長崎県の石橋」カテゴリーアーカイブ

飛瀬下にもう1つの水路橋が見つかる  東彼杵郡波佐見町

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飛瀬下にもう1つの水路橋が見つかる  東彼杵郡波佐見町

全国の石橋を研究する「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」のHP氏から、12月初めに波佐見町折敷瀬郷で水路橋が新しく見つかった連絡をもらっていたが、やっと出かけて写してきた。
場所は、波佐見町役場前の道路を約500mほど北へ行く。西海陶器が見える「FIRST FITNESS」の名がある店の前から下の谷間へ下る。小川が排水工事中。小川を渡った新しいコンクリート橋が、”飛瀬の水路橋”という小さな煉瓦造アーチ橋だった。
波佐見町の石橋の次項を参照。  https://misakimichi.com/archives/682

これが壊された代わりに、実はこの下流にも別の見事な石造アーチ橋があったのだ。薮つきでこれまでわからなかった。小川が川棚川(波佐見川)へ流れ込む所。対岸は波佐見中学校である。中学校の対岸通りから気をつけて見ると石橋の姿がわかるのだが、一度この通りを通りながら気づかなかった。
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」による説明は次のとおり。水路を辿ると、また珍しいことがあったので、次項とする。

№3,902     飛瀬下の水路橋(仮称)     2008.12.06
東彼杵郡波佐見町折敷瀬郷   橋幅:2.45m  径間:2.64m  拱矢:1.1m  環厚:34cm
波佐見町にお住まいの出口さんからメールを頂きました。「水路がキャノンの排水路になって工事が行われました。“飛瀬の水路橋”と紹介されていた物は跡形ないです。−中略−が、川に流れ込む所にもうひとつ水路橋が壊される事無くそのまま利用されています!」というものです。
早速現地へ向いました。コンクリート三方張りの水路をコンクリートの水路が横断しているところが“飛瀬の水路橋”があった場所です。その下流端に石造アーチ水路橋が架かっています。よくぞ取り壊されずに残ったものです。
下流はすぐ川棚川です。輪石は12列の偶数、要石は少し右側にずれているようです。念のため水路を下流へ約600m、鹿山橋のところまで辿りました。

時津の茶屋(本陣)周辺の桁石橋  西彼杵郡時津町浦郷

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時津の茶屋(本陣)周辺の桁石橋  西彼杵郡時津町浦郷

江戸期、時津街道を往来する諸大名、幕府役人の休憩、宿泊にあてられた時津の茶屋(本陣)。古い屋敷が残り、外囲いに堀のような小川が流れる。
祐徳稲荷神社の方まで行って一周すると、桁石橋が3橋あった。大きい板石2つで造った茶屋(本陣)正門橋は、風格がある。裏手の方の上流にある住宅橋は、階段橋のようになっていた。
茶屋(本陣)の現地説明板は次のとおり。

茶屋(本陣)

時津は船待ちの港として神功皇后外征ゆかりの伝説を持つ港町である。殊に元亀2年(西暦1571年)長崎開港後は長崎奉行、学者、文人の往来を始め、中国、オランダ交易品の上方、関西方面送りなど大変、栄えたところである。
その本陣として寛永10年(西暦1633年)市場南に建立されたのが茶屋(本陣)のはじまりである。その後、茶屋(本陣)は、我国の外交内政の激動期、すなわち、徳川幕末近く、文化10年(西暦1817年)大村藩主の命によって、高谷正蔵が旧時津街道に沿い、この地に建てて諸大名、幕府役人の休憩、宿泊にあてたところである。
時津町教育委員会

諫早市高来町に残る桁石橋

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諫早市高来町に残る桁石橋

諫早市高来町に残る桁石橋。下与の鏡円寺に美しい参道橋があり、船津の深海神社にも御神橋がある。
国道207号線により諫早市街から高来町へ向かう。JR小江駅前通りの次の角にローソンがあり、この交差点から左折して広い新しい道へ入る。
長崎本線の踏切を渡って坂を上がり、小江神社手前の分岐は右方へ行くと、寺の上に出る。右方にある門柱が寺への車道入口である。下ると「鏡円寺」の本堂前に着く。小さな桁橋も2つ見られる。

深海神社は、小江の手前。深海と富地戸バス停の間の国道高台から左道へ入る。途中に「天初院ヒゼンマユミ」の案内標識があり、天初院前まで行ってまっすぐ進むと、「深海神社」へ着く。本殿裏の駐車場側参道にも板石を渡した橋があった。
fwd−net長崎・諫早HPの中「石造アーチ橋以外の石橋たちを訪ねて」による説明は次のとおり。

第 k-022 番   諫早市高来町の鏡円寺の参道橋     諫早市高来町上与
架橋年は不明     長さ 6.3m  幅員 1.8m  スパン 4.2m
清水山鏡円寺は竜造寺隆信の前婦人の菩提寺となっている。諫早家とは縁の深い自社の一つ。

第 k-021 番   諫早市深海神社の御神橋        諫早市高来町船津
架橋年は不明     長さ 1.5m  幅員 2.6m  スパン 0.75m
向かって右手はスパン0.5、左手がスパン0.75m。桁部分には損傷は見られない。

殿様開き遺構 イビ  対馬市豊玉町仁位

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殿様開き遺構 イビ  対馬市豊玉町仁位

国道382号線により豊玉町の中心仁位まで行き、佐保方面への県道232号線へ左折して入る。豊玉小学校前を過ぎ仁位川沿いに下流へ向かうと、現県道橋脇の旧道の橋下にこの遺構を見る。
「仁位浜」というところだろうか、その付け根。小さな溜め池があり、橋下は仁位湾の海水が寄せて来る場所である。
豊玉町指定史跡「殿様開き遺構 イビ」が次のとおりの説明板とともにある。

殿様開き遺構 イビ   2003年3月3日 豊玉町指定記念物(史跡)

対馬における水田干拓の中で、特に有名なものの一つに仁位ハロウの干田は、元禄4年(1691)に時の藩主「宗 義貞」が命じて行われたものです。
干田は「開き」といい、ここ仁位の「開き」は特に「殿様開き」と呼ばれています。そのときに造られた堤防を横断して水門を設けるのですが、これを「樋門」または「イビ」と呼びます。
この時に造られたイビが、現在も、その大きさのまま残っています。門の両側にある実に大きな1枚石(推定4トン)といい、大がかりなイビの装置は、約300年も昔の技術でできているとは思えないほど、何ともスケールの大きな世界であり、その技術の高さをうかがい知ることができます。                               対馬・豊玉町教育委員会

以上の説明文によると、「イビ」とは「樋門」のこと。辞書では「ひ‐もん【樋門】=用水の取り入れや排水、舟運などのため、堤防を横切る暗渠(あんきょ)にして設ける通水路。水門をつけ、水位を調節する」とある。
ここ仁位のは元禄4年(1691)頃?に造られた樋門。門の両側には、実に大きな1枚石(推定4トン)が使われ、できているらしいが、フェンスが囲われ中は見れないし、写真に写せなかった。

次はあくまで参考。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の熊本県収録編番外として出てくる。熊本県八代市に、同じような「樋門」で規模を大きくしたものが残っている。
最後の写真が、その「大鞘樋門」を同HPから。現存する3か所のうち、最もシンプルな造りの「二番樋三枚戸」。
対馬市豊玉町仁位の樋門もこんなものと考えられるが、築造年は史料によりはっきりしているのだろうか。            

「大 鞘 樋 門」  所在地 八代市鏡町両出  市史跡・文化財指定

文政2年(1819)9月24日に四百町新地の塩留めは完成した。耕地337町9反が新たに上納地に加えられたわけである。これが文政2年(1819)に干拓された四百町新地である。この時築造された樋門が大鞘樋門と呼ばれ、これまでの「御国流」よりもすこぶる堅牢で鞘石垣に巨石を使い備前流と言われる樋門の革新的技法を取り入れている。
水門は5か所で、北から殻樋五枚戸。二番樋三枚戸。江戸樋四枚戸(現三枚戸)。新殻樋七枚戸(昭和42年3月新橋に架け替えた)。三番樋三枚戸(埋没)。
尚、当初一番井樋三枚戸が文政廻しの北側に計画されていたが、塩浜塩田設置のため施工されなかった。現存する殻樋は備前流と呼ばれている築造技法であり、二番樋、江戸樋は合法と呼ばれる構築法になっている。
備前流は、備前の石工高野貞七の設計により、これまでより堅固に作られ、一部に巨石を使い、工事の若い監督であった広松輔周がむりに巨石を使わせたので「広松のもがい井樋」と言われている。引き続いて文政4年(1821)に七百町新地が干拓されたが、この後の樋門はすべて備前流・合法により築造されている。
七百町新地干拓の折、ここの樋門堤防に永い小屋を作り、天草からの出稼ぎ労働者を収容した。誰が言うともなく「名所名所と大鞘が名所、大鞘名所にゃ水がない」という唄がうたわれ出し、新地干拓の潟担い労働唄として郷土民謡大鞘名所の発祥地となった。
「大鞘節発祥之地」の顕彰碑が昭和46年千丁町と合同でこの樋門横に建立されている。
八代市教育委員会

対馬市に残る石橋 (3)  金田城跡・和多都美神社・海神神社などの橋

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対馬市に残る石橋 (3)  金田城跡・和多都美神社・海神神社などの橋

対馬市に残るアーチ石橋は、1橋。厳原町の中心街、厳原川の下流に架かる「佐野屋橋」は(1)、そのほか見かけた桁石橋などの石造橋を(2)(3)で紹介している。
(3)は、厳原町以外の史跡、金田城跡・和多都美神社・海神神社などの橋。
史跡・巨樹の項も参照。

写真  9           金田城跡の橋          美津島町黒瀬
浅茅湾の南辺。白江村の海戦(667年)に敗れた天智天皇が、国の守りの最前線として築かせた日本最古の城跡。日露戦争の際、再び要塞化され砲台跡もある。国指定の特別史跡。
国道382号線により美津島町鶏知交差点まで行き、箕形方面への県道24号線に入る。洲藻を過ぎて箕形に下る右方へ岩山が見え、県道脇に金田城跡に行く案内坂がある。
城跡石塁や山頂へは、車道終点から急な道をかなり歩く。途中で見た板石橋。近年のものかも知れない。

写真 10           和多都美神社の橋       豊玉町仁位
豊玉町の由来になった豊玉姫命と、「海彦山彦」の日々出見命を祭神とする海宮。
豊玉町仁位から県道232号線に左折し、町の中心を通り仁位浅茅湾に出てから「和多都美大橋」を渡って神社へ行く。烏帽子岳展望台への登山道路の登り口となる。
参道左に海水が入る池があり、橋はこの池に架かる。

写真 11           海神神社の橋          峰町木坂
木坂の海神神社は海の守護神豊玉姫命を祀る。かっての対馬一の宮。国道382号線の峰町三根から左折して、西海岸の木坂へ向かう。海岸のはずれに海神神社がある。
板石の橋は、入口鳥居をくぐった右広場にある。ここも本殿まではかなり石段を登る。

写真 12           横浦の橋             豊玉町横浦
国道382号線により万関橋を渡り対馬上島に入り、豊玉町「和坂交差点」より右折し東海岸を行く県道39号線に入る。すぐ大漁湾に出るので、「横浦大橋」を渡って右岸の横浦漁港へ向かう。「横浦」バス停のところに小橋が2つあった。

写真 13           鳴滝自然公園の橋       上対馬町浜久須
同上県道39号線により上対馬町の浜久須までかなり北上する。比田勝へ越す峠の高台に「鳴滝自然公園」入口がある。鳴滝は対馬一の高さ15mの滝。
滝への遊歩道の途中に、写真の橋がある。近年、架けられた木とコンクリートの橋だが、造りや景観はよい。

対馬市に残る石橋 (2)  万松院・宗家墓所・金石城跡の橋

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対馬市に残る石橋 (2)  万松院・宗家墓所・金石城跡の橋

対馬市に残るアーチ石橋は、1橋。厳原町の中心街、厳原川の下流に架かる「佐野屋橋」は(1)、そのほか見かけた桁石橋などの石造橋を(2)(3)で紹介している。
(2)は、厳原町の史跡、万松院と同院内の対馬藩主・宗家墓所、近くの金石城跡の橋。
史跡・巨樹の項も参照。

写真  4           万松院の参道入口橋        厳原町西里
対馬藩主・宗家菩提寺「万松院」の駐車場へ入る道にある。金石川の左からの支流に架かる。両脇の親柱に架橋年「明治十八年三月」と、奉納者の刻字が読める。

写真  5           万松院内の塀沿い橋        厳原町西里
万松院内へ入って、墓所へ行く道の内部塀沿いにある。金石川に架かる。墓所入口橋のすぐ上流橋となる。後は、近くで見る板石を渡しただけの橋。

写真  6           宗家墓所の参道入口橋       厳原町西里
万松院の山門右側に、対馬藩主・宗家墓所の参道入口門があり、金石川に架かる橋がある。通常はこの入口門は閉門され、墓所へは万松院の中へ入ってから行くこととなるが、橋は駐車場側から見れる。

写真  7           宗家墓所内の橋           厳原町西里
宗家墓所へは、万松院から大スギ3本が立つ「百雁木」(ひゃくがんぎ)と呼ばれる参道石段を130段くらい登って行くこととなる。この山手左側墓所の前にも橋があった。
後は、墓所内の道で見る板石を渡しただけの橋。

写真  8           金石城跡内の橋           厳原町今屋敷
宗家居城「金石城跡」。万松院から行くと、往時の広い庭園の池跡などが見学できる。写真はここで見かけた板石の橋と、現在の金石川に架かるコンクリート新橋。

対馬市に残る石橋 (1)  佐野屋橋・桜橋・銀山上神社参道橋

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対馬市に残る石橋 (1)  佐野屋橋・桜橋・銀山上神社参道橋

対馬市に残るアーチ石橋は、1橋。
厳原町の中心街、厳原川に下流に架かる「佐野屋橋」(写真1)。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による「佐野屋橋」の説明は次のとおり。

写真2は、対馬市役所横の「桜橋」。新橋の脇に橋名の昔の親柱だけが残されている。
写真3は、厳原町の中心街から矢立山を越したまったく反対の西海岸側となる久根田舎にある「銀山上神社参道橋」。今回、初めて見かけた。

写真  1   第 104 番   佐野屋橋(下橋)    厳原町今屋敷川端通り
大正6(1817)年      長さ 12.2m   幅員 6.2m(拡幅)
厳原本川の最も下流にあるので一名「下橋」ともいい、寛文年間の架橋で川のたもとに佐野屋という問屋があったので命名され、享保7年石の桁橋に改め、大正6年に倉成、藤野、小野三氏によってアーチ橋に架け替えられた。
佐野屋橋は拡幅改修されているので、橋の上からはアーチ橋であるとは思えない。上流の大手橋からも良くはわからず、有田橋からアーチの形が見えるのみ。

享保7年あるいは4年と過去紹介されていたが、このときは同じ石橋でも桁橋であったそうで、石造アーチ橋になったのは大正6年とのことです。
山口祐造氏が著書「石橋ものがたり」で拱矢5.0の扁平な橋は、とても江戸時代の橋とは考えにくいと述べられているが、やはり技術者の目は確かであった。

写真  2               桜     橋       厳原町国分
対馬市役所右横の金石川に架かる。新橋の脇に橋名の昔の親柱2本だけが残されている。

写真  3               銀山上神社参道橋   厳原町久根田舎
対馬下島の下部、西海岸側に久根田舎はある。椎根と豆酸間の県道24号線沿い、集落の北はずれに「銀山上神社」があり、県道から「御所橋」を渡って行く。
参道橋の架橋年は、近くに「大正五(?)年御幣祭記念」と刻んだ石碑が立ち、この頃のものではないだろうか。
煉瓦造アーチ石橋かと思ったが、中は平石を渡し、両脇の欄干部分のみ煉瓦アーチに築いていた。「石の島」対馬にしては、煉瓦も使った珍しい橋。
長さ3m、幅員3.5m(拡幅)ほど。下の小川は、コンクリート水路となっている。

「佐野屋橋」「桜橋」については、厳原町「厳原町誌」平成9年刊、第二編地誌124〜130頁「橋梁」の項の説明は次のとおり。

佐 野 屋 橋  厳原本川の最下流に架かった橋を佐野屋橋というのは、この橋のたとに佐野屋という海産物問屋が店舗を構えていたからである。東ノ浜から国分町に通じる渡河点にあり、寛文7年(1667)の架橋という。佐野屋の開祖は泉州佐野(大阪府泉佐野市)の商人五味氏といわれ、寛文の頃に問屋を開業、佐野船の世話をした。佐野船とは当時佐野から出漁してきた漁船団のことである。
当初の橋は木橋であったが、享保7年(1722)に石橋に架け替えられ、さらに大正6年(1917)、倉成綱作・藤野小十郎・小野久次郎らの出資により、アーチ式石橋に改造されたが、それも昭和55年(1980)に改修して舗装され、さらに平成4年(1992)再度拡幅改造された。

桜      橋  金石川の上流、金石屋方(府中金石城)の大手門前で、国分の奥里と、今屋敷の山下通りを結ぶ渡河点に架けられた橋である。城の大手に通じる石橋であったことから、築城時に架橋されたことは疑いなく、桜橋という名称も、屋形との関係を示唆しているようである。
現在、石橋は解体され、大きく拡幅されて、新橋に架け替えられた。

壱岐市に残る石橋

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壱岐市に残る石橋

壱岐市に残るアーチ石橋は、現在のところ見当たらない。
桁石橋など探したところ、次の4橋を見かけた。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による「住吉神社の御神橋」(写真1)の説明は次のとおり。この橋は、親柱に「天保十四年卯九月」と寄進年があった。

同橋以外に、写真2〜4の「安国寺の参道橋」「弥佐支刀神社の参道橋」「印通寺の民家橋」を見かけた。
写真5は、筒城浜海水浴場前の「白沙八幡神社の参道橋」。これはコンクリート橋だった。

写真  1   第 k-039 番   住吉神社の御神橋     芦辺町住吉東触
架橋年は未確認     長 さ   m  幅 員    m  スパン   m
住吉神社の御神橋
壱岐7社のうちの一座であり、国幣中社である由緒正しい日本最古の住吉神社には、立派な石橋が有った。鳥居を潜った正面に石橋を見たときは、一瞬アーチ橋か?と思った。それはさておき、石の板橋等を除いて考えれば、この御神橋が、壱岐唯一の石橋だろうか?
神池の中の池内の小祠(竹生島神社)。この下に神功皇后三韓出兵の陣鐘があり、そこから鏡を掘り出すと雨が降るという言い伝えがあるらしい。明治4年に大陸系鏡十二面及び和系鏡五面が発見された。

写真  2               安国寺の参道橋      芦辺町深江栄触
安国寺の左手横、県道側の駐車場下の参道に架かる橋。脇の古い親柱を見ると、何代か架け替えられたか、他の場所のを持ってきているよう。橋名は「渡香橋」「津合橋」、年代も「元治二年」「昭和十年一月」とかある。
山門正面口にある説明板には、「座禅石」とともに「山門前の石橋」が記されている。これは前記の橋と違い、あくまで山門前の橋のことだろう。コンクリート橋に変わっている。

写真  3               弥佐支刀神社の参道橋   郷ノ浦町大原触
国道382号線沿い、印通寺から郷ノ浦町に入ると右手に志原小学校があり、この正門前の神社に架かる橋。上流に水源、少し離れて「奉寄進石橋」「明治三十八年八月建」の刻柱が残っていた。

写真  4               印通寺の民家橋       石田町石田西触
印通寺港から国道382号線により郷ノ浦町へ向かうと、すぐ右手に小川に架かる民家の入口橋。確認しなかったが、松永記念館やふるさと資料館の裏手口とも思われる。

写真  5               白沙八幡神社の参道橋   石田町筒城仲触
対馬空港先、筒城浜海水浴場の前に大鳥居が立つのが白沙八幡神社。参道を行くと立派な石橋があったが、コンクリート橋だった。

写真  6               鬼 の 足 跡          郷ノ浦町渡良東触
有名な海食でできた天然アーチ橋をついでに。「鬼の足跡」と呼ばれる。牧崎半島の先端にあり、郷ノ浦町の中心通りから標識により北西へ進む。
アーチの上部は草原。散歩道ができている。風景の項も参照。

中尾山で見つかった煉瓦アーチ橋  東彼杵郡波佐見町中尾郷

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中尾山で見つかった煉瓦アーチ橋  東彼杵郡波佐見町中尾郷

本年6月初め、波佐見町中尾山で小さい煉瓦アーチ橋が新しく見つかっている。次の記事により波佐見町に残るアーチ石橋は、15橋と紹介していたが、これで16橋となった。
https://misakimichi.com/archives/684
見つけられたのは、” fwd−net 長崎・諫早 ”のHP「長崎県の石橋を訪ねて」zento1氏。なんの情報もなく中尾山へ奥さんと窯元めぐりに行き、気づかれた橋。

波佐見町の中心街を通る県道1号線の「中尾山入口」交差点から右折。中尾山へ向かう。入口右の通りにある陶山神社近くの「伊東橋」のほか、中尾山には石橋は2つ残る。
中尾山へ着いて「陶郷中尾山」のゲートをくぐると、すぐ右の川に煉瓦アーチ「永田橋」が見え、次に「中尾山陶源橋」を渡るが、下を覗くとこれは立派な石造アーチ橋である。

今回、見つかったのは、この川の右横に並行して流れている小川。家並みの中はほとんど暗渠となっている。「中尾陶源橋」の先に、右へ30mの窯元「山慶」に入る車道があり、この道路下に小さな煉瓦アーチ橋が残っていた。下側の駐車場奥から見るとよくわかる。
上へ路地へ回って上流へ行くと、桁石橋の小さなものも残っていた。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真     第 199 番   山慶前のレンガ橋      波佐見町中尾山
架橋年は未確認       長 さ 1.5m  幅 員1.6m+拡張
上流側に石柱を渡して拡張している。
波佐見町の中尾山に入ってゲートを潜った右手が永田橋(中尾レンガ橋)、本通りを少し上がった所が中尾山桃源橋。その先に右手に駐車場が有って山慶さんに入るところに架かる橋。

下流の永田橋(中尾レンガ橋)と同じようにレンガをブロック状に切り出して石拱橋の工法で架けた橋。陶芸の里らしい橋だ。環厚は0.3m、拱矢0.5m、スパン1.5mの小さな橋とはいえ、何度も通った中尾山に見落としが有ったということは、もっと見つかる可能性が高まったと嬉しくなる。(06/08/2008)

アーチ石橋「藤尾橋」と近くの鉄道橋梁  東彼杵郡川棚町新谷郷で見つかる

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アーチ石橋「藤尾橋」と近くの鉄道橋梁  東彼杵郡川棚町新谷郷で見つかる

東彼杵郡川棚町に残るアーチ石橋は、川棚川の上流となる石木・木場地区の3橋、勘蔵(かんぞう)橋・川原(こうばる)橋・山川(やまご)橋をすでに紹介していた。
参 照  https://misakimichi.com/archives/686
このたび8月16日、川棚町新谷郷の旧国道の道に「藤尾橋」という明治30年代に架けられたアーチ石橋が現存していることがわかった。

見つけられたのは、HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の制作者二エもん氏。盆休みを利用し長崎県へ来て、JR大村線の鉄道橋梁を主に調べられた際、この橋を偶然、発見された。
今まで紹介されなかった川棚町でも把握していないと思われる橋。連絡をもらい現地へ見に行ったが、中ぶりの見事なアーチ石橋である。同氏の地道な調査結果に、また感心した。

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋の中のデータは次のとおり。
同HPも参照。今回及び前から、同氏が見つけられた近くの鉄道橋梁の煉瓦アーチと煉瓦桁橋もあわせて載せてみる。
現地は、国道205号線の「大崎公園入口」から国道を下った「新谷橋」交差点から左折する。すぐJR大村線の「三反間橋りょう」ガード下へ出るので、ここから左右を探すと位置図のところに各橋がある。

写真   1    №3,615    藤 尾 橋        2008.08.16
東彼杵郡川棚町新谷郷
橋幅:4.5m    径間:3.8m    拱矢:2.0m    環厚:37cm
架設:明治三十?年
新谷郷橋梁(仮称)から上流側を見ると、なんとアーチが見えました。目を疑いましたが、確かに石造アーチ橋です。以前来たことがあるかどうか、記憶を辿ります。鉄道跡ではなく、道路です。
親柱に「藤尾橋」と「明治三」まで読めますので、恐らく三十年代でしょう。
右手に民家があります。念のためこの道を進んでみましたが、国道205号線にぶつかったところで途切れていました、恐らく旧道でしょう

写真   2    №3,326    新 谷 橋 梁      2008.04.19
東彼杵郡川棚町新谷郷
橋幅:5.55m    径間:2.7m    拱矢:1.35m
架設:明治31(1898)年頃
JR大村線
国道205号線から南側へ入り込んだところに架かっています

写真   3    №3,614    新 谷 郷 橋 梁    2008.08.16
東彼杵郡川棚町新谷郷(しんがえごう)
橋幅:7.5m    径間:3.6m    拱矢:1.8m
架設:明治31(1898)年頃
JR大村線
今回の目的の一つ、この付近の煉瓦アーチを探します。前回は国道35号線、新谷郷の信号から入り込み、東側を探索しましたので、今回は西側へ。ありました。
小川と歩道。そこから小川の上流へ進むと、前方にアーチのようなモノが見えるんですけど… (これが写真1の「藤尾橋」となる)

写真   4    №3,616    新 谷 西 橋 梁    2008.08.16
東彼杵郡川棚町新谷郷(しんがえごう)
径間:0.9m×2    開口部H:1.0m
架設:明治31(1898)年頃
JR大村線
中央部で小川と線路が交差しています。手前から川に降り遡ります。てっきり煉瓦アーチと期待したら煉瓦と桁でした。
しかし、ここを探すついでに「藤尾橋」という立派な石造アーチ橋に出会えたのですから、計上します。

写真   5    №3,617    豊 姫 橋 梁      2008.08.16
東彼杵郡川棚町白石郷 下内
橋幅:11.9m    径間:1.8m    拱矢:0.9m    基礎:7段H2.3m
架設:明治31(1898)年頃
JR大村線
豊姫踏切の西側、川と線路が交差している場所を調べます。
基礎とポータル切石、内部煉瓦アーチです。

なお、後の2枚は現在の国道下コンクリート造橋と、「藤尾橋」上部の現国道合流点下で見られた小さな桁石橋。