仙岳等の山嶽中腹域の遺跡に対する視点が整理されることになった。

善納岩陰  諌早市湯野尾町

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善納岩陰  諌早市湯野尾町

国道34号線の本野入口から富川渓谷への県道212号線へ入る。二股で右へ分れ、湯野尾川に沿って上流まで遡る。県営バス「棚掛」終点から橋を渡り、民家が点在する道を100mほど行くと、左側山手に「善納岩陰」入口の石段が見える。

板状割り石で積み上げた石段を、100段近く登る。大師堂が広場にあり、旧石器時代からの生活遺構は、この堂の右背後となる岩陰で見つかったらしい。
建物を奥に寄せて建ててるためわかりにくいが、裏手へ回り上を見上げると確かに格好な岩のひさしとなっていた。
近くの岩場の割れ目から今も水が流れ、里の給水に使われている。水場の左にも切り立った岩面は50mほど続いたが、この方は崩落がある。
入口手前の車道脇にシイの大木があり、根元に古い小さな石塔が散乱していた。
現地説明板は次のとおり。 
市指定史跡  善納岩陰

人類が岩陰や洞穴で生活を営むようになったのは遠く旧石器時代に始まり、県内の遺跡では福井、泉福寺洞穴などが有名です。これらは今のところ県北地域に多いのですが、諫早北高地区で発見されたのは善納岩陰が初めてです。
この岩陰遺跡は湯の尾川右岸にあたりますが、標高は海抜260m位で南東に面して岩のひさしが出来ています。岩陰の奥行きは約2.8m、間口は約15mで、左側には生活に必要な豊富な湧水もあります。
出土遺物の代表的なものは押型文土器で、縄文時代早期に人間の生活が営なまれていたことを示しています。対岸の尾根には同じ縄文時代の開地遺跡(県指定川頭遺跡)があり、ここの岩陰遺跡と近接しています。
これらは先史時代のあり方を知るための貴重な資料で有ります。
昭和52年3月30日    諫早市教育委員会