長崎の風景・史跡 (市中央)」カテゴリーアーカイブ

「心田菴」(しんでんあん)を一般公開中  長崎市片淵2丁目

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「心田菴」(しんでんあん)を一般公開中  長崎市片淵2丁目

「心田菴」は、江戸時代から伝わる日本庭園で、平成24年1月に増田水産株式会社より長崎市に寄贈された。紅葉の時期、日本庭園と茶室を、期間限定で一般開放されている。
入場無料。直接会場へ
日 時:11月17日(土)〜12月9日(日)の午前9時〜午後5時
場 所:心田菴(片淵2丁目18−18)  長崎大学経済学部の裏通りから上がる

長崎市文化財課作成資料(会場配布)は、次のとおり。

江戸時代からの由緒ある日本庭園と茶室 「心田菴」(しんでんあん)由来

心田菴は、何兆晋(がちょうしん)が長崎片淵郷(現在の片淵2丁目)に建設したといわれる別荘である。何兆晋は、寛永5年(1628)長崎に来た住宅唐人・何高材(がこうざい)の長男であり、万治元年(1658)に唐小通事(とうこつうじ)となった。父・高材とともに清水寺本堂(国指定重要文化財)の寄進を行ったことでも知られている。

長崎の茶道において重要視された由緒があり、天和(てんな)2年(1682)の「心田菴記」や、文化14年(1817)の「心田菴図」など、当地に関わる資料も残されている。長崎市にとって歴史的、文化的な遺産である。

名称の由来は「心田菴記」に、心田菴主である「何兆晋の心の田畑はとても広大である。まさに子が種をまき、孫が耕すごとく、心の宝である。」と記されている。
つまり、人は地位や名誉、財産などより、「心の田畑を耕すことが最も大切である」との意味から名付けられたものと察せられる。

〜心田菴略年譜〜

寛文 8年(1668) 何兆晋 唐通事を退役する
↓       このころ心田菴が建てられたと推定
天和 2年(1682) 高玄岱「心田菴記」を記す
↓       このころ黄道謙「心田菴」を描く
貞享 3年(1686) 何兆晋死去
文化14年(1817) 菅井梅関「心田菴」を描く
天保10年(1839) 中島広足「橿園文集」を書く
このなかに「松蔭舎記」があり、心田菴が紹介されている
明治39年(1906) 青木氏、心田菴を取得する。その後何度か所有者が変遷 
平成24年(2012) 1月、増田水産株式会社から長崎市に心田菴が寄贈される

長崎・戸町くんち  長崎市戸町神社

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長崎・戸町くんち  長崎市戸町神社

きょうは、長崎市戸町神社の「戸町くんち」。知人・地元松林氏の撮影。長崎の各地区での「郷(さと)くんち」というもの。
写真説明は上から、今日は戸町くんちです。小学生も旗担ぎで参加。10時からおくだり。坂段が急なので万一のためロープをつけています。行列開始。1日中、戸町の中をまわります。

各地区くんちの本年実施日は、ブログ「長崎のことばかたらんば」に次のとおりあった。

2012長崎「郷(さと)くんち」
10月7〜9日、三日間の諏訪神社の「長崎くんち」が終わるといよいよ長崎「郷(さと)くんち」が始まる。市内のどこかで賑やかな祭り太鼓、囃子が響きわたる。市内約35地区で「郷(さと)くんち」と呼ばれる秋祭りが行われ、11月初旬頃まで、長崎市内各地区で郷土芸能が繰り広げられている。
ここ数年、各町とも地域の人々の親ぼくを深めながら「郷くんち」に力を入れている。
滑石くんち 10月14日(日) 龍踊: 滑石太神宮
若宮秋の大祭 10月14日(日)〜15日(月) 竹ン芸: 若宮稲荷神社
愛宕神社大祭 10月14日(日) 獅子舞 深堀町一円
浦上くんち 10月17日(火) 奉納踊り: 山王神社
矢上くんち 10月17日(水) 現川浮立・田ノ浦浮立・長崎シャギリ: 矢上神社  
戸石神社大祭 10月17日(水) ささら浮立: 戸石神社
三重くんち 10月21日(日) 角上龍踊: 三重皇太神宮
横尾まつり 10月28日(日) 横尾だんじり(浮立): 横尾小学校体育館
式見くんち 10月29日(月) 式見木場浮立: 乙宮神社
土井首くんち 11月3日(土) 竿浦・江川浮立:竿浦・江川町・江川南一周
平山くんち 11月3日(土) 浮立・平山の大名行列: 平山神社
他に
飽の浦くんち(伊勢宮神社) 畝刈くんち(熱田神社) 稲佐くんち(淵神社)
岩屋くんち(岩屋神社) 大浦くんち(大浦諏訪神社) 大崎くんち(賀茂神社)
神の島くんち(池之神社) 北浦くんち(大山祇神社) 木鉢くんち(木鉢神社)
古賀くんち(八幡神社) 小ケ倉くんち(小ケ倉神社) 城山くんち(城山八幡神社)
住吉くんち(住吉神社) 田上くんち(田上稲荷神社) 立岩くんち(立岩神社)
立神くんち(桜谷神社)手熊くんち(白髭神社) 土井首くんち(大山祇神社)
戸町くんち(戸町神社) 中尾くんち(大山神社) 西泊くんち(天満神社)
日見くんち(天満神社)深堀くんち(深堀神社) 福田くんち(福田天満神社)
水の浦くんち(湊明神神社) 茂木くんち(裳着神社)

「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」 長崎港2回目の入港

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「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」 長崎港2回目の入港

アジア最大級のクルーズ船「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」(約13万7000トン)が、6月22日の初寄港に続き、7月1日長崎港へ2回目の寄港した。撮影は午前11時40分頃。あいにくの天気だった。
乗客は約3500人で、主に中国人観光客。長崎入港では過去最大数。上海発・博多・長崎・済州島へと向かう。10月までに計6回、入港する予定。

Voyager of the Seas  (ボイジャー・オブ・ザ・シーズ)
総トン数:137,276t 乗客定員:3,840名 乗組員数:1,180名 航海速力:22.0ノット
全長:311.1m 全幅:38.6m 喫水:8.8m 就航:1999年10月 船籍:バハマ

ながさき旅ネットによるクルーズ船の長崎港7月入港予定は、次のとおり。
船名 トン数 入港月日 入港 出港 船籍 船客数
ボイジャー・オブ・ザ・シーズ 137,276 7月1日 8:00 17:00 バハマ 3,114
レジェンド・オブ・ザ・シーズ 69,130 7月2日 10:00 19:00 バハマ 2,076
オリオンⅡ 4,077 7月3日 6:00 18:30 マルタ 110
クラブ・ハーモニー 25,558 7月3日 7:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
クラブ・ハーモニー 25,558 7月6日 7:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
レジェンド・オブ・ザ・シーズ 69,130 7月9日 12:00 20:00 バハマ 2,076
ボイジャー・オブ・ザ・シーズ 137,276 7月12日 8:00 17:00 バハマ 3,114
レジェンド・オブ・ザ・シーズ 69,130 7月16日 10:00 19:00 バハマ 2,076
クラブ・ハーモニー 25,558 7月16日 6:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
レジェンド・オブ・ザ・シーズ 69,130 7月23日 10:00 19:00 バハマ 2,076
クラブ・ハーモニー 25,558 7月27日 7:00 18:00 マーシャル諸島 1,000

クイーン・メリー2の長崎入港  2012年3月

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クイーン・メリー2の長崎入港  2012年3月

世界最大の豪華客船クイーン・メリー2が、2012年3月20日、長崎に入港した。昨年はあの3月11日の翌日、入港予定だったがキャンセルとなった。
おなじみ宮さんが山行きを休み、クイーン・メリー2の長崎入港から出港までを撮影しているので、ブログ「船を楽しもう!」から傑作写真を載せる。詳しくは次の記事を参照。

Queen Mary 2 入 港  http://blogs.yahoo.co.jp/theomiya01/4099115.html
Queen Mary 2 松ヶ枝  http://blogs.yahoo.co.jp/theomiya01/4105476.html
Queen Mary 2 出 港  http://blogs.yahoo.co.jp/theomiya01/4113309.html

Queen Mary2(クイーン・メリー2)
総トン数:148,528t 乗客定員:2,620名 航海速力:30.0ノット
全長:345.0m 全幅:41.0m 喫水:9.9m 就航:2004年1月 船籍:イギリス

ほしなべ氏ブログ版「長崎遠めがね」とHP「長崎の白い船」の、「QM2」2年ぶり2回目の長崎入港(女神大橋から)にも美しい画像がある。
http://blogs.yahoo.co.jp/hoshinabedon/36182830.html
http://hoshinabe.fc2web.com/433_qm2megami/433.html

ドラゴンプロムナード  長崎市元船町

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ドラゴンプロムナード  長崎市元船町

今頃、紹介するのもなんだが、いやだね、こんなの。長崎港の景観を壊し、間違った建築が歩いた。巨大なオレンジの球はただ飾り物。
私はある目的があって、きのう訪ねた。それは後の記事とする。

プロムナードの詳しくは、次ブログなど参照。長崎新聞記事も同から(掲載年月日不明)。概要は長崎県(長崎港湾漁港事務所)HPから。
ながさきのへそ (長崎見聞録)  港にそぐわぬドラゴンプロムナード
http://nagaheso.blog21.fc2.com/blog-entry-20.html

長崎新聞社の記事を全文引用——-
『長崎のプロムナード利用低迷 使い勝手悪く打開策見えず』
龍踊りをモチーフにしたデザインで、オレンジ色の球体が目立つ「ドラゴンプロムナード」

長崎県が管理する長崎市元船町の「みなとのみえるプロムナード(愛称ドラゴンプロムナード)」が、利用低迷の打開策が見つからず、老朽化した設備補修もままならない状況が続いている。指定管理者制度導入も検討するが、利用料を徴収できる活用方法がないことがやはりネックとなり、担当課は頭を抱えている。
ドラゴンプロムナードは1998年4月に供用開始。倉庫の屋上部を県民が憩い、集える展望プロムナードとして、約7億円で整備。営利目的以外の活動に無料開放している。延べ床面積は約5千平方メートルで、木製デッキ、オレンジ色の巨大な球体などが特徴。デザインは長崎くんちの「龍踊り」がモチーフという。

県港湾課によると、利用状況が低迷する原因は使い勝手の悪さ。屋根がないため、雨天時は活用できない。人通りが多い都市計画道路浦上川線からは長い階段を上っていくしかなく、昼間でも施設は閑散としている。売りのはずの展望も施設の構造で周囲が見渡せず、老朽化による危険性のため球体部分は現在は立ち入り禁止。まさに“八方ふさがり”の状況だ。
だが「老朽化したまま放置できない。しかし補修するにも費用対効果を考えないといけない」(同課)と、担当部署を超えた利活用検討会を昨年、発足。庁内でアイデアを募り、前例にとらわれない活用方法を探った。四回開いた会議では図書室やビアガーデン、ペットショップ、ストリートミュージシャンの広場など議論百出。民間ノウハウ活用による指定管理者制度導入も視野に入れるが、決定打となる妙案はまだ見つからない。同課は「都市計画道路の整備で、動線ができた。引き続き、検討を続けたい」と出口を探している。

アルカディア きょう長崎港へ入港

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アルカディア きょう長崎港へ入港

ながさき旅ネットによると、きょう以降3月末までの長崎港入港予定クルーズは、次のとおり。

平成24年(2012年) 長崎港入港予定表   (3月末までの分)
船  名  トン数  入港月日  入 港  出 港  船 籍  船客数

アルカディア 82,972 2月23日 12:30 20:00 バーミューダ 2,120
クラブ・ハーモニー 25,558 2月24日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
クラブ・ハーモニー 25,558 2月27日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
ダイヤモンド・プリンセス 115,875 3月1日 6:00 18:00 バーミューダ 2,600
クラブ・ハーモニー 25,558 3月2日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
コロンバス 15,067 3月3日 7:00 17:00 バハマ 420
クラブ・ハーモニー 25,558 3月5日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
クラブ・ハーモニー 25,558 3月9日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
アザマラ・クエスト 30,277 3月12日 12:00 20:00 マルタ 700
サガ・ルビー 24,492 3月12日 6:00 19:00 英国 664
クイーン・メリー2 151,400 3月20日 8:00 18:00 バーミューダ 3,108
クラブ・ハーモニー 25,558 3月20日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
クラブ・ハーモニー 25,558 3月23日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
クラブ・ハーモニー 25,558 3月26日 8:00 18:00 マーシャル諸島 1,000
ダイヤモンド・プリンセス 115,875 3月27日 7:00 18:00 バーミューダ 2,600
シー・プリンセス 77,499 3月28日 7:00 18:00 バーミューダ 1,950
アテナ 16,144 3月28日 11:30 20:00 ポルトガル 652
クリスタル・セレニティ 68,870 3月29日 8:00 17:00 バハマ 1,080

星取山「金星太陽面通過観測の地」の遺構がないか

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星取山「金星太陽面通過観測の地」の遺構がないか

この項は、「長崎の古写真考」において、星取山「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板を考える 2007年7月の記事で、一部にすでにふれていた。(写真1、2)
https://misakimichi.com/archives/141
詳しくは、本会の研究レポート第3集平成19年4月発行に、関係資料とも154〜167頁に収録しているので参照。次の文は、ブログ記事では省略していた。

…フランス隊の金比羅山における観測の双極となる、アメリカ隊の星取山観測地点の重要な「囲い石」などが、かつてあったのに、時代の混乱等のためなど無造作に壊されてきた。
今回の説明板は「さるく博」期間中の仮設と思われるが、この際、見学者が納得できるような恒久的なものを造るため、NTTがさらに市に協力し、研究協力・敷地提供・木立伐採・維持管理など、特別な配慮をしていただけないかと感じる。

アメリカ隊は金星観測のほか、天文観測により長崎と東京との経度差観測を行った。電測場所は特定できないが、松ヶ枝にあった当時のベルビューホテル(現在は長崎全日空ホテルグラバーヒル、前東急ホテル)内であることは確かである。
1997年、長崎県測量設計業協会が創立20周年に当たり設置した「我が国初の経緯度原点確定の地」の碑は、諸般の事情が重なりあって金比羅山に設置された。今となって碑を移設することは、経費がかかるので、なんともできないと聞いている。
世界の金星観測史上における長崎星取山の史跡の重要さも、もっと全体が理解すべきではないだろうか。

(2)平成19年2月の調査報告
最近、川上氏と会ったとき、市博物館は、星取山の観測地点は無線中継所内の「藤棚のあるところ」と以前からしているとはじめて聞いた。これまでの文章は、昨年行ったきりで書いていたから、再確認と写真撮影があり、2月24日星取山へ出かけた。
敷地はフェンスに囲まれ、穴にレンズを差し込んで撮った写真が左である。芝の中央に何か碑があった。これが観測碑だろうか。そうするとここは中継所入口のすぐ右側で、フェンスの外囲いを代え開放しても支障がない場所と思われる。
ついでに辺りを見てまわった。この場所の下手の林内に古い石垣が一部残っていて、古写真の石垣とも似ている。雨水が流れるところには、廃材とともに古い煉瓦片が2個あった。
以上は、まだはっきり確認していない感想だった。そういった場所ということを紹介してみた。
写真は「長崎無線中継所内の藤棚がある場所 何か碑が見える」と、「写真大きな木の後ろに古い石垣が一部残っている」の2枚を掲載した。(写真3、4)

2012年の今年2月になって、宮さんが星取墓地公園内の陸軍省要塞標の標石を訪ねた。ついでに星取山無線中継所まで伐採帯を歩き、何かの土台跡だろうと写真を写してきた。(写真5)
これは丸い石垣のように見えるので、以前の調査でそんなものはなかったはずと不思議に思い、2月11日川上氏と星取山の同地を現地再確認した。伐採した木が枯れこづみ方によって、写真写りがそう見えただけのようである。石垣はなかった。
研究レポートで記しているが、星取山一帯は戦時中、高射砲陣地があり、昭和30年代はクレー射撃場があったと、地元自治会長から聞いている。伐採帯の左右や星取墓地公園付近の林間を探すと、いたるところに石垣、水槽タンク、茶碗片などその建物跡はまだ残っている。(写真6、7)

関係資料とした中、「金星太陽面経過観測記念碑二十周年記念誌」1994年12月同記念会(神奈川県厚木市)発行 武石信之氏稿「長崎星取山のアメリカ隊観測地跡」21〜23頁には、次のような研究もある。

現在、大平山(星取山)山頂には、「長崎統制無線中継所」があってマイクロ波中継のアンテナ用鉄塔2基を備えた面積約6000㎡の施設がある(昭和25年に開設、そこの地番は長崎市上戸町455、1/2500『長崎市基本図』によって、数値(2)の地点を探すと、上記「無線中継所」の構内ではなくて、同所正門から南へ31メートルほどの傾斜地になる。現在その地点付近は、草木が繁茂していて、観測器械の土台石などを見つけることは、容易ではない。(地点図は最後)
この地点は、図1に見る、周囲の状況とは一致しない点もあるが、日面経過を、終わりまで観測するのに必要な、東西方向の視界は良好である。戦時中、この付近に砲台が設けられたというので、それとの関連も調査する必要がある。…

現地写真は重複するが、本年2月11日の川上氏との星取山現地再調査で、特に確認したのは、「無線中継所」構内に立ち入れないので、正門南の方の傾斜地である。
現在となって、もはや観測器械の土台石など見つかろうはずがない。私たちが今回確認したのは、傾斜地で土管、防空壕などだった。(写真8、9)
中継所のフェンス内では、(良い方へ解釈して)古写真にある観測望遠鏡を据えたか?脚元のコンクリート塊らしいのは残っていた。(写真10)
写真2の「藤棚のあるところ」の一角は、正門の中の右手の方である。碑は何なのだろうか。このフェンス外の下あたりに低い石垣が少し残っている。(写真11、12)

(追 記  2012年2月22日)
藤棚のところにあった碑は、ほしなべさんからコメントあり、次の記事を参照。1990年星取在勤者一同が建立した「惜別の碑」で、金星観測とは関係ない碑とわかった。ほしなべさんが撮影していた実物写真を末尾に追加した。  http://blogs.yahoo.co.jp/hoshinabedon/36086417.html

「長崎さるく 長崎観光ガイドブック」ながさき事始めへの要望

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「長崎さるく 長崎観光ガイドブック」ながさき事始めへの要望

掲載内容2011年2月現在の最新版「長崎さるく 長崎観光ガイドブック」が発行されている。
きのう中島川畔の中華料理店頭で内容を見た。長崎市が観光用に置いている。見やすいエリア別マップ付き。どこでも無料配布される。

22頁に「ながさき事始め」がある。掲載されている「事」が、安易な内容ではないだろうか。オーソドックスな次のような「ながさき事始め」とその史跡案内を、次回ガイドブック改版のときには、取り上げてもらいたいと思う。
最近、これに関係する様々な企画展や、体験工房などのニュースが相次いでいる。

そのほか、「我が国最初の気球飛揚の地」などがある。マップ13頁「長崎市健康づくりセンター(三和)」は表示位置が違う。
長崎さるく幕末編や英雄編、長崎まちなか龍馬館では、人物が政治家や実業家に片寄っていた。長崎医学伝習所に貢献した松本良順なども取り上げ、医学史跡等も啓発してほしいと当時から要望していた。

(1)上野彦馬撮影局跡 (日本の写真の開祖) 

上野彦馬は江戸末期、オランダ医師ポンペ・ファン・メーデルフォールトの医学伝習所で舎密学(化学)を学ぶうち、写真術に関する記述を見出して興味を覚え、研究を始めました。しかし、当時の日本では感光材として必要な薬品の入手さえままならず、それに加えて世間の無理解による中傷も激しく、その苦労苦心は一通りではありませんでした。 ちなみに、写真撮影に必要な薬品を精製するために活用した化学の知識は、明治の学制改革まで日本全国で化学の教科書として使われた「舎密局必携」という書籍として結実しました。
さまざまな困難を乗り越え彦馬は、写真技術の習得に取り組み、日本で最初の写真館を長崎に開きました。彦馬の写真技術は評判で、撮影料が現在の価格で1枚につき2、3万円という高価なものだったにも関わらず、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文といった幕末の日本を動かした大物たちや、フランス人文学者ピエール・ロチ、清国提督丁汝昌、ロシア皇太子ニコライ二世といった歴史上の人物も彦馬の写真館を訪れました。そして、それらの写真は歴史的に貴重な資料として残されました。 日本の写真の開祖である上野彦馬は、その生涯を通じて日本の写真術の確立とその発展に尽力しました。   (産業能率大学HPから)

(2)長崎大学病院開院150周年記念碑(小島療養所は日本最初の洋式病院)

幕末の長崎に開かれた医学伝習所で、オランダ海軍軍医ポンペは、医師の心構えをこう説いた。「ひとたび医師という職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もし、それを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」▲患者への献身こそが医師の本分であり、喜びである。医の原点を情熱的に語るポンペの誠実な人柄に、西洋近代医学を学ぶために集まった青年たちは心をうたれ、一層熱心に勉学に励んだという▲ポンペが重んじる献身的態度を自ら、いかんなく発揮して見せたのが、1858年のコレラ騒動のときだ。疫病拡大阻止のためポンペは獅子奮迅の働きをした。連日、患者を身分で分け隔てせずに懸命に治療に当たるポンペの姿は、長崎の人々の信頼と尊敬を集めていく▲そんな長崎の空気に押され、かねてポンペが提言していた西洋式病院の建設を幕府が認めた。61年9月20日に開院した養生所は、124の洋式ベッドを備えたわが国初の近代的病院で、医療と医学教育の拠点となった▲養生所開院を自らの誕生のときと定める長崎大学病院が開院150周年を祝った。わが病院の幕開けが、すなわち、日本の近代医療の幕開けであると誇れるとは、なんと幸せなことだろう▲幕末に、長崎の地で輝き始めた「志」という灯は、これからも永遠に、日本の医療全体を照らし続けるはずである。(信)  (長崎新聞コラム「水や空」2011年9月25日更新から)

(3)新町活版所跡(長崎が生んだ“印刷の父”本木昌造)

県美術館で活版印刷の企画展  2011年12月4日 01:14
長崎から広まった活版印刷の歴史や技術を紹介する企画展「長崎活版巡礼展」が3日、長崎市出島町の県美術館で始まった。日本に初めて活版印刷を持ち込んだ天正遣欧少年使節団ゆかりの資料や、長崎に活版伝習所を設立した“印刷の父”本木昌造の「種字(たねじ)」など約50点を展示している。11日まで、入場無料。

日本の活版印刷は、1590年に天正使節団がイタリアから持ち帰った機械で、現在の南島原市加津佐町で印刷したのが最初とされる。その後、途絶えたが、長崎出身の本木が1855年に再び長崎で活版印刷を始め、日本の印刷文化の基礎を築いた。
漢字や仮名は画数や曲線が多く活字の製作は難しかったが、本木はツゲの木に手彫りした「種字」をもとに「蝋型電胎(ろうがたでんたい)法」という技術で鉛活字の鋳型を作り量産を可能にした。会場には、諏訪神社に保管されていた3300本の種字や蝋型電胎法による活字製作の再現などを展示している。
企画した福岡市のデザイナー中川たくまさん(33)は「長崎は世界に誇れる文化を持つ街。この機会にその良さを知ってほしい」と話している。  (2011/12/04付 西日本新聞朝刊から)

長崎が生んだ“印刷の父”本木昌造
本木昌造は、1824年長崎市新大工町の北島三弥太の四男として生まれます。1834年、阿蘭陀通詞 本木昌左衛門久美の養子となり、23歳に小通詞並になりました。彼は通詞としてまた、航海、造船、製鉄などといった各方面にも活躍の場を広げて いきます。※築町と浜の町に日本最初の鉄橋「くろがね橋」を作ります。
1848年昌造が25歳の時、蘭書植字判および印刷機を通詞仲間と共同購入し、蘭書復刻を行ないます。1851年昌造28歳の時、オランダ活字を手本に独自の流し込み活字を製造しています。1855年に、昌造は官営の活版印刷所の創設を長崎奉行に上申し、活版判摺所を役所内に設けさせ自ら御用掛となります。これが後の出島印刷所。昌造はここでシーボルトの著作などの発行を手がけますが、この頃はまだ木版と流し込み活字の併用で美しい印刷とは呼べない物でした。より美しい印刷を求め、昌造は 1869年アメリカ人宣教師フルベッキの紹介で、上海の聖教書印刷所・美華書館の代表ウイリアム・ガンブルを長崎に迎え、活版伝習所を設立します。昌造はガンブルの指導のもと「電胎法」と呼ばれる高度な活字製造法を修得し、初めて納得のいく和文活字を作り上げる事に成功。その後、昌造は長崎市新町に日本初の民間活版業・新町活版所を創立し、さまざまな印刷を行なっていきます。その後大阪、東京、横浜と支所を設け大きく事業を展開していくことになります。  (長崎県美術館HP 長崎活版巡礼展から)

長崎県美術館屋上庭園の彫像群  長崎市出島町

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長崎県美術館屋上庭園の彫像群  長崎市出島町

2011年11月26日、出島の内外倶楽部レストランで開催された「ゆうこう」再発見シンポジュウムの帰り、長崎県美術館(出島町)へ寄った。
企画展示室で、近代日本画「夢の競演」展が12月4日(日)まで開催中。観覧料当日1100円。鑑賞はそこそこに、屋上庭園へ上がった。

屋上庭園に屋外常設の彫像群(美術館棟)は、同館資料によると次のとおり。あまり紹介されていないので、長崎港などの風景とともに写した。
北村西望  花 吹 雪   1961年  ブロンズ   H200
富永直樹  新    風   1971年  ブロンズ   H210-W84-D70
富永直樹  荒 海 の 男   1969年  ブロンズ   H210-W72-D57
富永直樹  クスコの少女 1983年  ブロンズ   H146-W50-D43

画像から調べると、ブログ「おばあちゃんのdiary 2011年10月26日水辺の森公園」が同じような記事となっていた。そちらが晴天で、像の写りが良い。

2011長崎ランタンフェスティバル準備進む  長崎市新地町ほか

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2011長崎ランタンフェスティバル準備進む  長崎市新地町ほか

2011長崎ランタンフェスティバルが、2月3日(木)から始まる。準備進む長崎市新地町の主会場「湊公園」ほかの様子。同実行委員会作成のパンフレットは、次のとおり。

長崎市は、1571年のポルトガル船の入港以来海外貿易が始まり、西洋との交流によって発展してきた街です。市内には、港を見下ろす南山手の丘に数々の明治の洋館が建ち並ぶグラバー園をはじめ、東山手の洋館群、大浦天主堂、鎖国時代に海外へ開かれた唯一の窓口であった出島、そして中国との交流を偲ばせる唐人屋敷跡、眼鏡橋、崇福寺や興福寺などの唐寺、新地中華街と数多くの史跡や観光名所に恵まれています。 

このように異国情緒あふれる長崎で、中国色豊かな灯の祭典『2011長崎ランタンフェスティバル』が、平成23年2月3日(木)から17日(木)の15日間にわたり開催されます。

このお祭りは、長崎在住の華僑の人々が、中国の旧正月(春節)を祝うための行事として始めたもので、もともと「春節祭」として長崎新地中華街を中心に行なわれていましたが、平成6年から規模を拡大し、長崎の冬を彩る一大風物詩となりました。
期間中は、長崎新地中華街はもとより、浜市・観光通りアーケードなどの市内中心部に、約1万5千個にも及ぶランタン(中国提灯)が飾られ、湊公園をはじめ各会場には、大型オブジェが所狭しと飾られます。