長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:2575 皇室離宮

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2575 皇室離宮

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2575 皇室離宮

目録番号:4540 芦ノ湖(16)
〔画像解説〕
芦ノ湖の堂ヶ島山頂の箱根離宮。明治19年(1886)に明治天皇の離宮として建設された。この地は古く箱根権現の塔が建っていたため堂ヶ島(塔ヶ島)と呼ばれた。離宮造営の理由は、ここが芦ノ湖に映る逆さ富士の見える絶景の地で、東京に近く、避暑にも適しているからである。現在は恩賜公園となっている。

目録番号:5902 箱根離宮全景
〔画像解説〕
表門の整備が完了したのが明治22年なので、その頃の写真と思われる。

■ 確認結果

目録番号:2575「皇室離宮」は、目録番号:4540「芦ノ湖(16)」や目録番号:5902「箱根離宮全景」のとおり、明治19年(1886)に建設された芦ノ湖の堂ヶ島山頂の「箱根離宮」である。「撮影地域:箱根」となる。

長崎外の古写真考 目録番号:2522 僧侶たち(3) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2522 僧侶たち(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2522 僧侶たち(3)
〔画像解説〕
横浜写真の一枚もの。「大聖院」における何かの法要の記念写真か。多数の仏教の僧侶全員が豪華な袈裟を着けて勢ぞろいし、信徒とおぼしき人たちがこれを取り巻いている。

目録番号:4402 僧侶たち(6)  掲載略
〔画像解説〕
作者未詳の横浜アルバムに収載された一枚。目録番号2522と同じ写真である。「大聖院」における何かの法要の記念写真か。多数の仏教の僧侶全員が豪華な袈裟を着けて勢ぞろいし、信徒とおぼしき人たちがこれを取り巻いている。

■ 確認結果

目録番号:2522「僧侶たち(3)」と、目録番号:4402「僧侶たち(6)」は同じ写真。横浜アルバムに収載。左上の幟に赤で「大聖院」とある。横浜には「大聖院」という寺は、3寺あるが、横浜市磯子区東町の「根岸山 大聖院」と思われる。「撮影地域:横浜」として良いのではないか。

HP「横浜市政レポート」2010/05/24大聖院の記事は、次のとおり。現在の寺の写真は、HP「万歩計 散策点描」から。

元禄時代の彫刻「雨乞いの龍」が現存。明治初期には根岸小学校の前身にも。
開創500年近い「大聖院」(磯子区東町6−20)

今回は、JR根岸駅の正面に見える大聖院を探訪しました。正式名称は「根岸山・大聖院・覚王寺」で、南区堀の内に今もある宝生寺の住僧が天文5年(1536)に開創、500年近い歴史のある寺院です。ちなみに、『磯子の史話』には、「室町時代のものと思われる長さ63㎝ほどの板碑(板石でつくった卒塔婆)が境内に3基あり、阿弥陀の梵字がはっきり表れていて当寺は真言宗ですが、本尊は阿弥陀如来ですから、当時の板碑。」と記され、大聖院が室町時代にあったということがわかります。
時代は下って、幕末期には大聖院には寺子屋も開設されました。その後、明治6年に根岸小学校の前身「志敬学舎」が誕生したときは大聖院の本道を借用し、児童およそ30名で授業が始められ、校舎が新築される明治13年まで続けられました。大正12年の大震災の時は、門は倒れ、本堂や庫裏は破損し、昭和9年に再建しました。

本堂の欄間には「雨乞いの龍」という極彩色の彫刻があり目を引きますが、これについてご住職の鷲尾興春師にお伺いをしたところ、「この彫刻は元禄時代に本堂にあったものを改築するときにはめ込んだもので、実際に明治の末までこの欄間を海中に浸して雨乞いの儀式をしていましたが、保存状態は良好で、ひび割れなどの破損箇所は一切ありません。また、本堂天井に描かれた躍動する『赤龍』は、日本画家を代表する奥田元宋画伯の作で、昭和56年に龍子夫人の七回忌供養に奉納されたものです。赤色の龍は、おそらく全国でも大聖院だけでしょう。」とお話しをいただきました。

境内には「お砂踏み」といって、20枚の敷石の下に、先代のご住職が四国八十八ヶ所を巡り、自ら持ち帰った砂が埋まっている小庭があり、一巡りすると「四国巡拝」をしたことになるといわれ、私も巡ってきました。大聖院では、四国八十八ヶ所の第四十七番「八坂寺」の仏様を預かっていることから、東国八十八ヶ所霊堂の第四十七番になっています。(他に、横浜観音三十三ヶ所霊場の第二十一番、横浜弘法大師二十一ヶ所霊場の第十五番となっている。)
また昨年は、能と新劇が一緒になった「朗読の夕べ」が杉田劇場との共催で開かれ、本堂に
100名以上の参加があり超満員だったとお聞きし、新しい息吹を感じました。

長崎外の古写真考 目録番号:2058 寺の参道

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2058 寺の参道

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2058 寺の参道
〔画像解説〕
典型的な参道風景である。左側にお参り前に手を清める手水所があり、中央には参拝客が見られる。服装や日傘から判断するに季節は夏であろう。

目録番号:2059 浅草寺本堂(2)
〔画像解説〕
浅草寺の境内でくつろぐ3人の外国人。右側の日傘をさした人物はカメラが珍しくて寄ってきたところで偶然に画面に入ってしまったのだろう。

目録番号: 159 浅草寺仁王門(1)
〔画像解説〕
木立に挟まれて見える浅草寺仁王門(宝蔵門)。東南にあった弁天池(整理番号4-11)から撮影されたもの。門の手前、中央やや左に二尊仏の後姿が見える。左手前に弁天池の一端と、仲見世通りに続く橋が見える。

■ 確認結果

目録番号:2058「寺の参道」は、次の目録番号:2059「浅草寺本堂(2)」の前に撮影した写真だろう。目録番号:2059「浅草寺本堂(2)」が間違いないとすると、浅草寺の本堂側まで行って、参道と「仁王門」を振り返って撮影したと思われる。
上下白い洋服の外国人は、同一人であろう。立木も向きを変えたら同じようだ。

目録番号: 159「浅草寺仁王門(1)」も参照。戦前の浅草寺仁王門と戦後再建された現在の浅草寺宝蔵門(旧仁王門)は、HP「私の昭和史ー忘れ得ぬ人びと 人生一期一会」から。

長崎外の古写真考 目録番号:2046 洋傘をさす二人の女性

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2046 洋傘をさす二人の女性

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2046 洋傘をさす二人の女性
〔画像解説〕
現代のスナップ写真と同じである。住宅地の一画で、外出姿の2人の中年女性を気軽に撮影した、日常性を感じさせる写真である。着物や髪型から見て昭和に入ってからの写真と思われる。

目録番号:2025 田圃の畦道を歩く紳士と淑女
〔画像解説〕
田圃の畦道を歩く紳士と婦人を撮影する。田圃は田植えが行われて日が浅く、水田には小さな苗が整然と植えられている。帽子をかぶり上着を左手に抱えた洋服姿の紳士と、黒のコウモリ傘を陽傘かわりに差した着物姿の女性が手前に向かって歩いて来る。背後の山並みから考えると、撮影場所は南山城か山科の田園地帯と想像される。

目録番号:2037 春日大社参道(5)
〔画像解説〕
参道を歩く和服姿の女性。同一人らしき人物が整理番号46-125(注 目録番号:2031「神社の境内(1)」掲載略)の写真に見える。

目録番号:2045 伊勢神社参道
〔画像解説〕
「お伊勢さん」の名で知られる伊勢神宮は、天照大御神を祭神とし、3種の神器の1つ八咫鏡を神体とする皇大神宮(内宮)と、豊受大神宮(外宮)から成る。伊勢参りは、庶民の観光の1つとして人気が高かった。

■ 確認結果

目録番号:2046「洋傘をさす二人の女性」は、この写真だけ見たら、画像解説はそうなる。「昭和に入ってからの写真と思われる」と説明しているのだろう。
洋傘を持つ「二人の女性」は、目録番号:2025「田圃の畦道を歩く紳士と淑女」、目録番号:2037「春日大社参道(5)」などに、同一人らしい女性が写されている。

撮影者とその友人の近畿旅行に案内同行した女性と思われる。二人の帯や着物の色が変わっている点は、その前が目録番号:2045「伊勢神社参道」であり、「住宅地の一画」ではなく、伊勢志摩などの旅館前で撮影された可能性がある。

整理番号46番台の写真(データベース目録番号:1907から目録番号:2097まで197作品)は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真。そのため前記事によりふれたが、一連の作品として見ることが必要だろう。
撮影年代は未詳。撮影者の旅行がいつだったかによる。カラー写真や洋傘も明治時代からあったようである。「明治時代の傘の広告」は、HP「傘物語」洋傘の歴史から。

長崎外の古写真考 目録番号:2041 町の風景

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2041 町の風景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2041 町の風景
〔画像解説〕
家々の屋根が重なり合うように接する古い町並が見える。

目録番号:2149 三井寺から望む琵琶湖(8)
〔画像解説〕
西国三十三所観音霊場の第14番札所、三井寺(みいでら、正式名:園城寺)観音堂から望む大津の風景。中央の水路は飲料水・発電・物資輸送などを目的として、明治23年(1890)に完成した琵琶湖疏水(びわこそすい)。疏水周辺の様子から、完成間もない頃に撮影されたものと考えられる。

■ 確認結果

整理番号46番台の写真(データベース目録番号:1907から目録番号:2097まで197作品)は、中国と日本を撮影した個人アルバムの写真。撮影年代は未詳だが、ほぼ時系順に日本も旅行風景が写されている。
「神戸」とされる作品で、長崎大学側はまだ存知ないと思うが、「長崎」の貴重な写真7点を確認している。 https://misakimichi.com/archives/2218

整理番号46番台の写真は、目録番号では京都「清水寺」、滋賀「石山寺」、奈良「春日大社」あたりが、バラバラに整理されている。
目録番号:2041「町の風景」は、京都「清水寺」からではない。写真の上部に写っているのは、大きな川か、湖か。滋賀県琵琶湖の瀬田川に東大門がある「石山寺」から見た町の風景とも考えたが違う。

現在の展望写真から探すと、大津近く「三井寺からの琵琶湖の眺め」の小さな写真が、少し状景に合う。三井寺観音堂「高観音」からの眺望。古写真でいうと、目録番号:2149「三井寺から望む琵琶湖(8)」。
琵琶湖疏水の完成は、明治23年(1890)。目録番号:2041「町の風景」は、疏水が写っていない。それ以前の撮影か。整理番号46番台に、「三井寺」の写真はない。
撮影者は「三井寺」にはたして行ったのか。「撮影地域:奈良」とはどこだろう?

現在の「石山寺境内図」と「東大門」の写真は、HP「さらえのすしのホームページ 石山寺から延暦寺」から。「三井寺からの琵琶湖の眺め」は、HP「神戸|ニンニク唐辛子の平凡日記」から。 

長崎外の古写真考 目録番号:2029 奈良公園(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2029 奈良公園(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2029 奈良公園(1)
〔画像解説〕
写真名から春日大社境内であるであることがわかる。

目録番号:2030 神社の参道(2)
〔画像解説〕
木立の間に古い灯籠が並んでいる。

目録番号:2030 春日大社参道の鹿(10)
〔画像解説〕
春日大社参道を歩く牡鹿一頭を撮影する。二の鳥居から西へ350メートルほどの地点から東へ向かって撮影している。鹿の毛が夏毛であり、樹木も繁っているが一部に紅葉しているので晩夏から初秋の撮影であろう。

■ 確認結果

目録番号:2029「奈良公園(1)」は、「写真名から春日大社境内であるであることがわかる」なら、タイトルを「春日大社」に、キーワードの「寺/公園」も変更が必要である。
掲載を略したが、目録番号:2031「神社の境内(1)」は、奈良「春日大社」でなく、滋賀「石山寺」だろう。  https://misakimichi.com/archives/2245

目録番号:2030「神社の参道(2)」は、木立の間に並んでいる「古い灯籠」が、前の目録番号:
2029「奈良公園(1)」、及び次の目録番号:2030「春日大社参道の鹿(10)」と同じ形のようなので、写真の続きからも「春日大社の参道」と思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:2023 岩山の外国人と寺

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2023 岩山の外国人と寺

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2023 岩山の外国人と寺
〔画像解説〕
石山寺本堂、蓮如堂を同寺多宝塔南側の珪灰岩の露出した斜面より南西に見下ろす。右には木々に覆い隠された三十八社が姿をのぞかせる。本堂は慶長7年(1602)の創建で、総檜皮葺で寄棟造である。

目録番号:2021 寺の境内(8)
〔画像解説〕
石山寺本堂、蓮如堂を多宝塔南側参道より西に望む。参道には石畳が敷かれ、参道北側に石灯籠が建ち並ぶ。石灯籠の右方には珪灰岩が露出した斜面が見える。本堂は慶長7年(1602)の創建で、総檜皮葺で寄棟造である。

■ 確認結果

目録番号:2023「岩山の外国人と寺」は、次の目録番号:2021「寺の境内(8)」とも石山寺本堂。「撮影地域:滋賀」が正しい。石山寺は次も参照。
https://misakimichi.com/archives/2245
https://misakimichi.com/archives/2225

長崎外の古写真考 目録番号:3133 横浜山手

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3133 横浜山手

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3133 横浜山手
〔画像解説〕
右手の煙突をもつ建物(184番)はオランダ人ストルネブリンク(L. Stornebrink)の経営する機械製氷工場、横浜アイス・ワークス。明治12年(1879)創業のジャパン・アイス・カンパニーに起源をもつ。谷戸坂を挟んで左手はフランス領事館の敷地。

目録番号: 105 キャンプ・ヒル
〔画像解説〕
英語で「横浜のキャンプの丘」とキャプションが印字されている。これは、山手の外国人居留地の一部であり、幕末・明治初期に英仏軍が駐屯していたことから、「キャンプヒル」と呼ばれた。

■ 確認結果

目録番号:3133「横浜山手」は、次の目録番号: 105「キャンプ・ヒル」と同じ写真である。タイトルの合わせると、関連作品となるだろう。撮影者は「日下部金兵衛」か。

長崎外の古写真考 目録番号:1145 神戸港(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1145 神戸港(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1145 神戸港(1)
〔画像解説〕
海からみた神戸外国人居留地の写真である。

〔画像解説〕 超高精細画像    和文タイトル: 神戸港(1)
海(船上)から眺めた神戸港。撮影は明治中期だろうか。居留地から雑居地にかけての海岸通の街並みと、その背後に六甲山系の山並みが連なる。中央の高い山は標高約320mの高取山(たかとりさん)だろう。諏訪山など高台から眺める神戸港は美しいが、海上からの眺めもまた格別である。写真が不鮮明なので建物から撮影年代を推定することは難しいが、左手の帆柱の数多く立っているところは雑居地海岸通4〜5丁目の和船の船溜りで、左に行くと神戸駅用地(現在のハーバーランド)、川崎造船所へと続く。
海上には外国人の楽しむヨットも見え、明治27年(1894)頃には外国人のヨットクラブ『Kobe Yacht Club』も組織された。六甲山系の山々は、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の開港以後来神した外国人たちには、狩猟や登山、ゴルフなど格好のスポーツと娯楽の場となり、新種のカタツムリ(ギュリキマイマイ)の発表など自然科学の研究対象ともなった。

目録番号:1549 神戸海岸
〔画像解説〕
神戸外国人居留地のバンド。護岸、道路、洋館が撮影されている。

〔画像解説〕 超高精細画像    和文タイトル: 神戸海岸
雑居地の海岸通2丁目付近。明治10年頃から20年代はじめの撮影であろう。このあたりには早くから外国人に永代貸しされた地所も多く、洋風の商館やレンガ造の倉庫、日本式家屋や土蔵が入り混じって建ち並び、雑居地らしい趣を伝えている。
なかほどの突堤の付け根の向こうに側に見える建物は、西税関の建物のひとつであろう。初代神戸港長(Harbour Master)のイギリス人マーシャル(John Marshall)は、明治20年(1887)8月に亡くなるまで、西税関の港長のオフィスで港内の潮汐干満の調査や気象観測を行い、港則の立案や築港計画の作成に携わった。そこの小さな小屋に据えつけられた大砲からは正午に1発ドンと午報が放たれ、神戸中に響きわたって昼休みの訪れを告げたという。中央の竿に刺さったような丸い物体は、正午になるとスッと下へ降りて港内の船に時刻を知らせるタイム・ボールである。中央の高い山は高取山(たかとりさん)だろう。

■ 確認結果

目録番号:1145「神戸港(1)」は、「海からみた神戸外国人居留地の写真である」、「海(船上)から眺めた神戸港」と画像解説している。「背後に六甲山系の山並みが連なる。中央の高い山は標高約320mの高取山(たかとりさん)だろう」は、間違いないだろう。

高取山の同じような光景は、海(船上)からでなく、次の目録番号:1549「神戸海岸」のとおり、「神戸外国人居留地のバンド」突堤の先端あたりから、北西に港を入れて撮影できると思われる。
当時の写真機では、揺れる船上からの撮影は困難ではないか。長崎の作品にも例が多い。

現在の神戸市街から見た「高取山」は、HP「ごべるん〜変化していく神戸〜」長田区高取山から。「4.明治二年兵庫津細見全圖 1868」は、HP「文化歴史資料館 風土誌科研究所」(大阪府守口市)所蔵資料から。

長崎外の古写真考 目録番号:1107 杉並木

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1107 杉並木

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1107 杉並木
〔画像解説〕
整理番号8-24「日光街道の杉並木(3)[今市]」と非常に類似しているので、本写真も日光街道の杉並木を撮影したものと考えられる。撮影者も同じ小川一真である。

目録番号:4724 日光街道の杉並木(22)
〔画像解説〕
日光街道の杉並木は徳川家康の三十三回忌にあたり松平正綱が寄進したものである。画面の奥に見える建物は今市の追分地蔵付近ではないかと思われる。梢の上には道なりに空が見える。当時は、月明かりや星明りを頼りにして、空を見ながら夜道を往来できたという。

目録番号:5043 日光街道の杉並木(25)
〔画像解説〕
日光街道の杉並木は徳川家康の三十三回忌にあたり松平正綱が寄進したものである。画面の奥に見える建物は今市の追分地蔵付近ではないかと思われる。梢の上には道なりに空が見える。当時は、月明かりや星明りを頼りにして、空を見ながら夜道を往来できたという。

目録番号:5476 日光街道の杉並木(28)

■ 確認結果

目録番号:1107「杉並木」は、写真右の杉の根元(青線囲い)に特徴がある。
次の目録番号:4724「日光街道の杉並木(22)」、目録番号:5043「日光街道の杉並木(25)」、目録番号:5476「日光街道の杉並木(28)」とも、同じ場所の杉であることがわかる。

場所は、4枚目の目録番号:5476「日光街道の杉並木(28)」キャプションにあるとおり、「745 
IMAICHI RORD NIKKO」。日光街道「今市」の杉並木であろう。
掲載は略したが、小川一真撮影の整理番号8-24「日光街道の杉並木(3)[今市]」は、目録番号: 350 の作品。杉並木の作品は、撮影地域を「日光」あるいは「今市」と分かれて整理しているので、調整が必要。「日光」で良いと思われる。