ふるさと古写真考」カテゴリーアーカイブ

大正十一年頃のガラス写真 018ほか 茂木街道

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

大正十一年頃のガラス写真 018ほか 茂木街道

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
018,019,096  (茂木街道)

目録番号:1365 茂木街道(2)
〔画像解説〕   超高精細画像
この写真は、茂木街道の峠から下り始める茂木側の街道を撮影した、明治20年(1887)代後半の写真である。ガラス乾板に焼き付けられた、手彩色のスライド写真を画像化したものである。茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠を過ぎると、茂木街道は一気に長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。この写真は明治20年後期の頃の茂木街道の、茂木に下る川の街道を撮影したものである。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。女性の服装や人力車の内装から、明治後期の写真と思われる。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号018,019,096は、「茂木街道」の風景と思われる。長崎大学データベース目録番号:1365「茂木街道(2)」にもあるとおり、明治20年(1887)に完成した旧県道。田上峠の転石から若菜川支流の河平川谷間へ下り、黒橋へ出て茂木へ至る。

大正十一年頃のガラス写真 003ほか オランダ坂

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

大正十一年頃のガラス写真 003ほか オランダ坂

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
003,245  (オランダ坂)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号003,245は、長崎市東山手町の活水大学登り口の「オランダ坂」と思われる。遠くに写る山の稜線は稲佐山だろう。

長崎県の石炭産業と近代化遺産 6P 炭鉱の島々 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎県の石炭産業と近代化遺産 6P 炭鉱の島々 ほか

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎近代化遺産研究会編 「長崎県の石炭産業と近代化遺産」

6P ②長崎市稲佐山展望台からの風景。日本の近代化に貢献した炭鉱の島々が写っている。

22P 〔20〕北渓井坑跡 所在地:長崎市高島町

■ 確認結果

長崎近代化遺産研究会編「長崎県の石炭産業と近代化遺産」は、財団法人長崎県産炭地域振興財団「平成22年度産炭地域活性化基金助成事業」により出版されている。
現在の写真などであるが、間違いを2点説明する。

6P「②長崎市稲佐山展望台からの風景。日本の近代化に貢献した炭鉱の島々が写っている」は、手前左を「高鉾島」、手前右を「四郎ヶ島」と説明している。
すぐ近く神の島公園展望台からの確認写真のとおり、手前左は「四郎ヶ島」、手前右は(神の島側の)「中ノ島」が正しい。高鉾島は、次の写真どおり左外となり、島の形に特徴がある。

22P「〔20〕北渓井坑跡」のアクセス地図は、同坑跡に上段の「小菅修船場跡●」を、間違って赤色で印字している。
いずれも、添付の正誤表にも載っていない。監修は正しくお願いしたい。

HP「長崎ビフォーアフター ぼくらの古写真」 港が見える丘 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

HP「長崎ビフォーアフター ぼくらの古写真」 港が見える丘 ほか

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

HP「長崎ビフォーアフター ぼくらの古写真」  港が見える丘 ほか
港が見える丘・伊王島の船着場・住宅の丘
通天閣と銅座川・洋館建ての商店・大浦天主堂まえ

■ 確認結果

HP「長崎ビフォーアフター ぼくらの古写真」は、長崎県内の昔の写真と同じ場所・同じアングルの現在の写真を撮って見比べて楽しむ、古写真比較のおもしろいサイトである。
http://oldphoto.naagle.com/
戦後に撮影された古写真が多いが、現在の写真を募集している。私も興味を持って撮影場所を探し、現在の写真を21作品投稿して協力した。次はそのうちの主な6作品。
詳しい写真の比較は、各URLへ。その他の写真についても参照。

作品 1   港が見える丘    http://oldphoto.naagle.com/photos/view/252
撮影日:1978年 (±1年くらい)  撮影場所:
屋根が続く街並みと洋館。洋館はグラバー園あたり?そして港と稲佐山。現在のどの辺なのでしょうか。写真提供:春光社刊「長崎おもいで散歩2再編版」より

(2012年4月  現在の写真投稿)
古写真の奥に写っているのは、南山手の妙行寺の屋根と四海楼の以前の建物です。四海楼資料館に前の建物の写真が展示され確認しました。背後の山は稲佐山です。
これら位置関係から、川上町バス停より同町下ノ区公民館へ上り、公民館横の坂段道路あたりから撮影された写真と思います。高いビルが建ち、長崎港が見える同じような景色が写せません。春光社さんに確認すると、場所は間違いないとのことでした。

作品 2  伊王島の船着場    http://oldphoto.naagle.com/photos/view/144
撮影日:1970年 (±1年くらい)  撮影場所:長崎市伊王島
妻のお父さんが職場の仲間と釣りに行ったときの写真だそうです。

(2012年4月  現在の写真投稿)
左に伊王島と沖ノ島の間に架かる「栄橋」の一部が写っています。橋を渡ったすぐ対岸から、当時の伊王島航路船着場の方を写し、連絡船が右奥に接岸しています。左の黒い建物は乗船券売り場で、今も位置は変わりません。白い建物は炭鉱アパートだったそうです。

作品 3  住宅の丘        http://oldphoto.naagle.com/photos/view/47
撮影日:1978年 (±1年くらい)  撮影場所:長崎市日の出町
既に山の頂上まで家でギッシリ! 長崎らしさ満載の写真です。 写真提供:春光社刊「長崎おもいで散歩3」より

(2012年1月  現在の写真投稿)
長崎市の大浦石橋通りを大平橋へ向けて登ります。暗渠のバス通りとなっており、途中、川上町の上の区で、古写真とおりの景色が、前方に広がります。背景の高台は、椎の木町や南町の住宅地です。

作品 4  通天閣と銅座川    http://oldphoto.naagle.com/photos/view/48
撮影日:1984年 (±1年くらい)  撮影場所:長崎市籠町
高台の大きな中華料理店が見えます。当時のランドマーク的存在だったのでしょうか?

(2012年1月  現在の写真投稿)
長崎市の銅座橋の上から、籠町の大徳寺公園の高台を方を撮影しています。通天閣があった所は、超高層のスターライトビルが建っています。

作品 5  洋館建ての商店    http://oldphoto.naagle.com/photos/view/121
撮影日:1978年 (±1年くらい)  撮影場所:長崎市出雲1丁目
3階の素敵な感じと、1階の普通すぎる商店のギャップがいいですね〜。写真提供:春光社刊「長崎おもいで散歩2再編版」より

(2012年1月 現在の写真投稿)
長崎市出雲1丁目2−17の元遊郭の建物です。現在、ビル「ガーデンコート」が建っています。5年くらい前まで、朽ちた建物が残っていたことを、私も覚えています。

作品 6  大浦天主堂まえ    http://oldphoto.naagle.com/photos/view/122
撮影日:1961年 (±1年くらい)  撮影場所:
この場所はこんなにのどかだったんですね。写真提供:春光社刊「長崎おもいで散歩2再編版」より

(2012年1月 現在の写真投稿)
国宝大浦天主堂前の道路広場です。文明堂総本店の土産店などの日蘭ビルが建ち、妙行寺は見えなくなりました。寺の入り口がビル1階の右にありました。

長崎県HP「旅する長崎学(たびなが)」 長崎港イナサ ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎県HP「旅する長崎学(たびなが)」 長崎港イナサ ほか

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

長崎県HP 「旅する長崎学(たびなが) ふるさと写真館」

作品 1   長崎港イナサ
[撮影エリア] 県南 長崎市稲佐付近  [撮影年代] 大正  [撮影日] 大正だと思われます。

作品 2   対馬・厳原      (掲載略)
戦前の絵葉書です。橋の名前がわかる方教えてください。
[撮影エリア〕 しま  [撮影年代] 不明・その他

作品 3   雨模様の長崎    (掲載略)
蛇の目傘と着物がなんとも時代の雰囲気をかもし出しています。着物姿の女性は、これから珈琲でも飲みにいくのかな…。
[撮影エリア] 県南  [撮影年代] 大正

■ 確認結果

長崎県文化振興課 ながさき歴史発見・発信プロジェクトHP「旅する長崎学(たびなが) ふるさと写真館」に掲載されている中の3作品。  http://tabinaga.jp/photo/
古写真の撮影場所が不明なようなので、次のとおり県へ情報提供した。

作品 1  「長崎港イナサ Inasa at Nagasaki」は、
長崎市飽の浦町の恵美須神社の波止場から、大鳥崎と丸尾山を写し、遠くの山は金比羅山と思われる。丸尾山は海岸埋め立てで全部削られた。
長崎大学のデータベース目録番号:1694「飽の浦恵美須神社(3)」に、年代は古いが内田九一撮影の同じような光景がある。次の記事と写真を参考にし、正しい場所の検証をお願いしたい。明治時代の写真ではないだろうか。
https://misakimichi.com/archives/2192

作品 2  「対馬・厳原」 (掲載略)は、
「佐野屋橋(下橋) 対馬市厳原町今屋敷川端通り」ではないだろうか。確認をお願いしたい。
架設 大正6(1817)年   長さ 12.2m   幅員 6.2m(拡幅)
次の記事や石橋のサイトを参照。
https://misakimichi.com/archives/1263
http://www.fwd-net.com/hashi/

作品 3  「雨模様の長崎」 (掲載略)は、
古写真の中の倉庫群は、長崎市銅座観光通りの籠町側に建ち並んでいた「十軒蔵」に間違いないだろう。広場場側から撮影している。 
次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/3119

長崎を撮る! 2−29 若宮稲荷 風頭山を行く子ども神輿

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎を撮る! 2−29 若宮稲荷 風頭山を行く子ども神輿

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

写真展「長崎を撮る!〜記録写真家・高原至の世界」
2−29 若宮稲荷 風頭山を行く子ども神輿 山頂はのどかな田園風景 昭和33年
〔画像解説〕
若宮稲荷といえば”竹ん芸”を思い浮かべるが、秋の大祭10月14日、15日に氏子の子どもたちが担ぐ神輿も町内をはじめ近郊を練り歩く。写真は風頭山頂を進む子ども神輿。当時の山頂付近は民家が少なく、畑が広がるのどかな田園風景が広がっていた。

■ 確認結果

NBC長崎放送60周年記念写真展「長崎を撮る!〜記録写真家・高原至の世界」が、次のとおり開催中。
被爆の惨状から復興する長崎の町を撮りつづけた記録写真家・高原至さんが切り取った「長崎の町と人間の営み」の100枚。高原さんの心を感じて下さい。
日時/会場
2012年5月8日(火)〜5月20日(日)
午前10:00〜午後8:00 ※5/14(月)休館
会場:長崎県美術館 県民ギャラリーA室/入場無料

きのう、写真展を見学に行った。「2−29 若宮稲荷 風頭山を行く子ども神輿 山頂はのどかな田園風景 撮影 昭和33年」の作品。会場内「撮影禁止」のため、展示写真を掲載できないが、〔画像解説〕に疑問を感じた。
「…写真は風頭山頂を進む子ども神輿。当時の山頂付近は民家が少なく、畑が広がるのどかな田園風景が広がっていた」

眼下に広がる市街地から、風頭山頂あたりを撮影していると思われるが、山頂付近にこんなに民家があったのだろうか。子ども神輿が歩く道路と、民家の状況から、これは現在の風頭公園へ登るまだ手前の、小川ハタ店あたりの風景ではないだろうか。
風頭山頂は、展示写真の右上外となるだろう。神輿が風頭山頂の道を通っていたか、若宮稲荷神社に確認をお願いしたい。現在の車道をそのまま伊良林の町内へ下ったのではないだろうか。

長崎市の100年 57P 大手橋から新大工町大通りを見る

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎市の100年 57P 大手橋から新大工町大通りを見る

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎市の100年 57P 大手橋から新大工町大通りを見る(新大工町・大正10年頃)
〔画像解説〕
欄干の柱頭に擬宝珠のついた大手橋から、連合大売出しでにぎわう新大工町商店街を見る。慶長年間(1596〜1615)に大工職人が集まってできた町といわれているが、周辺の人口増加とともにその後は食料品・日用品などを売る町並みとなり、現在に至っている。(提供:長崎電気軌道株式会社)

■ 確認結果
写真集「目で見る 長崎市の100年」は、株式会社郷土出版社から2002年7月に発行されている。監修は越中哲也、岡林隆敏、堺屋修一氏と著名な執筆委員。2009年に発行された「長崎市制施行120周年記念写真集 ふるさと長崎」の粗雑な内容と違い、掲載された古写真と解説は何の問題がない。

57P「大手橋から新大工町大通りを見る(新大工町・大正10年頃)」は、長崎の古写真考の前の記事「大手橋」で引用させてもらった。古写真を再掲したが、私の関心は今度は、新大工町大通りの奥に写った「大屋根の建物」(拡大)である。
中島川の石橋を渡り、まっすぐ行くと寺町通りと合い、上の山手に寺がある。諏訪通りなどで良く見る。新大工町大通りでも同じような光景があった。寺だろうか。

新大工町商店街通りを入口から進んでみた。商店街の出口を過ぎないと、今は奥の景色を確認できない。「春徳寺」は北の方にあり、この古写真では通り左側商家の家並み後ろとなって写らないだろう。
新大工町通りの延長となる桜馬場町の通り(シーボルト通り)に入ると、高い石垣の上に広い校庭を持つ長崎市立桜馬場中学校がある。「長崎村庄屋森田家屋敷」の跡地である。
古写真は大正10年頃だから、当時は桜馬場に移転した「長崎県尋常師範学校」がここにあった。大屋根の建物を私は勘違いしていた。師範学校の校舎ではなかった。

後日、satemosatemo2008 様のコメントによる指摘により気付いたが、地図のとおり長崎鳴滝高校の右側上方にある「高林寺」に間違いないだろう。
鳴滝高校の真裏あたりと覚えていて、地図も調べず出かけていた。本堂は近年改築され、屋根の造りを変えた近代的な寺になっている。背景の山並みは、諏訪神社から確認している。(この記事は1月27日修正して記した)
高林寺は、広助さんのHP「丸山歴史散歩」によると次のとおり。明治42年(1909)炉粕町から移転・新築したので、古写真には屋根がまだ新しく写っているのだろう。 

A−221:曹洞宗德光山高林寺(とっこうざん-こうりんじ)
鳴滝1-6-27(長崎村中川郷字松山)
高林寺は正保3年(1646)皓臺寺一庭が禅僧天宗融察と、オランダ通詞の名村、猪俣両氏の援助を受け炉粕町に創建します。一方、上長崎村中川郷に知足庵(当初は栖雲庵)という皓臺寺の末庵があって、明治40年(1907)池田新吉という者が、シャム国王(タイ国)勅願寺サケート寺に安置してあった釈迦如来の銅像をもらい受け、軍艦で長崎に運ばれここに安置します。しかし由緒ある仏像を末庵に納めることに市内寺院から反対が起こり協議会が開かれます。そして当時、移転を検討していた高林寺が手を挙げ、明治42年(1909)知足庵と合併し、この地に高林寺を移し現在に至ります。

三和町 今昔  (5) 川原木場海岸の蛇紋石

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

三和町 今昔  (5) 川原木場海岸の蛇紋石

旧三和町文化協会写真クラブ編「三和町 今昔」(Part1)平成元年11月刊写真集の掲載古写真について、5点を抽出する。
これは、タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真というわけではない。話題性がある古写真の、現地確認などの結果を報告する。

54頁  〔写真説明〕   蛇 紋 石
川原海岸の蛇紋石はだれでもしっている。しかしこの石がどうして川原海岸にだけあるのかそれを説明する人はいない。この写真は川原木場の海岸で町境から150mほど野母崎町に入った所です。3階建のビルほどもある大きな岩、山肌から海の底の岩までがみんな蛇紋岩である。ここの石が川原海岸に流れたかどうかは別にして、蛇紋岩のもとはここにはある。

■確認結果

この大石の写真は、「三和町 今昔」(Part1)平成元年11月刊でなく、「三和町 今昔」(Part2)平成2年11月刊の写真集54頁に掲載がある。珍しい自然の造物。
旧野母崎町との町境というと、県道34号線の川原木場公民館前バス停から少し先に「堺橋」がある。川は熊ノ岳から流れる「熊川」。橋名のとおり川が境界で海岸へ下るが、車は川沿いや集落内の道からは行けない。

川原木場バス停に戻り、海星グランドの方の道を300mほど行くと、カーブミラーの所へ海岸へ下る急な車道がある。海岸へ降りて車を置き、海沿いの防波堤の道を終点まで歩くと、熊川がここに流れ落ち、古写真の蛇紋岩の大石が先に見える。
この辺りは一面、蛇紋岩の大断崖となっており、樺島や天草が半島のように見える絶景の海岸。ずいぶん先まで行った。写真をじっくり見てもらう。

蛇紋岩は、岩石の緑黒色の脂感が蛇の色を思わせるところからつけられた岩石名。全国に連続的に点在し、岩石は極めて珍しいというわけではないが、海岸付近の露出は少なく、しかも蛇紋岩だけで構成された礫浜は、日本でも外にほとんどなく、美しい。(三和町郷土誌)

三和町 今昔  (4) 宮崎橋とせんたく石のこと

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

三和町 今昔  (4) 宮崎橋とせんたく石のこと

旧三和町文化協会写真クラブ編「三和町 今昔」(Part1)平成元年11月刊写真集の掲載古写真について、5点を抽出する。
これは、タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真というわけではない。話題性がある古写真の、現地確認などの結果を報告する。

17頁  〔写真説明〕   宮崎橋とせんたく石のこと
宮崎橋が木造だったころは川の中心に柱が建っていた。この柱は流れて来たゴミがひっかかり、橋の下はくぼ地になって魚の住みかになっていた。フナ、ハイネ(ハヤ)、ラックウ(ザリガニ)など子供の最高のつり場でした。
橋より20mほど下流、(工事中の仮橋の根元付近)には大きな板石があった。宮崎部落の洗たく場になっており、五、六人の人がならんで洗たくしていた。各家庭に洗濯機がはいってくるまでこの洗たく石は使われていた。

■確認結果

川原本村から台場があった蛭子崎を回ると県道は下りとなり、宮崎川を宮崎橋で渡り宮崎集落へ入る。現在の宮崎橋は、「昭和57年7月」架と銘板がある。
古写真は昭和30年頃からの宮崎橋の変遷を写している。2枚目の工事途中の古写真は「昭和57年ごろ」が正しいようである。

明治時代の「川原道」については、昭和58年3月長崎県教育委員会発行の長崎県文化財調査報告書第63集「橘湾の漁労習俗」(香焼図書館に蔵書あり)交通の項に、地元古老から聴き取った話として記述があり、次のとおり「三和町郷土誌」陸上の交通458頁が引用している。
同頁には、川原道のほか蚊焼道、布巻道、藤田尾道、千々道、深堀道の引用文がある。

(一)川原道
年崎のホリ首の丘を通り、川原本郷へでる。えべす坂を越え、モウタレ川(宮崎川)三間ま申の石橋を渡り、宮崎へ入る約三・五キロの道をいう。
石橋は郷土誌編集員の高崎市郎先生に生前、話を確かめたことがあるが、簡単な桁橋だったそうである。

ところで私の探しものは「洗たく石」。長靴を履いて干潮時、宮崎橋下の川に行ってみた。川底はブルドーザーで均され、「洗たく石」は完全になくなっているが、写真の通り一部、痕跡を残しているよう岩面が川底にあった。

近くの奥さんに聞くと、やはり数人が同時に洗たくできた大きな板石(岩)だった。川の工事で壊され、後はどうなったか判らないそうである。
「モウタレ川(宮崎川)三間ま申の石橋」も、この「洗たく石」(岩)を飛び石渡りした程度のものではなかろうか。

三和町 今昔  (3) 川原大池、小池

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

三和町 今昔  (3) 川原大池、小池

旧三和町文化協会写真クラブ編「三和町 今昔」(Part1)平成元年11月刊写真集の掲載古写真について、5点を抽出する。
これは、タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真というわけではない。話題性がある古写真の、現地確認などの結果を報告する。

13頁  〔写真説明〕   大池、小池の航空写真

■確認結果

阿池姫の伝説にまつわる神秘性をもつ川原大池。入口が塞がれた海跡湖である。野母半島県立自然公園に属し、長崎県観光百選の地。航空写真は、昭和40年代の撮影と思われる。
ご覧のとおり、川原大池のそばに小池があった。水路はなかったが、地下では繋がっていたようである。小池のことは、ヘラブナ釣りで私も記憶がある。

小池はその後に埋め立てられ、永年、遊休地となっていた。平成16年(2004)、牟田尻地区の小池跡奥に、まず町営住宅(戸数20戸)が完成。同年、地盤が弱い小池跡には「三和記念公園」が建設された。中央にビオトークがある公園となっている。

昔の大池と小池の間は、軟弱な葦の原だったと思われる。明治時代の脇岬村路(往時の川原回り「みさき道」の経路と推定)は、そのため宮崎の集落からこの小池の北岸を通り、川原木場へ向かっていた。
現在、三和公民館ホール中庭に展示している「明治三十二年十一月建」道標は、もともと小池上の高濱村路との分岐に立っていた標石である。明治34年測図の国土地理院旧版地図を掲げる。この項は次も参照。 https://misakimichi.com/archives/23

最後の写真は、川原秋葉山神社の中腹農道途中から川原大池と小池跡の遠望。沖は天草。
川原大池は次の風景の項を。 https://misakimichi.com/archives/1719