長崎の風景・史跡 (市中央)」カテゴリーアーカイブ

コスタ・アトランティカ長崎初入港

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

コスタ・アトランティカ長崎初入港

松が枝国際観光ふ頭に、クルーズ客船が入港していた。船名は「COSTA ATLANTICA」。長崎には初入港で、中国からの客のようである。1月26日、朝9時頃入港、写真は午後5時頃。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、次のとおり。
3、4枚目は、女神大橋の方を見ると、釣人がおり「ヤノウオ」が上がった。左の空にはきれいな光の虹(彩雲とか幻日の一種だろうか)が見えた。右はジェット機雲。

コスタ・アトランティカ(Costa Atlantica)は、コスタ・クルーズが運航しているクルーズ客船。

概 要 コスタ・アトランティカ級の1番船で、2000年6月30日、フィンランドのクヴァルネル・マサ造船所ヘルシンキ工場で竣工。船価は3億7500万ドル。 客室は全部で1,057室あり、そのうちの845室が海側に面している。 7月16日より東地中海クルーズに就航した。 主機には環境に配慮してNOx排出量を低減させたヴァルチーラ 9L46D型ディーゼルを採用し、イタリア船級協会(RINA)が定めた新環境基準を満たした最初の船舶となった。 また本船の各デッキには「La Strada」、「La Dolce vita」等、イタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニの作品名が付けられている。 その後同型の2番船が2003年に建造され、さらにカーニバル・クルーズ・ライン向けにほぼ同型船(カーニバル・スピリット級)が4隻建造された。

船 歴
起工
進水 1999年11月11日
竣工 2000年6月30日
その後

主要目
総トン数 85,619 トン
全長 292.6 m
幅 32.2 m
吃水 8.0 m
主機 ディーゼル・エレクトリック
(ヴァルチーラ 9L46D型ディーゼル 6基)
出力 84,800馬力(総出力)
48,000馬力(推進出力)
航海速力 22.0ノット
最高速力 24.0ノット
船客定員 2112名(最大 2680名)
乗組員 920名

長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述

長崎文献叢書「長崎名勝図絵」丹羽漢吉氏訳著(長崎文献社 昭和49年発行)79頁に、「崇玄観」(すうげんかん)の編述があったから、関係部分を抜粋する。
文献社序によると、「長崎名勝図絵」は、長崎奉行の命を承り、当時長崎聖堂助教の儒者らが編述し、執筆は文化、文政年間(1804−30)であったと思われる、とある。
以下は、図絵「◎巻之二上 南邊之部」の編述。茂木村田上を順を追い、説明しているのだろう。

117 合戦場  茂木村の街道、田上峠にある。高く平らにひらけて、遠望がきくので、昔ここを茂木口の要路として、番所を設け、警備の者を置き、物見をさせた。長崎氏の所領時代に、深堀方の密使を捕えたなどというのは、ここである。故に合戦場といった。一説では、砲術の練習場であったから、火箭場(かせんば)といったのが訛ったともいう。どちらが本当か知らないが、あとの説は後世の人が作った話のように思われる。近年は春になると、凧揚げの場所となっている。

118 石動山観音寺  田上村にある。臨済宗黄檗派の禅宗で、天洲和尚の開基とする。天洲は隠元の法孫である。元禄年中(1688−1703)天草代官服部六左衛門が、長崎に近い所に、一寺を建立したいと天洲に相談した。天洲は茂木村がよかろうと答えた。その頃教存という真言僧が、ここに小堂を建てて、祈祷所としていた。天洲はこれを譲り受けて再興し、石動山観音寺と称した。近年は頽廃している。本尊観世音像は唐作。他にも像があり、又、即非や雪广筆の額、聠がある。寺の右の方、石段を上って石の小祠があり、開山天洲の立像がある。鐘は〔銘文は略す〕元禄十三年(1700)天洲の時、安山彌兵衛が鋳造した。

119 楊柳泉  観音寺の林中にある。島原城主高力左近将監が雄浦に別業を持っていて、ここに来た時は必ずこの泉の水で茶を煮たが、味が秀れていた。名づけて楊柳泉という。

120 松原山田上寺  田上松林の中にある。寛永年中僧九誉残岌が建てた。浄土宗である。高力氏が寺領四石を附したことがあった。

121 崇玄観  大江操軒が建てたが、廃絶歳久しく、その趾は不明である。〔長崎先民伝の操軒大江宏隆の項を引用してあるが略す〕

122 千歳亭  向井去来の営むところである。去来は京都から来往して、長崎ではここに住んだ。一説によると、齢百歳に近い老尼がいて、去来はこの老尼のために、これを建てたともいう。今その趾は判らない。〔長崎先民伝及び五升庵文草の去来に関する項があるが、ここには略す〕

次は、もう茂木村の中に入って、「123 石の御前」へと続く。したがって、掲載順からこの「121 崇玄観」は、田上の「観音寺、田上寺、千歳亭あたり」にあったと、推測するべきではないだろうか。
川原慶賀「長崎港眺望図」は、江戸期の1820年前後の風景と見られる。日本唯一の道教の寺とされる「崇玄観」が、大浦「丸尾神社」一帯にあったとするには、考えにくい。
「崇玄観」はあくまで田上付近にあり、「長崎名勝図絵」の執筆当時、すでに「廃絶歳久しく、その趾は不明である」と編述している。

大浦「丸尾神社」一帯とする違いは、絵図の「星取山」の見誤りだろう。この山は正しくは「唐八景」となり、右の山が「星取山」と考えられる。現在の弥生町「高台の旧峠の場所」(長崎女子短大附属幼稚園グランドあたり)から描いたとすると、はっきり対面に見えるのは、「観音寺」(明治維新後、廃寺。現在は「徳三寺」が建っている)の建物だったのではないだろうか。
今後の考証を待ちたい。

2014年(平成26年)1月5日付の長崎新聞第1面トピックス記事は、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3908

コメントにある川原慶賀「稲佐山からの眺望」(写真を追加)は、私の手持ち写真で確認したところ、現在の稲佐山展望台のところから描かれているのに、間違いはないようです。

川原慶賀「長崎港眺望図」は、どこから描かれたか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

川原慶賀「長崎港眺望図」は、どこから描かれたか

2014年(平成26年)1月5日付の長崎新聞第1面トピックス記事は、次のとおり。
日本唯一の道教の寺だった「崇玄観(すうげんかん)」を、川原慶賀「長崎港眺望図」から特定し、位置を現在の椎の木町、創建時期不明とされる「丸尾神社」一帯ではないかと、発表されている。
「昨年9月…本格的な検証を始めた。その結果、愛宕4丁目から眺めると愛宕山や岩屋山などの稜線(りょうせん)が重なることを突き止め、眺望図の位置関係や正確性を確認」したとある。

川原慶賀の作品に道教の寺

江戸時代の絵師、川原慶賀が長崎市街を表現した風景画「長崎港眺望図」に、日本では具体的な場所などが確認されていなかった中国の民間宗教「道教」の寺が描かれていることが分かった。調査に当たっている長崎史談会の原田博二会長(67)は「日本唯一の道教の寺に間違いない」としている。

眺望図は4枚一組。出島のオランダ商館員フィッセルのコレクションとされ、オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵している。江戸期の1820年前後の風景とみられ、田上方面の山あいに小さく描かれた建物の詳細が不明だった。

道教の寺は「道観」と呼ばれ、国内で場所が特定されたことはない。原田会長は以前から、17〜18世紀の人物の伝記「長崎先民伝」(1731年、盧千里著)に国学者大江宏隆が長崎奉行所の位置から南の方角の田上に道教の寺を建て、「崇玄観(すうげんかん)」の名を同奉行に与えられたとの記述がある点に着目していた。

眺望図の詳細不明の建物について「正確に描くことで定評のある慶賀が、ありもしないものを描くはずがない」と考えていた原田会長は昨年9月、同博物館のマティ・フォラー研究員の協力で複写、本格的な検証を始めた。その結果、愛宕4丁目から眺めると愛宕山や岩屋山などの稜線(りょうせん)が重なることを突き止め、眺望図の位置関係や正確性を確認。建物の場所が先民伝の記述と一致したことなどから崇玄観と特定した。位置は現在の椎の木町。

一方、長崎総合科学大建築学科の村田明久教授(63)は建物の屋根に注目。「反った屋根は寺院の特徴。手前の屋根は平たんなので住居などだったのでは」とする。
今後、原田会長は調査をさらに進め、村田教授は崇玄観の模型作りに取り組む。道教の考え方を伝える日本道観(総本部・福島県)の早島妙聴副道長によると、道教は老子が開祖し、日本には中国から文字が入ってきたころ伝えられたとされるが広まらなかったという。

早島副道長は「(寺の特定が)日中文化交流のよいきっかけになれば」と期待。崇玄観があった場所一帯には現在、創建時期不明とされる丸尾神社がある。地元の椎の木町第二自治会の山本誠一会長(78)は情報を収集中で「町づくりにつなげたい」と張り切っている。

以上がその記事だが、私は長崎新聞を購読していないから、掲載を知らなかった。ある方から、私ブログにコメントが入った。
「新聞記事にある地名などの場所と、慶賀の絵が違うような気がするのですが…正しい位置関係でしょうか。ご検討いただければうれしいです。…そもそもこれほどの規模の道教の寺院が長崎に存在していたら数ある長崎の古史誌にも記載されていると思うのですが…私見では田上寺のように思われます」という内容だった。

疑問はもっともである。私もすぐ疑問を感じた。絵図の全体的構図の現地確認が、あまりなされていないのではないだろうか。
新聞に掲載された絵図は、小さく3枚?組みとなっている。右端のみ長崎歴史文化博物館HPに、「作品名:長崎湾(港?)眺望図 写真提供:ライデン国立民族学博物館」として公開されており、詳細な絵図が確認された。
これからすると、「出島」など描かれ、たしかに右端の尾根は「愛宕山」のようであり、「岩屋山」との稜線の重なりから、「愛宕4丁目」あたりから描いていると考えられる。

都市計画道路(県道)「愛宕4丁目」バス停あたりのことかと思われるが、ただし、ここからでは、小島方面の高台が見えるだけで、「星取山」、「鍋冠山」、港口の島々(「高鉾島」と「沖ノ島・伊王島」と思われる)は見えない。「長崎港眺望図」は、ずいぶん高度がある位置から描かれている。
私は長崎歴史文化博物館HPに詳細画像があると知らず、最初は「風頭山」の公園展望台からを考えたが、しっくり行かない。右端の稜線が、立山方面となるのである。

正確に調査したわけではないが、これは「愛宕4丁目」というより、むしろ現在の「弥生町」長崎女子短大附属幼稚園グランド側あたりから描かれたように思われる。国土地理院明治34年旧版地形図を確認すると、ここは昔からの重要な高台の峠だったのだろう。旧道の残った道の続きも確認した。現在の車道峠は、南側へ少し移動して建設されていると思われる。
実際、ここからなら川原慶賀の描いた風景が、写真と説明のとおり広がり、全体を確認できる。「高鉾島」の位置が疑問だが、絵図には多少なデフォルメもあるだろう。

これからすると、道教の寺「崇玄観」があったとする場所は、大浦の谷奥にある椎の木町「丸尾神社」一帯とはならない。ここから、「丸尾神社」はまったく見えない。絵図に注釈された「星取山」は、実際は右の山であり、この山の正しくは「唐八景」なのである。
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」86頁のとおり、「徳三寺」は、明治維新後、廃寺となった黄檗宗「観音寺」跡に、杉山徳三郎が明治29年に開創した寺である。絵図に描かれているのは、この「観音寺」ではないだろうか。
絵図の制作年代1820年前後には、寺の建物は現存していただろうと、「徳三寺」記録を調べてもらった。小島の高台を左横へ進む黒線は、ピントコ坂を上がった「旧茂木街道」だろう。「観音寺」は街道上部にあった。
あるいは、その左側「田上寺」も考えられるが、竹林で見えない位置にある。 

最近の「新長崎市史 近世編」でも、古写真解説の間違いが感じられた。高名な先生だけに、慎重な研究をお願いしたい。「新長崎市史 近世編」古写真の疑問は、
https://misakimichi.com/archives/3190
長崎新聞も少しは現地確認を行い、読者にわかりやすい記事と図版とするようお願いしたい。絵図の判断に重要な、左右部分の一部をカットして掲載するのは、読者のためにならない。
私の現地調査の結果を、すべて正しいと思っていない。今後の研究のため、あくまで参考資料として掲げるので、詳しい説明を省いたところがある。

長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述は、本ブログ次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/3909

さるく説明板「十軒蔵」の設置場所の変更はいつに

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

さるく説明板「十軒蔵」の設置場所の変更はいつに

「2014長崎ランタンフェスティバル」の、長崎市観光・宿泊ガイド”あっ!とながさき”による開催情報は、次のとおり。

長崎の冬の灯りの祭典である、長崎ランタンフェスティバルが今年も華やかに開催されます。約15000個もの中国提灯(ランタン)や、その年の干支のメインオブジェをはじめとする大型オブジェなどがところ狭しと飾られ、長崎の街を極彩色に彩ります。
期間中は、龍踊りや中国雑技などの中国色豊かなイベントも行われます。毎土曜日は清朝時代に皇帝、皇后が民衆と一緒に新しい年を祝う様子をイメージした皇帝パレード、毎日曜日には江戸時代に長崎に入港した唐船の乗組員達が、航海安全の神である媽祖を媽祖堂まで安置する様子を再現した「媽祖行列」が行われます。

〈開催期間〉1月31日(金)〜2月14日(金)
〈点灯式〉1月31日(金) 17:30〜18:00 新地中華街会場、中央公園会場にて行います。
〈皇帝パレード〉2月1日(土)・8日(土) 14:00〜16:30
〈媽祖行列〉2月2日(日)・9日(日) 14:00〜17:20
〈会場〉新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場、興福寺、鍛冶市会場、浜んまち会場、孔子廟会場
※ステージイベントの時間は各会場、イベントによって異なります。
〈お問い合せ先〉 あじさいコール(長崎市コールセンター) TEL:095-822-8888

1月31日の点灯式に向け、新地中華街会場などの設営が急ピッチで行われていたが、2012年4月、長崎市政へ提案した銅座観光通りにある次のさるく説明板「十軒蔵」の設置場所の変更は、いつ実現されるのだろうか。提案制度は、その場限りのいい加減な回答が多い。
せっかくの観光客に誤解を与える。さるく説明板の無駄な工事の設置例である。掲載写真には、焼肉店「喜楽園」看板が写っている。この店は現在もあり、倉庫跡の片屋根と店内には赤レンガが残る。古写真の研究は正しくお願いしたい。

長崎市政へ ご意見(要旨) 【さるく説明板「十軒蔵」の設置場所】  【2012年04月受信】

銅座観光通りの江山楼向かいにある有料駐車場「三井のリパーツ」前の歩道に、「十軒蔵」のさるく説明板が設置されています。新地中華街を向いて立っていますが、通りの左右どちらが倉庫跡かわかりにくいと思います。
説明板の古写真どおり、撮影場所の銅座橋角あたりに設置を変更できませんか。銅座橋を渡った左の籠町側に空き地があります。広馬場側を向けてやや斜めに設置すると、古写真とほぼ同じとなり、倉庫跡の場所がわかりやすいと思いますから検討ください。
次の記事を参照ください。 https://misakimichi.com/archives/3192

回 答 【観光推進課】  【2012年05月14日回答】

「十軒蔵」のさるく説明板は、周辺の土地所有者等との協議の結果、平成19年度に現在の場所に設置したものであります。ご指摘いただきました、銅座橋角付近への説明板の設置箇所の変更についてですが、土地所有者を含め関係機関等と可能性を検討していきたいと考えております。
また、上記検討に加え、現在の設置箇所でも説明板を見て、説明板に書かれている箇所がわかりやすいような説明文への内容変更も併せて検討していきたいと考えております。
今後とも、市政へのご理解、ご協力をお願いいたします。

長崎若宮稲荷神社の竹ン芸  長崎市伊良林2丁目

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

長崎若宮稲荷神社の竹ン芸  長崎市伊良林2丁目

10月15日午後3時から、長崎若宮稲荷神社の竹ン芸の見物。孫娘のつきあい。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は、次のとおり。
最後の2枚は、前日、新大工商店街で見た同神社神輿行列。

竹ン芸(たけンげい)または竹ん芸は長崎県長崎市伊良林の若宮稲荷神社の秋の大祭で奉納される伝統芸能。国の選択無形民俗文化財および長崎市の無形民俗文化財に指定されている。
概要
長崎市の若宮稲荷神社の秋の大祭(「若宮くんち」「伊良林くんち」とも言う)に奉納される。10月
14、15の両日開催。境内に約10メートルほどの竹ざおを2本立て、独特のお囃子(笛と締太鼓、三味線)に合わせ、竹の上で、白装束に白狐の面で扮装した二人の若者が縦横無尽に動き回り、ダイナミックかつ迫力のある空中芸を披露する。全国各地で行われる消防出初式のはしごのりの原初形態ともみられている郷土芸能である。一説には中国の羅漢踊を真似たものといわれる。祭囃子に誘われた雄雌のキツネが竹林で遊び戯れているさまを表現しているとされている。

「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」の長崎入港  2013年9月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」の長崎入港  2013年9月

自宅より今朝、高島沖から長崎港へ入港する大型客船が見えた。バハマ船籍「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」。137,276トン、船客数3840人だった。
他用あり、久し振りに客船も写してきた。長崎水辺の森公園HPによる9月以降の長崎港客船入港予定は、次のとおり。

船名 トン数 入港年月日 入港時間 出港時間 前港 次港 接岸岸壁
9月
ボイジャー・オブ・ザ・シーズ 137,276 9月16日 (月) 9:00 18:00 東京 釜山 松が枝
コスタ・ビクトリア 75,166 9月25日 (水) 8:00 19:00 釜山 横浜 松が枝
10月
ハンセアティック 8,378 10月2日 (水) 8:30 19:00 金沢 済州島 松が枝
ぱしふぃっくびいなす 26,594 10月7日 (月) 12:00 22:00 福江 神戸 松が枝
ダイヤモンド・プリンセス 115,875 10月11日 (金) 6:00 18:00 釜山 上海 松が枝
飛鳥Ⅱ 50,142 10月17日 (木) 11:00 16:00 門司 釜山 松が枝
飛鳥Ⅱ 50,142 10月20日 (日) 15:00 21:00 済州島 博多 松が枝
シルバー・シャドー 28,258 10月24日 (木) 8:00 19:00 鹿児島 上海 松が枝
11月
ぱしふぃっくびいなす 26,594 11月19日 (火) 10:00 23:00 名瀬 福江 松が枝

2013ながさき帆船まつり閉幕

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

2013ながさき帆船まつり閉幕

2013年4月29日午後3時過ぎ、長崎港を出港する帆船「日本丸」。女神大橋近くから。あとは松が枝国際観光埠頭に接岸中の「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」と、水辺の森公園のにぎわい。夜の写真は午後7時過ぎ、小ヶ倉沖を出港するシーズ。
朝日新聞長崎地域版の30日記事は、次のとおり。

長崎帆船まつりが29日、閉幕した。長崎市は5日間の集客が20万3千人だったと発表した。
20万人を超えたのは2年連続で、5日間とも好天に恵まれたことなどが要因。29日は豪華客船ボイジャー・オブ・ザ・シーズ(バハマ船籍、13万7276㌧)も寄港し、にぎわいに彩りを添えた。
市観光政策課によると、今年は初めてキャラクターショーなどの子ども向けイベントを取り入れ、家族連れの集客につながったという。今年は過去7番目の集客で、目標の18万人を上回った。

横綱丸山権太左衛門の墓  長崎市本河内郷墓地内

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

横綱丸山権太左衛門の墓  長崎市本河内1丁目

長崎市本河内1丁目の本河内郷墓地内に、横綱「丸山権太左衛門の墓」がある。
陸奥国遠田郡中津山村(現・宮城県登米市米山町中津山)出身。現在公認されている横綱では3代目に数えられるが、順序が逆で「2代目」とする説もある。1749年の長崎巡業時にの際に現役のまま没した。死因は赤痢と言われている。37歳没。(ウィキペディア)
詳しくは、HP「相撲の歴史ナビ」丸山権太左衛門を参照。
http://sports.geocities.jp/sumou_caffe/maruyamagontazaemon.htm

長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」66頁の説明は次のとおり。

99 故名力士之碑(所在地:本河内町40番地付近)

旧長崎街道沿のこの付近には3代横綱丸山権太左衛門をはじめ玉井茂三次、一二三孫兵衛、雲早山森之助、峰松庄之助などの墓碑が散在していたが、現在、この地に集められている。同碑は昭和3年(1928)に池田國太郎等本河内の有志によって建立されたが、「故名力士之碑」は春日野部屋を興した横綱栃木山守也が揮毫した。

次は長崎県立図書館郷土資料で、偶然見つけた「東洋日の出新聞」大正13年3月4日記事。珍しいから紹介する。

本河内に初代横綱丸山の墓 東京相撲で誰も詣った者は無い

長崎市本河内一ノ瀬蛍茶屋の上に旧街道の坂を左に登る事二丁余りすると路傍に丸山権太左衛門の墓がある事は余り識る人はない。横綱の初代は明石志賀の助とも云うが、此の人の事は小説以外には何もないそうであるが丸山横綱の事は諸書にある。

丸山が長崎で死んだのは、元文2年10月9日とある。爾来横綱も10数代出来て居る角力道も明治大正に至りて盛大を極めて居るが、丸山が死んだ200余年角道の流を汲む力士連が長崎に来たのは数限りないのに1人として草花1本捧げたものはあるまいと云う事である。蛍茶屋の主人に聞いて見ると『ハイありますが誠に荒れ果てたものです』と云って居る。

丸山は奥州仙台の産で享保の17年に力士になった。身の丈6尺3寸体量が43貫掌の長さ7寸9分あった頭上にコブがあったので丸山と名づけたとある。角力は下手だが力が強く立合には両手で叩ハネ飛ばす計りで誰1人之を防ぐものがなかったと云ふ。寛延2年8月に横綱を許されたが一度も使はぬ内に46歳で死んだと云ふ事である。大阪で懸桶の竹を捻ぢ折るのを主人が記念に夫れで花筒を造って丸山筒と名付けて家宝として伝えたとの事である。

仙台は昔から大男を出すが今長崎に来て居る近き内に横綱となる出羽ヶ嶽も仙台の産と云ふ。先の大砲も夫れである。中の島の角力も本日は休みだから栃木山、常の花両横綱始め力士連が墓詣をする様な談もある(神水生投)

長崎報時観測所と測候所(2)  昭和6年「長崎市民讀本」から

イメージ 1

イメージ 2

長崎報時観測所と測候所(2)  昭和6年「長崎市民讀本」から

長崎市グラバー園スカイロード第2ゲートから登った鍋冠山中腹の長崎報時信号所(観測所)跡地で、最近、報時球(タイムボール)吊柱の残骸と思われるものが、地下から見つかったことを、本ブログ次の記事とした。
https://misakimichi.com/archives/3504
この中で、長崎の文献として、昭和6年長崎市教育會編「長崎市民讀本」に古写真ともあり、と説明していた。長崎報時観測所及び測候所の記録と写真が、221〜226頁に次のとおり掲載されていたので、参考となるだろう。
朝日新聞昭和53年8月26日スクラップ「ドンの山—長崎海洋気象台百年」(ズーム拡大)も載せる。

三七 報時観測所及び測候所

(鍋冠山中腹にあった「長崎報時観測所」部分、(1)からの続き。以下は、ドンの山山頂近くに昭和24年まであった「長崎測候所」の話。現在の「長崎海洋気象台」の前身となる)

所長さんに厚く礼を述べ報時所を辞して測候所を訪れると、こゝの所長さんも快く面会を許して、いろいろの話をして下さつた。
「天気が私共の生活に深い関係のあることは申すまでもありません。遠足や運動会や修学旅行や、その他何をするにしても、天気のよしあしを第一に考へなければなりません。それで文明諸国ではどの国でも気象台や測候所を設けて、日々の天気を調査し、それによつて翌日の天気予報をなし、また暴風警報などを出しています。

我が国では東京に中央気象台があり、各地方に測候所を設けて、全国及び各地方の天候を調査してゐます。
当測候所でも毎時間天気や、温度・湿度・気圧・雨量等を観測し、其の結果を毎日午前六時、午後二時及び午後六時の三回、中央気象台に無線電信で報告いたします。中央気象台では、全国各測候所よりの報告に基いて、全国天気図を作り、之を各測候所に通知します。各測候所は中央気象台の通知による全国の天気と、其の地方の気象とを参考して、其の地方の天気図を作り、之によつて翌日の天気を予報し、また暴風のおそれあるときは、暴風警報を発して注意を与へます。

なほ当測候所での調査は長崎市附近に限られるので、県下の気象を調査するために、県内に二十五の気象観測所、及び三十六の気象調査所を設けて、それぞれ調査してゐます。
各気象観測所では、この外気候に関係ある動植物の移動変化、例へば渡り鳥の往来・新緑・発芽・咲初め・満開等をも調査記録してゐます。
なほ当測候所の附属として雲仙嶽観測所、及び富江測候所がありますが、そこでも当測候所と殆ど同じ調査をやつてゐます。

この長崎測候所は明治十一年七月に設けられたもので、我が国では第四番目の古いものです。初は海星中学校の前にあつたのが、明治三十一年八月此処に移されたのです。此処は海面から約一三〇メートルの高さにあります。」
なほいろいろのお話を聞き、いろいろなものを見せていたゞいて非常に面白かつた。厚く礼を述べて帰途に着いたのは午後四時頃であつた。

長崎報時観測所と測候所(1)  昭和6年「長崎市民讀本」から

イメージ 1

イメージ 2

長崎報時観測所と測候所(1)  昭和6年「長崎市民讀本」から

長崎市グラバー園スカイロード第2ゲートから登った鍋冠山中腹の長崎報時信号所(観測所)跡地で、最近、報時球(タイムボール)吊柱の残骸と思われるものが、地下から見つかったことを、本ブログ次の記事とした。
https://misakimichi.com/archives/3504
この中で、長崎の文献として、昭和6年長崎市教育會編「長崎市民讀本」に古写真ともあり、と説明していた。
長崎報時観測所及び測候所の記録と写真が、221〜226頁に次のとおり掲載されていたので、参考となるだろう。

三七 報時観測所及び測候所

此の間のお休みに僕はお父さんに連れられて、長崎報時観測所と長崎測候所とを見に行つた。大浦の終点で電車を下りると、右手の山の上に報時観測所が見える。坂路を上つて同所を訪れると、所長さんは懇ろにいろいろお話を聴かせて下さつた。

「船が大洋を航海するには、船の位置を正しく測定して、一番安全で便利な航路を選ぶ必要があります。船の位置を測定するには、空の星の位置によるのですが、それには正確な時刻が明らかでなければなりません。それで船にとつては正しい時刻を知ることは、陸にゐる時よりもなほ大切です。

それで船の出入の多い港では、報時所を設けて港内の船や、出入の船に時刻を知らせることになつてゐます。その方法は正午五分前に報時球といふ赤い球を高い柱の上に引上げて置いて、正午に落すのです。船ではその落初めるのを見て時計を合せるのです。こんな報時所のあるのは横浜・神戸・大阪・門司・長崎の五箇所です。そして長崎以外の所では、東京天文台から直接通知を受けて落球させてゐます。長崎ももとは東京天文台からの通知によつて落球させてゐましたが、中継のため故障などが起ることがあるので、今はこちらで晴れた晩に空の星を観測して時刻をはかつてゐます。なほ夜間にも時刻を知らせる必要があるので、高い柱の上に緑色の電灯三個を三角形にならべ、午後九時五分前にあかりをともし、約二分間つけたり消したりした後、暫くつけて置いて午後九時に消します。それによつて正しい時刻を知ることが出来ます。

この外、近海に暴風雨のおそれある場合には、暴風警報も出すことになつています。あ、正午近くになりました。球を落しますから御覧下さい。」
といつて次の室に導かれた。見ると数名の人が球を引上げた所であつた。所長さんは時計を見ながら正午の時刻を今や遅しと待つてゐられる。僕等も息をこらして待つてゐると、時計が正午を指した瞬間、所長さんの指が押ボタンに触れた。がらがらつと音を立てゝ、高い柱の上の赤い球がするするつとして直下して来た。

それから次の室の時刻を観測する機械を見せていただいたが、大変こみいつた機械で僕等にはよくわからない。その次の室の中央にコンクリートに取りつけた時計がある。この時計は非常に正確で、その上ひとりでにぜんまいねぢがかゝるといふ便利なものださうで、見てゐると何秒かにがらがらつとなつて、ひとりでねぢがかゝつてゐた。その外、電流によつて動く時計や、いろいろな機械を見せていただいたが、僕にとつてどれも珍しいものばかりであつた。

所長さんに深く礼を述べ報時所を辞して測候所を訪れると、こゝこの所長さんも快く面会を許して、いろいろの話をして下さつた。
(以下、ドンの山山頂近くにあった「長崎測候所」部分は、(2)へ続く)