殿様開き遺構 イビ  対馬市豊玉町仁位

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殿様開き遺構 イビ  対馬市豊玉町仁位

国道382号線により豊玉町の中心仁位まで行き、佐保方面への県道232号線へ左折して入る。豊玉小学校前を過ぎ仁位川沿いに下流へ向かうと、現県道橋脇の旧道の橋下にこの遺構を見る。
「仁位浜」というところだろうか、その付け根。小さな溜め池があり、橋下は仁位湾の海水が寄せて来る場所である。
豊玉町指定史跡「殿様開き遺構 イビ」が次のとおりの説明板とともにある。

殿様開き遺構 イビ   2003年3月3日 豊玉町指定記念物(史跡)

対馬における水田干拓の中で、特に有名なものの一つに仁位ハロウの干田は、元禄4年(1691)に時の藩主「宗 義貞」が命じて行われたものです。
干田は「開き」といい、ここ仁位の「開き」は特に「殿様開き」と呼ばれています。そのときに造られた堤防を横断して水門を設けるのですが、これを「樋門」または「イビ」と呼びます。
この時に造られたイビが、現在も、その大きさのまま残っています。門の両側にある実に大きな1枚石(推定4トン)といい、大がかりなイビの装置は、約300年も昔の技術でできているとは思えないほど、何ともスケールの大きな世界であり、その技術の高さをうかがい知ることができます。                               対馬・豊玉町教育委員会

以上の説明文によると、「イビ」とは「樋門」のこと。辞書では「ひ‐もん【樋門】=用水の取り入れや排水、舟運などのため、堤防を横切る暗渠(あんきょ)にして設ける通水路。水門をつけ、水位を調節する」とある。
ここ仁位のは元禄4年(1691)頃?に造られた樋門。門の両側には、実に大きな1枚石(推定4トン)が使われ、できているらしいが、フェンスが囲われ中は見れないし、写真に写せなかった。

次はあくまで参考。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の熊本県収録編番外として出てくる。熊本県八代市に、同じような「樋門」で規模を大きくしたものが残っている。
最後の写真が、その「大鞘樋門」を同HPから。現存する3か所のうち、最もシンプルな造りの「二番樋三枚戸」。
対馬市豊玉町仁位の樋門もこんなものと考えられるが、築造年は史料によりはっきりしているのだろうか。            

「大 鞘 樋 門」  所在地 八代市鏡町両出  市史跡・文化財指定

文政2年(1819)9月24日に四百町新地の塩留めは完成した。耕地337町9反が新たに上納地に加えられたわけである。これが文政2年(1819)に干拓された四百町新地である。この時築造された樋門が大鞘樋門と呼ばれ、これまでの「御国流」よりもすこぶる堅牢で鞘石垣に巨石を使い備前流と言われる樋門の革新的技法を取り入れている。
水門は5か所で、北から殻樋五枚戸。二番樋三枚戸。江戸樋四枚戸(現三枚戸)。新殻樋七枚戸(昭和42年3月新橋に架け替えた)。三番樋三枚戸(埋没)。
尚、当初一番井樋三枚戸が文政廻しの北側に計画されていたが、塩浜塩田設置のため施工されなかった。現存する殻樋は備前流と呼ばれている築造技法であり、二番樋、江戸樋は合法と呼ばれる構築法になっている。
備前流は、備前の石工高野貞七の設計により、これまでより堅固に作られ、一部に巨石を使い、工事の若い監督であった広松輔周がむりに巨石を使わせたので「広松のもがい井樋」と言われている。引き続いて文政4年(1821)に七百町新地が干拓されたが、この後の樋門はすべて備前流・合法により築造されている。
七百町新地干拓の折、ここの樋門堤防に永い小屋を作り、天草からの出稼ぎ労働者を収容した。誰が言うともなく「名所名所と大鞘が名所、大鞘名所にゃ水がない」という唄がうたわれ出し、新地干拓の潟担い労働唄として郷土民謡大鞘名所の発祥地となった。
「大鞘節発祥之地」の顕彰碑が昭和46年千丁町と合同でこの樋門横に建立されている。
八代市教育委員会